2006年10月30日

Price of IT goods

ハードの指数的な変化に対して、あまり変化しないのが、ソフトウェアだ。

ハードの進化とは、指数的な価格低下と言い換えることができる。

今では1GBのSDメモリが、アマゾンで3000円程度で売られている。

2年前なら10万円だしても買えなかっただろうものが、指数的に価格下落をしていっている。

あと1年もしないうちに、2GBが3000円くらいになるだろう。

こういった大規模メモリーと今では捉えられているものが、すぐにFloppyのような

存在になるのである。

#昔は1MBのフロッピーが出たとき、こんな大容量なものをどうするんだと思ったものだ。



これに対して、肝心のソフトウェアはちっともコストパフォーマンスが指数的に変化しない。

ハードウェアの処理能力に依存した、GUIの見栄え向上やサービス機能の増大はあるが、それは一方で

使い難さを招いたりして、現実にあまり有効活用はされない。

ワードやエクセルのようなOffice製品がどんなに高機能になっても、使われない余計な機能が増えていくだけだ。

機能が今のものが100として、3年後には機能が200に増えているとする。

今で30の機能を使う人たちを中心とする分布があるとして、機能が200に増えたとしても

その中心が60になることはなく、せいぜい35になるとかいったレベルだろう。

これは、いわゆる”情報処理コスト”といった見方が意味のないものであることの一つの例だ。

ITであっても、単に、物の値段の問題として(価格理論的に)考えればいいのだ。

むしろ、どの企業であっても現実には情報処理コストはうなぎのぼりだ。



Windowsの未だに高価なことといったら犯罪的ですらあるが、それにくらべ今のノートパソコンは、気の毒なくらいに安い。

昔30万円とか払って、なけなしの貯金から買っていた感覚からすれば、むしろ腹が立つほどに安くて高性能だといったほうが近い。

そして、ハードはまだまだ指数的に安くなっていくのである。



こういった情報機器に対する投資というのは、資産価値のまったくないお買い物だ。

今のデジカメも、おそろしく高性能だが、気の毒なほどに安く売られているのは、それが資産価値が

フィルムカメラほどにはないからである。つまり中古市場が形成されないのである。

ITに対する出費は、食費のような、必要だけども何も残らないものに近いかもしれない。

これはITの一つの大きな特徴だ。



またWEB2.0のように、ソフトはGoogleのように巨大なマシンーデータシステムを自在に共有する。

誰にもGoogleと同様のシステムを自宅に構えることは不可能だが、そうしているのと実質的に同じサービスを受けることができる。

今の流れは、あきらかにクライアント側のパソコンが限りなくチープになり、水のように安いコモディティとなるベクトルなのである。

さらにチープになるだけでなく、軽くなっていく。

来年辺りからはノートパソコンのデータストレイジは、HDからフラッシュメモリに徐々に置き換えられ大幅な軽量化と省電力化が行われるだろう。

モバイルコンピューターは、パナのレッツノートで15時間電池が持つとか謳っているが、

この電池稼動時間/ノートパソコン重量という重要な指標のパフォーマンスも指数的に向上していく。



またケータイやPHSのような常時無線接続回線速度がある閾値を越えれば、パソコンもISP側の本体にアクセスするVM機能に特化していくだろう。

つまり、WEB2.0化は今後もあらゆるレベルで進行する。

ハードの変化は、インタフェースの劇的な向上をもたらすだろうし、ノートパソコンのようなパソコン然としたノートインタフェースでなく、

日本人の好きなロボットのようなインタフェースになっていくだろう。

今後CPUの過剰な性能向上は、ロボットのようなものに実装するしか一般的な活用はないだろう。

これからは家庭用のロボット産業が本格的に勃興するに違いない。
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2006年10月26日

Salary loan

貸金業規制法の問題について、某大学の法学部教授と話した。

貸し金業規制の根本は民法の90条の公序良俗の解釈が基礎となっている。

(公序良俗)

第九十条  公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする



利息制限法では、最大20%となっているわけだが、これもこの民法90条が基礎となっている。



(利息の最高限)第1条 金銭を目的とする消費貸借上の利息の契約は、その利息が左の利率により計算した金額をこえるときは、その超過部分につき無効とする。

元本が10万円未満の場合

年2割

元本が10万円以上100万円未満の場合

年1割8分

元本が100万円以上の場合

年1割5分2 債務者は、前項の超過部分を任意に支払つたときは、同項の規定にかかわらず、その返還を請求することができない。

(利息の天引)

第2条 利息を天引した場合において、天引額が債務者の受領額を元本として前条第1項に規定する利率により計算した金額をこえるときは、その超過部分は、元本の支払に充てたものとみなす





だが、この金利が実質金利なのかもわからない。

おそらく実質金利ではないだろう。

つまり、30%のインフレであっても20%の金利が上限だということになる。



池田さんのBlogでもこの問題はとりあげられていたが、そのコメントにおける反応のあまりの馬鹿さかげんに驚いていたが、これは池田Blogの読者レベルの低さをあらわしているのではなく、どうも世間一般のレベルよりも少しは高いだろう国立大学法学部教授のレベルと同じだということを知り、げんなりとした次第だ。



もし、中小企業の短期の資金繰りでお金が必要だったとき、大手の銀行はまず貸さない。

30%でないと貸してもらえない中小企業は潰れることになるがそれでもいいのかと聞いたら

「潰れてもらうのがいい」というのがその国立大学法学部教授の答えであった。

呆れて開いた口がふさがらなかった。これが弱者の法的救済を人生の大テーマとしている人間の言葉である。



私には、そういう人間の若かりしころに読んだであろう、本が思い浮かぶ。

そういった矛盾と人情と非情と非論理の世界に彼らは生きているわけだ。



経済学のケの字も知らない、小学生レベルの理解知識しかない人間が、民主主義の多数原理の元、恐るべき悲惨な結果をもたらす法律を設計しているのが今の日本だ。

この規範作りという制度設計は、いわゆる設計主義のような”科学的”で”高尚”なものですらなく、学級会的な多数決の原理で決めるものなのだそうだ。


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2006年10月24日

Adam Smith and Prudence

アダムスミスによる徳目体系の要としての実用知の位置づけ





勇気    節制     実用知   正義   愛

Courage Temperance Prudence Justice Love



勇気と愛は危険なものとして、意図的に体系の両端に位置付けられている。スミスは例えば商業的な勇気、つまり冒険的事業にはほとんど熱意を示さなかった。彼はまた普遍的な愛に過度に依拠することもなかった。

全ての著作の中で彼が最も強調したのは真ん中に位置する三つの徳だった。

つまり「諸国民の富」では、実用知を、「道徳感情論」では節制を、生前刊行されることのなかった「法律学講義」では正義を取り上げている。



私はいまクラシカルリベラルのように発言している。私はヨーロッパ自由主義の再生を願っており、事実としても私たちは手探りながら、その方向へ向けて格闘しつつある。近代主義は、そのための正しい道筋ではない。三つの悪徳が究極の悪であるのは、科学として失敗したからというより、それらが反自由主義的であるからだ。

小農民的で機械論的な経験主義、貴族主義的で高慢な理論は、自由主義の社会を築く基礎にはならない。

さらに社会工学は自由主義社会に死をもたらす。



私たちが依拠する必要があるのは、スコットランドの啓蒙主義であって、啓蒙主義という名のフランスの反啓蒙主義ではない。



経済学において私たちはデビッド ヒュームとアダムスミスの知的かつ道徳的な徳目へと回帰する必要がある。

だが、それを必要とするのは経済学以上のもののためだ。



ー新しく謙虚なブルジョアの経済学 D.マクロスキー「ノーベル章 経済学者の大罪」より
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2006年10月23日

Econometrics

Econometrics(計量経済学)という統計学と経済学の折衷的な分野がある。(9割以上統計学だろうが。)

マクロスキーなどは、もともと計量経済学者であったが、それを痛烈に批判しアダムスミスに回帰(=regression?)した学者である。(もちろんリバタリアンでもある)

つまるところ、計量経済学は、有意という言葉の誤解の上に”実証”をしようとしている学問だということである。

統計的検定こそが”悪徳の起源”だというのである。

OLS,GLS,Heteroskedasticityだといった、単なる統計的、数学的テクニックと、「有意な」結果を得たと主張することには、超えがたいほどの乖離があることに鈍感だというわけだ。

今までも、プロパーな統計数学者からは、計量経済学に対して根本的な批判が投げかけられてきたが、計量経済学者はそれに対して馬耳東風を決め込んできたのだ。それら計量経済学者の多くは、クラインを始めノーベル経済学賞を受賞してきた。



今では”R”といったフリーの高性能な統計ソフトがある上、ネットからデータを探してきてコピーして、コマンドを一発たたけば小学生でも一丁上がりでと高度な統計分析ができる。t値だ、p値だといった数字の読み方さえしれば、レポートの一つも簡単に書けるだろう。

Freakonomicsのレビットなぞも典型的にそういったタイプだろう。



パソコンの発達のお陰で、econometricsは、現実の役には立たないことが認識されつつも、ますます盛んになっているようだ。



問題なのは、こういった”研究”が政策の道具とされていることと、一見、科学的、数学的であるため、厳密で正しいことのように錯覚されることである。



オーストリアンの経済学はHuman actionつまりは人間行動学であるから、econometricsは全否定に近い。

過去の数字を否定するものではないが、econometricsで行われるような検定を実証と称することは間違いだということだ。
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2006年10月19日

End public education

池田さんが、教育バウチャーの問題を取り上げている。

この問題はご存知の通り、フリードマンのアイデアであるが、フリードマンはこれを現実との妥協案として出したのだと思う。そもそもバウチャーの原資は税金である。

#ちなみにリバタリアン的には”税金を用いた公教育”そのものに反対する。



また、フリードマンのこのアイデアは40年以上前のものであり、今の現実から見ると旧いアイデアであり、少なくとも今のインターネット時代に対応したものではない。



公共福祉インフラとして教育システムのあり方を考えることは設計主義の最たるものだ。

公教育はどのようにあるべきかという議論そのものが的を外した無意味なものである。

”教育のあるべき姿”は一つに収束させるようなものではなく、それこそいろんな価値観、方法論の上にいろんな人間がやればいい。駄目なシステムは潰れるだけの話だ。

#もちろんこの際、親や子供が塾を選ぶように駄目な学校から別の学校にすぐに移れるという”選択の自由”が条件として必要である。

今の教育システムは、憲法違反とも思われる国民の人格を政府=国家が作り上げるという発想すらあるだろう。



教育システムを見直すには、いかなる規制が教育システムに存在するのかを実証的に調査した上で論じなければならない。

つまり、教育問題とはDeregulation問題の一つに過ぎないのであって、教育システムに存在する数多くの規制と、利権の構造を明らかにした上で、最も効果的なDeregulationを考える必要がある。

つまり、どこに最大の利権が存在し、それを破壊する効果的な方法は何かを考える必要があるのだ。



例えば全ての世帯が生涯に子供を一人だけ持っている状況を想定してみる。私学も公立も実際にかかっている費用は同じとする。

この時、私学へ子供を行かせた場合、親は他人の子供が公立学校へ行く学費と、自分の子供の私学へ行かせる学費を2重払いする結果になる。また公立学校に行かせた場合は、単にその授業料を税金という形で払っているだけだ。

さらに税金という迂回路を通って支払うことで、そのお金は途中でどんどん公務員に抜き取られていく。

仮に1年間で100万円の学費がかかるとして、直接に学校へ払えば100万円だが、税金として政府経路で払おうとすると、例えば200万円が必要になるのである。



最終的には、政府による公教育そのものを廃止することが、万人にとってベストなのである。→もちろん、これはイワン イリイチの”脱学校の社会”とは全く違った意味でだ。
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2006年10月14日

Time advantage

PS3のスピードは単精度で2テラフロップスということだが、これが今のパソコンの10倍だというのはある意味で驚きだ。

私はもっと差があるものかと思っていた。何を基準にしているのかわからないが、IntelのXEON(ジオン)あたりと比較しているのかもしれない。

CPUの性能というのは、ベンチマーク方法によって大きく変わるから絶対的な比較数値はなく、どのベンチマークテストでの比較かというのが重要だが、10倍程度というのはアバウトなマスコミ用の言葉だろう。



ムーアの法則は18ヶ月でコンピュータの性能が2倍になるというものだから、10倍というのは4−5年先のインテルCPUの性能ということになる。

CELLがいかに化け物CPUといっても、その程度の時間的アドバンテージを持っているに過ぎない。



一方、一般家庭のインターネット回線速度に関しては1年で1.5倍になるというNielsenの法則がある。

これが正しいとすれば、5年後は7−8倍の速度になっていることになる。



いずれにしても、インターネットを分散コンピューティングのバスとして扱うのはまだ難しい。単なるLAN環境であればすでに結構早いのであるが、それでもバスの速度とは桁違いに遅い。それでもGoogleがやっているのは、それでも十分な使い方をしているからだろう。

要は使い方であり、工夫次第ということだ。

一般のパソコンの使い方としては、このネット回線速度を制限条件としてその未来のあり方が規定されると考えられる。



誰しも今のテクノロジーの進化スピードには圧倒される感じをもつのは正常だと思うが、現実はテクノロジーが殆ど限界が見えないほどにまだまだ指数的に進化しつづけているわけである。

それに圧倒されて未来のイメージやビジョンを描けなくなるとしたら、その人間はITテクノロジーに関してはそれで終わりだ。私は1980年頃にパソコンをいじっていたとき、音楽はレコードから小さなサイコロほどのメモリーに蓄えられるようになるだろうと予想していたが、当然のようにそのようになった。

このような変化は、誰でも考えつくだろう。性能とコストパフォーマンスの変化が何をもたらすかは線的な予測であり単純だ。

現代におけるmicrosoftintel陣営が主導するパソコンの変化も線的であり、IT業界の人間はそれにのっとった青写真を持っているだろう。

イノベーションが起こるのは、そのような予定調和を壊そうとするチャレンジが登場するときである。

CELLが商業的に成功するかは私にはなんともいえないが、成功しなければ、単に4−5年先のCPUを出して野心的だったけど早すぎたねで終わるだろうし、やはりクリステンセンは正しかったと言うお馬鹿な連中も出てくることだろう。




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2006年10月13日

Personal Computer 2.0

コンピューターの近未来を考えるのは意味のあることだ。それはすなわち新しいビジネスモデルそのものを考えることに等しいからである。

WEB2.0とは、YahooADSLを広めてからの未だほんの3年くらいの現象といえる。

アメリカでのDSL普及は日本より数年早かったが日本のものより速度がはるかに遅い。Youtubeへの利用が日本で多いのは回線が圧倒的に早いからだろう。



WEB2.0とはインターネットへの常時定額高速接続時代における利用形態の一つの帰着点として見た場合、それなりに示唆深い言葉であり、Buzzwordとして片付けるべきではないだろう。



私には、Personal Computer 2.0の世界、つまり近未来のパソコンのあるべき姿というか

なっているだろう形のイメージがある。

私がそれにコミットするしないに関わらず、きっとそのようになっているだろう。

そのビジョンについてはいえないが、わかる人にはすでにピンと来ているかもしれない。
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2006年10月03日

Full Value2

「特許権はどこまで権利か」 by玉井克哉

http://www.ip.rcast.utokyo.ac.jp/member/tamai/paper/B/B23.pdf



玉井先生の上の論文を読んでみた。これもためになる論文であった。

この論文は、特許権に基づく差止請求に関する最近のUS最高裁の判決(2006.5.15)を解説した論文である。



この本を読んで気づいたのだが、英米のコモンローではむしろ差止請求は補充的な手段らしい。必ず用意されている救済は損害賠償だけということだ。(私はこの点を以前にこのブログで間違って書いた。やはり相手が専門家だと思って人の話を鵜呑みにすると間違える。)

差止判断はエクイティ上のfourfactor testにかけられる。



この判決からも特許法という制定法に対するアメリカのコモンローアプローチがよく見える。

CAFCによって特許侵害に対する差止請求が常態化していた現状を覆す判決となっており、今後のアメリカの司法に大きな影響を与えるだろうと考えられる判決である。



法廷意見を書いたのはクラレンストーマス。補足意見としてジョンロバーツとスカリアとギンズバーグのものと、アンソニーケネディ、スティーブンス、スーター、ブライアーらの異なる意見が加えられた。



判決は、差止請求を認めないということだが、このフルオピニオンの法廷意見は極めて重要かつ含蓄が深い。



「裁量というのは何をしてもいいということではない。そして法的基準に則って裁量を制限することにより、等しきものを等しく扱うという法と正義の基本原則に近づくことが出来る」のである。そうした基準を識別し、適用する段になれば他の分野と同様、この分野でも「歴史の1頁は論理の一冊に相当する」のである。





意見書も産業界から提出された。予想通り、医薬業界は差止請求権は絶対に必要だというものであり、バイオ業界もそれにほぼ同じ。



IT業界団体(BSA)の意見では、逆に差止請求をデフォルトで認めることは大反対。これはITや電子電気業界における特許権の錯雑状態(Patent thicket)という現状を訴えたもの。



つまり、ハイテク製品やそれに関わる技術標準とは複雑極まりない技術と特許が絡んでいるために、全ての特許侵害を完全に予防することは不可能。またクロスライセンスにも限界がある。



取るに足らない一部の特許を振りかざして差止請求を要求されたら膨大な損害をこうむり、そのような状況ではライセンス交渉における極端な不均衡が生じることになる。



膨大な資金と時間を投資した後の段階でこのような訴訟を起こされると、事業家はホールドアップ状態になる。



そして、このような特許侵害訴訟を専門に行う産業(特許ゴロ)がUSでは組織的に活動している。特許ゴロ(patent troll)はpatent litigation firmであったり、法律家からなるが、、特許発明を事業にするのではなく、特許権を事業にする。つまりは特許侵害訴訟で相手側から法外の和解金を引き出すのが専門の法律家たちである。



ケネディ裁判官ら4人の見解は、こういった事態の変化に対し対応を変えるべきであるというものである。

つまり、patent thicket,特許ゴロ、ホールドアップ問題といった現状に対応し、柔軟にエクイティの法理を運用すべきということだ。



業界によって特許権のFullValueが制限されるのが適切であったり不適切な現状があったりというケースバイケースの柔軟な判断だ。

今後、USで特許権のフルバリュー、つまり損害賠償と差止請求を同時に行使することは難しくなるだろう。



何度もいうが、特許権というのは実に不安定な権利(というか特権)であって、この不安定さは近年日本でもとみに顕著だ。

審査効率を上げるために、異議申し立て制度などを廃止した結果でもあろう。だが、このような不安定な”権利”に法外なフルバリューを与えることは危険極まりない。



実際、USでは特許のFullValueは制限されるわけだし、日本もプロパテントなどという有害極まりない無責任なことを政策とするのでなく、むしろ”権利”の限定化を検討すべき段階にある。



#ちなみに、差止請求権がここで大問題となるのは、差止は事実上、会社もしくは事業への死刑宣告に相当する過酷なものだからである。

差止請求の仮執行も多くの場合、同様の効果をもつ。

特に中小企業の場合、設備を3ヶ月も停止すれば不渡を出すしかないのだ。差止をちらつかせた損害賠償請求であればピストルを相手から頭に向けられたホールドアップ状態であるから、交渉余地はないが、差止請求と同時でなければ、まだ常識的な範囲での交渉が可能だということである。
posted by libertarian at 15:15| Comment(0) | TrackBack(0) | IPR(Intellectual Property Right) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする