2007年01月24日

Milton Friedman @ Rest

ミルトン フリードマンが亡くなる4ヶ月前のWSJによる最後のインタビュー。これはe-mailで行われた。

Milton Friedman @ Rest
January 22, 2007; Page A15
In July last year, the late Milton Friedman, Nobel laureate in economics in 1976, granted an interview to The Wall Street Journal. Today we publish material from a question-and-answer exchange he had by email

次に引用したのはインドと中国の比較に対する質問とその回答だが、フリードマンの回答はやはり納得いくものだ。

Q:Any thoughts on a China versus India comparison?

Friedman: Yes. Note the contrast. China has maintained political and human collectivism while gradually freeing the economic market. This has so far been very successful but is heading for a clash, since economic freedom and political collectivism are not compatible. India maintained political democracy while running a collectivist economy. It is now unwinding the latter, which will strengthen freedom of all kinds, so in that respect it is in a better position than China.

経済的自由と、政治的集産主義は両立しない。だから中国は今までのところ成功しているが、実はクラッシュに向かっているのだ。
中国を見るとき、この本質的な観点を忘れてはならないのであろう。

2007年01月24
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The road to Open Society

「人間的でありたいと願う以上、我々のとるべき道は唯一つ、開放社会(Open society)への道しかない。我々は未知、不確実、不安の社会へ行かなくてはならない。
安全と自由の両方を求めて計画を立てる、どんな理由を用いようとも」カールポパー

SOXやら内部統制やら情報セキュリティとは、不必要で無意味な確実さと安心を求めて国家統制によるClosed societyに驀進する道だ。



2007年01月24日
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2007年01月21日

Gapminder


Google ToolにGapminderという凄いのがある。
このサンプルをみると面白い。
http://tools.google.com/gapminder/

2007年01月21日
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2007年01月20日

Identity, Property and Incentives

2chが閉鎖されようとされまいと私にはどうでもいい。また仮に2chが閉鎖されてもあのような掲示板は名前を変えてしぶとく残るだろう。
名無し=No Identityの場というのは、ネットに特有の空間であって現実のリアルの世界には通常ない。
匿名と名無しでは意味が違う。
個人のproperty(rights)とIdentityとは切り離せないものであり、Identityのない人間にはpropertyもない。さらにpropertyがなければdisincentiveもない。
つまり失うべきpropertyが無いからdisincentiveがないのである。
#incentiveはプラスの誘引であり、disincentiveはマイナスの誘引。ちなみにマイナス誘引とは自分の行動によって損をする可能性のこと。そして2ch的アナーキーとは完全匿名性によりdisincentiveがない状態といえる。通常は悪意のある発言でも、善意から来る発言でも損をする可能性はあるが、名無しにはそれがないという意味でdisincentiveがない。だから発言が多く集まる。

Identiy→Property →Incentiveとは、リアルの世界の法の基本条件となる。propertyのない人間はIdentityを持った人格とはみなされない。逆も真なりでidentityがなければpropertyもない。例えばロスバードも言うようにanimal rightsは存在しない。動物にはIdentityがないからだ。

リバタリアニズムやアナルコキャピタリズムにおけるアナーキーとは、identityのある個人のproperty が保障されているが、政府による管理=controlが無い状態だ。
逆に個人にpropertyがあればcontrolがなくとも秩序=orderは生まれる。つまりリバタリアニズムにおけるanarchyとは個人のpropertyが保障されている無政府状態=no governmentだが、それは無秩序を意味しない。
個人に帰属する有形無形のpropertyがincentiveとdisincentiveの両方をコントロールすることで秩序を作るのだ。

一方No Identity→No properyは、リバタリアニズム的アナーキーとは全く違う。No propertyの場であるから、個人には参加することの積極的なincentiveもないが、一方でdisincentiveがない空間である。
これはまさに理想化された公共空間=public spaceに等しい。

おそらく2chという言語空間が日本でのみ成立したのは、2chにたいし管理人のひろゆきにも所有権がなく、(存在しない)ダミー会社にも所有権がないからだろう。どこにも2chを所有する主体がないことが、ここまで日本で2chが長続きした理由だろう。過渡的なネットスペースでその隙間現象として所有権のない”公共空間”ができたということだ。
2ch的なpublic spaceとは政府と同様の公共物的な存在だ。

そして2chが誰に帰属するかという所有権が明確になれば2chは存続し得なくなる。
世界において日本だけで2chのような掲示板があるというのは、法的条件と切り離せないと思われる。
公共空間の代表である公立の公園は、荒廃して犯罪の温床となっていることは象徴的だ。

2007年01月20日
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2007年01月16日

Wikipedia ,Jimbo wales and libertarianism


WIKIPEDIAの設立者のジミーウェールズはリバタリアンらしい。
以下のWIKIQUOTEのインタビューによると、アインランドが好きなようだ。
ところで日本版のWIKIPEDIAのレベルが英語版に比べて低いのは今のところ事実だが、問題は今後どうなるかだ。アメリカのWIKIPEDIAには相当な書き手が集まっているが、これは英語版のWIKIの利用層は英語で書かれているがゆえにほぼ全世界であり、その利用価値が高いからだろう。
この全世界の人間から参照される百科事典というのが書き手に対する大きなインセンティブとなっているはずだ。
英語版が自生的な秩序を実現しているかのように見えるのは、そこに書き手側の競争があるからだ。日本のWIKIには競争がまだ生まれていない状況だろう。だが、これは到達スピードの問題に過ぎないかもしれない。今のレベルが低くてもそこにインセンティブが生まれれば競争が発生し、中身のレベルがゆっくりとでも向上していくことになる。内容向上が先かアクセスアップが先かというのは大した問題ではなく、日本版WIKIへのアクセス数が増えていけばインセンティブが大きくなる。
2chに書く人間にも大勢から読まれるという同様のインセンティブがあるのだろう。

http://en.wikiquote.org/wiki/Jimmy_Wales

LAMB: Another thing I read about you is that you are a follower or have been at some point a follower of Ayn Rand?
WALES: That's right, yes.
LAMB: Who was she and do you still follow her and what is it about it that you like?
WALES: Yes. So Ayn Rand is the ? she wrote Atlas Shrugged and The Fountainhead, as is viewed by many as, you know, something of the founder of the libertarian strain of thought in the U.S. She would have rejected quite rightly, I think, the libertarian label. But I think for me one of the core things that is very applicable to my life today is the virtue of independence ? is the vision, you know, if you know the idea of Howard Roark who is the architect in The Fountainhead who has a vision for what he wants to accomplish and, you know, there's some time in the book when he is frustrated in his career because people don't want to build the type of buildings he wants to build. And he's given a choice, a difficult choice, to compromise his integrity or to essentially go out of business. And he has to go and take a job working in a quarry. And for me that model has a lot of ? a lot of resonance for me. You know when I think about what I'm doing ? what I'm doing and the way I'm doing it is more important to me than any amount of money or anything like that because it's my artistic work.
LAMB: What year did you read Atlas Shrugged or Fountainhead?
WALES: I guess I was around 20 when I ? when I read The Fountainhead.
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2007年01月14日

構造改革の真実


先日、竹中平蔵元大臣(現慶応大学教授)の話を聞く機会があった。
人の講演を聞いて感心したことなど今までないが、竹中氏の話には非常に感銘を受けた。既に堂々たる政治家の演説といえるもので、構造改革の重責を担った人間としての迫力があり、やはり傑出した人物のそれであった。
竹中氏は50歳で金融担当大臣に抜擢され5年半の改革を第一線で指揮した人物であるから、もともと只者ではない人物だったのであろうが、大事をなした人間の達成感も感じられた。

そこで、竹中氏の講演の元にあるらしい、最近出版された「構造改革の真実 竹中平蔵大臣日誌」という本を買って読んだ。既に版元にも在庫なしということだったが、新宿の紀伊国屋でようやく見つけた。この本は、小泉内閣が実際に何をしたのかという第一線の当事者の記録として極めて重要な第1級の資料となろう。

いかれた日本の白痴マスコミは相手が何を言っているのかも全くわからず、さらに自分が言っていることの意味さえもわからず、小泉ー竹中のバッシングに明け暮れていた。ある意味で小泉改革が成功した現在では、この本を敢えて無視しているのだろう。

しかし、既得権益層代表であるマスコミがあれだけ反小泉キャンペーンをあおり続けていたにも関わらず、結果的に小泉ー竹中が国民の支持を集めつづけたというのは、日本のマスコミが、いかに社会一般の利益から遊離した死に体の社会的蛆虫かという事実をあらわしている。

マスコミの連中の殆どは右も左もわからない馬鹿の集まりで、単に学校時代に日教組に教えこまられた平等思想をファナティックに人道主義と勘違いしているだけの法律も経済学もなにも知らない単純かつ危険なゴロツキの集まりだ。こういった救いがたいごく一部のマスコミゴロ連中が全国紙、全国放送TVといった巨大拡声器で無責任な法螺を吹きまくっているのだ。これは犯罪に等しい。
ホリエモンが陥れられたのも、マスコミという社会主義セクトに対し、無防備にちょっかいを出したのが原因であることは間違いない。

日本のマスコミは暴力的な社会主義者団体のようなもので、その存在自体が電波法、再販制度などの規制によってどっぷりと守られている。まずはこの蛆虫マスコミを退治するべく、マスコミ関連の既得権益である規制を撤廃することで今の利権圧力団体の一部に過ぎないマスコミを構造改革することの優先順位は高いと思う。
利権=特権を与える法規制がなくなれば今のような有害な大マスコミは消滅し、アメリカのように小さいメディアが沢山生まれることになる。それはマスコミの錦の御旗である言論の自由にとっても、その状況の方が望ましいのは明らかだ。当然ながらマスコミには”世論誘導する特権”など与えられてはいない。

ところで私自身、小泉ー竹中が実際に何をやったかという具体的な内容は殆ど知らなかった。不良債権処理に対する竹中プランと呼ばれた6原則も、郵貯民営化における5原則もその内容には関心がなかった。それらは非常に短い文章でかかれている。私は現実の政治そのものにはあまり関心がないということもあるが、どうせ大したことはないだろうと高をくくっていた。構造改革の方向は正しいと思っていたが、どうせ中途半端なものに過ぎないだろうと考えていた。だが、実際はそうでもなかったということがこれを読んで分かった。
今までの日本の”政治家の政治家による政治家のための政治”、もしくは”役人の役人による役人のための行政”という腐敗を確かに壊そうとする闘争だった。
この意義を矮小化してはならない。
この日本で確かに小泉内閣の誕生は奇跡だったとも思われる。

竹中氏の銀行救済はsystemic riskを回避するためのものであったが、これは政策的にはややグレーに思う。全ての銀行を救済する必要があったのかは疑問だ。しかし、規制や法律で雁字搦めになった現状では竹中氏のsystemic risk回避政策は理想的なものではなくともBetterな判断だったのかもしれない。
そもそも政策実行において実際の敵となるのは、民間の銀行ではなく金融庁などの行政官僚たちだからだ。ここはアメリカとかなり違うところだろう。アメリカの行政権力と日本の行政権力では日本の方がはるかに強力だろうから、日本の行政改革は一層に困難だ。

実際に竹中プランのおかげで、systemic riskは回避され、マスコミもマスコミにでてくる有識者と呼ばれるでしゃばりの恥知らず共も今は銀行危機について何も騒がなくなった。政策目的であったsystemic riskを回避したのは竹中氏の手腕であることは間違いない。
人間組織には慣性力というのがあり、政府組織のような巨大組織になればその慣性質量も巨大である。最後に書かれた「政策においても、手順と時間を念頭においた戦略的な提言を行わなければならない。またそれを評価するにあたっても、プロセスを十分熟知した上での評価が必要なのである。」というのは至言である。

権力というものは、会社組織であれ政府であれ、トップに対し自分の所有物ではない所有権のおよばない領域に対し、限定されてはいるが委任による大きい権限を与える。企業であればその所有権は株主による共同所有の形態であるから所有権は明確だ。しかし政府となると所有権のない公共物=public goodsの領域である。総理に対し与えられる委任権限は当然、所有権ほどには絶対的ではないが、かなり大きな私的権利といえる。これを総理に委任によって与える仕組みである。もしそれが完全な共有地であれば誰にも何もできないが、権力者に対し所有権に近い裁量的な決定権を付与するのである。小泉総理は日本の総理の中でははじめてこの権利を行使した人間といえるかもしれない。
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2007年01月07日

WIKIPEDIA and HAYEK


CNETの記事でキャス・サンスティーンが、ハイエクとBLOGについて書いた文章がある。
ウィキペディア設立者Jimmy "Jimbo" Walesも、これにコメントを寄せ、”ハイエクを理解せずに、Wikipediaに対するわたしの考えを理解することは不可能だ”と書いている。
だが、USAのWIKIは成功しているが、日本のWIKIはどうもだめだ。この違いはなぜなのか?
ハイエクが日本では全く知られていないのが原因なのか?

       ====
http://blog.japan.cnet.com/lessig/archives/002211.html#more
しかしこれではどうにも抽象的だから、すこし焦点を絞ってみよう。20世紀のもっとも重要な議論のひとつはハイエクの価格システムの概念を巡るものだ。すなわちハイエクは、いかなる「価格」も情報と多くの人々の嗜好を捉えたものであり、その精度は最善の識者たちによる判定をも凌ぐと主張した。よって価格はどのような中央計画者よりもはるかに優れた働きをする。ここで問題:この価格システムとwiki、オープンソースソフトウェア、さらにはブロゴスフィアのあいだのアナロジーはどこまで有効だろうか。類似が破れるのはどこか? 具体的には、wikiとBlog圏が分散情報を集約する仕組みとして有効でなくなるのはどのような場合か?

[Cass R. Sunstein (キャス・サンスティーン)はシカゴ大学ロースクール教授。]

(ウィキペディア設立者Jimmy "Jimbo" Walesはこのエントリへのコメントで、"Wikipediaプロジェクトに関する自分の考えはハイエクの価格理論が中心になっている"と述べている。「(...) ハイエクを理解せずにWikipediaを理解することも不可能ではないかもしれない。Wikipediaに対するわたし自身の理解が間違っているかも知れないから。しかしハイエクを理解せずに、Wikipediaに対するわたしの考えを理解することは不可能だ。」)

http://blog.japan.cnet.com/lessig/archives/002221.html

ハイエクの大きな主張は、価格システムは広く分散した情報や好みを集約するというものだった。ハイエクはこれを「驚異」と呼んでいる。これまで情報を集約するその他の仕組みについて触れてきたが、Wikipediaから話を進めることは有益だろう。Jimbo Walesがコメントでハイエクに言及したというだけでも。

Wikipediaはまさに分散情報の集約をおこなっている――それも驚くほどに。広い意味で、これは間違いなくハイエク的プロセスだ。だがWikipediaと価格システムには少なくとも二つの違いがある。まず、Wikipediaは経済的インセンティブに基づいていない。人々は品物や金銭のために参加するのではないし、取引もない。次に、Wikipediaは基本的に「後手必勝」のルールで動いている。最後の編集者、すなわち一人の人間が大きな力を持つ。ところが価格システムでは、最後の購入者は普通大きな影響力を持つことはできない(もしあなたがラリーの著書をそれぞれ一万部ずつ買ったとしても、本の価格を変えることにはならないだろう)。つまりWikipediaは、分散した情報を独特の、比較的信頼性の低い方法で集約する点で価格システムと異なる。

ただし書きが二つ。1) いずれにしろWikipediaは機能する。すくなくともほとんどの部分では。 2) 価格システムも、ときに野火のように拡がる誤情報が暴騰・暴落を招くという意味では常に機能するとは言えない(だから行動経済学者が示したように、ハイエクはあまりに楽天的すぎたといえる)。

この議論が見落としているものが何かあるだろうか?
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Great people


池田さんのBLOGを読んで知ったのだがイースタリーの批判に、サックスがまともに反論している。http://www.earthinstitute.columbia.edu/news/2006/story11-27-06b.php
これを読むとサックスの考えがストレートに述べられている。
「I do not believe in pure laissez faire, however. Nor do I believe that an antipathy to foreign aid is correct at a time when millions of children are dying each year as a result of extreme poverty unattended by practical help from the rich countries. 」

サックス個人が何をどう考えていても勝手であるが、困ったことは、サックスが実際に国連組織を動かして莫大な税金を使う権力をもった宮廷知識人だということだ。
サックスの考えを改めさせることは、サックスのプロジェクトが惨憺たる結果に終わった後ですら不可能だろう。いくらでも言い訳が可能だからだ。経済統計を使ったmuddlingな議論の淵に沈んでいくだけであろうことは目に見えている。

サックスのハイエクに対する反証は、まさに課税率の高い北欧諸国における経済成長率の高さであり豊かさである。このような反証には、真っ向から反論をする必要がある。
つまりハイエクの議論が正しいとするには、サックスの提出した反証が反証になっていないことを証明する必要がある。
これは、イースタリーが真っ向から答えなければならない宿題だ。
この議論は、短くて分かりやすいので続きが楽しみだ。

あとフーコーがコレージュドフランスで行った講義(1978-79)Naissance de la biopolitiqueというのがあるらしい。
この時期はハイエクのLLLもまだ出ていない時であるが、いずれにせよフーコーも気にはなっていたということなのであろう。
#しかしミッシェル フーコーと東大総長だった蓮実重彦と、どちらの方が偉大な哲学者なのかを分かる人間はこの日本にはいないだろう。

ちなみにポパーの「偉大なる人々への服従の習慣を打ち破らなければならない」という言葉で、”偉大なる人々”というのは、プラトンでありヘーゲル、マルクスなどを指している。
この大陸的な”哲学”に対して、哲学者としてそれを打ち破ろうとしたのがポパーである。ポパーが批判したのは歴史的経路依存性をもつ”偉大なる”大陸法ー大陸の哲学だったといえるのだろう。
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2007年01月04日

The ethics of liberty

この正月に、マレー ロスバードの「自由の倫理学」を再読した。
ロスバードのこの本は、森村進氏による優れた翻訳だ。
ロスバードの本は、このThe ethics of libertyの他に「Man,Economy,and State」、「For a new liberty」が有名であるが英語の原書はPDFでNETから全部手に入る。しかし是非、森村氏にはこちらも翻訳していただきたいものである。どちらもかなりの大著であり、私は今まで部分的に拾い読みをしたくらいだが今年はこれらを一通り完全読破してみようかと思う。

この「自由の倫理学」は、リバタリアンの、もしくは自由のPrivate Propertyに基づく基礎理論を打ち立てようとする野心的な試みの本だ。現在のオーストリアンリバタリアンは、ミーゼスとこのマレーロスバードをグルとするリバタリアン達なので、ロスバードの本はミーゼス同様に極めて重要だ。ロスバードのラディカルな考察は現代のリバタリアニズムのすでに前提となっているもので、ハイエクやフリードマンのような保守的な比較的漸進的なリバタリアニズムとは一線を画している。
実際、オーストリアンはハイエクやフリードマンの態度をしばしば攻撃する。
ロスバードが引用するアクトン卿の「自由主義は現状にかかわらず、あるべきことを欲する」 “Liberalism wishes for what ought to be, irrespective of what is.”という言葉は、この本の基調にある自由のラディカリズムのあり方を宣言しているものだ。

1部では、自然法から説き起こし、古典的自然法を政治的個人主義に基礎を置く理論へ変えたジョンロックの自然権理論を基礎として、ロスバードの自由のprivate property原理を展開する。
ロスバードによると「リバタリアンな自然権論は、ロック以降も拡大と純化を続け、19世紀のライサンダ―スプーナーとハーバートスペンサーの著作において頂点に達した。」
そして、20世紀のロスバードがこの本の中で自然権の理論つまりprivate propertyの理論を完成させようとしたのだ。

この本の第2部(自由の理論)はリバタリアンの原理(=principle of self-ownership)に基づく、私法の法理に対する再理論づけともいえる。少なくとも民法くらいは一通り知らないと、この辺りの論理の面白さはなかなか理解できないだろうが、私的財産権を原理として私法、刑法の原理を再構築しようとする試みは迫力がある。

「権利」をハイエク同様に消極的概念と位置付け、さらに権利の概念は財産権としてしか意味をなさないことを論証する。いわゆる憲法上の権利として金科玉条のごとくに言われる「言論の自由」も「知る権利」も、Positive rightsとしては存在しない。あるのは自分のものを自分で自由に処分する権利であり、あるいは他人と自由に契約を結ぶという意味での”財産権”だけだとする。当然、プライバシー権というPositive rightsも存在せず、財産権のみがあり、その財産権への侵害にいたる行為に対してのみプライバシー侵害に対してアクションが可能なのだ。

コモンローも多くの点で反リバタリアン的な欠陥があるとするが、たしかに今のTortsなどを見るとおかしな点が多い。一度原理に戻って再構築する試みは必要だろう。民法というのは歴史的な構築物である反面、アドホックなところがあり、特に財産権原理が不完全だということだ。
かつてミルトンフリードマンは、ロスバードを寛容性に欠けると言っていた。決してファナティックではないが、意識的に論理的にまた理性的にradicalであろうとしているのであろう。ロスバードが基礎付けしようとした原理はすでにリバタリアニズムの原理となっている。

#1920年代の禁酒法の擁護として、飲酒は犯罪を犯す確率を高めるから禁酒は人身と財産を守る防衛的行為だという議論があった。
ロスバードは、「一度、人身と財産に対する曖昧で将来の、明白で差し迫っていない驚異を持ち込むと、それはあらゆる種類の専制の言い訳となる」とし、そして、そのような独裁政治に対する唯一の防衛策は”認知される侵害の基準を明白で差し迫った公然たるものとして維持すること”にあるとする。昨今の”健康法”という名の禁煙法、反アルコールの動きは国連指令から来ているが、これが自由を破壊する専制に結びつくことはいうまでもない。なぜ、そんなことも今の人間は分からないのか。
ロスバードは、リバタリアニズムの将来に楽観的だと書いているが、私はまだまだ道は険しいと感じる。
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Rothbard and Hayek

Rothbard and Hayek: A Personal Memory
by Ronald Hamowy
[http://www.lewrockwell.com/orig4/hamowy1.html]

Ronald Hamowy
[http://www.cato.org/people/hamowy.html]


ロナルド ハモウィの書いたハイエクとロスバードの思い出という講演文章。
これを読むとロスバードには、NYの60年代文化のにおいがするがハイエクはドイツーオーストリアの謹厳な学者というイメージがする。

ハモウィは、学生の頃からロスバードやハイエクなどから個人的に薫陶を得た人だ。
しかし、後にハモウィはハイエクの"Constitution of liberty"におけるハイエクの強制概念に関して批判し、ハイエクと論争をしている。
その議論の内容は、ロスバードの”自由の倫理学”で取り上げられている。
ハモウィの議論はロスバード仕込みのケーススタディ検証による反証論法かもしれない。

このロスバードの本が最初に出版されたのが1982年で、ハイエクの"Law Legislation and Liberty"が出た年と同じだ。
ハイエクは、"Constitution of liberty"と"Law Legislation and Liberty"が出版されるまでの間に、よりリバタリアン的にRadicalになったようだ。
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2007年01月03日

Third World and MPS

The Mont Pelerin Society, Milton Friedman, and the World

Monday, November 20, 2006 By David Friedman

[http://daviddfriedman.blogspot.com/]



I spent most of a week recently in Guatamala at a meeting of the Mont Pelerin Society, an organization created by Friedrich Hayek after the Second World War. At the time it was created, supporters of free markets were rare, especially in the academic world. One reason to create the Society was to give people with classical liberal views the opportunity to spend at least a few days a year with other people who did not regard their beliefs as obvious nonsense, fit only for the wastebasket of history.



Some decades later, a number of people associated with the Society, including my father, suggested that perhaps it was time to dissolve it. Views that had been regarded as obviously obsolete in the late forties had become, if not always accepted, at least widely known and widely viewed as serious contenders in the marketplace of ideas. It was no longer necessary to go to some far corner of the world to find colleagues who shared a generally promarket viewpoint; with luck there were at least one or two down the corridor.



The argument that ultimately persuaded him and others that the Mont Pelerin Society ought to be continued was that, although libertarian views were now widespread and respected in the U.S., the situation was very different elsewhere. Especially in the Third World countries of Asia, Africa and Latin America, and to a significant degree even in Europe, believers in free markets still found themselves in the situation that Hayek and others had faced when the Society was founded, isolated in a sea of left wing orthodoxy. For them, at least, the Society could continue to serve its original purpose.



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Hayekが1947年に設立したモンペルランソサエティ(=MPS)にDavid Friedmanも加入したらしい。

第三世界では、未だに自由市場の考え方を知らないために、社会主義的な

政権が支配し、貧困と不正を悪化させている。

モンペルランソサエティ(MPS)の役割はまだ終わっていないということだ。



MPSは具体的には、どのような活動をしているのかといえば、”One reason to create the Society was to give people with classical liberal views the opportunity to spend at least a few days a year with other people who did not regard their beliefs as obvious nonsense”

つまり、第三世界の自分の(社会主義的)信条をナンセンスだと思っていない人たちと年に数日会話する機会をもってクラシカルリベラルの知見を与えるといったことらしい。



日本も自由市場に対する理解は、殆ど第三世界の人間と変わらない。

ドラッカーは「ネクストソサエティ」の中で日本に関してこう言っていた。

「今日の日本は、本質的にヨーロッパ的な国である。もっと悪いことには19世紀のヨーロッパの国である。だからいま麻痺状態にある。」

未だに日本ではsupporters of free markets were rare, especially in the academic worldの状態だ。



MPSのこういった活動は決して影響の小さいものではないだろう。

ジェフ サックスのような国連組織を動かした大規模な援助合戦は有害なだけだが、MPSのような第三世界の知的指導者たちに対する”教育”の方が遥かに効果のあるものだろうし、実際にMPSはそのような機能を歴史上、果たしてきた。

またMPSから派生したIEAのようなシンクタンクもいくつかある。
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2007年01月01日

White-Collar Exemption

ホワイトカラーイグゼンプションという法案が話題になっている。

これはホワイトカラーへの残業規制などを免除しようとする案で、労働ビッグバンを標榜する法律の一つだ。大体において反対意見が多いようだが、なかなかにこの法案の影響を予測するのは複雑のように思う。



推進派の八代尚宏氏の配偶者控除に関する話↓

[http://smartwoman.nikkei.co.jp/culture/news/article.aspx?id=20020101c1001c1&page=1]



経団連の提言書

[http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2005/042.html]



反対派の意見(おまけ)↓

[http://promotion.yahoo.co.jp/charger/200701/contents08/theme08_02.php]



あとWIKIのホワイトカラーエグゼンプションの記事辺りを読むと労働ビッグバンの概要がわかる。

そもそも今の日本の労働法はアメリカの労働法であるNLRA(National Labor Relations Acts)が原型になっている。この元の法律がワグナー法(1935)であり、その後ルーズベルトのニューディール政策からNLRAが制定された。



こういった碌でもない法律を廃止するのは原則正しいだろう。しかし個々の法律が碌でもないものであっても、複数の碌でもない法律がある種のバランスを形成している場合があるから、その一部分だけを廃止した場合のマイナスの影響は予測しにくい。例えば、医薬分野における特許法と薬事法の関係で、薬事法を残した状態で特許法だけ廃止すれば薬事法の矛盾が噴出する。

であるから、労働法に絡む法律を全廃せずにその一部をいじるとよけい悪くなる可能性もある。労働法は多くの法律と絡むだろうから、改正の影響は非常に複雑だ。私はこの辺りの法律はよく知らないので、これが労働の自由化に結びつくものかどうかも計りかねるところだ。



日本の産業の利益率がどんどん低くなる中で、人件費削減で利益率を上げる努力はせこいし、また産業の利益構造を向上させる点では本質的でない。人件費の削減程度では利益率4%の会社が10%になることはまずない。単純に人件費を削減すれば売上も利益も低下するからだ。

つまり生産性の低いホワイトカラーの労働生産性を高めるには、単純に賃金を引き下げればよいが、そうするとホワイトカラーは従来と同じ仕事をするのではなくOUTPUTを下げる。

この日本産業の利益率の低下が従来の製造業中心の高度成長期の産業構造からの脱却をあえて避けた失われた15年間の結果だというのは池田さんが指摘するとおりだろう。

そして産業構造の転換とはいいかえればKirznerが言う”Allocation”の問題である。

産業構造転換にはいろんな要素があるが、結果的には人間が新たにallocationされることを意味する。



 技術者が終身雇用に守られると、その結果として技術そのものの囲い込みが起こり、技術の標準化は沈滞する。逆に技術者の流動性が増すと、その結果として技術の標準化が進む。

今までは日本は前者で、USAは後者の道を辿った。後者はオープン戦略である。前者は属人的な専門技術の道だ。一長一短はあるが、技術の標準化がないと技術者の流動化も難しい。そして商品は流通しないかぎり正確な値段がつかない。労働者の値段=賃金も同じだ。



しかしallocationを行うために、まず労働法を改正して人間の流動性を高めるべきというのは飛躍がある。問題はその順序だ。本来は潰れてしかるべき低利益率の産業が税金補助によって政策的に存続される一方で、人材の流動性を高める施策を行っても、高い能力を持っている頭脳労働者の行き場は限定される。

例えばGoogleは90年代の花形であった情報学科の学生がITバブルの破裂で行き場がなかったところを一手に引き受けたといわれる。これはGoogleにとってもIT技術者にとっても幸運なことだった。しかし、どんなに高い能力をもっていても適切な受け皿がなければコンビニでバイトでもするかということになる。これでは社会的損失にしかならない。



人材の流動化は必要だし、これを阻害する法律があってはならないというのは原則は正しい。

しかし、まずは公務員の流動化を促進する法律を作るべきだ。まずは公務員の人材活用から始めるべきだ。そしてつまらない仕事しかない?日本の産業構造の貧しさを元公務員が肌で感じる必要があるだろう。
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