2006年12月28日

The Fallacies of Broken window theory

「統計数字を疑う」という本を読んだ。

まともな内容の本であり、一読をお勧めできる。この中で、NYのジュリアーニ市長(Rudolph Giuliani)が過去に実施して注目を浴びたBroken Window theoryに対する批判的な話がある。

この理論に関しては、私は前から懐疑的というか否定的であったが、この本が指摘しているのは、Broken window 理論による軽犯罪の取り締まり強化がNYの治安を回復させたという因果関係は、一概に言えず、景気回復による効果のほうが大きいのではないかという見方である。

このような見解は、あちらでは以前から指摘されていたものであり、新奇な見方ではない。



統計トリックの多くは、相関関係と因果関係を意図的にだか無自覚にか混同することにある。

まず相関関係=因果関係ではない。実は相関関係のみから言えることは非常に少ない。かりに綺麗な回帰線が描けたとしても、それを用いて予測することは原則してはならない。それはあくまで、過去の相関関係に過ぎないからだ。だが多くの経済統計は過去のデータの相関関係から大胆に将来予測を出す。このような予測が当たるも八卦、当たらぬも八卦であるのは当然だ。しかし、これが因果関係であれば、予測が可能だ。

物理法則は因果関係に関する法則であるから予測ができる。しかし、それでも多くの場合複雑すぎて手に負えなくなるわけだが。



だが、Broken Window theoryにおける問題点とは、その犯罪防止効果だけではない。

そもそも過去のデータからだけでは割れ窓理論の効果がないとも言うことはできない。つまり犯罪減少との因果関係が全くないとも言い切れない。つまり、抑止効果が少しはある、かなりある、全くないという程度のレベルの問題となるわけだ。



また景気の良し悪しとの相乗的な効果もあるのかもしれない。景気がひどく落ち込んでいるときに仮に同じ事をしても焼け石に水になるだろう。またジュリアーニの時のように景気が回復しつつあるときは、街は掃除されて綺麗になるしで、あたかも割れ窓理論による軽犯罪取り締まり強化が劇的な効果を示したかのように錯覚される場合もある。



私がむしろ問題だと思うのは、このような軽犯罪取締り強化の正当化が警察国家化を認めることとほぼ同義だということだ。ここでは”犯罪がない社会”=”自由がない社会”を意味する。

だが、これが本末転倒なことは自明だ。

”犯罪”はないが自由もない社会より、”犯罪”があろうとも自由のある社会の方がはるかに大事だということは当然だ。




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2006年12月27日

Alertness

Israel Kirzner(イズラエル カーズナー)というオーストリアンの重鎮がいるが日本では殆ど話題にもならない。KirznerはMisesの直弟子にあたりミーゼスの助手を務めていたこともある。



KirznerのEntrepreneur論は極めて重要なのであるが、オーストリアンのような反政府的な言論は日本では無視される運命のようだ。とはいっても、何冊かの翻訳もでていたのであるが。

[http://ideas.repec.org/p/hhs/iuiwop/0678.html]

上のサイトにあるpdfファイルの内容はよくまとまっているので、これをもとに次のように簡単に纏めた。



KirznerのEntreprener論において、Entrepreneurの役割は、マーケットプロセスにおけるShiftsに対しAlertであり、そのShiftsに対するnew knowledgeを発見することで、ある種のequibliumに近づける役割がある。

entrepreneur論には、SchumpeterのEntrepreneur論ばかりが日本では有名だが、同じオーストリア学派であってもシュンペータのそれとカーズナーのそれは異なる。



シュンペーターのentrepreneurとは、boldness、selfconfident,courageという属性をもつ人物像であり、disruptiveな行動をとる。つまり既存の均衡を破壊する人物である。それに対してカーズナーのentrepreneurはadaptiveな存在といえる。誰も気づいていないShiftsを発見しそれをprofit incentiveから利益に結びつける存在であり、誰でもがentrepreneurに成りうるし、殆どの活動においてその要素が存在する。entrepreneurはAgentであり、価格や生産量を目的をもって変化させる存在である。またentrepreneurの行動はsystematic search processではない。カーズナーのentrepreneurはvisionをもち、未来のuncertaintyに向かう人間である。(さらにこのuncertaintyという概念は、calculable riskとは異なる。)



また均衡理論(equilibrium theory)において、均衡はゴールであり物理現象のように扱われるが、そこにはentrepreneurの存在が消えている。可能性というunderlying variables(UVs)と、価格や生産量のようなinduced variables(IVs)という概念を用いれば、Growth problemにおいてIVsはUVsによって完全に説明される。そしてGrowth problemは、allocation problemに完全に置き換えられなければならない。



"Economics explains that where there are unexploited profit opportunities,resources have been misallocated,entrepreneur corrects such waste."(I.M.Kirzner)
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2006年12月26日

Popper and its enemies

今の55歳当たりから上の世代の言論人は、全学連〜全共闘世代の影響に育っており、所詮はどう頑張ってみても社会民主主義的な発想から抜けられないようだ。学校の悪影響というのは恐ろしいものである。自称の自由市場論者といっても、所詮は社会民主主義者の枠組みをでないのだ。



しかしこの世代は官庁や大学などでも要職にありかなりの影響力を持っているために性質が悪い。

池田信夫さんなどは影響力はあまりないかもしれないが、この世代の典型といえるだろう。

碌にポパーを読んだこともないだろうに、解説書だけ読んで分かったようなことを言っているのにはあきれ果てる。村上陽一郎辺りのくだらない解説書を読んで分かったつもりになっているだけだろう。まあポパーを仮に読んでいたとしても何も読めていないのだろうが。



ポパーについてここで”正しい読み方”を解説するつもりも能力も時間も私はないが、ポパーほどに通俗的な誤解を受けている人間は少ないかもしれない。”Falsifiability”もその典型だ。

あのハイエクがポパーの通俗的に誤解されている意味での反証可能性理論なるものに共鳴をしたとでも思っているのだろうか?

ハイエクもポパーも日本ではまだ全く理解されていないといってよい真の自由主義思想家といえよう。



ちなみにこの傾向は日本だけではない。本家のイギリスでも大体同じような状況だろう。ただ議論のレベルは日本で行われているものとは次元が違う。というか日本では議論が全くないし、理解している人間があまりに少ない。

ポパーのメイリングリストにはイギリスがメインでcritical cafeとかいろいろあるが、社会民主主義者と科学者とが入り混じってポパーに対するアホらしい悪口をエンドレスで言っているのだが、その誤解を解こうとする少数のリバタリアンがいるという図式となっている。とはいえ、頭数と口数の多さと頑固さでは左翼の方が圧倒的だから常に平行線で終わるのである。日本では村上陽一郎のおかげでポール ファイヤアーベントのような左派科学史家が異様に高く評価されているが、実際はファイヤアーベントの議論など屁みたいなものなのだ。

ファイアーアーベントの言論がポパーに対して勝ったのどうのというレベルとはあちらのまともな人間からは全く思われていないのである。

同様にトマスクーンのパラダイム論もつまらないアイデアだ。こういった連中とポパーでは格が違いすぎるのである。
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2006年12月22日

Marbury v.Madison case

マーシャル判事(Chief Justice Marshall)が、このマーベリv.マディスン事件(1803)で、司法再審理の原則を確立した。以下に有名な部分を抜粋し訳も載せておく。



[http://www.lectlaw.com/files/case14.htm]

The powers of the legislature are defined and limited; and that those limits may not be mistaken or forgotten, the constitution is written.



立法者の権力は定義され制限されている。そしてこれらの制限は誤解されたり忘れ去られてはならない。

そのために憲法は書かれているのである。





To what purpose are powers limited, and to what purpose is that limitation committed to writing; if these limits may, at any time, be passed by those intended to be restrained?



もし、これらの制限が、当の制限が課せられるように意図された者達により、いつでも回避されるとするのなら、 なんのために権力は制限されるのか、また何の目的があってその制限は成文化されているのであろうか?



The distinction between a government with limited and unlimited powers is abolished, if those limits do not confine the persons on whom they are imposed, and if acts prohibited and acts allowed are of equal obligation.



制限された政府と無制限の権力をもつ政府の違いは失われることになる。もし、その制限が課せられる者たちを制限しないのであれば。そして禁止された立法と許可されている立法が同じ義務なのであれば。





”It is emphatically the province and duty of the judicial department to say what the law is. Those who apply the rule to particular cases, must of necessity expound and interpret that rule. If two laws conflict with each other, the courts must decide on the operation of each. ”



法とは何かを述べることが司法府のまさに専門とするところであり義務である。

法律を特定の事例に適用する人々は、その規則を説明し解釈する必要がある。もし、2つの法律が互いに矛盾するとすれば、裁判所はおのおのの運用について判断を下さなければならない。



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アメリカの最高裁による司法再審理制は、連邦憲法に書かれているわけではないが、このマーシャル判決から法理として固まってきた。しかし、これは当時の流れの中では、当然のことだったようだ。



ハイエクは、次のように書いている。

「いずれにしても重要なことは、司法再審理が憲法の必然かつ自明の部分であったこと、またその採択後の初期の討論において、彼らの考え方を弁護する必要が生じたときは、かれらが充分に明らかな陳述をしたこと、それからまた最高裁判所の決定により、それがまもなく国の法律となったことであった。」

「司法再審理はアメリカの発明であるというより、憲法それ自体と同じく旧く、またそれなしでは立憲主義は決して達成されなかったであろう。」






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Literary Tools

物を書く道具は極めて重要だ。

私は字を書くのが昔から大嫌いで、20年以上パソコンばかり使っているが、最近万年筆の素晴らしさに目覚めたおかげで字を書くのが億劫ではなくなった。

万年筆といっても、うんと良い万年筆でなくてはいけない。万年筆とは高速かつ綺麗に楽に書くためのハイテクな道具なのである。良い万年筆がこれほど素晴らしいものだとは最近使ってみるまでは知らなかった。

私は学生時代からノートなど一切とらなかったが、最近はノートを作るのが楽しみになったくらいだ。

私の言っている意味はペリカンのスーべラーンM800などを使えばわかるであろう。

万年筆とは単に伊達なアクセサリーの一つくらいだと思っていたが、それは大間違いだったのだ。



学生であっても、ペリカンのM800のような極上の万年筆を一本買えば、成績が上がることは間違いがないし、しいては、その後の人生を大きく変えることになるだろう。そう思えば、一生ものの万年筆に5万円の投資をするのは安すぎるくらいだ。残念ながら私は万年筆に出会うのが遅すぎた。(もっとも私はノートなんぞ一切つけなくても成績は悪くはなかったが、ペンで字を書くというのは成績の問題とは関係なく重要な行為なのである)



パソコンもキーボードが重要なのは言うまでもないが、最近は単体売りのキーボードでは良いのはあまりない。

HappyHackingKeyboardが良いとか言われているが、私はちっとも良いとは思わない。5万円くらいする高級タイプは確かに悪くはなさそうだが、コストパフォーマンスが悪すぎる。東プレが出している静電容量無接点方式の高級キーボードも悪くはないがやはり高いし、余計なテンキーがついていて幅をとり邪魔である。

キーボードのような重要なインターフェースがなぜあまり重視されていないのかが、よく分からない。

事実は単にデスクトップ市場が急激に縮小した結果だろう。ノートパソコンなどは結構よいキーボードがついていることがある。またセット売りのデスクトップにもかなり良いキーボードがついていることがある。セット売りだとコストを充分に取れるのだろう。
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2006年12月19日

Natural emerging privilege: Copyrights

Winny事件判決の問題点 開発者が負う「責任」とは by 白田秀彰氏

[http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0612/17/news002_3.html]

”社会のあり方や法律や制度について批判的に語ることは、政治的自由においてもっとも保障されなければならないことだ。法律や制度に対する言論表現の自由は、文句や不満があっても黙っていることの多い日本社会においては、積極的に奨励されていいくらいだと考えている。”



Winny裁判を考える なぜ「幇助」が認められたか by 小倉秀夫弁護士

[http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0612/19/news023.html]





Winny事件の判決が話題となっている。判旨を見ていないのでよくわからないが

上の2つの記事は参考になる。

白田氏の話は、上に引用した部分が真っ当な主張だ。

小倉弁護士の意見は、法理論に正確な実務的見解であり勉強になる。



著作権は、無方式主義で自然発生する形式をとるが、実はその著作物が著作権法上の著作物と認められるか否かは必ずしも自明ではない。

特にYOL事件のように見出しのようなショートセンテンスの著作物性となると、それが著作物か否かから判定されることになる。

”著作権法上の著作物”と、”著作権法上の著作物ではないもの”の2元構成をとっているから、どんなに長編の小説であっても、それは著作権法上の著作物とするには判断を司法が下さなければ(本来は)いけないはずだ。それを自明として、ショートカットしているのではなかろうか?



実はこの著作権発生の無方式主義とは、自明でない、よく分からないものだ。

このような無方式主義をとる「権利」には、特許法における”特許を受ける権利”がある。

そして何度もいうが、この「権利」とは英語でもrightsと書くものの、正確に言えば昔も今も特権(privilege)を意味する。

無方式主義で発生する権利といえば、あたかも自然な権利のように思われるが、無方式で発生する特権と正確に言うべきだ。(ちなみに、”自然な権利”と自然権とは全く違う概念。)

そして、この”無方式で発生する特権”が曲者だ。

著作権も”特許をうける権利”も疑ってかかるべき矛盾を孕む概念と考えられる。



著作権の場合、無方式主義で発生するとはいえ、著作権法上の著作物に該当するには一定の要件を満たしていなければならない。

第二条  この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。

一  著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。



このように、さらりと書いてあるが、意外とこの要件も複雑だ。

この構成要件に該当すると認定されるものだけが、著作権法上の著作物とされる。

そして、これを認定する権限があるのは、裁判所だけだ。

裁判所で認定される前は、全ての著作権者は自称著作権者なのだ。



またここで疑問になるのは、自称著作権者は、権利の行使主体になりえるのであろうかという点だ。

当然、自称であっても権利主体だとなっているのだが、私はその根拠には納得できない。

むしろ、多くの事件では著作権法上の著作物とする認定をしないで、著作権侵害判断をしているが、これはおかしいと見ているのだ。



もし、著作権法上の著作物と認定されて初めて著作権法上の権利が行使しうるとすれば、これは、無方式主義なる権利=特権付与の仕組みが元からおかしいことになろう。

つまり、実体的な権利は裁判所の認定の後に発生することになる。それなら無方式主義で著作権が自然発生するとする構成をとる必要がない。



また池田さんが言うような「コントロール権なしでキャッシュフロー権を確保する方法はいくらでもあるので、両者をアンバンドルするべき」といったアイデアも筋の悪い議論だ。つまり、”特定の手段から起こりそうな全ての影響をはっきりと考察する能力が、人間には一般にない”(ハイエク)からだ。

[http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/f15e12589f16263b4a505a559659f2d4]

むしろ、これら公法上の権利=特権を廃止し、全てを不法行為で、つまり私法の領域で判断すればよいのだ。(不法行為の領域をもっと拡大する必要はあるだろう。)

著作権法の問題を公法の問題として扱おうとすること自体が間違っている。

特許法や著作権法を廃止すべしといったリバタリアニズム的な主張は、これらを私法の領域に戻すべきだという主張が基本にあるのである。



#「全ての人に対する同一の規則の支配、あるいはラテン語で法に相当する本来の意味のlegesの支配であるーlegesは、つまりprivileges(=privilege)に対立する。(ハイエク)
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2006年12月11日

Common law and Civil law

コモンローと大陸法の違いとは、Law finding systemとman made ruleの違いと言いかえられるだろう。コモンローとは単なるルール体系ではなくLaw finding systemなのである。



アメリカの場合、州裁判所はコモンロー裁判所であるが、連邦法は憲法で立法できる範囲がかなり制限されてはいるものの日本と同じく制定法である。

特許法、著作権法、独禁法といった日本の経済法、産業政策法に相当する法律は連邦法に属する。連邦法で制定できるものは、特許、著作権法、独禁法、税法、外国政策・・などと非常に限定されていることが特徴だ。

そしてリバタリアニズム的には、この連邦法にあたる制定法の多くに対し批判的なスタンスをとる。

連邦法の制定法は極めて強力であるがゆえに違憲審査などによって厳しくチェックされてきたが、それでも余計な法律がどんどん出来てしまう

→アメリカのconstitution of libertyとは、この政府の立法権限をも大きく制限することが本質的なところだ。これがハイエクのいう憲法によって”制限された政府”(limited government)という意味である。

それに対し大陸法システムだと、立法が制限されることはない。むしろ何から何まで法律としてルールを作ることになる。

コモンローは、単なるルールではなくLaw finding systemであるから、逆にコモンローが照らさない部分はないと言われるのである。先進国アメリカのコモンローというのは、世界的に見ても最も古式ゆかしいコモンローシステムだ。

危惧すべきことは、アメリカがハーモナイゼーションやら条約やらを口実に、コモンロー優位のスタンスを崩すことである。実際、アメリカは今この方向にあるような印象がある。そうしようとする勢力はやはりリベラル左派勢力だろう。次期の民主党政権では、この方向にかなり大きく舵を取るような予感がする。



逆に大陸法のルールでは現実の変化に法律は追いつかない。全てをルール化しようとすることで、さらに雁字搦めの体系になっていく。

リバタリアン〜アナルコキャピタリズム的には、コモンローを超えて、decentralized law finding systemのようなものをイメージする。

ここらは、ハイエクの朋友であったイタリアの偉大な法学者Bruno Leoniの論文を読む必要がある。



"Freedom and Law" by Bruno Leoni

[http://oll.libertyfund.org/ToC/0124.php]



#特許法及び著作権法は連邦憲法1条8節8項において連邦議会がこれを制定する権限があることを認めている。

これはジェファーソンが悩んだ結果そうなったのであろう。

それに対し商標法は、憲法上の明文根拠がないが、一般規定の州際通商条項(1条8節3項)=commerse clauseを拡大的に適用している。そして1946年ランハム法によって連邦で登録が可能になった。
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PS3

PS3が発売されたが、案の定、品不足で手に入らない。来年になれば数が出てくるのであろうから、少し待たないといけない。

私はゲームをやりたいわけではないが、Linuxを載せてCellのスパコン性能を堪能してみたいものである。

どうこういって、PS3は相当売れると私は思う。PS2以上に売れる可能性さえ高いと見ている。

そもそも、これが売れないわけがないのである。

PS3用のVMができれば、万能のプラットフォームとなるだろう。

最近はパソコン性能が高くなってきたので、企業ではVMの上に古いWindowsNTやらを動かしていることが多い。ブレードサーバー+VMという構成は標準的になりつつある。PS3もそういう使い方がされるようになるだろう。

この先行き不透明な怪しげな不安感と、分けのわかってない人間達の悲観的な声が大きくなったときこそ株も買いどきなのだ。



前のポストでPS3は5年先のインテルマシンの性能だと書いたが、CPで考えればやはり8−9年先のインテルマシンの性能と言えるだろう。






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Conservatives

かつて天才物理学者シュレーディンガーは次のように言っていた。

「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく誰もが見ていることについて誰も考えたことの無いことを考えることだ。」

これは、日本の格言で言えば”温故知新”に近いかもしれない。

保守思想とはそういうものだろうが、別に保守主義とは別にしても、シュレーディンガーの言葉は真実に違いない。

例えばITのようなものを考える場合でも同様だろう。

誰もが見ていることについて誰も考えたことの無いことを考えることが本質的に重要なのだろう。


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Gloal Warming



[http://www.fee.org/in_brief/default.asp?id=966]

The freemarket literature is filled with reasons to lack confidence in government solutions to environmental problems. Those reasons include the perverse incentives and inadequate knowledge that pervade all political processes. Any bureaucratic program will be corrupted by power, privilege, and incompetence. So now is the time for us libertarians to direct our unique philosophy toward grappling with potential climate hazards in a manner consistent with freedom and the requirements for prosperity.
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2006年12月06日

The irony of wealth

ゲイツやバフェットが愛読する『富の福音』

2006年8月2日 水曜日 ロバート・シラー

[http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20060801/107267/]



 全米、恐らく世界でもナンバー1の富豪であるビル・ゲイツとナンバー2のウォーレン・バフェットは、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの有名なエッセイ『富の福音(The Gospel of Wealth)』(1889年)の愛読者だとよく言われる。



 米国の古典に数えられるこの論文でカーネギーは、莫大な富は慈善事業への寄付や人文科学への援助という形で有意義に使われると主張して、資本主義によって生じる富の集中を倫理的に正当化している。つまり、カーネギーの考えでは、莫大な個人資産は偉大な文明を育むのだ。




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シラー教授のコラムは興味深い。

この問題について少し考えてみる。結論から言えば、カーネギーもゲイツもバフェットも天才実業家だが、社会貢献の考え方は間違っているだろう。

実は、社会にとって最善のことは、大金持ちの彼らが守銭奴でケチであることが、最大の社会貢献であり富の還元になるのである。

ゲイツはもともと金には興味がなさそうなオタクだし、バフェットはほんとかどうか知らないが5セント硬貨が落ちていても拾うと言われる人だから、彼らの地のままであることが最善の社会貢献になる。



なぜなら、お金とは交換価値でしかないから、それを何かに使ってしまえば、他の人がその何かを手に入れられなくなるだけなのである。Scarcityはお金にではなく常にモノの方にある。

この論理は間違っているだろうか?
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Rich Dad and Rich University

10億ドルが180億ドルに

金融理論を覆すエール大学基金を率いる1人の男

2006年12月5日 火曜日 ロバート・シラー

[http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20061201/114718/]



 私の勤めている米エール大学は、大学基金の運用を20年以上にわたってある1人の男、デビッド・スウェンソンに任せてきた。この間、基金の資産規模はわずか10億ドル強から180億ドルにまで増えた。



 平均利回りは年率で16%を超えている。これは全米の主要大学基金の中で最も収益性が高いはずだ。その勢いは衰える気配はない。6月を終わりとする最新年度の利回りは、22.9%だった。



キヨサキによると、貧しいが学者肌の父親は、実社会で何かを成し遂げることについて悲観的な見方をしがちだったため、息子が何かに挑戦するときにやる気を削ぐようなことを言ったという。一方で友人の父親は、何か大きなことをやり遂げようとするのを楽しんでいた。キヨサキが金持ちだったのは単なる偶然だろうか?



 キヨサキは無理に刺激的な内容にした面があるかもしれない。しかし、ファイナンス理論を教える教授たちが市場の効率性と市場での取引で金儲けをする無益さについて見解を述べるのを聞くと、私はよくキヨサキのことを考える。多分、学者の多くは、自ら進んで実社会で成功を収めようとするのを難しいと感じるだろう。私はキヨサキの著書を読んだことがあると言う学者に会ったことがない。





スウェンソンは経済学博士号を持つインテリだ。周囲にいるのも学者ばかり。だがどういうわけか、彼はこの効率的市場の話を聞いても意気消沈することなく、資産運用で成功を収めている。



 ここにはある傾向が存在するように思われる。同じアイビーリーグの2校、ハーバード大学とプリンストン大学も資産運用でほぼ同様の成功を収めている。ジャック・マイヤーが管理するハーバード大基金は、過去10年で平均利回りが15.2%だった。



 スウェンソンは17.2%、アンドリュー・ゴールデンが管理するプリンストン大基金は15.6%だった。実は、ゴールデンは1988〜93年にエール大でスウェンソンの下で働いていた。



スウェンソンや彼のような人間が驚異的な成功を収めているのは、キヨサキが批判したような環境を反映しているということだ。問題は敗北主義者的態度であり、学識ではない。





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前にハーバードの資金運用効率が15%という驚異的パフォーマンスだと書いたがエール大やプリンストン大もすごい。



シラー教授がここで書いている指摘で面白いと思ったのは



1.私はキヨサキの著書を読んだことがあると言う学者に会ったことがない。

2.スウェンソンや彼のような人間が驚異的な成功を収めているのは、キヨサキが批判したような環境を反映しているということだ。問題は敗北主義者的態度であり、学識ではない。



シラー教授は、金持ち父さんのファンのようだが、敗北主義的態度とは何を意味しているのであろうか?

それは「ファイナンス理論における市場の効率性と市場での取引で金儲けをする無益さ」という理論を受け入れてしまう態度ともいえる。

つまり、理論を理解して現実が理論の通りだと思ってしまうのは、すでに現実がそうあって欲しいという”願望”を反映しているということなのかもしれない。

この願望こそが、敗北主義の根っこにあるということだと思う。

敗北主義とは、要するに試してみないで最初からダメだと諦める態度である。

学校が素直な人間達に敗北主義を教え込む場であるのは、東西を問わず変わらないのかもしれない。



ちなみに、Misesはそんなことは言わない。経済現象とはHumanActionだというのがその本質なのであるから。




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