2008年01月27日

Minimum Wage

最低賃金の引き上げが、またぞろ民主党〜共産党など左派勢力から国会で取り上げられているようだ。
こういう入門レベルの経済学を理解していない人間が、国会議員となっているのは困った問題だ。

しかし、この最低賃金引き上げというのは、主にアルバイトなどを対象としたものだが、
景気のいいときは、正社員に対しても、組合がベアの引き上げを毎年行っていたのであるから、これも最低賃金の引き上げと同じような効果があったろう。

だが、最低賃金法もよくよく考えると、なかなか難しい。マクロに見れば、最低賃金の引き上げは、雇用者側にとっては、雇用抑制のインセンティブになり、失業者を増加させる。しかし採用される人間のメリットと、雇用抑制によって採用されなくなる人間のデメリットを考えなければならない。
採用されている人間にとっては、賃金の引き上げは、それが隠れたインフレによるものでない限りはラッキーなことだ。採用されないリスクと、賃金の上昇によるメリットによる主観的兼ね合いが問題となる。そして、採用されないリスクは目に見えないので、過小に評価されることになる。
また、一方で最低賃金の引き上げで採用されなくなった人間には2種類ある。
つまり、その賃金でもやはり働く気のない人間と、最低賃金法以下の賃金(例えば800円)でも採用されない人間である。

おそらく、最低賃金法のような一律の全国規制が破壊力をもつのは、むしろ地方で顕著だろう。都市部で賃金が高くなるのは経済原理上、自然なことであり、地方に行くほど賃金が下がるのも当然のことだ。だが、地域差を容認しない最低賃金規制では地方の雇用抑制のインセンティブとして強烈に作用するはずだ。
これは、地方の労働者にとっては、都市部に移動するインセンティブになり、地方の過疎化を促進する。そして、ますます地方は住み難い環境になるということだ。

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2008年01月26日

Nazism and CSR

How to Bureaucratize the Corporate World
By Ben O'Neill

http://www.mises.org/story/2832

このarticleは、私が以前からこのBlogで批判している内容とほぼ同じだが、昨今のCSR論議は、日本だけでなくアメリカでもかなり酷い状況のようだ。
日本の、またアメリカでも、全体主義化の基礎となる空気、もしくは前提として、このCSR論がある。もともとこのCSR論はドイツのナチスが唱えていた、企業の社会的責任論の焼き直しなのだ。
CSR論は、極めて危険なイデオロギーであり、何の法的根拠もないデマゴギーだ。
これは、社会主義論理そのものといえる。
昨今の健康増進法やら、消防法による喫煙者の差別、排除、道交法の厳罰化また内部統制等といった全体主義的管理思想の根っこには、このCSR論が存在する。

CSR論とは、株主=shareholderの所有権のprimacyを破壊し、stakeholderという”公”の別名を持ち出し、公のために企業は存在するという論理であり、これは、露骨に社会主義、全体主義の論理に他ならない。

しかし、もし、社会の99%の人が全体主義、社会主義を好むとしたら多数決で明らかに全体主義、社会主義の世の中になるだろう。それはそれで極めて合理的だ。
だが、それを許さないのが正義というものなのだ。
本来の法が、所有権と自由を原理としてミニマムな基準であろうとしているのは、この残りの1%の人間の正義を守るためともいえる。その点、従来の私法はそれなりによくできている。問題なのは、こういった私法のもつ消極的な意味が、法律家にも理解されなくなったことだ。
法律が重要なのではなく、それが示す精神=正義が重要なのだというのが、V for VandettaのVも言っていることだ。

 
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2008年01月23日

Sowell on Obama


http://www.townhall.com/Columnists/ThomasSowell/2008/01/22/dangerous_demagoguery
Many people find it thrilling that the mantra of "change" is ringing out across the land during this election year. But let's do what the politicians hope that we will never do -- stop and think.

トマス ソーウェルがバラク オバマを批判したコラム。やはりオバマには内容も実力もないのだろう。changeというスローガンの無意味さを批判している。
しかし対立となる共和党の候補にあまり有力な候補がいないので、今回は民主党から大統領がでると予想されているようだが、Obamaだろうとクリントンだろうと、やはり民主党から大統領がでると最悪だろう。
前のクリントンの民主党政権では、民主党的な社民政策をとらずに、レーガンからの自由化路線を踏襲したところがあり、それがそれなりに成功した。
だがミセス クリントンになると、アメリカの福島瑞穂みたいな印象があり、かなりファナティックだ。(もちろん、クリントンと福島では格が違いすぎるが。)
所詮、オバマだろとクリントンだろうと社民主義者の争いであるから、どちらも話にならない。前回、ブッシュJrが再選されたのも、私は基本的にベターな選択だったろうと考える。
民主党になっていれば、その公約どおりイラク問題はもっと泥沼化したのは確実だ。
こういう簡単明白な事実さえ、日本のメディアからは得られない。

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2008年01月21日

Greenspan and Libertarianism

アラン グリーンスパンが、日経に連載しているのは知っていたが、私は新聞は一切読まないし、買わないため読んでいなかった。
だが、グリーンスパンが日経にリバタリアニズムについて述べている部分を、ネットで見つけた。
これは、当Blogを読んでいる人には、周知のことであろうが、グリーンスパンの言葉にはやはり重みがある。

個人の自由を尊重し、国家の介入を厭う、今ではリバタリアニズムと呼ばれる考え方が私の価値観になった。これはまさしくランドの考え方であった。純粋な意味では、こうした考え方を持つ米国人は多数派とは言えないだろう。だが、指摘しておきたいのは、この基本的概念は米国憲法の支柱になっており、米国社会の重要な一面にもなっているということだ。アラン グリーンスパン(日経1/9/2008)

ここでグリーンスパンが米国憲法の支柱になっているというのは、制限憲法=constitutionalismのことであり、さらにはクラシカルリベラリズムのことだ。

ところで、グリーンスパンは、本音では金本位制(gold standard)を今も支持しているようだ。
Fedの議長であった人間が、在職中はリアリズムに突き動かされていても、リバタリアン的な信念を失っていないのは面白い。

http://blog.mises.org/archives/007652.asp


次のURLにはグリーンスパンが40年前に書いた金本位制について論文が載っている。
Gold and Economic freedom
http://www.usagold.com/gildedopinion/greenspan.html

"An almost hysterical antagonism toward the gold standard is one issue which unites statists of all persuasions. They seem to sense-perhaps more clearly and subtly than many consistent defenders of laissez-faire -- that gold and economic freedom are inseparable, that the gold standard is an instrument of laissez-faire and that each implies and requires the other."

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2008年01月19日

Google@Home


Googleこそは、WEB2.0すなわち、ネットのあちら側に巨大なインフラとデータとアプリケーションまでもを持ち、それを不特定多数が共有する仕組みの典型である。
要するにWEB2.0とは、インターネットという分散型ネットワークにおける中央集権型システムの復活であった。
この仕組みの問題は、Googleに権力が集中しすぎる点にある。
この情報独占に対しては当然、マーケットの他のアントレプレナーから挑戦がされなければならない。なぜなら、おいしい蜜がそこにあることが分かっているからだ。
だが、言うまでもなくGoogleと同じインフラを作って競争するのはばかげている。もっとも完全にばかげているとは思わないが、それではうまく対抗できない可能性が高い。
ネットの本質は中央集権ではない点にある。それは本質的には分散型システムなのだ。
その点、次のGoogleクローンを作るプロジェクトは野心的で面白い。
これは、Network is the computer すなわち、ネットの原点に戻ろうとするアイデアであり、PS3のビジョンでもあるだろう。WIKIA Searchというのも、Jimmy Whalesによって、作り出されたし、この分野はなかなかホットだ。
私としては、WIKI型のアプローチは、駄目な予感がするが、ターゲットを絞り込んで、Googleの苦手なことをすればある程度のシェアをとれると思う。
だが、ネットワークの高速化が進んで、著作権の問題で躓かなければ、分散型のアプローチの方がネットワークのあるべき姿に近いのだと思う。
ただ、問題はFolding@HOMEなどと同様に、このようなボランティア的な取り組みにはインセンティブがあまりないことであるが、そこから金銭的もしくは非金銭的なRespectなどのRevenueを得る仕組みが出来れば成功するだろう。

以下引用

===
http://japan.cnet.com/column/rwweb/story/0,2000090739,20349626,00.htm
最初に、わたしのGoogle@Homeの概念について定義させてほしい。簡単に言えば、Google@Homeはオープンソースの、分散型のGoogleクローンだ。すでに多くのオープンソース型の検索エンジンプロジェクトが存在する。Apache Lucene(NutchとHadoop分散ファイルシステムという下位プロジェクトから構成される)が、最も信ぴょう性のあるものだろう。このGoogle@Homeの概念はこうしたオープンソース型検索エンジンを基盤にしてもよい。もちろん、Googleの使い勝手や影響力に至るには長い道のりがある。しかし、より重要なのは、Google@Homeは分散型の、中央集権型ではないシステムだということだ。これは、われわれのデスクトップコンピュータの待機時間が新しい検索エンジンの計算力の一部となることを意味している。これが結果としてGoogleの非常に充実したデータセンタと競争することを可能にする。これも新しい概念ではない。同じSETI@HomeFolding@Homeがある。実際、Google自身がスタンフォード大学のFolding@Homeの最大の支援者であり、彼らのツールバーの資源をこのプロジェクトに提供している。

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Insider Trading in NHK

今回のNHKのインサイダー事件は面白い。
公正取引委員会が、3人をつるし上げたということは、他の職員の実態も把握しているはずだ。
公正取引委員会は、そういう監視能力を持っているのである。
つまり、どこの誰がどういう取引をしたのかをコンピューターデータとしてほぼ全て把握しているのだろう。でなければ、監視などできない。
だから、NHKが侘びのジェスチャーで職員にいちいち聞かなくても掌握しているに違いない。

この事件をきっかけとしてNHKは廃止されるべきだと思う。
インサイダー取引禁止法が正しいか否かはここで問題ではない。
NHKは民営化ではなく、その電波帯域を含む資産を全て公用収容し、全職員を解雇するべきだ。
民放の賃金が異常に高いと言われるが、NHKの待遇はそれにまさるとも劣らないらしい。
公務員の実態などどこも同じようなものだろう。


ちなみに、NHKのこの問題の本質は、システム管理の問題では全くない。そんなことをいくら言っても何のエクスキューズにすらならない。
インサイダー情報に接しうる環境にある以上、公知情報となる発表前に法律上はそれに関わる株取引をすれば全て違法行為だ。
おまけに、アナウンサーがしゃべる発表内容よりも詳しい情報が書かれていたようだから、その全てが公知にされていたわけでもないようだ。ニュース発表前の何分前に知ったかなど問題ではない。
だから、NHKの組織的なインサイダー犯罪は相当に深刻なレベルだろうし、この20年間では膨大なものになる可能性が高い。これは弁明も釈明の余地もない重大な集団的犯罪さらには組織犯罪である。 NHKでインサイダー犯罪を行った人間全てに対して、厳しい刑事罰と賠償金が課されなければならない。どうして特別な温情が許されようか。逆に適用を恣意的に行えば、公取の権力の濫用となるのである。
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2008年01月15日

Evangelist of libertarianism


無政府社会と法の進化
蔵 研也 著 木鐸社

蔵氏の本をやっと手に入れた。
木鐸社の立派な装丁の本で、学術的な雰囲気が漂っている。(^^)
そういった高尚な本の前書きにkyuuriという名前が出てきたので、少し気恥ずかしさを感じないでもない。(^^;
まだ読んでいないが、ゆっくりじっくりと再読させていただこうと思っている。

やはり、リバタリアニズムの布教=evangelという点では、アカデミズムの中での議論が極めて重要だ。そのためには、理論武装、論理武装をしなければならない。
そもそも一般大衆なるものに布教することなどは何もないと考えて間違いではない。
もし、リバタリアニズムに関心がある人間がいたら、その人間は決して一般大衆ではないのである。

