殆どの人間は、特に全体主義的でもなく、特に個人主義的でもない。
少なくとも、殆どの人間は自分をそのように思っているはずだ。
この点はその人間の頭の出来の良し悪しにあまり関係ない。大鶴特捜部長も大蔵官僚もそう思っているだろうし、そこらのパンピーもプータローもそう思っているだろう。
この点を社会の構成員全体が勘違いしている限り”社会”は自由から逸脱しつづけることになる。
さらには大鶴特捜部長のように、自分を絶対的な安全圏に置きながら、社会の名において、また公共の名において、自己の得点稼ぎ、立身出世のために”公共権力”をかさにきた卑劣極まりないスタンドプレーを行うリンチ社会になる。私は大鶴に限らずこういった人間を激しく軽蔑し、決して許さない。
社会は、自立的な秩序を持ちうる。ただし、そこに自由競争があればという条件がつく。
なぜ、競争が重要なのかは、トートロジーのようだが自由競争とは、個々の人間が自由に行動することができることの結果だからといえる。
競争を重視することとは、人々の自由、行動の自由を最大限認めることと等しい。
他者の自由、行動を制限すれば競争は成立しない。自分だけが自由で、他の人間が全て不自由であればそれは好都合なことかもしれないがそれは独裁者だけの特権といえよう。
今は競争を制限しようとして、社会全体、全ての人間の自由をお互いに縛ろうとしている。
競争社会を認めその中で自ら活動することは、他者の自由を尊重すること、または他者への強制ができないことを意味し、それが結果的に社会全体の自由を守ることになり、良い意味での自生的な秩序を作るのである。
ハイエクの言う自生的な秩序(spontaneous order)とは、意図せずして生まれる価値のことであり、消極的な価値(negative value)を意味する。
競争の価値とは、それが商品、サービスを向上させ、価格を低くさせることにあるのではない。これらは派生的な”効用”に過ぎないと見るべきだ。
競争が可能な社会とは、自由な行動が可能で保証されている社会のことだ。自由が失われれば、当然にそれだけ社会の自由競争はなくなる。また逆も真なりで、競争を制限すれば、それだけ自由は失われる。
「競争を作用させるために必要とされるのは一般に合理性ではない。逆に合理的な行動を生み出すのは競争、あるいは競争を容認する伝統である。」
このハイエクの文章で、競争を”自由”と置き換えても意味が通るだろう。
== LLLより以下引用===
”・・だが、合理的行動はしばしば経済理論の前提として述べられているが、そうではない。理論の基本的な論点はむしろ、競争によって人々は暮らしていくために合理的に行動せざるをえなくなるだろう、ということである。
それは市場過程への大部分の、あるいはすべての参加者は合理的であるという仮定に基づいているのではなく、反対に、少数の相対的により合理的な個人の存在がその他の人々に必然的にかれらと張り合わせ、優劣を競わせることになるのは、一般的に競争を通じてである、という仮定に基づいている。
合理的な行動がその個人に何らかの利益を与える社会においては、合理的な方法が次第に開発され、模倣によって広められるだろう。もし合理的であることから利益を得ることができないなら、他の人々より合理的であっても無駄である。
したがって、競争を作用させるために必要とされるのは一般に合理性ではない。逆に合理的な行動を生み出すのは競争、あるいは競争を容認する伝統である。”
ハイエク 「法と立法と自由」3巻より

