井上元判事が、利息制限法一部空文化判決に対して批判をしている。これを読むと井上判事はバランスのとれた、ものの見えた人物だとあらためて分かる。
まずグレーゾーン金利について簡単にまとめておこう。
意外と知られていないのは、出資法と利息制限法といった似たような法律がなぜ二つあるのかだ。本質的な違いは出資法は貸金業者を対象とした産業政策法に属する公法であり、利息制限法は私法に分類され一般人にも適用されるという点だ。
出資法の上限金利が29.2%と固定で、利息制限法は、貸出額に応じて3段階あり、10万円未満が年20%、10〜100万円が18%、100万円以上が15%となっている。
この間の金利がグレーゾーン金利と言われている。
公法である出資法は、違反すると刑事罰が課される。そのため、闇金でない通常の貸し金業者は、出資法の枠内つまり29,2%以下で合法的に営業する。一方の利息制限法は私法であり、刑事罰はない。
実のところ問題は、この利息制限法の方だ。利息制限法がある以上、グレーゾーン金利であっても、違法ではないかと考えるのが普通だろうが、利息制限法1条の全文をちゃんと読まないといけない。
この1条の解釈で、井上元判事が指摘する利息制限法の最高裁による一部空文化判決の問題が登場するのである。
まず利息制限法の条文だが、第1条が次の通り。
(利息の最高限)
第一条 金銭を目的とする消費貸借上の利息の契約は、その利息が左の利率により計算した金額をこえるときは、その超過部分につき無効とする。
元本が十万円未満の場合 年二割
元本が十万円以上百万円未満の場合 年一割八分
元本が百万円以上の場合 年一割五分
2 債務者は、前項の超過部分を任意に支払つたときは、同項の規定にかかわらず、その返還を請求することができない。
1条1項で上限金利の制限を行い、その超過部分につき無効とする規定をおきながら、2項では、「債務者は、前項の超過部分を任意に支払つたときは、同項の規定にかかわらず、その返還を請求することができない。」としている。この”任意”で支払った場合はというのが、極めて重要な要件になる。
この2項で契約自由の原則を担保しており、任意の支払いであれば、1項の上限金利を上回っていても違法ではないとしているのである。この2項の存在が重大なのだ。
しかし昭和43年の最高裁判決で、この利息制限法の2項を空文化する判決を出した。つまり、2項で規定する任意で支払済みの超過分も、貸した方が返還せよとする判決を出したのだ。
これによって司法府は立法府が作った法律を勝手に空文化したことになる。これは、明らかに3権分立をおかした越権であり司法府が違法を行っているのだと井上元判事は分析する。
その後、この1条2項の空文化判決によってグレーゾーン金利というより利息制限法を上回る金利領域(つまり上限なし)はますます法律解釈的にもグレーなゾーンとなった。利息制限法1条2項によって違法性を否定されてる行為が場合によると違法かもしれないという状況になった。
いわゆる大手銀行であれば、この利息制限法の枠でしか営業をしないし、つまるところは個人のリテール相手にはあまり貸さない。
一方の貸金業であるサラ金業界では、通常このグレーゾーン金利の出資法の上限金利内で商売をし、ほとんど担保もない個人相手に営業をおこなってきた。
だが、貸金業界は、この最高裁の1条2項の空文化判決により法的には極めて危ない橋をわたってきた。
こういった状況から、昨年からのサラ金規制法に至ったわけだ。
この法の効果は劇的であった。だが、サラ金が消えたことよりももっと恐ろしい結末がそのうち明らかになることだろう。
金融社会主義とは、そのまま露骨な社会主義統制経済以外のなにものでもない。
つまり、これによる結末として社会から自由そのものが消える可能性が高い。
2007年04月24日
2007年04月22日
The mission to passive man
世の中には様々な政治的運動や宗教的運動がある。
これらは社会運動であり、政府という存在もある意味では社会運動の結果生まれたものだ。
最近の国連主導の各国の環境対策をみるにつけ、30年位前からのエコロジー運動が政治的な勝利を収めていることがよくわかる。
エコロジーは、いわば宗教運動であり、もともとは左翼活動家の吹き溜まりであった。
それに参画している人たちは、”自然”を救わなければならないという強い使命感?と社会に対する厭世的な逃避感覚によって突き動かされている。その心情は、社会主義活動家のそれと同じである。
グリーンピースなどは、極めて暴力的なセクトであるが、ヨーロッパでは、こういった団体も政党化した。
原発反対もエコロジー運動のひとつである。
なぜ、エコロジーのような活動がファナティックな力を持ちうるのかについては、一考の価値がある。
まずエコロジー関係の本には、宗教本的な説得力があることが一つにある。
そして、それに従うことが、一定の心地よさ、正義の感覚を与えている。エコロジー活動家とは、正義の実践者という位置づけだ。
このような運動は、インセンティブさらにはミッションをそれを信じたい人間に提供することに成功している。
ノストラダムスの大予言を信じたい人間が多くいるように、世界の破滅の物語にのめりこむ人間は多いのだろう。そういったpassive manに対して、エコロジーは生きる意味というインセンティブを与え続けてきたのである。
これが経済学や哲学といった学問であれば、もとより、そういったインセンティブは読者に与えない。
自由主義哲学であるリバタリアニズムにも、そういった運動に結びつくインセンティブはあまりないだろう。まあ、全くなくはないだろうが。
これらは社会運動であり、政府という存在もある意味では社会運動の結果生まれたものだ。
最近の国連主導の各国の環境対策をみるにつけ、30年位前からのエコロジー運動が政治的な勝利を収めていることがよくわかる。
エコロジーは、いわば宗教運動であり、もともとは左翼活動家の吹き溜まりであった。
それに参画している人たちは、”自然”を救わなければならないという強い使命感?と社会に対する厭世的な逃避感覚によって突き動かされている。その心情は、社会主義活動家のそれと同じである。
グリーンピースなどは、極めて暴力的なセクトであるが、ヨーロッパでは、こういった団体も政党化した。
原発反対もエコロジー運動のひとつである。
なぜ、エコロジーのような活動がファナティックな力を持ちうるのかについては、一考の価値がある。
まずエコロジー関係の本には、宗教本的な説得力があることが一つにある。
そして、それに従うことが、一定の心地よさ、正義の感覚を与えている。エコロジー活動家とは、正義の実践者という位置づけだ。
このような運動は、インセンティブさらにはミッションをそれを信じたい人間に提供することに成功している。
ノストラダムスの大予言を信じたい人間が多くいるように、世界の破滅の物語にのめりこむ人間は多いのだろう。そういったpassive manに対して、エコロジーは生きる意味というインセンティブを与え続けてきたのである。
これが経済学や哲学といった学問であれば、もとより、そういったインセンティブは読者に与えない。
自由主義哲学であるリバタリアニズムにも、そういった運動に結びつくインセンティブはあまりないだろう。まあ、全くなくはないだろうが。
2007年04月21日
Judge's overspeaking
司法のしゃべりすぎ 井上薫 著
この本の著者である井上判事は、こういった司法批判の本を書きすぎて、最近、裁判官を首になった。つまり裁判官のしゃべりすぎというか、ほんとのことを公に正直に書きすぎて、官僚体制から当然のごとくに排斥された人だ。
なんとも裁判官とは思えないほどに正直な人物なのである。やはりというべきか、井上判事は、もともと理系の人で東大の理学部を出ている。
#東大の法学部を出たような人間では、まずこういったことはしないだろう。
理系の訓練を積んだ人間からすれば、日本の司法官僚制度のナンセンスさが耐えがたいものだったに違いない。
官僚による正直な内部批判としては、「お役所の掟」シリーズを書いた宮本さんというのもいたが、それと少し似ている。
彼らは、官僚の立場で、正直かつ軽妙な内部批判をしたわけだが、それによって自分が当然に排斥されるということに思い至らなかったのだろうか。井上(元)判事は、法理論を述べているから自分の批判は中立だと思っていたのだろうか?
それとも、首になることを覚悟した告発だったのだろうか。おそらく前者だろう。だが、こういうまぬけ?な正直さは非常に貴重だ。
判事のしゃべりすぎは、プライベートの範囲では本来歓迎すべきものだ。あのポズナーも、自分のBlogで自由闊達に自らの意見を開陳している。そこに政治的な判断で発言を控えたりといった配慮はほとんどしていないと思われる。
だが、日本の司法官僚制度ではそういうわけにはいかないということだ。井上判事の批判は権威を重んじる司法権力への挑戦とでも受け止められたのであろう。
しかし司法の権威ということでは、アメリカの判事の方が日本の判事=司法官僚よりも圧倒的に高い。
それは、アメリカの司法制度の方が、日本の司法制度よりもはるかに社会的な有用性の高いことが社会的に認知されているという証拠でもある。
井上判事の主張はとどのつまり、実定法の解釈者でしかない判事は、実定法どおりの規則に則った行動しかしてはならないということだ。判決の理由欄に判決と関係のない見解を開陳することは温情的なようでいて実は弊害のほうが大きいということを言っているだけだ。
井上判事は、このような軽妙な本を書くくらいだから、自分も書こうと思えばいくらでも判決理由に蛇足を書くことはできたろう。だが、理系的な実直さから、それが偽善であり間違いだと確信していたわけだ。司法権力が不用意にまたは政治的に書きくわえる判決理由の中の蛇足は拡大解釈され、司法に対して過剰な政治権力までも与える危険性があるのは井上判事が指摘する通り事実だろう。
これがコモンロー的な世界であれば違う。コモンロー判事であれば、自分の法理となる正義を開陳することは自由であり、また推奨もされるだろう。アメリカの判決文ではそれゆえに格調高い名文の判決文が多くある。
だが、大陸法のPositivismは、そのようなルールはもとよりないのであって、判事といえでも司法官僚の行動には制限が規定され大きな限界がある。それはPositivismの限界であり、そこに判事自身が大きな窮屈さを感じているから、慣行的に日本の判事は蛇足を書きつづけてきたのに違いない。
”良心的”な判事は、パターナルな”配慮”から、被告を諭すようなこともいうわけだが、これも圧倒的に非力な個人と、巨大な権力とを同じ立場にたたせ、正義の秤にかけるという裁判の趣旨からすれば間違っている。例えば、ホリエモンの事件でも子供を諭すようなことを判事が言っていたようだが(判決理由の中ではないかもしれないが)、有罪が確定したわけでもない被告に対して国家権力を象徴する判事が言うべきことではない。
日本の司法は、司法官僚の裁量によって時に温情的なようでいて、実は、正義とは別な論理にすぎない実定法という冷酷なルールのみに従っているという事実を蛇足を加えることで誤魔化し、隠蔽しているわけだ。
井上元判事の主張はいわば極端な実定法主義であるが、実定法に極端と中庸の違いはなく、実定法主義をとる限り条文の解釈に終始する”極端”なものとなるだろう。つまり実定法主義=Legal Positivismに従うかぎり、井上元判事の主張が正しい。この司法に対する制約は憲法の命じるところであるから、それを無視し否定した司法の行動は日本の司法システムそのものの自己否定に等しい。
そもそも司法官僚と行政官僚はともに公務員官僚であり、その彼らの身分が彼らの思考と行動様式を規定、限定しているのだ。
この本の著者である井上判事は、こういった司法批判の本を書きすぎて、最近、裁判官を首になった。つまり裁判官のしゃべりすぎというか、ほんとのことを公に正直に書きすぎて、官僚体制から当然のごとくに排斥された人だ。
なんとも裁判官とは思えないほどに正直な人物なのである。やはりというべきか、井上判事は、もともと理系の人で東大の理学部を出ている。
#東大の法学部を出たような人間では、まずこういったことはしないだろう。
理系の訓練を積んだ人間からすれば、日本の司法官僚制度のナンセンスさが耐えがたいものだったに違いない。
官僚による正直な内部批判としては、「お役所の掟」シリーズを書いた宮本さんというのもいたが、それと少し似ている。
彼らは、官僚の立場で、正直かつ軽妙な内部批判をしたわけだが、それによって自分が当然に排斥されるということに思い至らなかったのだろうか。井上(元)判事は、法理論を述べているから自分の批判は中立だと思っていたのだろうか?
それとも、首になることを覚悟した告発だったのだろうか。おそらく前者だろう。だが、こういうまぬけ?な正直さは非常に貴重だ。
判事のしゃべりすぎは、プライベートの範囲では本来歓迎すべきものだ。あのポズナーも、自分のBlogで自由闊達に自らの意見を開陳している。そこに政治的な判断で発言を控えたりといった配慮はほとんどしていないと思われる。
だが、日本の司法官僚制度ではそういうわけにはいかないということだ。井上判事の批判は権威を重んじる司法権力への挑戦とでも受け止められたのであろう。
しかし司法の権威ということでは、アメリカの判事の方が日本の判事=司法官僚よりも圧倒的に高い。
それは、アメリカの司法制度の方が、日本の司法制度よりもはるかに社会的な有用性の高いことが社会的に認知されているという証拠でもある。
井上判事の主張はとどのつまり、実定法の解釈者でしかない判事は、実定法どおりの規則に則った行動しかしてはならないということだ。判決の理由欄に判決と関係のない見解を開陳することは温情的なようでいて実は弊害のほうが大きいということを言っているだけだ。
井上判事は、このような軽妙な本を書くくらいだから、自分も書こうと思えばいくらでも判決理由に蛇足を書くことはできたろう。だが、理系的な実直さから、それが偽善であり間違いだと確信していたわけだ。司法権力が不用意にまたは政治的に書きくわえる判決理由の中の蛇足は拡大解釈され、司法に対して過剰な政治権力までも与える危険性があるのは井上判事が指摘する通り事実だろう。
これがコモンロー的な世界であれば違う。コモンロー判事であれば、自分の法理となる正義を開陳することは自由であり、また推奨もされるだろう。アメリカの判決文ではそれゆえに格調高い名文の判決文が多くある。
だが、大陸法のPositivismは、そのようなルールはもとよりないのであって、判事といえでも司法官僚の行動には制限が規定され大きな限界がある。それはPositivismの限界であり、そこに判事自身が大きな窮屈さを感じているから、慣行的に日本の判事は蛇足を書きつづけてきたのに違いない。
”良心的”な判事は、パターナルな”配慮”から、被告を諭すようなこともいうわけだが、これも圧倒的に非力な個人と、巨大な権力とを同じ立場にたたせ、正義の秤にかけるという裁判の趣旨からすれば間違っている。例えば、ホリエモンの事件でも子供を諭すようなことを判事が言っていたようだが(判決理由の中ではないかもしれないが)、有罪が確定したわけでもない被告に対して国家権力を象徴する判事が言うべきことではない。
日本の司法は、司法官僚の裁量によって時に温情的なようでいて、実は、正義とは別な論理にすぎない実定法という冷酷なルールのみに従っているという事実を蛇足を加えることで誤魔化し、隠蔽しているわけだ。
井上元判事の主張はいわば極端な実定法主義であるが、実定法に極端と中庸の違いはなく、実定法主義をとる限り条文の解釈に終始する”極端”なものとなるだろう。つまり実定法主義=Legal Positivismに従うかぎり、井上元判事の主張が正しい。この司法に対する制約は憲法の命じるところであるから、それを無視し否定した司法の行動は日本の司法システムそのものの自己否定に等しい。
そもそも司法官僚と行政官僚はともに公務員官僚であり、その彼らの身分が彼らの思考と行動様式を規定、限定しているのだ。
2007年04月16日
Cell Programming
リバタリアニズムとはかけはなれている話題だが、次のサイトは面白い。
Cell Tutorial
[http://cell.fixstars.com/pukiwiki/index.php?Cell_Tutorial]
私もこれを読んでCell Programmingに挑戦してみようと思う。
しかし、その前にPS3を買わねばならない。あと、大画面フルハイビジョンディスプレイもだ。
Cell Tutorial
[http://cell.fixstars.com/pukiwiki/index.php?Cell_Tutorial]
私もこれを読んでCell Programmingに挑戦してみようと思う。
しかし、その前にPS3を買わねばならない。あと、大画面フルハイビジョンディスプレイもだ。
2007年04月09日
BPO
ホリエモンがいみじくも言っているように「社会は複雑である」が、複雑なのはよいことだ。
今後ますます進むであろうBPO(Business Process Outsource)の動きは、物以外のサービス分野の自由貿易化の流れである。
物と違ってサービスには国民国家が関税をかけにくいという大きなメリットがある。
これは、東欧や中国のような後進国の人間において大きなメリットがあり、先進国の人間にとっても大きなメリットがある。つまり明らかにWin-Winなのだ。
関税のない国家は理想であって現実であったためしは歴史上ほとんどないが、サービス貿易に関しては実現する可能性がある。
こういった流れに日本社会が乗らなければならない。
現在のイギリスの豊かさというのは相当なものらしい。これは、イギリスがこの流れにのって巧く活用しているからだ。イギリスのミドルクラスである平均的な所得の人間であっても、おそろしく豊かな生活を送っているらしい。
イギリス全体が一種の金利生活者のような形になっていて資金運用者として自由貿易の恩恵を存分にうけているのである。
余暇や消費重視の社会になるというのは結局そういうことだ。
日本の場合、個人資産は潤沢にあるらしいが、それは運用がされていない。1400兆円の個人資産が年5%で運用されるだけでも70兆円の収入になる。
60歳すぎたらリタイアというのが社会的な制度になっている以上、社会制度上も、汗水流して働かない生活者を前提とした社会でなければならない。
今後ますます進むであろうBPO(Business Process Outsource)の動きは、物以外のサービス分野の自由貿易化の流れである。
物と違ってサービスには国民国家が関税をかけにくいという大きなメリットがある。
これは、東欧や中国のような後進国の人間において大きなメリットがあり、先進国の人間にとっても大きなメリットがある。つまり明らかにWin-Winなのだ。
関税のない国家は理想であって現実であったためしは歴史上ほとんどないが、サービス貿易に関しては実現する可能性がある。
こういった流れに日本社会が乗らなければならない。
現在のイギリスの豊かさというのは相当なものらしい。これは、イギリスがこの流れにのって巧く活用しているからだ。イギリスのミドルクラスである平均的な所得の人間であっても、おそろしく豊かな生活を送っているらしい。
イギリス全体が一種の金利生活者のような形になっていて資金運用者として自由貿易の恩恵を存分にうけているのである。
余暇や消費重視の社会になるというのは結局そういうことだ。
日本の場合、個人資産は潤沢にあるらしいが、それは運用がされていない。1400兆円の個人資産が年5%で運用されるだけでも70兆円の収入になる。
60歳すぎたらリタイアというのが社会的な制度になっている以上、社会制度上も、汗水流して働かない生活者を前提とした社会でなければならない。
2007年04月08日
Japanese Court system
司法改革として法科大学院を作り司法試験の合格者を5倍くらいに増やそうとしているが、肝心の裁判官の人数はほとんど増やさないようだ。
これでは、司法はスタックするのは確実だろう。
もし、弁護士を5倍に増やすのであれば、同様に裁判官も5倍に増やすべきである。いや、裁判官の方は2-3倍も増やせば今よりも4-5倍以上の事件処理能力をもつはずだ。
日本の過小な裁判利用率をせめてヨーロッパ並に引き上げるためには法曹を全体的に増員する必要がある。
しかし、日本の司法制度は民事でもほとんど利用されずにきており、刑事裁判では起訴されたら100%有罪という現状では、そもそも司法制度なんていらないということなのだ。
機能してなくても社会はなんとかやってきたのであるから、司法制度自体が大して必要のないものだということの証明だ。
これは中国のような共産主義の独裁国家で裁判制度が大した意味のない制度であるのと全く同じことだろう。
アメリカで陪審員制度という古式ゆかしい制度がかたくなに守られているが、これは陪審員制度が自分達を守る上で大きな価値のあるものだという認識が強いからだろう。
アメリカの裁判官でさえ、(自分が当事者となる)裁判になれば陪審制度でやってもらいたい人がほとんどだというアンケート結果がある。
つまり少なくともアメリカでは裁判制度は個人の財産を守るために重大な意味があると認識されているということだ。
司法とは単なる利害の調整装置ではないのだ。
だが、日本の司法は何を守っている制度なのかすら、明確ではない。
司法官僚制度のなかで、司法官僚は行政官僚と同じ論理で行動する。
特にライブドア事件などをみるにつけ、司法制度はないよりはマシなものだとすら思えない。個人の権利ではなく国家利益なるものを優先する司法などあってはならない。
そこにあるのは、60年以上前の戦中の体制と同じ国家主義、国家社会主義だ。
司法においても、Justice=正義の原理は、集団の論理の中にではなく、個人の中に見出さなければならない。
こういったキリスト教的ともいえる正義観がなければ、司法そのものが単なる国家権力の行使装置となり、自由を守るどころか個人への抑圧装置にすぎなくなる。
これでは、司法はスタックするのは確実だろう。
もし、弁護士を5倍に増やすのであれば、同様に裁判官も5倍に増やすべきである。いや、裁判官の方は2-3倍も増やせば今よりも4-5倍以上の事件処理能力をもつはずだ。
日本の過小な裁判利用率をせめてヨーロッパ並に引き上げるためには法曹を全体的に増員する必要がある。
しかし、日本の司法制度は民事でもほとんど利用されずにきており、刑事裁判では起訴されたら100%有罪という現状では、そもそも司法制度なんていらないということなのだ。
機能してなくても社会はなんとかやってきたのであるから、司法制度自体が大して必要のないものだということの証明だ。
これは中国のような共産主義の独裁国家で裁判制度が大した意味のない制度であるのと全く同じことだろう。
アメリカで陪審員制度という古式ゆかしい制度がかたくなに守られているが、これは陪審員制度が自分達を守る上で大きな価値のあるものだという認識が強いからだろう。
アメリカの裁判官でさえ、(自分が当事者となる)裁判になれば陪審制度でやってもらいたい人がほとんどだというアンケート結果がある。
つまり少なくともアメリカでは裁判制度は個人の財産を守るために重大な意味があると認識されているということだ。
司法とは単なる利害の調整装置ではないのだ。
だが、日本の司法は何を守っている制度なのかすら、明確ではない。
司法官僚制度のなかで、司法官僚は行政官僚と同じ論理で行動する。
特にライブドア事件などをみるにつけ、司法制度はないよりはマシなものだとすら思えない。個人の権利ではなく国家利益なるものを優先する司法などあってはならない。
そこにあるのは、60年以上前の戦中の体制と同じ国家主義、国家社会主義だ。
司法においても、Justice=正義の原理は、集団の論理の中にではなく、個人の中に見出さなければならない。
こういったキリスト教的ともいえる正義観がなければ、司法そのものが単なる国家権力の行使装置となり、自由を守るどころか個人への抑圧装置にすぎなくなる。
CSR: Corporate Socialization Rule
CSR(Corporate social responsibility)が社会的なブームであるが、これは何重もの意味で不道徳な動きである。
CSR論とは、そうとは認識されていないが、社会主義化運動の一つなのである。
そもそも、”企業の社会的責任論”というのは、ナチス時代にさかんに議論された。会社法の中に社会的責任規程を設けるとすると、何が社会的責任かということで危険性が生じる。今のところはCSRという規定枠が会社法の中には明文化されていないのが唯一の救いだ。
アメリカで会社法の中に企業の社会的責任規定を設けている州がNY州やミネソタ州などいくつかの州があるが、これは経営者によるCSR的な行動が背任とならないようにするための一つの軽減策と思われる。
日本のCSR論の根本には企業を国家のinstitution=公器としてみる発想がある。もっとも日本の場合は、戦後の社会民主主義的な体制の中で企業自らそのように主張し行動してきたのが事実だろう。
それに対し、アメリカではCSRは企業のマーケティングの一環として唱えられてきた経緯がある。
アメリカのCSR論が自由主義をベースとした企業観を社会主義的もしくはニューディール的な方向へと少し左シフトしようとする動きであるのに対し、日本のCSRは左にあるものをさらに左にもっていこうとする動きとなる。
日本の状況はナチス時代のドイツでこのような社会的責任規程の導入が議論されたのと同じである。
CSR論とは、そうとは認識されていないが、社会主義化運動の一つなのである。
そもそも、”企業の社会的責任論”というのは、ナチス時代にさかんに議論された。会社法の中に社会的責任規程を設けるとすると、何が社会的責任かということで危険性が生じる。今のところはCSRという規定枠が会社法の中には明文化されていないのが唯一の救いだ。
アメリカで会社法の中に企業の社会的責任規定を設けている州がNY州やミネソタ州などいくつかの州があるが、これは経営者によるCSR的な行動が背任とならないようにするための一つの軽減策と思われる。
日本のCSR論の根本には企業を国家のinstitution=公器としてみる発想がある。もっとも日本の場合は、戦後の社会民主主義的な体制の中で企業自らそのように主張し行動してきたのが事実だろう。
それに対し、アメリカではCSRは企業のマーケティングの一環として唱えられてきた経緯がある。
アメリカのCSR論が自由主義をベースとした企業観を社会主義的もしくはニューディール的な方向へと少し左シフトしようとする動きであるのに対し、日本のCSRは左にあるものをさらに左にもっていこうとする動きとなる。
日本の状況はナチス時代のドイツでこのような社会的責任規程の導入が議論されたのと同じである。
Investigation by State Policy
Financial Japan5月号のホリエモンの佐藤優氏との対談はなかなか面白い。
私は佐藤優氏というのはよく知らないし著書もちゃんと読んだことはない。
なかなか癖のあるネチッコイおつむの持ち主のようである。だが、ハイエク主義うんぬんという部分は、かなり?マークがつく。
面白いので対談から抜粋しておこう。
============
佐藤:「最近、「国策捜査で捕まったらどうすればいいのですか」という質問をよくうけます。「無罪はあきらめなさい。逮捕されたらヤメ検の腕の立つ弁護士で、検察と取引できる人を見つけて、全部呑み込んで事件を小さくまとめて、早く出てくることが現実的だ」と言っていますよ。」
堀江:「現実的にはそうなんでしょうね。でも僕は怖くて怖くてしょうがない。ほかの国に移住したくなりますよ。そうじゃないフェアな国がいい。アメリカみたいに司法取引が制度として認められている国に行ったほうがいい。」
「取調べに弁護士が立ち会えないし、記録も取れないのに、話の内容は翌日の新聞にリークされる。調書は検事の裁量次第だし、法の適用は恣意的に決まる。ルールを明確にしてほしいですよ。」
snip
「それにしても、今の検察の仕組みは変えた方がいい。自分で逮捕して勝手に起訴できる仕組みはチョー怖い。ブレーキになるのは検事の良心だけ。実際は、「目立つ奴、やっつけられないかな」ってあら探ししている。」
snip
「検察が誰かを捕まえて、国の方向を変えるなんて時代は終わりましたよ。社会は複雑だし、大多数の人は関心がない。特捜部なんていらない。」
snip
「マイクロソフトのような多国籍企業は、世界中にオフィスがあって、何十万人という人が働いている。いずれは、自社株を通貨として使うような、グローバルな多国籍企業が出てくるんですね。」
snip
「自社株をもっと小口化していくと、通貨みたいになっていく。つまりドルとマイクロソフトの交換レートが日々発生していく。企業が一つのコミュニティを形成する。自社株がそのコミュニティの通貨になったら、いろいろなことができるし、面白いじゃないですか。」
snip
「それが、僕の株式分割理論につながるんです。株式単位をどんどん分割して小さくし、流動性を極限まで高めると、ライブドア株で大根が買える世の中がくる。
そういう経済システムができたら、株はその時点で通貨になる。」
snip
「検事は話がつまらないし、そういう話がわかんない。「国はなくならないんだ」といって終わりですよ。」
snip
「無罪を勝ち取るつもりです。もちろん経営者として、心配をかけた方にはお詫びをしたいです。しかし、検察により「事件」とされたことで、罪を背負うつもりはない。日本の司法が適切な判断をすれば、無罪だと思います。」
=======================
しかし、裁判に関しては、日本の司法が刑事裁判においては99%以上の検察勝訴率という出来レースをずっと行ってきており、もはや司法判断の適切さという基準が正義の実現には置かれていないというのが根本的な問題だ。
検察の勝訴率100%という状況で、裁判員制度などという茶番をやり、法律に無知な一般人を強制的に出来レースに巻き込む意味など何もない。
私は佐藤優氏というのはよく知らないし著書もちゃんと読んだことはない。
なかなか癖のあるネチッコイおつむの持ち主のようである。だが、ハイエク主義うんぬんという部分は、かなり?マークがつく。
面白いので対談から抜粋しておこう。
============
佐藤:「最近、「国策捜査で捕まったらどうすればいいのですか」という質問をよくうけます。「無罪はあきらめなさい。逮捕されたらヤメ検の腕の立つ弁護士で、検察と取引できる人を見つけて、全部呑み込んで事件を小さくまとめて、早く出てくることが現実的だ」と言っていますよ。」
堀江:「現実的にはそうなんでしょうね。でも僕は怖くて怖くてしょうがない。ほかの国に移住したくなりますよ。そうじゃないフェアな国がいい。アメリカみたいに司法取引が制度として認められている国に行ったほうがいい。」
「取調べに弁護士が立ち会えないし、記録も取れないのに、話の内容は翌日の新聞にリークされる。調書は検事の裁量次第だし、法の適用は恣意的に決まる。ルールを明確にしてほしいですよ。」
snip
「それにしても、今の検察の仕組みは変えた方がいい。自分で逮捕して勝手に起訴できる仕組みはチョー怖い。ブレーキになるのは検事の良心だけ。実際は、「目立つ奴、やっつけられないかな」ってあら探ししている。」
snip
「検察が誰かを捕まえて、国の方向を変えるなんて時代は終わりましたよ。社会は複雑だし、大多数の人は関心がない。特捜部なんていらない。」
snip
「マイクロソフトのような多国籍企業は、世界中にオフィスがあって、何十万人という人が働いている。いずれは、自社株を通貨として使うような、グローバルな多国籍企業が出てくるんですね。」
snip
「自社株をもっと小口化していくと、通貨みたいになっていく。つまりドルとマイクロソフトの交換レートが日々発生していく。企業が一つのコミュニティを形成する。自社株がそのコミュニティの通貨になったら、いろいろなことができるし、面白いじゃないですか。」
snip
「それが、僕の株式分割理論につながるんです。株式単位をどんどん分割して小さくし、流動性を極限まで高めると、ライブドア株で大根が買える世の中がくる。
そういう経済システムができたら、株はその時点で通貨になる。」
snip
「検事は話がつまらないし、そういう話がわかんない。「国はなくならないんだ」といって終わりですよ。」
snip
「無罪を勝ち取るつもりです。もちろん経営者として、心配をかけた方にはお詫びをしたいです。しかし、検察により「事件」とされたことで、罪を背負うつもりはない。日本の司法が適切な判断をすれば、無罪だと思います。」
=======================
しかし、裁判に関しては、日本の司法が刑事裁判においては99%以上の検察勝訴率という出来レースをずっと行ってきており、もはや司法判断の適切さという基準が正義の実現には置かれていないというのが根本的な問題だ。
検察の勝訴率100%という状況で、裁判員制度などという茶番をやり、法律に無知な一般人を強制的に出来レースに巻き込む意味など何もない。
2007年04月07日
Immorality of consensus
最近は、マネジメントやらリーダーシップ論の本がよくでているものの、日本の大組織は政府にしても大企業にしても無責任体制を具現化したConsensus社会である。
いまだに根回しによる合意形成を行わないと何も物事が進まないようになっている。
私は、このコンセンサス主義というのが大組織の官僚制に起因するガンだと思う。もしベンチャーがコンセンサス主義をとっていたら、すぐに潰れるだろう。本当は誰かが責任を全てしょって決断しなければならないのだ。
日本の大企業でも、オーナー経営者でもいなければ、必然的にこのような決断主体がいない官僚組織になるのである。
なぜ、コンセンサス方式が駄目なのかといえば、多数決の決断などほとんどの場合、間違っているからである。クリティカルな決断というのは狭い幅での判断であり、誰でもが思うようなことをしていれば確実に敗北するのである。必要なのは出来る限りBestの判断であり、平均的な判断ではない。
Empolyeeというのは徹頭徹尾アインランドのいうPassive manであり、決してActive manにはなれない。どのような企業も最初はactive manがベンチャーとして立ち上げるわけだが、時間がたつと組織の所有権が分散することで官僚組織となり、passive manの集まりとなるのであろう。
だからこそ、会社組織もどんどん潰れていくべきなのだ。
いまだに根回しによる合意形成を行わないと何も物事が進まないようになっている。
私は、このコンセンサス主義というのが大組織の官僚制に起因するガンだと思う。もしベンチャーがコンセンサス主義をとっていたら、すぐに潰れるだろう。本当は誰かが責任を全てしょって決断しなければならないのだ。
日本の大企業でも、オーナー経営者でもいなければ、必然的にこのような決断主体がいない官僚組織になるのである。
なぜ、コンセンサス方式が駄目なのかといえば、多数決の決断などほとんどの場合、間違っているからである。クリティカルな決断というのは狭い幅での判断であり、誰でもが思うようなことをしていれば確実に敗北するのである。必要なのは出来る限りBestの判断であり、平均的な判断ではない。
Empolyeeというのは徹頭徹尾アインランドのいうPassive manであり、決してActive manにはなれない。どのような企業も最初はactive manがベンチャーとして立ち上げるわけだが、時間がたつと組織の所有権が分散することで官僚組織となり、passive manの集まりとなるのであろう。
だからこそ、会社組織もどんどん潰れていくべきなのだ。
Economic Control
金利規制法(サラ金規制法)ができて、その劇的な効果が予想通りに、いや予想以上のスピードで起こった。
かなりの割合のサラ金は潰れ、サラ金大手でも青息吐息である。
これに伴って闇金が増えているだろうと予想されるが、その実態はまだ明らかではない。
竹中さんもFinancial Japanという雑誌での木村剛との対談でこういっている。
「確かにもっとも大きな綻びの一つが、グレーゾーン金利の撤廃です。海外に行くたびに、「日本の政府は、なぜあんなことをしたんだ」と非難されます。(snip) これは、実施してはいけない政策の典型なんです。しかし、多重債務者を救うという大義名分に隠れて、経済の本質的な議論をしなかった。」
このような経済統制を行った悪影響は、これからもっと深く進行していくだろう。闇金の増大はその一つに過ぎない。
ベンチャーという名の中小企業もかなりの影響をうけるのは確実だ。
社会全体の活力をなくし、社会主義的暗黒社会に日本社会がさらに踏み込むことになるのである。
かなりの割合のサラ金は潰れ、サラ金大手でも青息吐息である。
これに伴って闇金が増えているだろうと予想されるが、その実態はまだ明らかではない。
竹中さんもFinancial Japanという雑誌での木村剛との対談でこういっている。
「確かにもっとも大きな綻びの一つが、グレーゾーン金利の撤廃です。海外に行くたびに、「日本の政府は、なぜあんなことをしたんだ」と非難されます。(snip) これは、実施してはいけない政策の典型なんです。しかし、多重債務者を救うという大義名分に隠れて、経済の本質的な議論をしなかった。」
このような経済統制を行った悪影響は、これからもっと深く進行していくだろう。闇金の増大はその一つに過ぎない。
ベンチャーという名の中小企業もかなりの影響をうけるのは確実だ。
社会全体の活力をなくし、社会主義的暗黒社会に日本社会がさらに踏み込むことになるのである。
Tamiflu
タミフルを飲んで異常行動をとる副作用が子供にごく稀にありそうだということで、これを禁止しようとする愚か極まりない動きがある。
今年のインフルエンザは、3月半ば以降に流行のピークがあったようで、私も3月の終わりにインフルエンザに罹患してしまった。タミフルを飲んだのも遅れたのであまり効果がなかった。
ところで、このようなインフルエンザの特効薬のようなものは今では他にもいろいろあるのだが、副作用があるから全面禁止にするなど、コストーベネフィットを無視した蛮行である。
インフルエンザの危険性は決して馬鹿にしたものではなく、死亡原因としては、堂々の4位に入る。アメリカでは全死亡原因として1位心臓病 2位ガン 3位糖尿病 4位インフルエンザ(肺炎)となっており、5位が自動車事故である。インフルエンザの死亡者は5位の自動車事故の1.5倍もある。死亡原因としては極めて重大であり、タミフルを使うメリットは極めて大きい。仮に1万人に一人副作用があったとしても他の9999人を救うためにはなくてはならないのである。
リスクというのは0にできないのが常識だが、メディアと厚生省にはこの常識は通用しないらしい。
立花隆という救いがたい馬鹿がタミフルを薬害事件だと主張しているが、いいかげんこういう有害な社会的ゴミはインフルエンザにでもかかって死んでしまうべきだろう。
今年のインフルエンザは、3月半ば以降に流行のピークがあったようで、私も3月の終わりにインフルエンザに罹患してしまった。タミフルを飲んだのも遅れたのであまり効果がなかった。
ところで、このようなインフルエンザの特効薬のようなものは今では他にもいろいろあるのだが、副作用があるから全面禁止にするなど、コストーベネフィットを無視した蛮行である。
インフルエンザの危険性は決して馬鹿にしたものではなく、死亡原因としては、堂々の4位に入る。アメリカでは全死亡原因として1位心臓病 2位ガン 3位糖尿病 4位インフルエンザ(肺炎)となっており、5位が自動車事故である。インフルエンザの死亡者は5位の自動車事故の1.5倍もある。死亡原因としては極めて重大であり、タミフルを使うメリットは極めて大きい。仮に1万人に一人副作用があったとしても他の9999人を救うためにはなくてはならないのである。
リスクというのは0にできないのが常識だが、メディアと厚生省にはこの常識は通用しないらしい。
立花隆という救いがたい馬鹿がタミフルを薬害事件だと主張しているが、いいかげんこういう有害な社会的ゴミはインフルエンザにでもかかって死んでしまうべきだろう。
Federalism in Japan?
日本でも道州制といった大前研一さんが唱えていたようなことをやろうとしているようだ。もっとも内容は良く知らないが、仮に大前氏のアイデアをベストエフォートとしてそれを実現したとしてもうまくはいかない可能性が高い。
アメリカのような合衆国制=連邦主義(Federalism)という分権システムは、アメリカのconstitutionalismと一体のものだからだ。
今までにも何度か書いたがアメリカのconstitutionalismとは、アメリカに特異なシステムである。たんに憲法があれば立憲主義というものではない。
議会の立法権限をも制限し、絶対的な権力を排除するシステムであってはじめてconstitutionalismと呼べるのである。
仮に道州制にしたとしても、constitutionalismなき分権国家というのは形容矛盾とさえ言えるだろう。
アメリカのような合衆国制=連邦主義(Federalism)という分権システムは、アメリカのconstitutionalismと一体のものだからだ。
今までにも何度か書いたがアメリカのconstitutionalismとは、アメリカに特異なシステムである。たんに憲法があれば立憲主義というものではない。
議会の立法権限をも制限し、絶対的な権力を排除するシステムであってはじめてconstitutionalismと呼べるのである。
仮に道州制にしたとしても、constitutionalismなき分権国家というのは形容矛盾とさえ言えるだろう。
On liberals
英米のメーリングリストなどに参加していた印象からすると、あちらの左派リベラルは、日本のそれよりもファナティックである。
リベラルの問題というのは、彼らが自分が社会主義の信奉者だとは気づいておらず、別の高尚な理念、平等やら博愛といった理念の信奉者だと思っている点にある。
あまりにも独善的であり、また勉強不足だ。
日本の教育システムはおそらくかなりアメリカシステムの影響をうけていると思うが、教育システムの類似性によって、アメリカでも日本でもこういった左派を再生産していることは確実だ。
そもそも日米関係うんぬんといった表現もナンセンスだ。あちらの政府とこちらの政府があったとして、日米関係とは、政府間のpoliticsの問題に過ぎない。
日本人一般もそんざいしないし、アメリカ人一般なるものも存在しないが、政府というと代表組織だから、アメリカ一般として受け取られるのだろうが、それは間違いだ。
しかし、WEBの登場によって社会的発言というのが一部の本や雑誌やTVなどのメディアに登場する人間に限定されていた頃と違って、あらゆる発言がWEB上で批判検証されるというのは、画期的だとは思う。
特権的な発言者というのが存在しなくなったのはいいことだ。
左派知識人なる連中の放言も、誰にも見過ごしにはされなくなったし、権威も通用しなくなった。東大教授といったって秀才かもしれないが馬鹿なことを言えば馬鹿なやつとしか受け止められなくなった。
こういう変化は大きい。
発言の場のスケアシティがなくなることで、発言のレベルは上がっていく可能性がある。
リベラルの問題というのは、彼らが自分が社会主義の信奉者だとは気づいておらず、別の高尚な理念、平等やら博愛といった理念の信奉者だと思っている点にある。
あまりにも独善的であり、また勉強不足だ。
日本の教育システムはおそらくかなりアメリカシステムの影響をうけていると思うが、教育システムの類似性によって、アメリカでも日本でもこういった左派を再生産していることは確実だ。
そもそも日米関係うんぬんといった表現もナンセンスだ。あちらの政府とこちらの政府があったとして、日米関係とは、政府間のpoliticsの問題に過ぎない。
日本人一般もそんざいしないし、アメリカ人一般なるものも存在しないが、政府というと代表組織だから、アメリカ一般として受け取られるのだろうが、それは間違いだ。
しかし、WEBの登場によって社会的発言というのが一部の本や雑誌やTVなどのメディアに登場する人間に限定されていた頃と違って、あらゆる発言がWEB上で批判検証されるというのは、画期的だとは思う。
特権的な発言者というのが存在しなくなったのはいいことだ。
左派知識人なる連中の放言も、誰にも見過ごしにはされなくなったし、権威も通用しなくなった。東大教授といったって秀才かもしれないが馬鹿なことを言えば馬鹿なやつとしか受け止められなくなった。
こういう変化は大きい。
発言の場のスケアシティがなくなることで、発言のレベルは上がっていく可能性がある。
On Poverty
最近、格差社会がけしからんうんぬんの話を良く聞く。
竹中平蔵さんなども、こういった格差論を批判して格差論の本質は貧困論だとして、貧困の実態調査を行うべきだと言っている。サッチャーの言葉のとおり「金持ちを貧乏にしても貧乏人が金持ちになるわけではない」のは自明であり、経済的なダイナミズムによる底上げしか貧乏人をましにする手段はないからである。
現代の貧困の実態というわけでもないだろうが、就職氷河期世代の貧困の話を先日「ガイアの夜明け」という番組でもやっていた。一定の住居がないためにマンガ喫茶で泊まったりと確かに惨めな状況だが、絶対的な貧困とはかなり違うだろう。
これは単にキャッシュフロー管理の問題もしくは別の目的の結果と思われる。そもそも1日7000円ー1万円の日雇い労働をやって、アパートにも住めないというのは、お金の使い方に問題がある。税金をはらっていないだろうから、実質所得としては十分あるはずだからだ。番組に出ていたフリーターは安い惨めな宿や、マンガ喫茶などに泊まって暮らしているのであるが、その金があれば安いアパートに住めないわけがない。
大体、就職氷河期の時代の全員がああなっているのではなく、どの世代でも一定の割合でああいった人間はいるはずだ。
しかし普通のサラリーマンはああいう番組をみるとぞっとするだろう。なぜなら、今運良くどこかの大企業の正社員であっても、もし会社を解雇されたら自分もああいったフリーターになるかもしれないと思うだろうからだ。
実際、正社員とフリーターの間に能力でなく単なる身分の違いしかないのであれば、ああなって不思議はない。
単なるサラリーマンというのは、運良く時流に乗る以外にはなにも残すことが出来ない可能性が高い点でリスキーなビジネスである。
「何も残せないのに、なぜそんなに一生懸命働くんだい?」という金持ち父さんの言葉はもっともだ。
Empolyee階級というのは、純粋に階級であって、そこでサラリーマン社長になろうともE階級であることには変わらない。E-S-B-I階級というのは資本主義に固有なものではなく、あらゆる社会に普遍的なものだろう。
システムを所有しないかぎり、EだろうとSだろうと日雇い労働者と本質的な変りがない。
だから、人間らしく自由に生きようとするならば、E階級に決して安住してはならない。また当然ながら政府はセーフティーネットも作ってはならない。下にネットがあるから安心して起業にチャレンジしてくれなどというのは、茶番以外の何物でもない。そんなことをすれば、リスクをとることに価値のある起業家の意味がなくなるだけだ。
もとより、会社制度とは個人のリスクを減少させるシステムであり、これで十分だ。
起業を政府が推奨するのもナンセンスである。セーフティーネットを作れば、逆に起業は減少するし、無謀?な起業家が増えれば増えるほどリスクに対してチャレンジする社会ムードがあることとなる。
政府がもし起業を推奨したいのであれば、減税と規制撤廃だけすればよい。
竹中平蔵さんなども、こういった格差論を批判して格差論の本質は貧困論だとして、貧困の実態調査を行うべきだと言っている。サッチャーの言葉のとおり「金持ちを貧乏にしても貧乏人が金持ちになるわけではない」のは自明であり、経済的なダイナミズムによる底上げしか貧乏人をましにする手段はないからである。
現代の貧困の実態というわけでもないだろうが、就職氷河期世代の貧困の話を先日「ガイアの夜明け」という番組でもやっていた。一定の住居がないためにマンガ喫茶で泊まったりと確かに惨めな状況だが、絶対的な貧困とはかなり違うだろう。
これは単にキャッシュフロー管理の問題もしくは別の目的の結果と思われる。そもそも1日7000円ー1万円の日雇い労働をやって、アパートにも住めないというのは、お金の使い方に問題がある。税金をはらっていないだろうから、実質所得としては十分あるはずだからだ。番組に出ていたフリーターは安い惨めな宿や、マンガ喫茶などに泊まって暮らしているのであるが、その金があれば安いアパートに住めないわけがない。
大体、就職氷河期の時代の全員がああなっているのではなく、どの世代でも一定の割合でああいった人間はいるはずだ。
しかし普通のサラリーマンはああいう番組をみるとぞっとするだろう。なぜなら、今運良くどこかの大企業の正社員であっても、もし会社を解雇されたら自分もああいったフリーターになるかもしれないと思うだろうからだ。
実際、正社員とフリーターの間に能力でなく単なる身分の違いしかないのであれば、ああなって不思議はない。
単なるサラリーマンというのは、運良く時流に乗る以外にはなにも残すことが出来ない可能性が高い点でリスキーなビジネスである。
「何も残せないのに、なぜそんなに一生懸命働くんだい?」という金持ち父さんの言葉はもっともだ。
Empolyee階級というのは、純粋に階級であって、そこでサラリーマン社長になろうともE階級であることには変わらない。E-S-B-I階級というのは資本主義に固有なものではなく、あらゆる社会に普遍的なものだろう。
システムを所有しないかぎり、EだろうとSだろうと日雇い労働者と本質的な変りがない。
だから、人間らしく自由に生きようとするならば、E階級に決して安住してはならない。また当然ながら政府はセーフティーネットも作ってはならない。下にネットがあるから安心して起業にチャレンジしてくれなどというのは、茶番以外の何物でもない。そんなことをすれば、リスクをとることに価値のある起業家の意味がなくなるだけだ。
もとより、会社制度とは個人のリスクを減少させるシステムであり、これで十分だ。
起業を政府が推奨するのもナンセンスである。セーフティーネットを作れば、逆に起業は減少するし、無謀?な起業家が増えれば増えるほどリスクに対してチャレンジする社会ムードがあることとなる。
政府がもし起業を推奨したいのであれば、減税と規制撤廃だけすればよい。
2007年04月01日
The Science of Liberty
リバタリアニズムというと極端な政治思想であるとか観念的な哲学くらいにしか思われていないのであろうが、ほんとにそうだとすると全くつまらない。
これを学術的なものとして象牙の塔の中だけで扱うべきではない。
またリバタリアニズムは政治思想である以上、政治改革を目指しているところもあるが、基本的には個人主義哲学であり、まず第一に影響をうけるのは個人の行動であるはずだと思う。どんな組織であっても変化はまず個人が先で組織はその後だ。
その点、リバタリアンにして現実の巨大ビジネスを作り上げたCharles G. Koch(コーク)の「The science of success」という本は面白そうである。KochはもともとMIT出身の科学技術者であるがハイエクやシュンペーターやフリードマンらに影響をうけ、それらを独学し、また単なる学習に留まらずそれらの思想をビジネスに適用し大成功した人物である。Cato研究所もコークの資金によって設立されたらしい。
アメリカのリバタリアニズムを影で支える大富豪の一人でもある。
Amazon書評から抜粋
”Both fit with Koch's libertarian philosophy of allowing people to make decisions and reap the rewards or penalties that result. Employees are given "decision rights" according to their demonstrated ability to make choices that result in lower costs or returns that exceed the company's "opportunity cost," which Koch defines as the returns from investing in the best alternative. "Any employee who is not creating value does not have a real job in the MBM sense of the word," Koch writes, although a worker on the assembly line might consider his weekly paycheck real enough.
Failure isn't necessarily penalized, unless an employee overlooked some necessary detail or put self-interest ahead of the corporation. "Business failures are inevitable, and any attempt to eliminate them only ensures overall failure," Koch writes.
Readers expecting a recipe book for business success will be disappointed, but those of a more philosophical bent will find Koch's observations fascinating. Not only has he digested the entire Ayn Rand syllabus of free market theory, but he's had the chance to put it to work from his headquarters on the plains north of Wichita"
" The author admits to being greatly influenced by some of the giants of economic scholarship, from F.A. Hayek and Joseph Schumpeter to Milton Friedman.
He attributes the success of Koch Industries to the leadership's concerted effort to meld management principles with the principles of the market economy, and much of the book explains how that translated into real-world decisions, strategies and directions that built the company over the years. ”
これを学術的なものとして象牙の塔の中だけで扱うべきではない。
またリバタリアニズムは政治思想である以上、政治改革を目指しているところもあるが、基本的には個人主義哲学であり、まず第一に影響をうけるのは個人の行動であるはずだと思う。どんな組織であっても変化はまず個人が先で組織はその後だ。
その点、リバタリアンにして現実の巨大ビジネスを作り上げたCharles G. Koch(コーク)の「The science of success」という本は面白そうである。KochはもともとMIT出身の科学技術者であるがハイエクやシュンペーターやフリードマンらに影響をうけ、それらを独学し、また単なる学習に留まらずそれらの思想をビジネスに適用し大成功した人物である。Cato研究所もコークの資金によって設立されたらしい。
アメリカのリバタリアニズムを影で支える大富豪の一人でもある。
Amazon書評から抜粋
”Both fit with Koch's libertarian philosophy of allowing people to make decisions and reap the rewards or penalties that result. Employees are given "decision rights" according to their demonstrated ability to make choices that result in lower costs or returns that exceed the company's "opportunity cost," which Koch defines as the returns from investing in the best alternative. "Any employee who is not creating value does not have a real job in the MBM sense of the word," Koch writes, although a worker on the assembly line might consider his weekly paycheck real enough.
Failure isn't necessarily penalized, unless an employee overlooked some necessary detail or put self-interest ahead of the corporation. "Business failures are inevitable, and any attempt to eliminate them only ensures overall failure," Koch writes.
Readers expecting a recipe book for business success will be disappointed, but those of a more philosophical bent will find Koch's observations fascinating. Not only has he digested the entire Ayn Rand syllabus of free market theory, but he's had the chance to put it to work from his headquarters on the plains north of Wichita"
" The author admits to being greatly influenced by some of the giants of economic scholarship, from F.A. Hayek and Joseph Schumpeter to Milton Friedman.
He attributes the success of Koch Industries to the leadership's concerted effort to meld management principles with the principles of the market economy, and much of the book explains how that translated into real-world decisions, strategies and directions that built the company over the years. ”

