2009年07月01日

The Right to Employment and the Right to Profit

hamachanはバスティアを読んだだろうか。そして理解できただろうか?
「見えるものと見えないもの」の特に第12章はタイムリーだ。
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/

しかしhamachanはこういうだろう。「労働権は法律が定めた神聖な権利なのだ。経済学がなんといおうとも法律は絶対なのだ。悪法も法律なのだ。」と。
たしかに、hamachanに税金から多額の給料が払われることで、hamachanはぬくぬくとブログを書いていられる。これは見えるものだ。
しかし、その一方で、hamachanを養うために、多額の税金が企業や国民から徴収され、それによって何人もの将来ある新入社員の雇用が失われている。これは見えないものだ。
hamachanの雇用を守るために就職のチャンスが奪われた将来ある若者には権利がないというのだろうか?法律はhamachanには権利を与えたが、将来ある若者には権利を与えないのだろうか?権利は平等ではないのか?
あるものに権利を与え、あるものには与えない場合、これを特権(privilege)と呼ぶ。では、特権は正義なのか?

法とは正義である。

あるものを利するために別のあるものに不利益を与えることは正義ではない。だから特権は法ではない。
法とは不正義がなされないことを、その根本理念とするのであるならば、特権はまさに法によって廃止されなければならない。
そして特権が廃止されれば、hamachanは職を失い、何人かの若者は民間企業に職を得るだろう。

hamachanは法律をふりかざしこう叫ぶ。「だから全ての人間を正社員にすればいいのだ。全ての人間が正社員になれば全ての人の雇用は保証される。それが法律の保障する権利である」と。
かつて、そのような理想を掲げて実現した国があった。旧ソ連をはじめとする共産主義諸国である。
だが、全員の利益が全員の不利益の上になりたつことが論理的に可能でないことは、これら共産主義国家の歴史が示すとおりである。

最後に蔵さんの翻訳を引用しておこう。「労働権の否定」より
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20090701
そうした主義を持つものが社会に果たさせている役割には、恥ずべき部分はないのだろうか?
 彼は社会に対して言う、
「私は社会から職を得る権利を持つ。それだけでなく、利益をもたらす職をである。馬鹿げたことに、私はその価値の10%も失ってしまう職に就いている。もし私の同郷人に20フランの課税をして私にくれるなら、私は損をする代わりに利益を得ることになる。利益を得るのは私の権利である。社会は私にその義務を負っている。」
さて、このような詭弁家に耳を傾ける社会は、彼を満足させるための税負担に苦しむことになる。そして、一つの産業での損失をなくしたとしても、それは別の産業に肩代わりされているだけでまったく損失は変わらないことを見過ごしている。そういう社会は、あえて言わせてもらうなら、そういった負担に喘ぐにふさわしいものだ。
 よって、これまでに扱ってきた多くの話題からは次のことがわかる。政治経済の無知は、現象の直近の効果に目くらましをされることであり、政治経済を知ることは、直近と将来のすべての効果の全体を考慮に入れることだ。



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2009年06月30日

How to Cure Health Care

 

How to Cure Health Care

By Milton Friedman

http://www.hoover.org/publications/digest/3459466.html
posted by libertarian at 23:10| 東京 霧| Comment(0) | TrackBack(0) | MiltonFriedman | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

Iaas

「クラウド大全」(日経BP社)をざっと読了した。これを読んで自分が全くクラウドについて不認識であったことを認識した。
クラウドといってもいろいろあり、SaaS,PaaS,IaaSのような分類がある。
私があればいいなと思ってたSupercomputer as a ServiceのようなものはIaas(Infrastructure as a Service)に近い。IaaSに相当するのがAmazon EC2,S2のようなサービスで、これはVMのような仮想化技術を用いてネットのあちら側にスケーラブルな独自環境を構築するサービスだ。
いろんなサービスコースがあるがメモリーは最大で15GBまで使える。
料金体系は次のとおり。
http://codezine.jp/article/detail/3137?p=2

しかし、この本によると、この最大サービスの8EC2サービスであっても、corei7を用いたパソコンほどにはパフォーマンスがないようなので、一般の用途には十分以上だろうが、スパコン的なパフォーマンスには全く及ばない。
今はcorei7を用いたパソコンであっても大した値段ではないから、WEBサービスに用いるのでないかぎり特にこのサービスを用いるメリットは私の場合ないかもしれない。

Google App Engine(GAE)のようなサービスは、WEBサービスをGoogleのインフラを用いて低コストでスケーラブルに構築できるというものだが、あまり自由度はないようだ。つまり自分の作ったプログラムをなんでも自由に動かせるわけではないらしい。
GAEでは、javaやPythonを用いてwebアプリを作れる。Java版のサンプルをチュートリアルどおりに少しばかりやってみたが、途中まではうまくいった。(⇒最後のところがうまくいかなくなったが、ほんのおためしなので気にしない))

しかしこの本のgoogleのアーキテクチャに関する説明を読むと、従来のRDBとは全く異なる理論で作られたものらしく興味深い。RDBのようなガチガチのACID特性を追求するのがいわゆるデータベースの窮屈で堅苦しい世界であったが、GoogleのシステムはBaseトランザクションとCAP定理というものに基づいたもので、DBそのものがいわばインターネット的なプラグマティックな思想で構築されているようだ。

今後クラウドに徐々にシフトしていくのは必然的な流れかもしれない。しかし、100%ということには決してならないだろう。情報システムの中央集権化が進めばまた揺り戻しがいつかくるに違いない。こういった変化は基本的には経済問題、つまり、どちらが安いかであり、どちらが優れているかという問題ではないだろう。

posted by libertarian at 21:04| 東京 不明| Comment(0) | TrackBack(0) | Computer | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月27日

Price of packed lunches

フランチャイズの価格戦略についてもう少し想像してみよう。
仕入れというのは、小売りにおいて非常に難しいのは言うまでもない。
当然に仕入れの量は多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない。
これには高度なコントロールを必要とする。
まずもって需要予測は統計的にしかできない。
所詮、売り上げは客のきまぐれな気分と胃袋次第であるから誤差は必然だ。
正確な仕入れ量が、客の欲しいだけの量がぴたりとあって、それ以上でもそれ以下でもないのが理想だが、それは予測不可能だ。

500円の弁当があって、1個売れると300円の利益で、売れ残ると200円の損になるとする。
需要予測で、もし商品が売れ残れば、それは過剰仕入れだったのは明らかだ。しかし全部売り切れた場合、それが需要とぴたりの量なのか、過小な仕入れであったのかはよく分からない。
そして、過小仕入れであった場合の機会ロスは、1個300円であり、廃棄の200円よりも大きいので、過小に仕入れるよりもやや過剰に仕入れて少ない量を廃棄する方が合理的だ。
もし需要が正規分布を描くとしたら、中央値が平均需要量となる。もし常に平均需要量を仕入れていたとすると、過小仕入れと、過剰仕入れの場合は同じだけ発生するが、過剰仕入れした場合の損害よりも、過小仕入れの場合の機会ロスの方が損害額が大きくなる。
となると、合理的なのは、需要分布の中央値よりもやや多く仕入れて、過小仕入れのケースを減らすことだろう。そうすると過剰仕入れのケースが多くなり、廃棄する量も増えることになる。
私は小売りの内情は全く知らないが、おそらく自分であれば大体このようなコントロールを考えるだろう。
単純に売り切ることを目的にするのであれば、露骨な過小仕入れをすればいいが、その戦略は不利益な戦略となる可能性がある。
しかし、逆に1個売れると200円の利益で、売れ残ると300円の損だとした場合は、平均値よりも過小に仕入れした方が利益になる。このように価格設定をした場合は、利益率が低くなる。
弁当というのも、同じ値段であっても中身は違うので、店ごとに品目ごとに中身も利益率も様々なものを売っているわけだ。
このような複雑なものをコントロールするのがフランチャイザーのインテリジェンス機能であるから、これを各店の目先の利益で行動させるとやはりフランチャイズの仕組みは破壊されることになりそうだ。

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2009年06月26日

what is seen and what is not seen

先の記事のアクセスが妙に多いと思ったら、次のBlogからのリンクであった。
リンクのお礼に私もリンクをつけておこう。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-55af.html

これは、さるサイバーリバタリアンと大変仲の悪いあのhamachanのBlogらしい。
私はこのBlogは初めて読んだので、hamachanのことはよく知らないが、どうも私がさるサイバーリバタリアンの主張を少し批判したので、敵の敵は自分の少し味方だと思ったようだ。
しかし、私はさるサイバーリバタリアンと多くの部分でそんなには意見は違はないが、同時に違うところも少なくはない。
私は党派性など軽蔑している人間であるし、意見は意見なので違うことは違うと書いているだけだ。
しかし、池田さん,もとい、さるサイバーリバタリアンの労働問題に対する提言は非常に筋の通った常識的なもので、まともな経済学者なら納得するだろう。これが全く受け入れられないというのは、経済学の基本を全く知らないので理解できないのか、実は理解はできるが、飯の食いあげになるから認めたくないのどちらかだろう。
おそらく後者がその本音であろうと推察する。
しかし、もし前者であるのなら、バスティアの「見えるものと見えないもの」を蔵さんが翻訳してくれているので、是非一読をお奨めしたい。
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/

とはいえ、さるサイバーリバタリアンの労働問題提言も、 political incorrectな言い方をすれば片手落ちであって、サイバーでないリバタリアンであるなら役人の首を真っ先に切れというのが筋であることは言うまでもない。


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2009年06月24日

Antitrust is harmful intervention

さるサイバーリバタリアン(自称の仮想リバタリアン?)のサイトで、7−11への独禁法介入の問題を肯定的に取り上げている。しかし、これはとんでもない政府の市場介入である。
独禁法は他の経済法と同様に有害きわまりない法律であり、政府の市場介入を認める恐るべき悪法だ。
フランチャイズというのは、フランチャイザーがいわゆる本社機能を持ち、フランチャイジーに対し商標と情報やノウハウを提供する方法だが、これはいわゆる小売りとメーカーの関係とは異なる。
価格戦略は、フランチャイズの仕組みにおいてきわめて重要な部分であり、ここに規制介入が入るとフランチャイズの仕組みそのものを破壊する危険性がある。
食品の廃棄処分はたしかにもったいないが、それはあまりに表層的な見方であり、素人の発想だ。
例えば、500円の弁当を10個仕入れ、1個を廃棄処分するとする。
この場合、実質弁当を450円で売るのと等しくなり、これは廃棄コストを掛けることで実質的な値下げをしているのと同じだ。この50円は消費者に対して目に見える形では還元されないが、製品の鮮度などを保証するという情報的な価値として消費者に還元されているともいえる。
廃棄も立派な消費者サービスとして成立しているのである。
これをもったいないからという理由で、フランチャイジーがばらばらに値下げなどを行えば、フランチャイズとしての情報品質が毀損される可能性が高いのだ。
 
posted by libertarian at 22:21| 東京 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

No company, No privilege

次の記事は少し面白い。

もう起業に会社はいらない,とサイボウズ創業者は言う
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20090603/331243/

会社という法的な形態と経済活動が分離されつつあると思う。今は萌芽のようなものがあるだけだが、この芽は今後急速に大きくなる可能性が高い。
これは経済活動を行うのに会社という形態をとることに対するメリットーデメリットのデメリットが大きくなりつつある現状に対する結果という面もある。
会社とは有限責任を政府から得るための法的擬制であるにも関わらず現実には有限責任性が否定される現状からも、わざわざ会社組織にすることは割に合わない。その有限責任特権を受けるために様々な法的規制をかぶり、そのコストを払わなければならないからだ。
例えば、上場すれば内部統制を初めとするもろもろの監査制度や、形式的な制度のための制度をいろいろ作る必要がある。
会社とは信用をパッケージにした取引単位でもあるが、信用という概念も今は変化しつつある。
であれば、会社制度にとらわれずローコストでハイリターンな方向を模索するのは当然である。それこそがアントレプレナーの本領を発揮するべき部分だ。

そもそも会社組織は、必然的に官僚主義化していく。この理由の一つとして会社内部では契約も金銭の交換もないからだ。会社とは、経済活動における組織内部の取引コストや契約コストをどんぶり化する仕組みでもある。
例えば、一つの製品アイデアがあって、これを商品として出すためには、個人でやれば、もろもろの作業全てに費用が発生する。この費用を組織は隠蔽化できるし、安く抑えることもできる。高度成長時代のものづくり時代にはこのような制度は経済合理的であった。そして会社の業績が伸びる限りは従業員のインセンティブも高く保つことができた。しかしそのような時代はすでに終わった。
メディアが電波利権、出版利権という数行の法律文書によって巨大で不当な安定利益を得ていたように、日本では社会の安定のために法的特権を利用し、それがお上と下々が”共存共栄”するよい方法だと権力者は考えてきた。そしてそのコストは特権を持たない一般大衆が広く負担していた。だが、競争がインターネットのようなグローバルなものになれば一国主義的な規制が通用しなくなる。それを悪あがきして保存しようとしているのが今の時代だが、これは利害関係者の老人が10年ー30年したら死に絶えるだろうからいずれは崩壊するだろう。問題はその時間的損失、機会的損失があまりに大きなものになるだろうことだ。
会社という有限責任特権を政府から得ることなく、巨大な経済活動ができるようになれば、それはやはり時代の変わり目ということだろう。
posted by libertarian at 12:42| 東京 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

To be a libertarian

自分がリバタリアンであるというからには、リバタリアン的な生き方を選ばなければならないのかもしれない。
これは他人にリバタリアンたれというのとは別で、単に自分がリバタリアンとして生きればいいわけだ。
では、リバタリアンとして生きるというのはどういうことか?
少なくとも、リバタリアンとしての資質はegoisticということではないだろう。正義の主張は単に自分の好き嫌いで行動するという下等で幼稚なレベルとは全く異なる。また反社会的ということでは決してないだろう。リバタリアンは社会の理想である自由を主張してやまない存在である。
しかしリバタリアンの主張する正義の感覚とは、微妙で難しいものだ。
例えば、自分がタバコがいかに嫌いでもそれを政府の強制権力を用いて禁止すべきでないといった主張はなかなかに難しい大人の感覚である。→その点、先日オバマが承認したタバコ規制の連邦法案は最悪だ。日本にも飛び火することは間違いない。

だが、リバタリアンであることは単にリバタリアンな正義を主張すること以上に、リバタリアンとして生きるという難解な課題を本人につきつける。
私もリバタリアンとして生きているとはとてもいえない。まずは経済的な自由を獲得することが実は結構重要でかつ難しいことだと思う。
その方法はいろいろだ。かならずしも大富豪のように有り余るお金がなくてもいい。経済的自由とはもう少し低いレベルからあるはずだ。場合によってはニートであっても経済的自由はあると言える場合もあるだろう。
とはいえ、あまりプアなのも惨めなので、経済的自由をもう少し高いレベルにおいて、経済的自由を達成する努力をするべきなのだろう。もしそれが達成できればリバタリアンとして充分なのではないか?
私もほんとに困ったリバタリアンから助けを求められれば、リバタリアンらしい経済的自由を得る方法をサジェストできればいいと思っている。もし、困っているリバタリアンがいればこのBlogに一報入れてください。リバタリアンらしいミラクルなサジェストをこっそりとしたいと思っている。

そして、ここでもポパーの箴言は意味を持つ。
「人間的でありたいと願う以上、我々のとるべき道は唯一つ、開放社会(Open society)への道しかない。我々は未知、不確実、不安の社会へ行かなくてはならない。」
posted by libertarian at 00:28| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

Enemy of the Government

「バカヤロー 経済学」 竹内薫  高橋洋一
を読んだ。
 
さすが高橋洋一先生の本で、お奨めである。内容は高橋氏の本らしく切れのある非常によい本だ。
高橋洋一氏を応援するためにもみなさん買って読みましょう。

この本の後書きに、こう書いてある。
先生との約束で、ボクは、先生が巻き込まれた事件の真相を書くことはできない。事件後、先生からは、共著が出せなくなったことに対する謝罪と、できれば自分の名前をすべて抹消したうえで本を出版して欲しい、という内容のメールが送られてきた。

巻き込まれた事件の真相を竹内氏は知っていて、書くことができないというのであるから、あの高橋洋一氏の事件というのもかなり裏があるのだろう。
日本の政治ー行政のメカニズムを高橋先生のように天才的な数学者の頭脳を持つ人が内側から熟知しているというのはノーベル賞学者以上に貴重な国の宝である。
それを陰険きわまりない方法で抹殺しようとする日本の行政官僚組織の闇はあまりに深い。
posted by libertarian at 23:45| 東京 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月14日

Freedom and the law

ブルーノ レオーニは、イタリアの偉大な法哲学者だが、以前この”Freedom and the Law” を読んだとき、ハイエクの影響があると思ったが、事実は逆でハイエクがブルーノ レオーニに影響されていたようだ。
この論文は長いが、非常に重要な論文で興味深い。
いつか、翻訳してみたいものの一つだ。

Bruno Leoni, Freedom and the Law (LF ed.) [1961]
http://oll.libertyfund.org/?option=com_staticxt&staticfile=show.php%3Ftitle=920
posted by libertarian at 03:57| 東京 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Everything is incentive

最近の海外ドラマで、Dr HouseとNumbersが面白いと紹介したが、Dr Houseの決めセリフは、”Everybody lies.”(人は皆、嘘をつく)で、Numbersでは”Everything is numbers”(万物は数である)だ。
私はFoxに次のドラマシリーズとして天才経済学者を主人公とした知的推理ドラマを作ってもらいたい。
その決めセリフは、当然に"Everything is incentive"だ。

posted by libertarian at 01:53| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月13日

Numb3rs

日本でもNumbersのDVDレンタルが始まった。
今のところ6話までみたが面白い。リバタリアン的ドラマではないが、数学という世界の特異な雰囲気をよく出している。監督は、リドリースコットとトニースコットの兄弟だ。私はリドリースコットのファンで殆どの作品は見ている。
映像で語ることのできる独創性のある作家と思う。
映画監督は小説家などより、本来絵描きに近い存在なのだ。とはいえ、このドラマに関しては、脚本が決定的だ。
このNumbersの6話あたりで、リーマン予想の話が出てくる。現在の公開鍵暗号は2つの巨大素数を掛け合わせた数を素因数分解する現実的なアルゴリズムが無いことを利用しているが、リーマン予想が解ければこの問題を解決するアルゴリズムが見いだせるという話をプロットにしている。
以前にフランス人数学者がリーマン予想を解いたというニュースを書いたが、これは失敗だったらしい。
しかし、もしリーマン予想が解けてしまったら現代のコンピューター世界はやばいことになるのかもしれない。

posted by libertarian at 19:54| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月10日

The road to hell is paved with the common good

先に引用したとおり、ミルトン フリードマンもハイエクのように政府の規制権力を抑えるには、constitutionalな制限を作るのが一番現実的で包括的な策だと考えていた。しかし、同時にこのアイデアも極めて実現困難であることは分かっていた。
しかし、ミルトンフリードマンたちが幸運であったのは、レーガン政権が誕生したことだろう。
これによって、アメリカのベクトルがかなり変化したのは間違いない事実で、フリードマンたちの運動が貢献した部分も大きかった。レーガン政権が誕生したのは1981年で「選択の自由」が出版された翌年である。さらにレーガンはレーンキストをタイムリーに連邦最高裁のchief justiceに任命することもできたし、まさに自由主義にとって波に乗っていた黄金時代であった。

20世紀の共産主義は、まさに悪夢であり狂気そのものであった。共産主義的なるものがいまだに人類の敵であることは変わりない。では共産主義の本質はなにかというと、それは生産様式であるとか平等思想であるとかいった説明もあるが、アインランドの洞察ではその本質は「公益」(the common good)という言葉に象徴される何かであった。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉があるが、この「善意」に相当するものがまさに「公益」である。
この洞察から、ランドはエゴイズムという公益概念の反対概念をアンチテーゼとして取り上げ、エゴイズムそのものに価値を見出そうとした。

自由な状態で人間は基本的に自由にエゴイズムに則り自由に活動する。逆にエゴイズムが当然とみなされるのは自由な状態にあるときだけで、自由が失われたときエゴイズムも自明でなくなる。つまり自由とエゴイズムは社会的に消極的な自由が実現されている時にのみ追求できるものといえる。

今後、共産主義が全面的に復活することはおそらくないと思うが(すくなくとも先進国ではないだろう)、いまだに「公益」という概念は政府組織の中心的なイデオロギーとして残っている。またこの概念が批判されることはまずない。
だが、この「公益」概念が真に否定されないかぎり、”共産主義的なるもの”は形を変えて現れるだろう。
それと同時にエゴイズムという言葉の意味が肯定的に捉えられるようにならない限り、自由は「公益」より貶められた概念としてありつづけることになる。そして八百長多数派が公益という言葉を悪用し続けるのは確実だ。実際、現在の世界は1947年の時よりもより社会主義的なのだ。「公益」という言葉は、個人に対する絶対的な集団同調圧力として利用されてきた。昨今コンプライアンスキャンペーンが集団同調圧力を高めるために行われている現状からしても、今は露骨に全体主義的な統制に向かっている。

ジョンマクミランのような学者がリバタリアニズムを否定するとき、リバタリアンとしてあげられているのがランドしかいないのは示唆的だ。mechanism designのような制度設計として政策効率を考えるときにベースとなるのが社会全体の便益というある種の「公益」概念だからだろう。
だが、これはランドの公益概念とは異なるかもしれない。
posted by libertarian at 00:08| 東京 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | AynRand | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月07日

Milton Friedman on Constitution

先のポストでミルトン フリードマンの合衆国憲法の修正案のことを少し書いたが、もう少しまとめてみよう。
「選択の自由」は、フリードマンの著作の中でも私の一番のお勧めだ。豊富な実例といい、説得的なレトリックといい、現代の古典といえる。ある意味、現代の自由主義者はこの本の内容を繰り返しているだけともいえる。しかし、本質的で大事なことは繰り返し語られなければならないのである。

次に、この本の最終章(10章)から、フリードマンの合衆国憲法修正案について、ところどころ引用する
========
可能な解決策

いうまでもなく、このような最近の傾向を阻止し、これを逆転しようと欲するものは、政府の権力を増大させたり政府の支配力が及ぶ範囲を拡大させたりするような、これ以上の特別な政策に対しては反対すべきであり、既存の諸政策を廃止し改善することを主張すべきであり、われわれと同じ考えをもつ立法者たちや行政者たちを選挙するように努力しなければならない。しかしこれらのことは、政府の巨大化を逆転させるためには有効な方法ではない。
それどころかこのような方法は間違いなく失敗する。
人々は自分の特殊な特権を擁護しようとし、他人の犠牲においてだけ政府を制限しようと試みるだけだ。
われわれは多くの頭をもったヘビと戦っているのであり、このヘビはわれわれがその頭を切り捨てるよりももっと早く、新しい頭をはやしてくるのだ。

アメリカの合衆国の父たちは、これよりはもっと将来性のある方法をわれわれのために示してくれている。
それは、いわば「一括取引」をすることだ。われわれは、われわれが政治的な経路を経て追及する目的を制限する「自己否定的」な法律を制定すべきだ。

この修正第一条は、「連邦議会は・・言論の自由を制限する法律を制限してはならない。」という一般原則を採用した。
すなわち、ひとつひとつの場合について、それぞれがどんな価値をもっているのかを考慮しないというのだ。
われわれは、自身が多数派である場合には、他人の自由を干渉することについて、それほど深刻な関心を持たない。
しかし、われわれの大半がなんらかの時点において少数派になることはまず間違いないのだ。
我々の考えでは、経済と社会の分野における政府の権力を制限するために、アメリカ合衆国憲法修正第十か条に等しいもの、ないしは「経済的権利章典」を樹立して、最初の権利章典を補完し、またこれを強化する必要があるのではないかと思われる。

憲法にこのような経済的権利章典を組み込むことは、それだけでは政府が巨大になる傾向を逆転させたり、このような傾向がさらに続いていくのを阻止することはできないだろう。この事情は現行の憲法と基本的に変わらない。現行の憲法は今日の政府が巨大になるのを阻止することができなかった。
究極的には成文法としての憲法は、自由社会を発展させたり、これを維持していくためには必要でもなければ十分でもない。イギリスはつねに「慣習法」としての憲法しかもっていなかったが、自由社会を発展させてきた。これに対して多くの南アフリカ諸国はアメリカ合衆国憲法を事実上、一言一句までまねをした成文法としての憲法を採用してきたが、自由社会を樹立するのには成功しなかった。
成文法としての憲法や、慣習法としての憲法にしてもこれを有効にさせるためには一般大衆とその指導者との間に、この憲法を支える世論の風潮が存在していなければならない。
またその憲法は、人々が深く信奉するようになっている諸原則を組み込んでいなければならず、行政府や立法府や司法府がそれらの原則に従って行動することが当然だと考えられるようになっていなければならない。
われわれがすでに見てきたように、世論の風潮が変化するとき政府の政策も変化する。
それにもかかわらず、経済的権利章典を制定し、これを採用することは、政府がいっそう巨大になっていく今日の傾向を逆転させるために採用できるもっとも有効な方法であると我々は信じている。

snip

これまで説明してきたような理由で特殊利益は一般利益を犠牲にしながら社会を支配してきている。今日の新しい支配階級は大学に納まっている連中であり、マスコミであり、とりわけ連邦政府の官僚機構である。
この新しい支配者階級は一般大衆による広範な反対にもかかわらず、自分たちの考えを人々に強制するのに繰り返し成功してきた。
・・・・
いまや多数派はむしろ特殊な種類の多数派でしかない。すなわち今日、民主主義の名の下に一国を支配しているのは、このような八百長的多数派でしかないのだ。

snip

政府支出の我々の所得に対する比率を減少させていくことは、より自由で経済的により強い社会を樹立していくのに大きな貢献をすることになるだろう。しかしこのことはこの目的に向けての第一歩にすぎない。
実際、政府の規制のうち、われわれの生活に対し最も大きな被害をもたらしているものはそれほど政府支出を必要としていない。関税と価格や物価に対する統制、いろいろな職業に対する免許制度、産業に対する規制、消費者製品に対する規制等はそれほど政府支出をつかっていない。
このような問題に対して最も将来性があるやり方は、政府の権力を制限する一般的な規則を確立することだ。
そのための第一歩として望ましく思える憲法修正案のいくつかを次に挙げておきたい。

○国際貿易
現行の憲法は
いかなる州も連邦議会の同意なしに、その検査法を執行するのに絶対必要な場合を除けば、輸入や輸出に対していかなる賦課金も関税も賦課してはならない。」と規定している。

これに対する修正条項は次のように提案できる。
連邦議会は、検査法の執行にその検査法を執行するのに絶対必要な場合を除けば、輸入や輸出に対していかなる賦課金も関税も賦課してはならない。」

このような憲法修正条項が実際に立法化されると想像することは、現時点においては幻想でしかない。しかし、既存の個別のいろいろな関税をひとつひとつ廃止していくことによって自由貿易を達成しようと考えることはもっと幻想的なことでしかありえない。

○賃金と価格に対する統制

「連邦議会は財貨の販売者や労働の提供者が、その財貨やサービスに価格をつける自由を侵害するようないかなる法も立法してはならない。」

○免許制度

「何州といえども、アメリカ合衆国の市民から自分が選択したいかなる職業や専門職業にも従事できる権利を奪うような、いかなる法律も制定してはならず、または施行してはならない。」

○課税

ここでは所得税に関して政府に権限を与えている現行の合衆国憲法修正第十六条を修正することが必要であり、この修正条項を次のような文章によって置き換えるとよいだろう。

「連邦議会は、同一の所得税率が職業上ならびに営業上の費用や固定された金額における個人に対する控除額を上回るすべての所得に対して同様に適用される限り、数週に割り当てすることなしに、またこのためにいかなる特別の国勢調査や納税調査も行わないことを条件として、いかなる源泉から発生した「人」の所得であろうが、これに対して所得税を課し、これを徴収する権限をもつ。「人」とは、法人とかその他の人為的「人」を含まない。

○健全通貨

「連邦議会は、通過の形における政府による無利子の負債証明書を公認する権限をもつ。ただしその際、総通貨残高は年間5%よりは低く3%よりは高い率で増加しなければならない。」

○インフレ対策

「アメリカ合衆国政府とその他の当事者との間において、ドル建てで結ばれるすべての契約や、連邦の諸法律に含まれているドル建てのすべての金額は、毎年、それに先立つ一年間に発生した一般的物価水準の変化を相殺するために、再調整されなければならない。」


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2009年06月06日

How to abolish regislations

本日、蔵さんの「国家はいらない」を再読した。
WEBで原稿が前に公開されておりそれを読んでいたので、本は発売時に買ってはいたがちゃんとは読んでいなかったのだ。これを今日、喫茶店でじっくりと通して読んでみた。
もとより記憶の悪い自分としては、前に読んだことはかなり忘れていたので、ほとんど初めて読んだような新鮮な印象で読むことができた。

#WEB版はこちら↓
http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/noneedforthestate.htm

日本の政府組織の社会主義的腐敗の実態はすさまじいもので、こういった事実を読むたびに暗澹たる気持ちになるし、今ではこういった認識を持っている人はリバタリアンでなくとも多いだろう。
だが、なぜこういった構造的腐敗をいつまでも全く修正することができないのだろうか?
むしろ問題は悪くなる一方で、政府の統制圧力、規制権力の拡大が顕著である。
これは第一義的に法律が問題である。その表現型である経済や税や公共事業の問題は二次的な問題と考えられる。→バスティアの「法」を読むべし。

一応、現行法上でも法律を廃案にすることは出来る建前であるが、実際はこれは殆ど無理であり、あまりにも多くの法律、規制が多すぎて、一つ一つ変えるなんてことは事実上の不可能なのが現実だ。
あれほど不評な個人情報保護法ですら、廃止しようという声が高まらない。

#ちなみに法律には六法をはじめとして沢山あるが、さらにその中の一条々が法律である。日本の法律の全てが全部で何条あるのか知らん。

代議制民主主義のスキームとは、代議士をたてて法律を作成する仕組みのことであるが、余計な法律を作ることばかりで、法律の廃棄の仕組みは構造的に非常に弱いのである。
そのため立法は悪法であっても廃棄されず、それが政府と政府に寄生する組織の利権として定着、固着化し、行政組織が幅をどんどんきかせることになる。
行政は法律の執行機関でしかないが、役人は選挙で選ぶわけでもなく、国会からのトップ人事の間接コントロールをうけるだけだ。しかし実際は行政組織によって国は完全に支配されコントロールされている。
また司法も司法官僚制度であるから、他の行政組織と大して違わない。

別にリバタリアンでなくとも、このような行政の実態、不正な規制と既得権益による税の乱用を許せないと思う人間は多いだろう。
さらに昨今ではコンプライアンスが叫ばれ、法律や規則には全て盲目的に従順に従えというのが今の作られた風潮である。Deregulation=規制撤廃が唱えられた数年前とは、180度ベクトルがひっくり返ってしまっている。
コンプライアンスキャンペーンには、このような法律や規制そのもの、つまりは既得権益を問題視する国民の批判を圧殺する意図が背後に明らかにあるのである。
いかに人気のあるタレントであろうと、つまらない”違反”を根拠に社会的村八分にすることで、集団同調圧力を極限的に高めようとしているわけだ。

村社会的な集団同調圧力による人間管理から人間を自由にするのが、本来の法であり、法のありがたさであった。しかしコンプライアンスというスローガンは、法によって集団同調圧力を高める目的で用いられている。コンプライアンスとは、反ー法であり反自由主義=全体主義を意味する。

このような現実を打破するためには、スピードを重んじれば暴力革命が必要となり、ゆっくりやろうとしたら1000年経っても変わらないだろう。
だが、問題は暴力革命で既存の法律をひっくり返したところで、その後の体制の善し悪しはクーデターを起こした連中の一存で決まるのがかなりリスキーなことである。

次なる方法は憲法の改正である。この本にも書かれているが、ミルトン フリードマンは「選択の自由」の中で憲法の修正案を示している。
職業選択の規制禁止、外国貿易の制限の禁止、特定の生産活動への補助金の禁止といった広範な禁止条項を憲法に埋め込むことを提案していたわけだが、これは合衆国憲法が制限憲法、つまり国会の立法権力を制限することを目的とした憲法である趣旨にも則っている。
これと同様に日本の憲法の中に立法権の禁止制限条項を盛り込むのである。
そして、さらに明示的に抽象的違憲立法審査制度を憲法上に明確に定義する必要がある。今の憲法では抽象的違憲審査がないため立法の違憲判断を裁判所は原則的にできない。またドイツのようにそのための憲法裁判所を作るのがいいだろう。
こういった立法ベースがなければ、地方分権などはかえって日本の社会主義を強化するだけなのは目に見えてる。大体、頭の悪い人間が行く不人気職場の典型である地方公務員連中のすさまじいお手盛り給料の実態を知れば、国家公務員より遙かに偏差値の低い馬鹿からなる地方公務員に権力を委譲することの無謀さがわかるはずだ。

こうして、制限憲法に日本の憲法を改正し、それによって立法権力を制限する仕組みが必要だ。
これができれば、法律を廃止する法的基盤ができる。こういった消極的な立法権力を司法に与えるのは悪くないだろう。
posted by libertarian at 14:33| 東京 不明| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月01日

The Tradition of Spontaneous Order

The Tradition of Spontaneous Order: A Bibliographical Essay by Norman Barry


Norman Barryによるハイエクのspontaneous orderに関する解説。
posted by libertarian at 22:57| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

WolframAlpha : computational knowledge engine


マテマテカを創ったwolframが、WolframAlphaというのを創った。
http://www.wolframalpha.com/
ちょっと触ってみたが非常に面白い。
これは単なる検索エンジンではなく、knowledge engineだ。

ウルフラム自身がこのwolframAlphaの使用法の説明をしているビデオがあるのでこれをみると大体どんなことができるのか分かる。
http://www.wolframalpha.com/screencast/introducingwolframalpha.html

ただし今のところ、入力は英語しか解さないようだ。

posted by libertarian at 20:23| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | Computer | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月26日

Libertarian surrealism?

anacapさんが紹介していた「市場を創る」を読んだ。
anacapさんの紹介している本はどれも当たりだが、こういう面白い本を探すのにもセンスがあるのであろう。私の関心ともかなりオーバーラップするところが多く興味深かった。
この本のおもしろさは、豊富な実例紹介だ。単に経済学の理論紹介に終わっている本が多い中で、経済理論を補強してくれる興味深い事例が満載だ。
しかし、次の点はたしかに少し不満だ。

http://anacap.jugem.jp/?eid=127
おもしろいのは、ここまで市場万歳の本なのにマクミランはリバタリアンを「現実から遊離した推論」「現代経済はリバタリアン原理では機能しえない」として嫌っているということだ。(わざわざ持ち出しているところはリバタリアンと思われたくないのだろう。)市場に対しては民主主義と同じで部分的万歳しかしないというのである。通常の経済学者同様、財産権の保護と公共財供給のために政府は必要である。終わり。となっている。

池田さんみたいな電波問題に関心がある人でも”財産権の保護と公共財供給のために政府は必要である。終わり。”となるが、これは要するにリバタリアニズムをちゃんと知らないからだろう。というか基本が良く理解できていない。
政治的現実の先に理論をすすめることは、ある意味、現実的でないのは事実だが、これは人類が太陽系より外に行くことはしばらくないだろうからといって宇宙論の研究対象を太陽系だけに限定するのと同じ程度に現実的な判断だ。
しかし、学問である以上、問題としているのは理論的な真実であるわけで、”その先”を前提とした研究をしなければならないのは自明なのだ。
ハイエクもミルトンフリードマンの政治的な現実主義を学者の態度としてダメだと批判していた。
経済学者とはあまりに御用学問であるために、そのようなこともわからなくなってしまったのだろうか。
アメリカではリバタリアンを自称する超一流の学者も多いが、リバタリアンを自称することが非現実主義者の烙印を押されるように思っている人も多いのかもしれない。

posted by libertarian at 23:26| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Saas :Supercomputer as a service

最近、Saasがはやりだ。Web2.0の時はBlog程度しか具体的な内容がなかったが、SAASの場合はGoogleAppsがその具体的なイメージなのか。
であれば、やはりあまり面白いとは思えない。
昔からある技術に目新しい名前をつけたくらいで本質が新しくなるわけではない。

私が、あったらいいなと思うサービスのアイデアは、スパコンの開放サービスだ。地球シミュレーターはとんだ無駄電気食いのコンピューターだが、スパコンをネットから自由にアクセスできるようになるとありがたい。
ここ最近のパソコン性能の向上は目覚しいが、それでも個人で利用できるリソースには限度がある。
スパコンを自由に万人がアクセスできて、メモリーも無制限に使え、プログラムをその上で開発できて、自由に実行できるとすばらしい。開発環境も自分の自由にインストールできるとありがたい。これはVMのような技術を使えば可能であろう。
個人のPC環境をネットのあちら側に構築して、実行環境はスパコンの性能を用いることができるのが素敵だ。所詮、個人のPC利用の8割方はメールとWEB程度だろう。その程度の目的の為にマルチコア化を進めてもほとんど豚に真珠だ。電気代ばかりかかるようになって環境にもよろしくない。
しかし、一部のマシンパワーを要する人間にとっては、リソースはいくらあっても困らないので、スパコンの共同利用は価値がある。そのスパコンではウルトラマルチコアで、メモリは何テラバイトとあって、パラレルプログラムが高速で動くようにする。
こういったサービスはもちろん有料でやればいい。利用時間帯やリソースの使用量によって課金すればよいのだ。
どこかのアントレプレナーがやったらいいのにと思うのだが。

posted by libertarian at 22:41| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | Computer | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月24日

Search cost2

Conecoや価格.comという価格比較サイトがある。
これらのサイトにはいろんな業者が登録していて、いろんな値段をつけているのであるが、価格にはかなりの幅がある。
私がパソコンなどを買おうとしたら、同じものであれば当然に一番安い値をつけている店から買おうとする。→もちろん送料などを含めたトータルコストで比較した上で。
一つの商品に最低から最高までの価格の幅があり、似たような値付けの店も多い。
私が前から不思議だったのは、この仕組みがなぜ成り立つのかだ。一番安いところから買う人しかいなければ、他の店が登録している意味がない。
また、この価格差は時間とともにあまり変化もしないようなので、価格で競り合うつもりももとよりないようなのだ。では、なぜ(おそらく登録の費用と手間をかけてまで)価格.comに登録するのであろうか?

一つに考えられるのが、どの店も抱えている在庫には限度があるので、一番安いところが商品を売り切ったら、その次に安い店からしか手に入れられない。この順番でいずれ自分のところから買う人間がでてくる。つまりちょっと待てば、自分の店から買う人間がいずれ現れるという魂胆である。
この作戦は、おそらく一理あって部分的には成立するはずである。
しかし、安値で売っている店の回転がよければ高い値段で出している店には順番が回ってこない。

もう一つは、宣伝効果があるから出店しているという理由だ。
これらのサイトに登録しておけば、googleに引っかかるようになる。
ある商品の価格で負けていても、自分のサイトを見てくれる人がいて、別の商品を買ってくれるかもしれない。そういう可能性があれば、宣伝の一つとして出店する意味がある。

いずれにしても、インターネットの初期に言われたようにネットの世界ではもっとも価格の安いところだけが勝つというwinner take allのような単純なものではなさそうだ。
基本的には、探索コストと信用力の2つが取引コストにあり、いくら安くても危なそうな店からは買おうとは思わない。リスクとメリットが合わないからだ。

さらに、消費者にとっては、探索コストは実は馬鹿にならない大きなものだという点がありそうだ。
私がヨドバシで何か買っても、おそらくネットで苦労して探せばそれより安い店はきっとあるだろう。
しかし、時間をかけて苦労して探して、それがさらに信用のある店であるという保証もない。ここに不確実性がある。不確実なものにたいしてかける時間と労力に対する主観的な費用は、決して安くなく、例えば1時間3000円とか5000円とか、そのくらいはあるのかもしれない。

posted by libertarian at 17:02| 東京 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする