2007年05月28日

The most expensive liquid?

 

「地球で最も高価な液体はインクだ」コダックがプリンター市場の価格破壊に挑む
2007年5月28日 月曜日 FINANCIAL TIMES,John Gapper
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20070525/125620/

 

この記事によると、コダックの「イージーシェアプリンター」で、詰め替え用インクカートリッジの値段を安くするらしい。(黒インクが9.99ドル、カラーインクが14.99ドル)
一方、プリンタ本体は通常より高めのようだ。

しかし、黒インクで1000円程度というのは、普通の量販店でメーカー物のインクを買うのとあまり変わらない。
この記事によると、”消費者はブランド製品の方がうまく機能すると思い込んでいるのだ”としているが、メーカー物を選ぶのは、消費者の間違った思い込みとも言い切れない。

さらに、”プリンターを頻繁に使用する人が、プリンターを安く購入しながら大して使わない人の分を支払わされている格好”とあるが、これも間違いだ。
もしプリンター本体を1万円で買った人が、結局1枚しか印刷しなければその1枚のコストは1万円となる。もし1000枚印刷すれば、1枚辺りの印刷に対するプリンタの減価償却?は10円だ。

前にもプリンタの問題は書いたことがあるが、インクの高価格に対する消費者の憤慨があるとすれば、それは錯覚に過ぎない。
この記事でもHPのプリンタ部門の収益は16%だからあながち暴利をむさぼっているとも言えないと冷静なことも書いているが、もし、暴利になるような価格設定構造があるのであれば、そこを競合他社が必ずついてくる。
インクプリンターという現代の写真印刷装置は、本物の写真DPEなどの多くの競合要因を外部に持ち、ぎりぎりの合理的な価格設定になっている可能性が高い。

それにコダックの戦略は、インクの値段としてそれほど劇的に安いわけではないから、プリンター市場に対するインパクトにはならないだろう。
業務用で使うヘビーユーザーは、インクジェットプリンターでなくレーザープリンターを使うのであり、インクジェットプリンターという一般家庭用途の使用頻度の低い周辺機器に対して、ヘビーユーザー向けの価格戦略をとっても、もともと魚のあまりいないところに釣り糸を垂らすことになるだろう。

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2007年05月27日

Space Oddity

2000年問題が騒がれたのはつい最近のような気もするが、すでに2007年となり随分な時間が経っている。しかし、私が今使っているパソコンは2000年前後に作られたものばかりだが、性能的には十分だ。この頃のパソコンはキーボードから全体的な造りが”高級”なので、いまだにこちらを使うほうが多い。
インタフェースとしては、UNIXのCUIのコマンド方式というのは完成されたものであり、CUIに慣れて習熟すればこちらのほうが快適だろうし、ぼけ防止にもなる。人間は本来、命令をするのが好きなのだろう。

だが、CUIには一般ピープルを取り込む商品性があまりなかった。
GUIによって一般ピープルを取り込むことが可能となったのであり、GUIを快適にするという名目でCPU性能も向上してきたのが、この10年だ。
CUIは人間がコマンドを打ってパソコンに命令し、パソコンが答えるという対話的なインタフェースだが、GUIにはコマンドという発想がない。むしろ人間が文房具のようにパソコンの画面で作業をするというイメージだ。その点でCUIとGUIでは作業イメージが大きく異なる。

パソコンの性能向上はかぎりなく指数的に進んでおり、今後はその過剰なパワーをどのように使うかが問題となる。今のパソコンは2000年頃のパソコンと比較しても数十倍の性能だろう。だが、別にWin2000やXPを使って普通の作業をする限りは大した違いがない。
この過剰なマシンパワーの活用とは商業的な意味も含めて問題になるという意味である。

ひとつにHomeのような3次元スペースをデスクトップ空間に作りこんでいく方向がある。
HOMEもいわばインタフェースの一つであり、こういった3次元インターフェースによって、仮想的な空間(Space)を生み出していく方向に進みそうな気がする。


今までの2次元のGUIを3次元化すると、デスクトップからデスクスペースに変わり、人間がその中に入り込むイメージになる。これがセカンドライフやホームである。
最近のGPUの性能も凄まじいが、それらの進化のもたらす結果として、パソコンは人間が入り込むスペースに変化していくだろうと思われる。WEB3.0はこういった3D空間の方向性にあるだろう。

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2007年05月26日

PS3

PS3をついに手に入れた。
これは、実際にさわってみると思っていたよりも凄いマシンである。
私のようなゲームに全然関心のない人間にとっても、このPS3はAV機器として恐ろしいほどのコストパフォーマンスを持つ。

BlueRayプレイヤーということはおいておいて、cellによる超高性能オーディオとしてだけでも、数十万円の価値があるだろう。DVDプレイヤーとしても素晴らしい。普通のDVDプレイヤーとは次元を異にする性能である。
 オーディオ、ヴィジュアルのプレイヤーとして、それをすべてCellによってコントロールしているのが凄い。つまり、いわゆるアナログ回路は搭載せず、DA処理をすべてCellによるリアルタイムソフトウェア処理で行っている。これがおそるべき性能だ。DVDアップコンバートにより、DVDの縦480を2倍の960に拡大するのだが、この画質が実にきれいだ。こんなことが可能なのは不思議なことだが、背景で超複雑な画像処理をCELLのパワーを生かしてリアルタイムに行っているのである。

DVDは最近の大画面液晶テレビには使えないと思っていたが、PS3を買ってよみがえった感じだ。
昨日の5月24日にファームウェアアップヴァージョンにより、また劇的に性能が向上した。
また、このフォトアルバムというデジカメ写真のアプリケーションも凄い。

またFolding@HOMEというたんぱく質の折りたたみシミュレーションも素晴らしい。
これは、CELLのコアな性能をフルに活用した数少ないプログラムだろう。ほんの数年前まではこのようなシミュレーションは本物のスパコンでないととてもできないものであった。
これをおもちゃ価格のPS3がほんの数時間でやってしまうのである。
これを見ているだけでも私は興奮した。

感想のまとめとして、AVマシンとしてだけでもPS3を手に入れるべきだ。
AVマシンとしてだけでも数十万円(50万円以上)の価値はある。購入に躊躇する必要は全くない。

これは買いである。
#ちなみにHOMEはまだやっていない。
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2007年05月24日

Disincentive system

宋 文洲さんの次のコラムには少し共感した。
”長男「セイゾウ」がそのお下がりを弟たちに着せる”(登録必要)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070515/124837/

 

人材の流動性が極端に低く、既存の大手の製造業に囲い込まれているのが日本の本質的な問題点だ。
いわゆるentreprenuershipを抑圧する条件(disincentive)がマクロにあるのであり、それを問題としなければならないのは当然なのだが、こういう当たり前のことをきちんと言える人間は少ない。

また、日本のソフトウェア産業がだめなのは、いまだに人月で成果物評価を行っているという従来の製造業モデルを踏襲しているからであり、なぜそうなるのかといえば、これが日本の役所と税務署から認知された積算方法だからだと指摘しているが、結局、役所が悪の根源なのである。

政府のやることは効率が低いというと、では役人は頑張って効率を高めましょうとなりがちである。
だが、政府は効率が低いからだめなのではなくて、仮に民間と比べて効率が高くともだめなのだ。
成功している企業は、おそらく競合企業よりも効率が高い面を持っている。しかし、その効率は常に変動し、ライフサイクルに応じても変化する。
マーケットにおいて自由があれば、新しい企業はその効率の点で旧い大企業にチャレンジできる。
組織の効率とは決して定数ではないし、絶対的な比較が意味のない数字なのである。

政府が本質的に駄目であるのは、政府とは法律を用いて自由を抑圧する機能がその本質だからだ。
政府が法律を用いたルールによる問題解決アプローチをとり続ける限り、一時的な”問題”に過ぎないものが恒久的な不自由に帰着する。そしてそのルールは、絶対的な法によって保護された特権に変質することになる。限りなく不自由を作り出し、disincentiveを生み出していく。
戦争で一旦はrebootされた日本の国家システムも、60年以上たち、蓄積された法的なdisincentive systemによって社会を徹底的に閉塞させているのが現実だ。
このような制定法主義そのものが、治癒しようのない病なのだろう。


ところでIMDの出した2007年の国際競争力ランキング表は以下のPDFでみれる。
http://www.imd.ch/research/publications/wcy/upload/scoreboard.pdf 

2年前の起業ブームを叩き潰したのはあきらかに、ライブドアへの検察の暴力介入である。
この影響はずっと後を引く可能性は高い。
もっと起業をしてほしいのであれば、ライブドア裁判で検察が正当に敗訴することが必要だ。 そうでなければ日本は法治国家ともいえない野蛮な東洋の3流国に終わるだろう。
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2007年05月20日

The Metaverse

現在、PS3のHomeをやってみたいと考えている。
その前に当然PS3を手に入れる必要があるが、今では簡単に手に入るので、いつでも買えると思うとなかなか買わないものだ。
このHomeは、PS3版のSecondLifeだが、これは4年越しの構想で出来たものらしい。SecondLifeよりも先に開発が行われていたのだろう。
これはPS3のキラーアプリになる可能性も高い。アメリカでブレイクするかもしれない。

http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2007/0312/kaigai342.htm
 
私は実のところSecondLifeもまだやったことはないが、仮想現実に所有権もしくは所有権を保護するシステムを生み出すことができれば、これはやはり革命的なことだ。もっともネット空間のPrivatiseは今にはじまったことではない。
Virtualな世界であっても私的所有権はいわば自然権であるから、それはリアルな所有権だ。
所有権があれば、交換が発生し、法が生まれるだろう。これをあくまでレッセーフェールにまかせることができればすばらしい。だが住民のインセンティブシステムがリアルな世界に依存しているとなると、レッセーフェールを政府が放置しない恐れが強い。
SecondLifeでは、すでに警察がVirtual世界に入ってきて違法活動を摘発しているらしいが、現実にある法を適用されたら全くつまらない。

アナルコキャピタリズム研究(仮)にあるように、これはリバタリアニズムの実験場となる可能性が大いにあるのである。
http://anacap.jugem.jp/?eid=10

 
この可能性についてはもっとじっくりと考えてみる価値がありそうだ。
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2007年05月17日

Totaltarianism by CSR

株主,経営者,従業員と、この3つの法的立場の異なる存在が企業内にはある。
株主はその会社の所有者であり、経営者は株主から委任された存在である。
従業員は、経営者との間で雇用契約を結んでいるだけの労働者である。

従来、日本の会社では株主ー経営者の委任関係が曖昧にされつつ、従業員が出世して取締役や社長になるという出世コースがどの会社でも当然のようにあったから、経営者と従業員の距離は連続的な近いものと感じられてきたが、法的な立場で言えば、大きな隔たりがある。

株主から委託された会社の執行権限者としての経営者は、株主利益のために代理人として動いているという点で従業員よりも経営者に近い存在といえる。
アメリカ型と日本型の経営がしばしば対比されるが、この点は会社法上でアメリカ型も日本型も変わりがない。

意外と解釈が難しいのは、従業者間の関係だ。従業者間では当然に多くの仕事を頼んだり頼まれたりして業務を行っていくわけだが、この間にはどのような契約があるのかというと、明示的な契約は何もない。当然、頼まれた仕事をちゃんとやらなければ評価に響くわけだが、ここに債権ー債務関係があるようには見えない。
いわばこの間の契約はimplicitな契約であり、雇用契約から派生した自明のものと考えられているわけだ。

経営者と従業員の間で労働契約という血の契りを結ぶと、あたかもファミリーの一員のようにして動くわけだが、そこで必要なのが、経営者と従業員との間の連続的な関係性である。
現実は、経営者と従業員は異質な法的存在だが、それを隠蔽するのが、従来の日本の出世(昇進)システムだったといえる。社員といえば法的には株主を指すが、従業員のことを社員と呼ぶ慣習も法的事実関係を隠蔽する言葉のマジックといえる。

だが、株式会社の所有権が株主にあるという法的な明白な事実すらも隠蔽しようとする今の風潮は尋常ではない。
現在、コンプライアンスだCSRだと世の風潮の尻馬にのって騒いでいる連中こそが法的に最も危険な存在といえる。

なぜなら、これらの問題は本来、裁判所で解決すべき問題だからだ。コンプライアンスだなんだという話を聞くと、なんでこんな事件が裁判にならないのかという泣き寝入りの実態が多いことがわかるが、普通の日本人は弁護士も含めてそれを奇異なこととも思わない。
日本の裁判システムがほぼ全く機能していないことを前提として、コンプライアンスやCSRという名目の全体管理強化により問題の事前予防を計ろうとしているわけだが、このことが逆に法の大原則である、契約自由の原則も、個人の自由の保証をも破壊することになり、日本的社会民主主義つまり全体主義の強化を推し進める最悪の結果に帰着するわけだ。

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2007年05月05日

Denationalisation of Money

以下の設問は、F.A.Hayekによるものである。
「貨幣発行自由化論」より抜粋する。

1. 一国にはただひとつの通貨が存在すべきであり、かつそれは政府によって管理されなければならないという長く持ちつづけられてきた見解を検討せよ。遠い過去の歴史と最近の歴史から例を挙げて読者の議論を説明せよ。

2。法貨の起源は何か。法貨は貨幣制度の不可欠な基礎であるかどうかを議論せよ。

3。貨幣を定義せよ。それは非貨幣資産とどう区別されるか。貨幣の「数量」という概念は適切かどうか議論せよ。その議論を貨幣「数量」説に適用せよ。

4。「経済の必要に応じ貨幣の供給を変化させうるように政府が貨幣を管理することは望ましいことである。」
「貨幣が政府によって統制されてきたために、人々は貨幣に対する信頼を失ってきた。」
これらの点を議論せよ。

5。歴史の示すところによれば、「法貨」である紙幣に対する信頼が時に失われている。競争紙幣制度はどのようにして公衆の信頼を維持することができるのか。

6。「信頼されるためには、紙幣は価値をもった財や貴金属に交換することが可能でなければならない。」読者は賛成するか。この交換可能性が不可欠である場合とそうでない場合の条件について論じよ。

7。貨幣量が政府によって統制されなければ、インフレーションおよびデフレーションが生じるのは困難もしくは不可能であろうという見解について議論せよ。
1929ー32年の大恐慌と1972ー75年の大インフレーションより、読者の解答を例証せよ。

8。好況と不況は、「資本主義」と結び付いている。それらは資本主義でない経済においても見られるか。それらは資本主義の結果なのかそれとも他に原因があるのか。

9。「利害関係者の激しい圧力を受けあるいはそれにさらされている貨幣当局が、雇用増大のために貨幣量の増加、これによるインフレーションの発生を回避することは政治上は不可能である。金本位制や固定相場制、さらにその他の貨幣拡張を阻止するような制約は不十分であることが分かってきた。」
これらの点を議論せよ。

10。通貨の国際移動を統制する一国の政府権力をどのようにして取り除けばよいか。国際協定で十分であろうか。それよりも通貨のでの競争の方がどれだけ効果的であるか

==========
大学の経済学の教授にお金、もしくは通貨とはなにかを聞いてみれば、その人の経済学理解の根本がどのようなものか簡単にわかるだろう。
moneyもしくはcurrencyとは何かは、経済学の基礎論にあたるDeepなポイントだ。
ほとんどの経済学者は、通貨(=currency)として法貨(=legal tender)以外のものを想定すらしていない。
この本の翻訳をした川口慎二氏のあとがきには、「現代は”貨幣論のない金融論”の時代である。これは貨幣法定主義を前提としかつ金融規制が支配的であったこれまでの制度からの当然の結果であると考えられる。」とある。

ハイエクによれば、通貨発行の政府独占こそが、インフレーションを招き、景気循環を引き起こす原因である。これに対し、民間銀行が発券銀行となり、様々な種類の通貨を発行する競争を行うべきだとしているのである。通貨の信用は民間企業の競争の中から生まれるとする。
インフレーションとは、一般物価価格の”平均的”上昇ではない。そうではなく価格が平均的には上昇せず、相対価格の構造を破壊し、その結果として誤った資源配分や、投資がされることこそが問題だと分析する。

M.フリードマンのマネタリズムには、賛同しつつも、フリードマンの現実主義に対しては「現時点で可能なことを決定するのは政治家の任務であり経済学者の任務ではない。経済学者がこうした姿勢を固執しつづけることは災害をもたらすことになるであろうことを指摘しつづけなければならない。」と書いている。
posted by libertarian at 20:57| 東京 ????| Comment(1) | TrackBack(0) | F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月03日

DualBoot

旧いノートパソコン(IBM T23)のDual boot化を試みた。
非常に面倒な作業ではあったが、頭の体操にはなる。ただし時間がかかりすぎるし、完全に思うとおりに行ったわけではない。まだ、しばらくパソコンと格闘しなければならない。
すでにややうんざり気味である。

今回、Windows2000proとFedoracoreをDualBootにしたわけだが、一旦、Win2000の領域のイメージコピーを行い、新たにLinux用の領域を作り、そこにlinuxをインストールするだけではあるが、なかなか一筋縄では行かない。CD-Rなんてものはついてないし、外付けのScsiHDの容量も貧弱なので、何をするにもいろいろと工夫を要するのである。

コンピューターリテラシーというかパソコンを使えるとは、一体何を意味しているのであろうか?いわゆるOfficeのようなアプリケーションの使い方に習熟する以前の基礎的操作がある。Windowsパソコンであれば、次のことだ。

1.パソコンのスイッチを押してパソコンを起動できる。
2.アプリケーションの起動と終了ができる。
3.エディターで入力できる(かな漢字変換の使い方を知っている。)
4.ファイルを自在に扱える。(ファイルを見つけて、移動、コピー、削除ができる。)

大体、以上の4つが出来れば、パソコンリテラシーは充分にあるといえる。
というか普通の人はこの程度の操作しかしないだろう。

このうち1−2は多分誰でもすぐに出来る。
3になると習熟に結構な時間がかかる。4になると、さらに少し敷居が高くなるのかもしれない。
この他に通信関係の設定が煩雑で知識とノウハウを要するが、これも今では自動的に大体できるようになっている。

Linuxに関して言うと、最近のLinuxのGUIは良く出来ているが、4の仕組みが大きく違うことによる敷居の高さは否めない。
そもそもMacにしても、そのGUIの思想は、ファイルを論理的に扱うのではなく、あたかも現実の紙やファイルといった物体であるかのように(メタファーとして)扱えるようにするということであった。WindowsもMacのそれに近く似せて作ってあるから、比較的一般人にも分かりやすい。

だがLinuxでは、ファイルシステムが大きく違うし、これを理解するのもかなりの習熟を要する。それどころか3のエディターも、viやemacsから使えと書いてある愚かな入門書が多くあり、困惑することになる。たかが文章書くのに、なんでこんな面倒なことを沢山覚えないといけないのかと当然に思うわけだ。ViやEmacsの使い方に習熟しろというのはオタクに多い独善主義以外のなにものでもないだろう。

さらにWindowsと違ってLinuxは通常プリインストールされていないから、インストールから始めないといけない。LinuxのインストーラーはおそらくWindowsのよりも良く出来ているが、いきなり、ファイル操作とシステム設定という中級以上の知識を要する作業から始めないといけないのが、Linuxへの敷居を絶望的に高くしている。
こういったインストール作業は、パソコンを使用する上では、通常、あってもせいぜい1回しかないことだろう。以前より簡単になったとはいえ、普通のユーザーにとっては、家電製品をキットで買ってきて技術解説書を読みながら自分で組み立ててから使えというようなものだ。

要するにサーバー用途ではLinuxは、すでにデファクトに近い存在だろうが、一般コンシューマー用途としてみれば、まだまだLinuxはコンピューターオタクやマニアのものだというのが依然として事実なのであろう。

私の場合、一体何故Dual boot化をしようとしたのかその当初の目的も忘れてしまった。
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2007年05月02日

Self-apparent inventions

米連邦最高裁、特許の「自明性」を判定する法的基準の緩和を命じる

CNETの記事より次に抜粋


 ”米連邦最高裁判所は米国時間4月30日、これまで長い間特許をめぐる裁判に適用されてきた法的基準について、これを覆す判断を担当裁判官の全員一致で下した。この基準をめぐっては、特許とされるだけの価値がないのに特許と認められる、いわゆる「自明な特許」が大量に生まれる温床になっているとして、ハイテク企業からの批判が強かった。

 今回の判決により、質に問題のある特許への異議申し立てをより簡単にするものとして、大いに待ち望まれていた判断が裁判所によって下されたことになる。既知の発明要素を組み合わせたものを、どこから新しい特許と認めるか、その条件をめぐっては、知的財産権に関わる訴訟を専門に扱う連邦巡回控訴裁判所(CAFC)が設けた基準があるが、今回の判断で、裁判官たちは現在の基準を緩和するよう求めた。

 Anthony Kennedy裁判官が執筆した多数意見(PDFファイル)の中で、最高裁は、「真の新しい要素がない、通常のプロセスで生まれた技術進歩に特許による保護を与えることは、進歩を妨げる危険性がある。さらに、既知の発明要素を組み合わせた特許の場合は、これより先に発明されたものの価値や有用性を損なうおそれがある」と述べている。
[http://www.supremecourtus.gov/opinions/06pdf/04-1350.pdf]

 今回の判決に対し、ハイテク企業はただちに歓迎の意を表明した。以前から、IntelやCisco Systemsをはじめとするシリコンバレーの有力企業数社は、下級裁判所による過去の判決の修正を求める文書を、最高裁に提出していた。

 「今回の判決は、特許を与える価値のない特許や出願について、特許審査官が選別して却下する機会を増やし、特許の質を回復するのに大いに役立つだろう」と、Business Software Alliance(BSA)の顧問弁護士であるEmery Simon氏は言う。BSAには、Adobe Systems、Cisco、Microsoftなどの企業が参加している。

 連邦法には、同分野で「平均的な能力」を持った人なら誰でも考案可能と思われる発明には特許を付与できない、と明記されている。しかし、発明は自明だと後から主張するのは簡単なことから、CAFCは1982年、より客観的な結論を出せるようにするため、法的テストを設けた。

 この自明性テストを満たすには、実際には書面による証拠が必要なことから、自明だとの主張のあった特許でも、これを覆すことは困難になり、しかも、この基準のおかげで、米特許商標庁からの特許の取得は容易になった、との批判が起きていた。ハイテク企業の場合は、新しい製品やアイデアを考案するペースがおしなべて速いため、文書による証拠をそろえるのはとくに難しいとの不満が強い。

 今回の判断を示した連邦最高裁の裁判官たちは、自明性基準をめぐる以上のような批判に理解を示している。「発明をめぐる知的探求、および現代のテクノロジーの多様性を見るに、(自明性に関する)分析をこのような形で制限することはそぐわない。多くの分野では、手法や要素の組み合わせについて、その自明性を問う議論はほとんど行われず、開発の方向性を決するのは、科学論文よりも市場の需要である場合が多いはずだ」と裁判所は記している。 ”


俗に言われる、アメリカのプロパテントはもはや後退局面に入った。そもそもプロパテントなる政策が本当にあったのかどうかも微妙なのであろうが。

Kennedy判事の元の文章は以下の部分である。

The diversity of inventive pursuits and of modern technology counsels against limiting the analysis in this way. In many fields it may be that there is little discussion of obvious techniques or combinations, and it often may be the case that market demand, rather than scientific literature, will drive design trends. Granting patent protection to advances that would occur in the ordinary course without real innovation retards progress and may, in the case of patents combining previously known elements, deprive prior inventions of their value or utility.

開発の方向性は、市場の需要によって決まるとした見解は重要だ。発明そのものも、その発明の価値も市場と切り離せない。いわゆる学問とはそこが違う。発明そのものに価値があるのではなく、市場で利益を生む製品に市場価値があるのである。
だから、発明と言うアイデアそのものを保護する必要は本来的にない。
もし保護をしたいのであれば、不競法の改正で製品の保護を強化すれば済む話だろう。

また、知財法のような法律のメリットーデメリットというのは分析してもあまり意味がない。その法制度がなかったときのメリットーデメリットが、わからないからだ。
だが、特許のような産業政策法がなかったときのデメリットとは一体なんなのか?それはデメリットではなく、単なる一つの自然な現実に過ぎない。
単なる現実であるから、企業はその現実に自然に対応するだけだ。
それがどのような形になるかを予測することも意味がない。
ただ政府の独占特権システムを廃止したからといって、何の問題も起こるわけがないだろう。

posted by libertarian at 01:44| Comment(0) | TrackBack(0) | IPR(Intellectual Property Right) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月01日

Crusader

政治とは社会運動であり、社会運動が政治だともいえる。
そして社会運動のほとんどは、ごくごく一部のマイナーな数人の人間たちの利害や、理想、観念というものによって作られる。
かつての社会主義、共産主義運動もしかりだ。
だが、このような社会運動は先進国では条件付で、ある程度は阻止することができた。
その条件とは、社会主義そのものを多数決の原理にのっとり、取り込むことだ。全面的な否定ではなく、ある程度それを内部に取り組むことで、それ以上の拡大、革命沙汰が阻止されたことにはなる。だが、この結果による社会民主主義化は先進国を芯からむしばむことになった。

法律というのも、国会で特定利権団体の利害関係によって作られ、それ以外の人間、つまり国民の内、数十人以外の人間はそれを全く知らない。当然に立法過程も知らなければ、どんな法律ができたのか、どんな法律があるのかも知らない。まして、その法律が何を意味するのかなど知る由もない。
個人情報保護法しかり、昨今の健康増進法もしかりだ。

これが自由企業であれば、社会制度などは作らないし作れない。どんなに強力な標準を作ったとしても、一時的なものであり、やがて別のものに置き換わるか、自然に淘汰される。Microsoft のWindowsしかりTCP/IPさえもしかりだろう。

立法権限に一切の制限を設けない”デモクラシー”は、こういった誰もあずかり知らない法律を一部の特定利権団体や個人の意図だけで膨大に作ることができるのが最大の欠点だ。そして立法の結果は、あまねく世の人間を拘束する。
つまり、現行のデモクラシーの問題は衆愚政治にあるというより、数人〜数十人の特定利益、特定理想?がその他1億人以上の全体を拘束するという点にある。
一人の人間の観念や妄想が10^8以上に増幅され、他者を拘束し、自由を侵害するのが、現行のデモクラシーの根本的な悪といえる。

これに対するデモクラシー上の対策は、国会の立法権限を憲法によって制限(enumerate)することにある。だが、国会もこのような既得権益を離すわけがない。
一方の裁判所はどうかというと、これも司法官僚制であり、行政官僚組織との違いが本質的にない。

また、実定法主義のもとでは、井上元判事が言うように司法の裁量は極めて少ない、もしくは本来的にない。となると国会という特定利益の代表者集団の立法権力が突出しすぎることになる。
ここで現行のデモクラシーの枠組みの中で3権分立のバランスをとろうとしたら、司法の違憲立法審査制度の実質的な復活しかないかもしれない。
だが日本の憲法は、アメリカのような制限憲法ではないから、司法の国会に対する抑止力も、その要を欠いている。

こういった日本の状況は、どこに向かっているかはほぼ明らかで、ようするに国家社会主義強化の道を驀進しているわけだが、それが環境やらCSR、コンプライアンスといった、少しマイルドで曖昧な表現に置き換わっているだけだ。
この2−3年の日本の空気は、個人情報保護法の制定辺りを境として、極めて不穏なものがある。

リバタリアニズム的には当然政府のサイズは0でもいいが、今の政府が100000000としたとき、0と1の違いを問題にしてもあまり意味がない。
政府とは、徴税権力を柱とした立法権力をはじめとする独占権力の集合体だとすれば、その本丸は徴税権力であり、これを制限しないことには、小さくはならないとも考えられる。だが周辺の立法等の独占権力を制限する方が効率的なのかもしれない。この全体主義システムをどのように解体すべきかについて戦略をたてたリバタリアンはいないだろう。

アメリカの場合、建国の父たちが憲法の中に自由の原理の種を蒔いていたために、未だにバーネットの主張する通り、constitutionalismが全体主義に対する有効な対抗手段となる。
逆に日本も憲法をいじって、事後的にでも自由の原理をその中に取りこませる必要があるのかもしれない。
これは、多くの法律の中に社会主義の種を蒔いた、かつての全体主義=社会主義運動家たちと同様のことをするということである。
posted by libertarian at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする