以前、ブライアンカプランが自分のホームページで、世の中の人があまりにも経済学的な酷い誤解を沢山しているために、政府も政策を間違え続けるのだというようなことを書いていた。世の中の人というのは、ほぼ全ての人である。学者であるか研究者であるか、経済学者であるか否かも関係ない。
経済学では、現在もまだイデオロギー上の対立が強く、経済学上の結論なるものも、そのイデオロギーから演繹されているようなものが多い。
そのため、経済学における学問的な真理も、あまり定かではない状態だ。
こういう点が、自然科学とは大きく異なる、経済学がまだ科学とは呼べない理由だろう。
といっても、ある程度異論のない決定的な部分もあるはずで、D.フリードマンがいうように、それはクラシカルリベラルの知見であったりする。
#前にも書いたように、モンペルランソサエティの活動は、クラシカルリベラルの知見を第三世界の左翼知識人に教授することにある。
しかし、世の中の人間がどれほどに経済に関する誤解をしまくっているのか、アンケート調査を大々的に行ってみると面白いだろう。
いかに世の基礎教育が酷いかが明らかにする意味で重要だ。算数や英語の学力よりも、酷いことになるのは確実だろう。
義務教育から大学教育にいたるまでの間違った教育により、でたらめなご意見が生まれ、そういった間違った信念、ご意見による多数決で政策が動いていくから世の中はどんどんおかしくなっていく。
世の中の人にある程度、直感的にでも正しい見識があれば、それも政策に反映されうるのである。しかし、ここだけは、間違っちゃいけないという点もほとんどの人は間違って考えている。この傾向は高等教育が一般的になって、かえって酷くなっているのではないか。
左翼教育と、左翼的な政策がカップリングすることで極めて強力かつトンデモナイ政治勢力を主流派として形成しているのだ。
#とはいえ、郵政民営化を国民の相対多数は支持したわけだから、意外と過半数の人はあながち直感的には間違った判断をしていないのかもしれない。
池田さんが熱心に言っている正社員とフリーターに対立があるという話も、基本的には間違っている。
私企業は、公器(institution)では断固ないので、従業員を採る、とらない、さらに誰を採用する、しないも企業の勝手なのだ。こんなことは社会問題ではありえない。
私企業に問題とすべき既得権益があるとすれば、政府によって作られた参入障壁であり、法的特権だけである。#分かりやすい例では、電波利権のような異常な法的特権はすぐにでも取り上げるべきだ。
他にも、参入を制限する特権は莫大な数がある。公共道路で、モノを売るのが制限されるように、公共の領域が増えるほどに、だれにもハンドリングできない領域が広がるということで、参入の自由、活動の自由がなくなる。
本質的な対立は、StateとSocietyの間にある。私企業というのはいかに巨大になろうとも原則は、私の領域〜Societyの領域にあることを間違えてはならない。
2007年09月26日
2007年09月25日
Backroom boy
日経ビジネス(2007.8.27)に、竹中平蔵氏の話が載っていた。
以下に、これから少し抜粋しておこう。
=========
・無難な舵取りによる政権維持が難しい今、国論を二分するような大きなテーマ設定が必要な時を迎えたと私は考える。
・昨秋、安倍総理と近い人たちと議論したことがあった。郵政民営化に匹敵するような、つまり国論を二分するような強い政策を打ち出していかないと、来るべき参院選は厳しい結果になると思うとその時申し上げた。これに対して総理に近い人たちは、衆院における与党の圧倒的な力を背景に、無難な政権運営を続きていくという意向を示された。私はそこに疑問を感じざるを得なかった。
・必要なのは、政策に関して国民が何を求めているかのマーケティングをつぶさに行い、そこから大いなる議論が沸き起こるアジェンダ設定を考えることだ。それがうまくいけば、賛成する人、反対する人が半分ずつ出てくる。
・野党が訴えてきた格差是正の政策を見ていると、それこそ「国土の均衡ある衰退」とでも言いたくなる内容である。・・時代遅れのバラまき政治の復活に過ぎない。
・参院での与野党逆転という環境下の国会は、与党と野党の議論の透明度を増し、結果として官僚や族議員による密室の思惑を排除する。
========
2005年の総選挙での自民党の大勝のとき、私は小泉さんには、頭のよい(選挙)参謀がいるようだと書いたが、
それはまさに竹中さんだったようだ。
逆に安倍さんは、小泉さんと違って優秀な参謀選びに失敗したか、もともといなかったのであろう。
http://libertarian.seesaa.net/pages/user/search/?keyword=%8F%AC%91I%8B%93%8B%E6
以下、これから一部再録。
”・・・小選挙区制とは相対的多数の意見を反映し統一的な国家意思なるものを実現しようとする制度だからである。
マイナーな立場の人間がほとんど選出されなくなるから、いわゆる”改革”がやりやすくなる。
一方、各選挙区から1名しか選ばれないから当然、死票は多くなる。
こういう選挙制度では、数学的なモデルでかなり正確な予測ができるであろう。
小泉さんに天才的な直感があるのかどうか知らないが、もしかしたら優秀な数理学者が参謀の参謀でいたのかもしれない。
最初から造反議員の出現も予想していただろうしこのタイミングでの解散総選挙まではシナリオ通りの一直線な動きだったと思う。
要するに自分に有利な争点が明確にできる時点で選挙するのが小選挙区制度上、最善の戦略だからだ。
実際の政策論点なるものは、いくらでもあるが、こういう形で争点をフォーカスできる政局タイミングはあまりないだろう。”
以下に、これから少し抜粋しておこう。
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・無難な舵取りによる政権維持が難しい今、国論を二分するような大きなテーマ設定が必要な時を迎えたと私は考える。
・昨秋、安倍総理と近い人たちと議論したことがあった。郵政民営化に匹敵するような、つまり国論を二分するような強い政策を打ち出していかないと、来るべき参院選は厳しい結果になると思うとその時申し上げた。これに対して総理に近い人たちは、衆院における与党の圧倒的な力を背景に、無難な政権運営を続きていくという意向を示された。私はそこに疑問を感じざるを得なかった。
・必要なのは、政策に関して国民が何を求めているかのマーケティングをつぶさに行い、そこから大いなる議論が沸き起こるアジェンダ設定を考えることだ。それがうまくいけば、賛成する人、反対する人が半分ずつ出てくる。
・野党が訴えてきた格差是正の政策を見ていると、それこそ「国土の均衡ある衰退」とでも言いたくなる内容である。・・時代遅れのバラまき政治の復活に過ぎない。
・参院での与野党逆転という環境下の国会は、与党と野党の議論の透明度を増し、結果として官僚や族議員による密室の思惑を排除する。
========
2005年の総選挙での自民党の大勝のとき、私は小泉さんには、頭のよい(選挙)参謀がいるようだと書いたが、
それはまさに竹中さんだったようだ。
逆に安倍さんは、小泉さんと違って優秀な参謀選びに失敗したか、もともといなかったのであろう。
http://libertarian.seesaa.net/pages/user/search/?keyword=%8F%AC%91I%8B%93%8B%E6
以下、これから一部再録。
”・・・小選挙区制とは相対的多数の意見を反映し統一的な国家意思なるものを実現しようとする制度だからである。
マイナーな立場の人間がほとんど選出されなくなるから、いわゆる”改革”がやりやすくなる。
一方、各選挙区から1名しか選ばれないから当然、死票は多くなる。
こういう選挙制度では、数学的なモデルでかなり正確な予測ができるであろう。
小泉さんに天才的な直感があるのかどうか知らないが、もしかしたら優秀な数理学者が参謀の参謀でいたのかもしれない。
最初から造反議員の出現も予想していただろうしこのタイミングでの解散総選挙まではシナリオ通りの一直線な動きだったと思う。
要するに自分に有利な争点が明確にできる時点で選挙するのが小選挙区制度上、最善の戦略だからだ。
実際の政策論点なるものは、いくらでもあるが、こういう形で争点をフォーカスできる政局タイミングはあまりないだろう。”
2007年09月24日
Books written by Horiemon
労働組合が、雇用の流動性を阻害しているのは自明だが、これは不況時になれば若年労働者の雇用差別を積極的に促進することになる。資本家と労働者の対立ではなく、正社員と非正社員の既得権益差別を組合もしくは労働法が積極的に促進することになる。
従業員として雇用されている地位というのは、当然財産権ではないが、組合に守られることで既得権益として半分財産権であるかのように従業員の側も思ってしまう。だがアメリカでは、解雇は組合の存在など関係なくかなり雇用者側の自由である。
何重にも日本社会が狂っているのは、こういう社会であればこそ、起業による社会の新陳代謝をはかるべきであるのに、ホリエモンや村上ファンドのような貴重な芽を法律により役人が積極的に排除に乗り出すことである。
これらは役人による合法的なリンチである。
先日、ホリエモンの書いた「儲かる会社の作り方」という本をBookoffで買ってよんだ。
ライブドアが東証へ上場した後の2004年8月に書かれているが、今や大昔に書かれたかのようなかんがある。内容は素晴らしい。ホリエモンがほんの8年間で、3人で始めた会社を東証へ上場させるまでの話だが、経営者として並々ならぬ手腕と能力をもった人間であることがこれを読むと分かる。
序文の「素朴な疑問」という章で、ホリエモンは次のように書く。
「なぜ一生懸命働いている若い人たちの給料が、年老いて労働効率も落ちていて感覚も古くなっている人たちの数分の一であることが当たり前の世の中なのか。」
「年功序列も大企業信奉も間違っている。現在の年金制度は明らかにねずみ講であり、既得権益を握る者達が必死に詭弁を弄して、情報操作を行っているだけである。明らかに若い世代は搾取されているのである。・・多くのサラリーマン社長の保身や彼を頂点とする会社内の年功序列、あるいは派閥。こういったものが日本経済を歪めている。若者は今すぐこの既得権益構造から抜け出し、起業するか、あるいは起業するものについてくべきなのだ」
だが、日本社会の卑劣極まりない旧体制は、こういう素晴らしい若者を合法的なリンチにかけ、社会的に抹殺した。
若者のオプティミズムを叩き潰すのは簡単だ。
今の日本は、もはや絶望感が満ちているが若者が奴隷であることを当然とする社会など存在する価値もない。
奴隷根性のあるいやしい人間を尊重し、アクティブマンを抹殺するのが、社会主義というものだ。
日本社会はこのまま社会主義の強化の道を驀進するのだろうか。
2007年09月20日
Saloth Sar
「自由とは何か」 大屋雄裕著 ちくま新書
この本は、「自由とは何か」というタイトルであるが、あまり自由については大したことは書かれていない。バーリンの本から消極的自由と積極的自由に分けて論じており、リバタリアニズムにも若干の言及はある。だが、どれも消化不足の理解で書かれているように思われる。論理的に穴だらけのように感じた。また監視の問題を論じているが、これも公共空間における監視と私的空間における監視の問題は分けて論じなければおかしい。
”見ることの権力”やパノプティコンといったフーコーかぶれの話も、若い著者には新鮮なのかもしれないが、私のような中年には”げんなり感”がある。どうも日本の自称哲学者というのは、論理的に穴だらけ、飛躍だらけの文章を書くことを、”哲学的”でかっこいいと思っているのかもしれない。
だが本書で紹介されている「ポルポト伝」 デヴィッド チャンドラー著には興味を持った。そのうち図書館で借りて読んでみよう。
この本は、「自由とは何か」というタイトルであるが、あまり自由については大したことは書かれていない。バーリンの本から消極的自由と積極的自由に分けて論じており、リバタリアニズムにも若干の言及はある。だが、どれも消化不足の理解で書かれているように思われる。論理的に穴だらけのように感じた。また監視の問題を論じているが、これも公共空間における監視と私的空間における監視の問題は分けて論じなければおかしい。
”見ることの権力”やパノプティコンといったフーコーかぶれの話も、若い著者には新鮮なのかもしれないが、私のような中年には”げんなり感”がある。どうも日本の自称哲学者というのは、論理的に穴だらけ、飛躍だらけの文章を書くことを、”哲学的”でかっこいいと思っているのかもしれない。
だが本書で紹介されている「ポルポト伝」 デヴィッド チャンドラー著には興味を持った。そのうち図書館で借りて読んでみよう。
2007年09月18日
Bureaucracy
Bureaucracy by Ludwig von Mises
http://www.mises.org/etexts/mises/bureaucracy.asp
ここのところ、すっかり遠ざかっていた翻訳のマイプロジェクトだが、そろそろ再開しようかと考えている。次は、このMisesのBureaucracy(官僚制)でも、翻訳をしようかと思っている。
今度は、ただ単に手で翻訳するのではなく、ツールを開発しながら行うことを考えている。
ミーゼスの直系の弟子に当たるロスバードであるとか、Hoppe(ホップ)であるとかは、大御所のMisesを読まないことにはあまりよく理解できないだろう。そして、ミーゼスも相当な数の本を残しているから、それらを読むのはかなり大変だ。
だが、21世紀の日本人はミーゼスを読まねばならないのだ。
私は精神的に挫けそうになったときは、リバタリアニズムの哲学書(思想書)を読むことでリカバリーする。私の精神的な居場所はリバタリアニズムの著書の中にしかないといっても過言ではない。
そして、このマイプロジェクトは、日々の読書の軌跡をなめくじの動いたあとのように後に残すために行うものである。
http://www.mises.org/etexts/mises/bureaucracy.asp
ここのところ、すっかり遠ざかっていた翻訳のマイプロジェクトだが、そろそろ再開しようかと考えている。次は、このMisesのBureaucracy(官僚制)でも、翻訳をしようかと思っている。
今度は、ただ単に手で翻訳するのではなく、ツールを開発しながら行うことを考えている。
ミーゼスの直系の弟子に当たるロスバードであるとか、Hoppe(ホップ)であるとかは、大御所のMisesを読まないことにはあまりよく理解できないだろう。そして、ミーゼスも相当な数の本を残しているから、それらを読むのはかなり大変だ。
だが、21世紀の日本人はミーゼスを読まねばならないのだ。
私は精神的に挫けそうになったときは、リバタリアニズムの哲学書(思想書)を読むことでリカバリーする。私の精神的な居場所はリバタリアニズムの著書の中にしかないといっても過言ではない。
そして、このマイプロジェクトは、日々の読書の軌跡をなめくじの動いたあとのように後に残すために行うものである。
2007年09月08日
ハイエク全集新版
ハイエクの春秋社の全集が、復活した。
相変わらず高価なのは問題だが、復活したのは喜ばしいことだ。
翻訳も一部改定しているらしい。
とくに活字が読みやすくなったのがよい。
英語の原書と、この翻訳と両方持っているといいと思う。原書を読んでいてよく分からないところがあったら、この翻訳を見るというのが効率的な原書の読書法である。ハイエクの英語はやっかいだ。
相変わらず高価なのは問題だが、復活したのは喜ばしいことだ。
翻訳も一部改定しているらしい。
とくに活字が読みやすくなったのがよい。
英語の原書と、この翻訳と両方持っているといいと思う。原書を読んでいてよく分からないところがあったら、この翻訳を見るというのが効率的な原書の読書法である。ハイエクの英語はやっかいだ。
2007年09月06日
State and Punishment
NBonlineで、佐藤優氏の「国家と罰」という対談が載っている。
日本の司法制度のあまりの酷さを実体験して、佐藤氏は死刑廃止論者になったということだ。これは納得できる。日本の司法制度では法治国家とはとても呼べない。
特に刑事裁判は、司法官僚連中による”私刑=lynch”でしかないといって過言ではないだろう。
この対談から少し引用する。↓
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070717/129954/
”イスラエルで死刑が廃止されているというのは、「死刑囚がかわいそうだ」というような情緒論ではなく、実は国権論から考えてのことなんです。死刑によって法秩序を維持するのは弱い国家だという意識があるからです。アイヒマンの処刑についてもイスラエル国家の弱さを示すものとイスラエルの知識人は認識しています。”
==
上の文章だが、”死刑によって法秩序を維持するのは弱い国家”というのは、国家と法秩序があり、法秩序をもたらすのは国家の威信だという考えかもしれない。
死刑制度は野蛮な制度で、暴政のイメージと結び付けているのであろうが、だとすれば、これは間違っている。
佐藤優氏もこの対談の後半で国家権力の濫用による冤罪による死刑執行の危険性を危惧しているが、R.バーネットなども指摘するとおり死刑制度の問題は本質的には冤罪の危険性だ。
快楽殺人者を死刑にすることに問題があるのではなく、国家権力の濫用による死刑冤罪の危険性が問題となる。
杜撰な司法制度をもつ国家ほど、この危険性は高まる。日本のように検察などの司法権力を制限する仕組みがない、いわば司法官僚による私刑制度となっている場合は特に深刻な問題となるだろう。
話は変わるが、蔵研也さんの、「無政府の法と社会」を読んだ。http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/anarchic%20society.htm
非常に濃い内容であり、特に刑罰の根本問題にフォーカスされているのは時期的にもタイムリーだと思う。私は、大いに知的刺激を受けた。
私がBlogに書いているような思い付きとは全く異なり深く論理的に考えられている。刑罰制度という極端なケースから、国家権力の本質にリバタリアニズム的な観点でメスを入れるという試みは成功していると思う。
パターナルな強制権力を”国家”に依存しない限り、実効性のある法秩序はありえないという現代人の迷信を覆そうという試みともいえるだろう。
佐藤優氏もこれを是非読むとよいと思う。
日本の司法制度のあまりの酷さを実体験して、佐藤氏は死刑廃止論者になったということだ。これは納得できる。日本の司法制度では法治国家とはとても呼べない。
特に刑事裁判は、司法官僚連中による”私刑=lynch”でしかないといって過言ではないだろう。
この対談から少し引用する。↓
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070717/129954/
”イスラエルで死刑が廃止されているというのは、「死刑囚がかわいそうだ」というような情緒論ではなく、実は国権論から考えてのことなんです。死刑によって法秩序を維持するのは弱い国家だという意識があるからです。アイヒマンの処刑についてもイスラエル国家の弱さを示すものとイスラエルの知識人は認識しています。”
==
上の文章だが、”死刑によって法秩序を維持するのは弱い国家”というのは、国家と法秩序があり、法秩序をもたらすのは国家の威信だという考えかもしれない。
死刑制度は野蛮な制度で、暴政のイメージと結び付けているのであろうが、だとすれば、これは間違っている。
佐藤優氏もこの対談の後半で国家権力の濫用による冤罪による死刑執行の危険性を危惧しているが、R.バーネットなども指摘するとおり死刑制度の問題は本質的には冤罪の危険性だ。
快楽殺人者を死刑にすることに問題があるのではなく、国家権力の濫用による死刑冤罪の危険性が問題となる。
杜撰な司法制度をもつ国家ほど、この危険性は高まる。日本のように検察などの司法権力を制限する仕組みがない、いわば司法官僚による私刑制度となっている場合は特に深刻な問題となるだろう。
話は変わるが、蔵研也さんの、「無政府の法と社会」を読んだ。http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/anarchic%20society.htm
非常に濃い内容であり、特に刑罰の根本問題にフォーカスされているのは時期的にもタイムリーだと思う。私は、大いに知的刺激を受けた。
私がBlogに書いているような思い付きとは全く異なり深く論理的に考えられている。刑罰制度という極端なケースから、国家権力の本質にリバタリアニズム的な観点でメスを入れるという試みは成功していると思う。
パターナルな強制権力を”国家”に依存しない限り、実効性のある法秩序はありえないという現代人の迷信を覆そうという試みともいえるだろう。
佐藤優氏もこれを是非読むとよいと思う。