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2008年01月14日

Nation State and Currencies

ハイエクは、通貨発行自由化論で、通貨発行の政府独占こそが、インフレーションを招き、景気循環を引き起こす原因であると主張した。
そして通貨の発行を民間に開放することで、通貨間の自由競争を行わせることを論じた。政府という究極の独占体に裁量権を与えて通貨の管理を自由にさせることは極めて危険であり、通貨の信用を維持するのにも、競争的な市場秩序が必要だということだ。
ハイエクのアイデアは逆にNation Stateに閉じたものと言えるかもしれない。
ミルトン フリードマンのアイデアは、ハイエクとは異なるが、結局は政府の通貨発行の裁量権を制限することがその本質だろう。
問題は、Nation Stateにおける政府が究極の独占体だということだ。この問題を考える上で現在のEUとユーロが面白い。

その点で、大前研一氏の次のコラムは必読だ。
「規律のユーロ、タガ外れの円・ドル」
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/112/index.html
(無料登録が必要)

大前氏の考えを簡単にまとめると、ユーロに加入すると各国のNationStateは財政を自由にはできなくなり、強力な規律や制限が生まれる。
それに対し、日本やアメリカは、政府独占体が財政を自由にできるため、規律がなくタガが外れた状態にある。そのため、2006年度において、財政赤字のGDP比は、日本が4.3%、アメリカが3.7%、イギリスが3.0%であるのに対して、EUは平均で1.5%である。
EUでは劣等生になるイタリアですら、2.5%だ。

EUにおけるユーロとはハイエクの考えとは逆に通貨が統一されるわけだが、現在のところ、これは各国の裁量権限を抑止する効果があるということのようだ。
しかし、ハイエクの考えも結局、政府の通貨発行権限を制限することにあるわけだから、結果的には同じ目的が別の手段で実現したといえるかもしれない。

通貨とNationStateの主権は、もともと密接に結びついているが、EUという経済共同体は、国民国家の通貨発行の主権を制限することに史上初めて?成功したといえるのだろう。
この成功は拡大しつつあり、主権国家、国民国家の根幹となっている通貨主権もしくは財政主権を制限する方向に向かっているといえる。
大前氏は、今後、ユーロとドル=ダラーが、結びつき、ユーラーになり、さらには世界通貨のグローブになると予言?している。
ありえる話だ!?

要するに、問題は経済なのだ。どんな貧乏国であっても、そこに可能性があり、人々に意志とやる気があれば、それだけで、そこに莫大なマネーが市場から供給される世の中になったのだ。これは、インターネット時代だから可能になったことだ。
やはりインターネットの本質的な役割とは、20世紀までの NationState=国民国家を破壊することにあったのだと後世の歴史家は見るにちがいない。

凶悪な主権国家=国民国家の終わりは意外と近いかもしれない。市場システムとは、無制限の権力=主権を制限する唯一の仕組みなのである。

 
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2008年01月13日

V for Vendetta


V for Vendetta をDVDで見た。
舞台はイギリスだが、アメリカのハリウッド映画。
マトリックスのウォシャウスキー兄弟が作っている。
テーマは、まさにリバタリアニズム的な自由だ。
映画そのものの出来はいまいちだが、こういうテーマをもつ映画はめずらしい。
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2008年01月08日

Golden Age

ジョン C.ライトは、リバタリアンSF作家である。
大体、SFというのは、社会主義的な社会を理想としたような話が多いので、私はSFは苦手なのだが、この人の作品でゴールデンエイジを読んでみた。
どうもイメージのつかめない本で、なかなか物語りに入り込めなかったが、リバタリアン的な主張がそこにいろいろと織り込まれているのは理解できた。結構分厚い本であるが、これは3部作の1冊目。しかし、前置にしては長すぎる感じがある。

気のきいたセリフをメモしておく。
===
その代価として社会をうまく飼いならさなくてはならないのなら、想像力のいらない予測可能なものにし、意気をくじき、夢をもみ消せばいいのだ。

この世界にはもはや正義もなければ不正もない。マシン知性が我々を監視し、われわれが互いに危害を加えないように取り計らっている。もう道徳はなんの意味ももたないのだ。
彼は楽しい人生を送ることができる。ただ求めさえすれば。ただし、それはもう彼の人生とはいえないだけだ。

私達があなた自身の人生の所有権を支配したとすれば、あなたの人生は結果として私達の所有財産となり、あなたは結果として、その人生の単なる管理人か、管財人となってしまうでしょう。そうなってしまう方が人生を大事にするとお思いですか、それとも軽んじると?そして、人生を軽んじるなら、もっと大きなリスクを冒し、もっと自滅的に振舞うのでしょうか?
そうではなくて、人間ひとりひとりの人生がその人自身のものであれば、実験するのは自由ですし、リスクにさらすのは自分のものだけ。気の済むまでやればいいのです。

我々の社会は人類の自由という至上の価値の上になりたっており、それはすなわち自ら進んで負わないかぎり、誰もが他の者に対してなんの義務を負うことはないということだ。

ぼくが大人だとすれば、成功する自由をもつ一方で、同時に間違いを犯す自由を持たないということはできないんです。

お前がさっき言った自由のパラドックスは私達の社会全体に当てはまる。私達は自分自身を傷つける自由なしには自由で有り得ない。
===

書きながら思ったが、「この世界にはもはや正義もなければ不正もない。マシン知性が我々を監視し、われわれが互いに危害を加えないように取り計らっている。もう道徳はなんの意味ももたないのだ。」というのは、意味深い。ライトは法律家でもある。
つまり、行政が我々を法律やルールで監視し、われわれが互いに危害を加えないように取り計らっているということは、法律による道徳の否定といえるのだ。道徳という消極的な価値を、法が否定することになる。
そして、道徳という消極的な価値がなくなれば、その社会に自由はない。

 
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2008年01月06日

篤姫1

篤姫の1回目を見た。なかなか面白かった。
鹿児島の日差しの強い雰囲気をちゃんと表現していた。
実際の篤姫の写真をみると、TVにでてくるような現代子のかわい子ちゃんタイプとは異なるが、いやみがなくてよい。篤姫は私のおばさんに少し似ている。
小松帯刀とも私の家は非常に因縁が深いのであるが、ああいう優男タイプではなかったろう。
所詮、テレビドラマは全部フィクションであるから、細かいことをどうこう言ってもしかたない。宮尾さんの小説では、篤姫が薩摩方言で差別されるようなところがあるのだが、実際の上級武士の言葉というのは市井の言葉とはかけ離れていた。斉彬もずっと東京で育った人間で、父の忠剛もずっと東京育ちであったから、篤姫も東京言葉を話していた可能性は高い。
しかし、今和泉家は将軍家の正室に迎えるに身分が低いとかいう話に宮尾登美子の小説ではくどく書かれているようだが、これも全くの誤りである。
もともと島津家は別格であり、島津は家老制度を敷いていたがこれらの分家は他の藩では大名クラスの家柄であったのだ。今和泉家も藩主を出せる家柄だったのだから当然の話だ。
テレビでは、私の曾曾祖父の久敬が、すこしかっこ悪く描かれているが、まあ問題ない。

 
posted by libertarian at 22:29| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Houl's moving castle

この正月におそまきであるが、「ハウルの動く城」を見た。
さすがに宮崎駿の作品だけあって、すばらしい出来であったが、この映画はリバタリアン的な作品だと私のフランスのリバタリアンの友人が以前に言っていた。
どこをそう思ったのか、よくわからないが、ハウルは自由人であり、一人で国家や戦争と戦うというあたりがリバタリアン的なのかもしれない。

日本は、戦後、手塚治虫などから連綿と続く天才的な漫画作家を生み出してきた。
これは何故なのかといえば、この世界がどうでもいい領域として政府の管理対象から完全に忘れられた存在だったからだろう。
才能のある人間がそういう社会的、政府的認知度の低い世界で、互いに切磋琢磨しあって、日本の漫画表現を築きあげてきたといえる。
極めて私的な表現でありつつ、読者という市場の評価に常にさらされてきた世界であった。
政府が漫画家を保護なんかしなかったからよかったのだ。

ハリウッドのCGをふんだんに使用した作品なども、日本のアニメ表現を実写的表現に変えて取り入れているようだ。

また、何度も言っているように、こういった著作物を、政府特権=Intellectual Privilegeによって守る必要はないが、これは、別の形での財産的保護が可能だという意味である。
ものに対する財産権は、その対象がひとつでしかないから、ものに対する財産権の保護とは、完全保護しかありえない。つまり、0か1しかないわけだが、無体物に関する保護に対しては、完全保護はありえない。おおらかに、その生み出す価値の10分の1でも回収できればいいわけだ。もちろん、その作品の生み出す価値が多ければ、それは比例利益となる。


つまり、政府特権=著作権による完全保護(物権的保護)をやめるということは、権利の放棄をして公共財にすることでは断じてない。完全保護の否定は、部分保護(=完全ではない保護)である。これは、政府特権がなくても通常の契約による仕組みで可能だということなのだ。
つまり、知的財産権という政府特権制度を廃止して、私的契約の世界、すなわち市場的契約にほかの全ての商品と同様に扱えばよいのであるが、これは情報を全て公共財にするという意味では決してないので、この点を誤解してはならない。

 
posted by libertarian at 13:50| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | IPR(Intellectual Property Right) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月05日

Memory of Vista

最近、Vistaを使い始めた。
小型デスクトップマシンを導入したのだが、それにVistaが乗っている。
Vistaは評判ほどに悪い印象はない。もっともあまり使い込んでいないが、デスクトップのイフェクト(エアロ)もそれほど悪くない。
もとより、メモリーはかなり喰うが、最近のメモリーは1GBでも2000円くらいで手に入るからメモリーを喰うのは全くたいした問題ではない。

その昔、RAMが1MBで1万円した時の感覚では1GBは1000万円するわけだが、今は安くなったメモリーをふんだんに使うのが筋というものだ。
メモリーを喰うのはけしからんというのは、ズレた感覚というものだ。


しかし、VistaはXPからどこがどう進化して、どこにそんなに開発に時間がかかったのかわからない。エアロなぞ、最近のLinuxのGUIのほうがずっと派手だし、面白い。
そのうち、このパソコンもLinuxとのDualBootにするつもりだが、とりあえずVistaも長く使うことになるだろう。

 
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2008年01月02日

篤姫

今年の楽しみは、NHKの大河ドラマ「篤姫」の放送である。
私はNHKの大河ドラマなど今まで見たことはないが、今回はテーマがテーマだけに是非とも全50回を全て見ようと思っている。
http://www3.nhk.or.jp/taiga/story/st01.html


血筋自慢をするつもりでは毛頭ないが、なんといっても、篤姫は私の父方の曾曾祖父の実の妹だ。
つまり曾曾祖父が島津の今和泉家の2男(島津久敬)で、その妹が篤姫に当たるのである。
私の曾曾曾祖父(忠剛)の娘といってもよい。

篤姫は今和泉家から島津斉彬の養女になり、それから13代将軍徳川家定の正室になる。
江戸の無血開城は、篤姫の縁の下の活躍があったからこそ実現できたことらしい。
WIKIの簡潔な解説↓を読むといい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%92%8B%E9%99%A2

まさに”さつまおこじょ”の面目約如というところだ。

鹿児島というのは、男尊女卑的な男性社会というイメージがあるのだろうが、男がえばっているようで、実際は女性が裏でなんでも仕切っている女系社会なのだ。
少なくとも鹿児島の武家の女性の地位というのは、実際はかなり高いと考えられる。

こういった”さつまおこじょ”といった女性像、人間像は、今では、特に東京なんぞにずっと住んでいると、まったく理解できないだろうが、私のような40半ばの人間にとっては、よくわかる。なぜなら、そういう立派な”さつまおこじょ”が親戚にも沢山いたからである。

今は、そういった素晴らしい人たちもどんどん亡くなってしまっているが、もったいない話だ。
もはやそういう文化を背負った人間は生まれようがないからである。

posted by libertarian at 15:11| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする