2015年01月27日

World not understood

世の中でニュースというのは絶えることがないが、それらは点情報でしかない。
その時々で関心をひいたニュースにごちゃごちゃとした解説だが感想がメディアでなされる。一時の関心をひくが誰もそんなものは理解もなにもしてない。
例えば、去年、ソ連のクリミア問題がおこったが、その後は一切ニュースにもならないし、どうなったか気にする人も稀だろう。
問題を、ちり紙程度の点としか把握していないわけだ。問題を理解すれば、線として認識するようになるだろう。

イスラム国にしても、そもそもイスラム国とは何かについて、まともに報道も説明もされない。これでは、イスラム国でなく、A国とでも言った方がよい。つまり、ニュースは自明でないことをあたかも自明のように報道し、結局報道する側もそれを受け取る側も誰も何も理解していない。今はWIKIがあるので、昔と違ってある程度のまとまった知識を容易に得ることができるようになったが、普通の人はそれすらしないだろう。何も知らないのに、良い悪いといった判断は適当にしているわけだ。
イスラムは複雑で理解しにくいということはある。特に歴史を知らないから、イスラムやアラブの意味もわからない。漠然としたイメージをもっているだけだ。

”クラッシュ”という映画で、雑貨店を営むイスラム系にみえる店主が、自分たちのことを社会はアラブだと思っている。ほんとはペルシャ人なのに。。とつぶやくシーンがある。ペルシャはイランだが、イランはアラブではないのである。これは彼らにしてみれば日本人が中国人として扱われているようなものなのだろう。

我々は近現代史にあまりにも無知であるがために、現代の世界をほとんどなにも理解できないでいる。
現代の世界もわからなければ、現代の日本のことも何も分かっていないわけである。

posted by libertarian at 11:56| 東京 ☔| Modern HIstory | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月26日

The Civil War,Gold and Japan

歴史というのは、非常に大事である。
歴史認識はある意味、教育システムの根幹となっている部分である。
その点、日本の教育は特に歴史教育がめちゃくちゃであるから、荒廃しているのである。
学校で教える歴史は、基本がマルクス史観で作られており、くだらない暗記コンテストになっている。
日本の歴史教育など百害あって一利なしだ。
だから、自分で一から歴史は勉強しなおさないといけない。
近現代史を知らないと現代を理解することは不可能である。
今を理解するためには、歴史を知るしかない。そして歴史を間違えて理解すれば、今の時代も間違えて理解することになる。
左翼はマルクス史観を必ず持っており、歴史観がめちゃくちゃだから言っていることも全部だめといえよう。

例えば南北戦争(civil war)  について、日本人は何も知らない。
これは市民戦争といった内紛ではなく、一旦、南が連邦を正式に離脱して、confederate states of Americaという国を独立に立てた。
だから、これは内紛ではなく、国家間戦争であった。
当時、南部は北部に比べて圧倒的に豊かであったから、独立は容易だったし、合理的だった。
では、なぜ圧倒的に豊かな南部が、貧しい北部に負けたのかが、大きな問題である。
こういったことを学校教育では一切不問に付している。

驚くべきことに、北部の資金源は日本にあったのである。
当時、日本はほんとに黄金の国ジパングで、国内では銀が相対的に少なかったために、銀と金の交換比率が低かったらしい。つまり、銀が国内では国際相場と比べてずっと高かった。
金の歴史上の産出量はプール3杯分と言われているが、なんとそのうちの1/3,つまり1杯分は日本から産出したものなのだ。
そこに目をつけたのがアメリカだった。アメリカは安い銀貨で日本国内の金を大量に交換し、濡れ手に粟で日本の金の大半を短期間に持ち出したのである。これが北軍の莫大な資金源となった。
これを許したのは、日本が鎖国をしていたからだろう。日米修好通商条約は金の持ち出しがアメリカの本当の目的だったというわけだ。

歴史を理解するためには、経済の観点と地政学の観点がやはり大事だと思う。
特に経済は大事だと思う。経済的な効果には偶然の要素があまり入らない。
地政学は経済学的観点が乏しいところが弱点だが、補完的なものにはなると思われる。



posted by libertarian at 00:26| 東京 ☀| Modern HIstory | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月21日

Anesthesia

年末に骨折をした。
鎖骨を折り、人生初の手術をした。全身麻酔も初めての経験。
術後も痛みがあるので、鎮痛剤を飲んでいたが、おかげでオツムが前よりも悪くなったような気がしてならない。w
囲碁棋士の趙治勲は大けがをして、手術をしなければならなくなったとき、麻酔は頭を悪くすると聞いて、麻酔なしで手術するように頼んだそうだ。ほんとに麻酔なしで激痛に耐えながら手術したそうだから、驚異的だ。

しかし、私は痛いのは大層苦手であるため、全身麻酔はするは、術後は鎮痛剤を飲みまくり、痛みから逃れていた。
お蔭で、前よりも一層バカになったかなと感じる。w
麻酔というのは、不思議なもので、手術が終わり、医者に手術が終わりましたよと声をかけられるとぱっと目が覚める。
麻酔がかかる時の記憶もない。
麻酔は麻酔医という専門家がいるが、麻酔の仕組みは未だによくわかってないらしい。
一種の仮死状態のようで、夢も見ないし、その間の記憶がなくなる。

私が前よりバカになったような気がするのは、簡単な詰み将棋が前よりも簡単には解けなくなったような気がするからである。
頭の中で駒を動かすのが、少ししんどい気がする。
これが麻酔による効果なのか、単なる気のせいなのかはわからない。
しかし、麻酔がオツムを悪くするのが、単なる迷信であるなら、趙治勲の激痛に耐えた苦労は意味がなかったことになる。

骨がくっつけばくっついたで、また入院して手術をしないといけない羽目になる。
さらにバカになるのかと思うと困ったものである。w
posted by libertarian at 21:39| 東京 ☔| et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月18日

Never Let me go

Kazuo Ishiguroの原作の映画「私を離さないで」を観た。
SFということだが、一言でいえば、自分の臓器提供者となるクローンを作る社会があり、そのクローンとなった側の人間を描いたドラマである。しかし、SFということだが、時代設定は1952年以降の現代だ。
映画はなかなか映像もきれいで、よくできた映画だ。
役者も大物が出ているので、それなりの大作なのだと思われる。
実は私はこの原作も随分前に買って持ってはいるのだが、まだ読んでいない。
映画が面白ければ読もうと思っていたので、そのうち読む予定だ。

このストーリーではおそらくクローンはオリジナルの所有物とされているわけだ。
オリジナルが所有権をもち、クローンはオリジナルの所有物とされる。
おそらく、というか間違いなくクローンには人権もない。提供者として、臓器提供する時を待つだけの任務である。

こういった所有権原理の拡張というのは、現実的には起こらないだろう。
例え人間のクローンが可能になったとしてもだ。
自分の子供が半分自分の遺伝子を継いでいるとしても、半分所有権が親にあるわけではないのと同様である。
この物語の設定が現代となっているのは、現代人にも生き方の強制があること、生きる方法に選択の余地がないこと、また生きる意味を知らないこと、利他主義の強制があることを意味しているのかもしれない。

しかし、こういった奴隷原理というのは、欧米の人間には割と自然なのかもしれない。w
所有物になりえない対象は、世の中には存在しないと考えるのであろう。
作者のイシグロ カズオは日系人だが、頭の中は完全に欧米人だ。
人権思想とは、所有権の限界を定めるものともいえる。
人が人権を持つことと、人は人を所有できないのはほぼ同じ意味になる。つまり、人権を持つものを人は所有できないシステムともいえる。



posted by libertarian at 17:31| 東京 ☀| et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月11日

Freedom of speech and STAP

フランスのシャルリーエブド襲撃事件があり、言論の自由がどうのこうのと話題になっている。
しかし、今回の事件は死傷者の数からすれば、世界で日常的に起こっているテロ事件よりはずっと少ない。
アラブで日常的に起きている数十人、数百人が死ぬテロ事件が片隅にしか報道されないのに、今回、やたらとでかく報道されているのはおかしな気もする。
メディアが報復対象になったことが、メディアなりマスゴミの感情を逆なでしたということにすぎないのだろう。

あまりよく知らないが、シナやコリアに対するヘイトスピーチがいかんとされているようだが、私はそれは言論の自由にふれると思う。
事実無根のことで相手を誹謗中傷するのはもちろんいけないが、それは民事の問題である。
むしろシナやコリアの事実無根の誹謗中傷に対して抗議するのは正当防衛といえる。
シナやコリアに対する対抗言論を、なんでもかんでもヘイトスピーチだと差別的なラべリングをするのは、言論の自由を侵害する可能性が高い。
そんなものよりも、マスゴミによる、STAP報道のような人権侵害事件の方が、はるかに深刻な犯罪であることはいうまでもない。

シャルリーエブド紙は、風刺漫画の出版社のようだが、日本はマンガ大国だが風刺漫画というのがほとんどない。
もし、日本に風刺漫画などがあれば、日本ではヘイトスピーチ扱いされかねないだろう。
事実、日本ではパロディというのが、なかなか著作憲法上も成立しにくい状況がある。パロディによる引用は、著作権侵害として扱われてきた経緯がある。

かつて、ミルトン フリードマンは「選択の自由」の中で、次のように書いた。

”アメリカの合衆国の父たちは、これよりはもっと将来性のある方法をわれわれのために示してくれている。
それは、いわば「一括取引」をすることだ。われわれは、われわれが政治的な経路を経て追及する目的を制限する「自己否定的」な法律を制定すべきだ。

この修正第一条は、「連邦議会は・・言論の自由を制限する法律を制定してはならない。」という一般原則を採用した。
すなわち、ひとつひとつの場合について、それぞれがどんな価値をもっているのかを考慮しないというのだ。
われわれは、自身が多数派である場合には、他人の自由を干渉することについて、それほど深刻な関心を持たない。
しかし、われわれの大半がなんらかの時点において少数派になることはまず間違いないのだ。”

#USA修正第1条は以下の通り
連邦議会は、国教を樹立し、若しくは信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない。また、言論若しくは出版の自由、又は人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない

STAP報道でも、”われわれは、自身が多数派である場合には、他人の自由を干渉することについて、それほど深刻な関心を持たない。”ことが実証された。STAP報道事件は、言論の自由に対するマスゴミによる破壊活動であるともいえる。
マスゴミやメディアは、発信している人間は少数の人間であっても、匿名性をもってブロードキャストされる。ここにメディアと個人の非対称性があり、メディアが暴力装置となるのを容易にしている。
だが、今回のテロのように具体的な暴力行動によって、メディア側も実は少数であることが明らかになる。
メディア側もパロディを明白な”攻撃”だと意識はしていた。しかし、それは”合法的な攻撃”であり、安全地帯からの攻撃だと勘違いしていたのである。
言論の自由なるものも、本来的には個人や個人の集まりに対する言論の自由の保証であって、メディアというブロードキャストシステムを想定したものではなかったろう。それは明らかに2次的な拡張だが、個人とは異質の非対称性をもったメディア組織に対して、言論の自由の名のもとに合法的な暴力を保証するものではないだろう。

posted by libertarian at 20:08| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする