本日、数時間かけてBLOGの引越しを行った。
SeesaaというBLOGは先ほど初めて知ったが、以前のに比べると随分良いのが分かる。
#Newshandlerというのは、管理者が管理していないので、もはや幽霊船のようなBlogサイトであった。
今までおっくうで、なかなか引越ししなかったが、やってみればあっさり簡単でそれほど手間もなかった。
4月になってBlogをはじめいろいろと心機一転で新しく始めようと思う。
2007年03月30日
2007年03月25日
David Friedman on Global Warming
David Friedman(=DF)がBLOGでGlobal Warmingの問題をこのところずっと取り上げている。
[http://daviddfriedman.blogspot.com/]
さすがに、的確な意見である。
まず、DFは、いわゆる地球温暖化があるかもしれないことを否定はしていない。
問題は、温暖化そのものではなく温暖化によるその影響や効果だが、DFはcatastrophicなものではないと考えている。それは、IPCCの予想を受け入れてもそれほどCatastrophicなものではないのと、IPCCの予想よりひどいと想定してもやはりCatastrophicにはならないと考えるわけだ。
さらに、炭素税のようなピグー税方式の導入を唱えるアイデアにも否定的である。これは、Greg Mankiwのアイデアで、炭素税を導入しながら、これを他の税の減税と同時にやることでトータルで増税することなく排出量を制限できるという主張である。
[http://gregmankiw.blogspot.com/2006/12/
pigovian-questions.html]
これに対し、DFは、ある税を導入して,もう一方の税を減らすことは現実的に実行されないだろうとする極めて現実的な意見だ。戦時に導入された緊急的な税であっても、終戦後廃止されることはない。日本でも戦中戦後立法が廃止されたことはあまりない。
”Furthermore, I think it unlikely that income from carbon taxes would be used to reduce other taxes. The clear evidence here is the repeated pattern with regard to wars. New taxes are introduced as an emergency measure for a war, retained long after the war is over; there is always some politically profitable way to spend the money. In the case of carbon taxes, I am confident that they would be used as an additional source of revenue, perhaps with the argument that the money was needed to ameliorate the effects of whatever global warming continued to occur.”
おそらく、DFによる地球温暖化の議論はまだ続くだろう。
真実が誰にも分からない極めて中途半端に科学的な議論に関しては、DFのような超一流の経済学者の役割は大きい。
また経済学者であっても、DFのようなリバタリアン経済学者でないと、すぐに政府の役割を強化しようとする職業上の利権がらみの習性で意見するから使い物にならない。
現在、地球温暖化の世界規模のマスヒステリーに対して正しい言論を張っているのは、リバタリアンだけだ。
科学と政治的思惑に対して、中立で、かつある意味、超越的な議論をできるのは経済学者しかいないだろう。科学者の言う事実は、経済学的に見れば幼稚な誤解が多すぎるし、政治的な意見に対しては経済学的な事実の提示が必要だ。
この問題は、当然ながらものすごく重要だ。温暖化に対応することが重要なのではなく、現在世界的にはびこっている地球温暖化に対するデマとヒステリックな立法措置といったtragedy comedyに対して、学問がいかに理性を用いて、その誤謬を訂正させることができるのかという試金石となるという意味で重要だ。
地球温暖化のようなデマに対して、政府が間違った税金コストをかけることは、子々孫々にわたって取り返しのつかない損失になるのは確実だからだ。
また地球温暖化に対する議論は、その経済学者の能力の試金石となることは間違いない。私の知る限りでは、WEB上にある議論としてはDavid Friedmannの議論がやはり傑出している。
2007年03月25日
[http://daviddfriedman.blogspot.com/]
さすがに、的確な意見である。
まず、DFは、いわゆる地球温暖化があるかもしれないことを否定はしていない。
問題は、温暖化そのものではなく温暖化によるその影響や効果だが、DFはcatastrophicなものではないと考えている。それは、IPCCの予想を受け入れてもそれほどCatastrophicなものではないのと、IPCCの予想よりひどいと想定してもやはりCatastrophicにはならないと考えるわけだ。
さらに、炭素税のようなピグー税方式の導入を唱えるアイデアにも否定的である。これは、Greg Mankiwのアイデアで、炭素税を導入しながら、これを他の税の減税と同時にやることでトータルで増税することなく排出量を制限できるという主張である。
[http://gregmankiw.blogspot.com/2006/12/
pigovian-questions.html]
これに対し、DFは、ある税を導入して,もう一方の税を減らすことは現実的に実行されないだろうとする極めて現実的な意見だ。戦時に導入された緊急的な税であっても、終戦後廃止されることはない。日本でも戦中戦後立法が廃止されたことはあまりない。
”Furthermore, I think it unlikely that income from carbon taxes would be used to reduce other taxes. The clear evidence here is the repeated pattern with regard to wars. New taxes are introduced as an emergency measure for a war, retained long after the war is over; there is always some politically profitable way to spend the money. In the case of carbon taxes, I am confident that they would be used as an additional source of revenue, perhaps with the argument that the money was needed to ameliorate the effects of whatever global warming continued to occur.”
おそらく、DFによる地球温暖化の議論はまだ続くだろう。
真実が誰にも分からない極めて中途半端に科学的な議論に関しては、DFのような超一流の経済学者の役割は大きい。
また経済学者であっても、DFのようなリバタリアン経済学者でないと、すぐに政府の役割を強化しようとする職業上の利権がらみの習性で意見するから使い物にならない。
現在、地球温暖化の世界規模のマスヒステリーに対して正しい言論を張っているのは、リバタリアンだけだ。
科学と政治的思惑に対して、中立で、かつある意味、超越的な議論をできるのは経済学者しかいないだろう。科学者の言う事実は、経済学的に見れば幼稚な誤解が多すぎるし、政治的な意見に対しては経済学的な事実の提示が必要だ。
この問題は、当然ながらものすごく重要だ。温暖化に対応することが重要なのではなく、現在世界的にはびこっている地球温暖化に対するデマとヒステリックな立法措置といったtragedy comedyに対して、学問がいかに理性を用いて、その誤謬を訂正させることができるのかという試金石となるという意味で重要だ。
地球温暖化のようなデマに対して、政府が間違った税金コストをかけることは、子々孫々にわたって取り返しのつかない損失になるのは確実だからだ。
また地球温暖化に対する議論は、その経済学者の能力の試金石となることは間違いない。私の知る限りでは、WEB上にある議論としてはDavid Friedmannの議論がやはり傑出している。
2007年03月25日
2007年03月21日
Rich Dad and Libertarianism
ロバート キヨサキの書いた金持ち父さんシリーズは、ある意味で史上、最も成功したリバタリアンの本と呼べるかもしれない。
もちろん、キヨサキは、意識的にリバタリアンではないし、そういった政治哲学などにあまり関心はないだろう。しかし、そのような人間が書いた本にリバタリアン的なエッセンスが入っている。
私は、金持ち父さんシリーズは、最初読んで目からウロコみたいな感じをもち、2度目には胡散臭く思い、3度めにはリバタリアン的な主張を理解することができた。
これを詳しく書くと結構面倒だが、ESBIのクアドラント分類は、まさに社会のハイアラーキーをこれ以上ないほどに的確にあらわしているし、その社会理解の深さはマルクスなんぞより、はるか上を行っているだろう。
2007年03月21日
Freedom and Liability
自由と聞くと、すぐに一方で責任がどうのこうのと訳知り顔につまらないことを言い出す輩がいる。だが、これは間違いだ。自由と責任は全く何の関係もないし、両者はお互い独立している概念である。
こんな”自明”なことを何故書くのかというと、自明だと思っていない人間が多いからだ。そして、自由の概念の対として、反射的に責任という言葉が出てくる背景には、根深い問題があることに気づいた。
つまり、多くの人は、自由を積極的な概念(Positive rights)として無意識のうちに認識している。これは教育なり社会的空気がもたらした結果だろう。つまり、自由とはお上から与えられる特権だという日本の”事実”を反映している。そして特権には、代償が要求される。
その自由という特権に対応して責任という”代償”が自然と出てくるのだ。
だが、自由とは特権ではない。自由権といった言葉も本質的に間違っている。自由とはいわゆる権利ですらない。
自由とは「強制などの制約がないこと」であり、このようなハイエク流に強制(coertion)がない状態として、消極的に捉えることがその本質である。
2007年03月21日
こんな”自明”なことを何故書くのかというと、自明だと思っていない人間が多いからだ。そして、自由の概念の対として、反射的に責任という言葉が出てくる背景には、根深い問題があることに気づいた。
つまり、多くの人は、自由を積極的な概念(Positive rights)として無意識のうちに認識している。これは教育なり社会的空気がもたらした結果だろう。つまり、自由とはお上から与えられる特権だという日本の”事実”を反映している。そして特権には、代償が要求される。
その自由という特権に対応して責任という”代償”が自然と出てくるのだ。
だが、自由とは特権ではない。自由権といった言葉も本質的に間違っている。自由とはいわゆる権利ですらない。
自由とは「強制などの制約がないこと」であり、このようなハイエク流に強制(coertion)がない状態として、消極的に捉えることがその本質である。
2007年03月21日
Criminal Code
昨今、知的財産法や不正競争防止法などで、大幅な刑罰の強化が進んでいるが、これは、全く効果がないだけでなく極めて危険なことだ。
この刑罰強化に意味がないという点は池田さんの指摘する通りだ。
ポパーは、次のようなことを書いているが、今は、経済法の分野を端緒として、刑罰理論の逆行が進んでいる。ほとんどの法律屋は分かっていないが、経済法を限定的に捉えるのは間違いであり、これは結局個人への脅威に帰着する。法人税率アップが個人への増税に帰着するのと同じである。
われわれの手で改善された二つの事柄について手短に触れてみよう。
最も重要な点は、私の子供時分や青年の頃にはまだみられた大衆の恐ろしいまでの貧困が今は消滅したことである。
第2は刑法の改革である。
最初、刑罰の軽減は犯罪の減少につながるだろうと期待した。しかし、事態がそうはならなかったとき、われわれはそれにもかかわらず、むしろ悪事を被ろうとする道を選んだ。批判者たちは、われわれの社会が腐敗していると非難する。おそらく彼らは、他方の選択肢が意味するところを理解していないのである。われわれが選んだ法秩序は凶悪な犯罪者にも、疑わしいだけでは罰せられない完全な法的保護を保障する。そして、われわれはこの法秩序を無実の者に対しての法の保護が与えられず、無実であることに何ら疑いのない場合でさえ処罰されてしまうような法秩序に対して選び取ったのである。
しかし、われわれは、おそらくこの法秩序を選ぶ際に、さらに他の価値も選んでしまったらしい。
われわれは全く無意識のうちに、ソクラテスのかの素晴らしい格言を適用したのであろう。すなわち、「不正をなすより、不正を被るほうがよい。」
カール ポパー よりよき世界をもとめて から抜粋
2007年03月21日
この刑罰強化に意味がないという点は池田さんの指摘する通りだ。
ポパーは、次のようなことを書いているが、今は、経済法の分野を端緒として、刑罰理論の逆行が進んでいる。ほとんどの法律屋は分かっていないが、経済法を限定的に捉えるのは間違いであり、これは結局個人への脅威に帰着する。法人税率アップが個人への増税に帰着するのと同じである。
われわれの手で改善された二つの事柄について手短に触れてみよう。
最も重要な点は、私の子供時分や青年の頃にはまだみられた大衆の恐ろしいまでの貧困が今は消滅したことである。
第2は刑法の改革である。
最初、刑罰の軽減は犯罪の減少につながるだろうと期待した。しかし、事態がそうはならなかったとき、われわれはそれにもかかわらず、むしろ悪事を被ろうとする道を選んだ。批判者たちは、われわれの社会が腐敗していると非難する。おそらく彼らは、他方の選択肢が意味するところを理解していないのである。われわれが選んだ法秩序は凶悪な犯罪者にも、疑わしいだけでは罰せられない完全な法的保護を保障する。そして、われわれはこの法秩序を無実の者に対しての法の保護が与えられず、無実であることに何ら疑いのない場合でさえ処罰されてしまうような法秩序に対して選び取ったのである。
しかし、われわれは、おそらくこの法秩序を選ぶ際に、さらに他の価値も選んでしまったらしい。
われわれは全く無意識のうちに、ソクラテスのかの素晴らしい格言を適用したのであろう。すなわち、「不正をなすより、不正を被るほうがよい。」
カール ポパー よりよき世界をもとめて から抜粋
2007年03月21日
2007年03月19日
Livedoor case
ホリエモンの業績と今回のライブドア疑獄事件による損失を的確にまとめた記事↓
堀江貴文逮捕による本当の損失
[http://zapanet.info/blog/item/948]
私もこういったことは’なんとなく大体’は知ってはいたが、このようにまとめてくれるとなるほどわかりやすい。たしかにホリエモンはシナジーを作り出していたし、ホリエモンのライブドアが失われたことによる社会的損失は将来にわたって巨大だ。
ホリエモンは稀有なほんものの起業家だったのである。
ホリエモン事件の東京地裁判決の判決文を読んでみたいものだが、まだWEBからは手に入らないようだ。私も今回の判決には怒りしか感じない。日本の司法に正義はやはりないらしい。
高裁でどうなるかはわからないが、最高裁までもつれる可能性もあるだろう。
ホリエモンという起業家を”政府”が恣意的な権力行使によって葬ることによる、負の「外部効果」は計り知れない。
これでは日本は中国以下の官僚独裁国家だ。
断罪しなければならないのは検察であり、大鶴基成特捜部長であることは明らかだ。
[http://kyuuri.blogtribe.org/entry-8ac0f231bb1c049d9c2d4303e6f35ec5.html]
2007年03月19日
堀江貴文逮捕による本当の損失
[http://zapanet.info/blog/item/948]
私もこういったことは’なんとなく大体’は知ってはいたが、このようにまとめてくれるとなるほどわかりやすい。たしかにホリエモンはシナジーを作り出していたし、ホリエモンのライブドアが失われたことによる社会的損失は将来にわたって巨大だ。
ホリエモンは稀有なほんものの起業家だったのである。
ホリエモン事件の東京地裁判決の判決文を読んでみたいものだが、まだWEBからは手に入らないようだ。私も今回の判決には怒りしか感じない。日本の司法に正義はやはりないらしい。
高裁でどうなるかはわからないが、最高裁までもつれる可能性もあるだろう。
ホリエモンという起業家を”政府”が恣意的な権力行使によって葬ることによる、負の「外部効果」は計り知れない。
これでは日本は中国以下の官僚独裁国家だ。
断罪しなければならないのは検察であり、大鶴基成特捜部長であることは明らかだ。
[http://kyuuri.blogtribe.org/entry-8ac0f231bb1c049d9c2d4303e6f35ec5.html]
2007年03月19日
2007年03月17日
Defect of Capitalism
ハイエクがLLLの中で書いた「資本主義の欠陥」について以下に原文と私の拙訳をつけておく。
LLLのThe discipline of abstract ruleからの抜粋である。
====
”The possibility of men living together in peace and to their mutual advantage without having to agree on common concrete aims, and bound only by abstract rules of conduct,was perhaps the greatest discovery of mankind ever made.”
ただ人々が抽象的な行動ルールによって結びついていさえすれば、共通の具体的な目的がなくとも、人々が平和に、かつお互いの長所を活かしながら共存できる可能性があるというのは、おそらく人類のなした発見の中でも最大のものであろう。
"The 'capitalist' system which grew out of this discovery no doubt did not fully satisfy the ideals of liberalism,because it grew up while legislators and governments did not really understand the modus operandi of the market,and largely in spite of the policies actually pursued."
この発見から成長してきた「資本主義者」のシステムが、自由主義の理想を充分には満たしていないのは疑いない。なぜなら、その成長は、立法者と為政者が充分にマーケットの運用の仕方(modus operandi)を理解していない間に成長したからである。また、多くの場合、実際に追求された政策を無視してそれは成長してきたからである。
"Capitalism as it exists today in consequence undeniably has many remediable defects that an intelligent policy of freedom ought to correct."
現在ある資本主義とは、結果的に、あきらかに治療すべき欠陥を多く持っているし、知的な自由政策によって修正されるべきものである。
=====================
そもそも、ハイエクの書く英語はセンテンスが長いし、あまり簡単ではない。ハイエク全集の訳は、苦労して正確に訳そうとしたことがわかる、割とまじめな仕事ではあるが、残念ながらあまり読みやすくはない。(きっと私の拙訳の方がましだろう。)
私が日本人の書くハイエク論とかをあまり評価しないのは、単純に外国でなされている言論と比べてレベルが低いということが第一だが、引用文献などが、国内同業の引用ばかりで、外国文献やオリジナル文献をあまり読んでいないものが多いからだ。だから、あまり参考にならない。
阪本昌成氏の「法の支配」の参考文献も殆ど全部日本語文献だ。恐らく実際に日本語のものしか読んでいないのだろうと思う。
しかし、もっと最悪なのは実際の著作をきちんと読み込まずに、自分で適当なストーリーを作って、我田引水的な理解をしている人間だ。これは非学問的であるだけでなくミスリーディングなデマになる。
===
池田さんのBlogで、「それと「資本主義者」なんていう日本語はありません。"Capitalist" systemは「資本主義的システム」あるいは「資本制システム」と訳すんですよ。」とのご返答があった。
どうもご立腹のあまり、筆がすべってしまたのかもしれないが、資本主義者という言葉は当然あるし、capitalistは資本主義者と訳す。
capitalist system を資本主義制度と呼ぶのは一般的だろうが、ここでハイエクはcapitalistをシングルクオーテーションでわざわざ囲っていることを分かっていないようだ。
いずれにせよ、池田さんのハイエク理解およびリバタリアニズム理解はあまりにお粗末すぎて
一から説明しても理解させるのは困難だろう。50歳を超えてしまうと左翼の教養であっても知的サンクコストが大きくなりすぎ、それを処分することができなくなるのだ。
メディアの'専門家'として、そちらの批判と解説に特化した方がいいだろう。
2007年03月17日
LLLのThe discipline of abstract ruleからの抜粋である。
====
”The possibility of men living together in peace and to their mutual advantage without having to agree on common concrete aims, and bound only by abstract rules of conduct,was perhaps the greatest discovery of mankind ever made.”
ただ人々が抽象的な行動ルールによって結びついていさえすれば、共通の具体的な目的がなくとも、人々が平和に、かつお互いの長所を活かしながら共存できる可能性があるというのは、おそらく人類のなした発見の中でも最大のものであろう。
"The 'capitalist' system which grew out of this discovery no doubt did not fully satisfy the ideals of liberalism,because it grew up while legislators and governments did not really understand the modus operandi of the market,and largely in spite of the policies actually pursued."
この発見から成長してきた「資本主義者」のシステムが、自由主義の理想を充分には満たしていないのは疑いない。なぜなら、その成長は、立法者と為政者が充分にマーケットの運用の仕方(modus operandi)を理解していない間に成長したからである。また、多くの場合、実際に追求された政策を無視してそれは成長してきたからである。
"Capitalism as it exists today in consequence undeniably has many remediable defects that an intelligent policy of freedom ought to correct."
現在ある資本主義とは、結果的に、あきらかに治療すべき欠陥を多く持っているし、知的な自由政策によって修正されるべきものである。
=====================
そもそも、ハイエクの書く英語はセンテンスが長いし、あまり簡単ではない。ハイエク全集の訳は、苦労して正確に訳そうとしたことがわかる、割とまじめな仕事ではあるが、残念ながらあまり読みやすくはない。(きっと私の拙訳の方がましだろう。)
私が日本人の書くハイエク論とかをあまり評価しないのは、単純に外国でなされている言論と比べてレベルが低いということが第一だが、引用文献などが、国内同業の引用ばかりで、外国文献やオリジナル文献をあまり読んでいないものが多いからだ。だから、あまり参考にならない。
阪本昌成氏の「法の支配」の参考文献も殆ど全部日本語文献だ。恐らく実際に日本語のものしか読んでいないのだろうと思う。
しかし、もっと最悪なのは実際の著作をきちんと読み込まずに、自分で適当なストーリーを作って、我田引水的な理解をしている人間だ。これは非学問的であるだけでなくミスリーディングなデマになる。
===
池田さんのBlogで、「それと「資本主義者」なんていう日本語はありません。"Capitalist" systemは「資本主義的システム」あるいは「資本制システム」と訳すんですよ。」とのご返答があった。
どうもご立腹のあまり、筆がすべってしまたのかもしれないが、資本主義者という言葉は当然あるし、capitalistは資本主義者と訳す。
capitalist system を資本主義制度と呼ぶのは一般的だろうが、ここでハイエクはcapitalistをシングルクオーテーションでわざわざ囲っていることを分かっていないようだ。
いずれにせよ、池田さんのハイエク理解およびリバタリアニズム理解はあまりにお粗末すぎて
一から説明しても理解させるのは困難だろう。50歳を超えてしまうと左翼の教養であっても知的サンクコストが大きくなりすぎ、それを処分することができなくなるのだ。
メディアの'専門家'として、そちらの批判と解説に特化した方がいいだろう。
2007年03月17日
2007年03月10日
Constitutionalism as the second best
Restoring the Lost Constitution
by Randy Barnett
以前この本を買った。内容紹介は以下の通り
http://www.lfb.com/index.php?stocknumber=LL8953
”James Madison, meet Lysander Spooner
There are nine guys in DC who should read this book right away.
Barnett says the Constitution should be interpreted as contracts are interpreted, on the basis of its original meaning, not the original "intentions" of its molders (whose intentions may have varied markedly anyway). So let's stop cutting up holes in the document, he urges in this superb explanation of the crucial importance of constitutions in limiting government power. The book is also, intriguingly, an answer to Lysander Spooner's radical 1870 essay "No Treason" declaring the illegitimacy of the Constitution. Barnett half agrees and half disagrees with Spooner, and dedicates his book to both Spooner and James Madison. Much of the fun here is watching how Barnett gets these two to shake hands (theoretically speaking). ”
"Restoring the Lost Constitution is excellent, and a vital contribution to jurisprudence. It argues, in essence, that the best way to read the US Constitution is as a libertarian legal document, one that presupposes the existence of natural rights and assigns to government the task of their protection. Very readable yet scholarly, in a tone that is wonderfully civil."
--Tibor R. Machan, author of Putting Humans First
さらに、この本へのHuebertによる批判ーバーネットの反論ーHuebertの再批判も論文としてあり、とても参考になる。
Can Judges Save Us From Statism?
http://www.mises.org/story/1976
Libertarianism and Legitimacy
http://www.mises.org/journals/jls/19_4/19_4_5.pdf
No duty to obey the state
http://www.mises.org/journals/jls/19_4/19_4_6.pdf
私はどちらかというとバーネットの立場に賛同する。
Constitutionのoriginal meaningをrestore(再興)することが、Second bestの方法として自由社会を再興する道へつながるという考え方だ。
ハイエクのThe constitution of liberty(自由の条件)では、アメリカのConstitutionalismをアメリカの偉大なる自由の条件として礼賛した。だが、その20年後に出版されたLLLの中でハイエクはConstitutionalismは明らかな失敗に帰したと書いた。
Constitutionalism(立憲主義)とは、純粋にアメリカの憲法体制のみを意味している。
日本にも当然、憲法はあるが、アメリカの意味でのConstitutionalismは存在しない。
簡単に言えばConstitutionalismとは、憲法によって議会を制限(=権限の限定列挙=enumerate)する仕組みである。
すくなくともアメリカにはJurisprudenceの側から、個人の自由を確保しうる可能性がありうる。
しかし、残念ながら日本にその可能性はない。
ルーズベルトのNew Deal社会主義からアメリカの連邦憲法の制限憲法の意味は失われてしまったわけだが、その回復の兆しはレーンキスト コートによって生まれた。それはレーガン革命とともに起きた。
レーガンが任命した最高裁長官のWilliam Rehnquistは、バーネットも尊敬するアメリカの最高裁の偉大なるChief Justiceであった。レーンキストのNew Federalismも、restoring the lost constitutionの一つの重要な動きとみることができる。
2007年03月10日
2007年03月04日
Order emerges in unexpected places
[http://cafehayek.typepad.com/hayek/2007/03/
order_emerges_i.html]
Order emerges in unexpected places
Russell Roberts
European cities are cutting back on traffic signs in order to let order emerge. (HT: August from a comment here at the Cafe):
European traffic planners are dreaming of streets free of rules and directives. They want drivers and pedestrians to interact in a free and humane way, as brethren -- by means of friendly gestures, nods of the head and eye contact, without the harassment of prohibitions, restrictions and warning signs.
And later on in the article:
But one German borough is already daring to take the step into lawlessness. The town of Bohmte in Lower Saxony has 13,500 inhabitants. It's traversed by a country road and a main road. Cars approach speedily, delivery trucks stop to unload their cargo and pedestrians scurry by on elevated sidewalks.
The road will be re-furbished in early 2007, using EU funds. "The sidewalks are going to go, and the asphalt too. Everything will be covered in cobblestones," Klaus Goedejohann, the mayor, explains. "We're getting rid of the division between cars and pedestrians."
The plans derive inspiration and motivation from a large-scale experiment in the town of Drachten in the Netherlands, which has 45,000 inhabitants. There, cars have already been driving over red natural stone for years. Cyclists dutifully raise their arm when they want to make a turn, and drivers communicate by hand signs, nods and waving.
"More than half of our signs have already been scrapped," says traffic planner Koop Kerkstra. "Only two out of our original 18 traffic light crossings are left, and we've converted them to roundabouts." Now traffic is regulated by only two rules in Drachten: "Yield to the right" and "Get in someone's way and you'll be towed."
Strange as it may seem, the number of accidents has declined dramatically.
====
この話は、簡単に纏めると、ヨーロッパで交通信号を敢えて減らし(自生的)秩序を出現させようとする試みに関する話だ。歩行者と運転手の間の自由で人間的な交流を促すのだ。
この試みの結果、劇的に事故が減少したということだ。
2007年03月04日
order_emerges_i.html]
Order emerges in unexpected places
Russell Roberts
European cities are cutting back on traffic signs in order to let order emerge. (HT: August from a comment here at the Cafe):
European traffic planners are dreaming of streets free of rules and directives. They want drivers and pedestrians to interact in a free and humane way, as brethren -- by means of friendly gestures, nods of the head and eye contact, without the harassment of prohibitions, restrictions and warning signs.
And later on in the article:
But one German borough is already daring to take the step into lawlessness. The town of Bohmte in Lower Saxony has 13,500 inhabitants. It's traversed by a country road and a main road. Cars approach speedily, delivery trucks stop to unload their cargo and pedestrians scurry by on elevated sidewalks.
The road will be re-furbished in early 2007, using EU funds. "The sidewalks are going to go, and the asphalt too. Everything will be covered in cobblestones," Klaus Goedejohann, the mayor, explains. "We're getting rid of the division between cars and pedestrians."
The plans derive inspiration and motivation from a large-scale experiment in the town of Drachten in the Netherlands, which has 45,000 inhabitants. There, cars have already been driving over red natural stone for years. Cyclists dutifully raise their arm when they want to make a turn, and drivers communicate by hand signs, nods and waving.
"More than half of our signs have already been scrapped," says traffic planner Koop Kerkstra. "Only two out of our original 18 traffic light crossings are left, and we've converted them to roundabouts." Now traffic is regulated by only two rules in Drachten: "Yield to the right" and "Get in someone's way and you'll be towed."
Strange as it may seem, the number of accidents has declined dramatically.
====
この話は、簡単に纏めると、ヨーロッパで交通信号を敢えて減らし(自生的)秩序を出現させようとする試みに関する話だ。歩行者と運転手の間の自由で人間的な交流を促すのだ。
この試みの結果、劇的に事故が減少したということだ。
2007年03月04日

