ルイ ド ブランジェ氏も登場していた。数学に取り組む体力をつけるべくエクササイズに励んでいた。
ナッシュやフリーマン ダイソンもまだ健在な様子で番組に出てきていた。
そのうち、ペレルマンのように、どこかの天才が突然あらわれて、この問題も解決してしまうのであろう。
もしかしたら、ペレルマンも森の中に隠棲しつつ、次ぎなる挑戦としてリーマン予想の解決に取り組んでいるのかもしれない。
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蔵さんが、シンガーの紹介をしている。シンガーの問題設定は、いかにも理科系的な考え方だと思う。私はこういう”理科系バカ”が嫌いである。
もちろん、こういった考えをする文科系バカも嫌いだ。
だが、シンガーはおそらく頭が悪いのではなく、知識が足りないのだろう。ドラマNumb3rsでも、天才数学者の息子に、学生運動くずれの親父さんが、「お前は数学はできるが、なんでもできるわけではない。たとえば政治は知らない。」という場面があった。これは実に正しい。
ここでは、救助の問題と援助の問題が混同されている。
「例えば、池を通り過ぎようとしたとき、そこにおぼれて死にそうになっている子どもがいれば、人は靴や服、そして仕事時間を犠牲にしても、子どもを助けるでしょう。」
とあるのは、救助の問題だ。
「私たち先進国でそれなりの生活をしている人は最貧国の子どもたち(など)を救う義務があるのに、それをしていない。」
というのは、援助の問題だ。
では、救助と援助の違いはどこにあるのか?
援助は救助と違い、持続的なものであることを目的としている。一時的に救助してもその原因が貧困によるものであるならば、貧困がなくならない限り、救助は限りなく必要になる。だが、経済発展を可能にすれば、それにより貧困が減少し、自立が可能となり、救助をしなくてもよくなるだろうという考えだ。だが、これはイースタリーがいっているように何故かうまくいかない。しかし、もちろん、これは別に不思議なことではない。
http://libertarian.seesaa.net/article/104741834.html
それがうまくいかないのは、援助には援助される側のインセンティブがないからである。
イースタリーは、「人間はそうすることが経済的に見合うことはするし、見合わないことはしない」という言葉を使っているが、これは、後進国の人間のことを言っていて、先進国の人間に向けて言っているわけではないのだ。
市場がなければ、ものの値段が存在しないのと同様にインセンティブも生まれない。だが援助は市場メカニズムではない。これはある種の福祉システムの恩恵のようなものである以上、逆のインセンティブ、フリーライドのインセンティブを生んでしまう。それはその途上国そのものを日本の地方自治体のような体質にしてしまい、一向に経済発展しなくなってしまうわけだ。
ここで言えることは、救助の延長線上に援助はないということである。
私ももちろん救助は否定しないが、救助はいかに行うべきかということが問題となる。池でおぼれている人の例は、まさに人命救助が必要となるケースだ。だが、この場合でも、その溺れてた人が貧乏で浮浪者だったとしても、救助したその後の経済的世話までしなければならないというおまけはついていないはずである。もし、そんなおまけがついていて、溺れている人を助けた場合、その人間の世話を一生涯みてやらなければならないとか決めれていたなら、誰も助けてはやらないに違いない。
救助は一過性、一時的なものなのである。だから経済的損得とは別に超短期的視野で救助するインセンティブが生まれるのである。そのため溺れる人を助けようとする人間が逆に溺れてしまうということもおこる。
前にも書いたように援助をするのではなく、移民を受け入れるほうがより本質的な援助となるだろうし、貧困している個人のインセンティブを活かすことができる。インセンティブは個人にしかなく、集団や国家にはない。今は人格をもった先進国の国民国家が、後進国の国民国家を助けるという構図になっていて、これが根本的な間違いだということだ。
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