2017年05月29日

ベトナム戦争

ベトナム戦争は私の子供の頃にあった。ベトナム戦争は1963年のアメリカ参戦から1972年のアメリカ撤退まででも約10年も続いた戦争であり、子供のころのニュースはベトナム戦争にあふれていた。当時、ベトナム戦争の状況は連日テレビや新聞で詳細に報道されていたが、私には全く何をやっているのか理解できなかった。学校の教師に聞いたこともあったが、教師も何も理解していなかった。
小学生の私が質問したのは1点で「つまるところ何で戦争しているのか?」という素朴な疑問であったが、教師はそれを理解してなかったようで、納得いく回答はなかった。
そのうち、ベトナム戦争は終わり、世の中はヒッピーやロック全盛期であったが、戦争は悪いものだという反戦、厭戦気分だけはなんとなく自分も共有していた。だが、ベトナム戦争とは何だったのかはその後も謎のままだった。
このなにがなんだか全くわからん状況はおそらく子供だけでなく老若男女の日本人のほぼ全員に共通していたものだろう。報道する側も、それを読む側も何も分からなかったし、今も分かっていないわけだ。
カンボジアにしても同様である。

しかし、ベトナム戦争の意味を今の段階で、ちゃんと理解しておくことは大事なことだろう。
ベトナム戦争は、アメリカが参戦する前から、大東亜戦争の後に連なっておきた民族独立戦争から続いた戦争であり、日本もこれに大きく関係している。
ベトナム戦争は、アメリカ参戦から考えては、わからないわけだ。
アメリカは、ホーチミン政権を共産主義イデオロギーの拡大としてみて、反共の旗の下に阻止しようとしたのだが、実際は大東亜戦争終結頃からはじまる民族解放戦争という色彩がベトナム戦争に関しては強かった。
ベトナム人にゲリラ戦を仕込んだのも大日本帝国軍人だった。彼らは戦後、ベトナムに残留し、ベトナムがフランスからの独立戦争を戦えるようにゲリラ戦を教え、また、ともに戦った。
ベトナム戦争では、ソ連やチャイナがバックにあると考えられていたが、実際はチャイナとベトナムはその当時から対立しており、チャイナはソ連の物資供給を妨害しまくっていたようだ。アメリカはこういうアジアの歴史を全く理解していなかったらしい。

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拡散するIS

ニュースによるとフィリピンにISの勢力が拡大し、ひどい状態になっているようだ。
事態を重く見て戒厳令がひかれているようだが、シリアのISを潰したことで、ISは拡散して世界各地でテロを頻発させる作戦に移ったのだろう。アジアではフィリピンだけでなく、イスラム教徒の多いインドネシア辺りも危ない。
フィリピンやインドネシアに過激なIS支持組織があるというのは、前々から指摘されていたが、それが勢力を拡大してきたわけだ。
日本もフィリピンやインドネシア辺りから入国してくる人間には注意をしないと、日本国内でのテロも起こりうるだろう。ISは前々から日本もターゲットだと公言しているからだ。

こうなってくると、海外旅行も危ない地域ばかりになってきて、アジアもヨーロッパもちょっと行く気がしない。
せめて日本国内は安全に旅行を楽しめる状態を維持してほしいものだ。
しかし、日本のテロ対策は全くできていないようだ。
このままだと、東京オリンピックはほんとに危険なことになりかねない。
しかし、小池百合子が共産党に完全に飲み込まれたようで、困ったものだ。小池がこれほどのバカだったとは知らなかった。小池は、法律も行政も何も知らないただの婆さんなのであろう。
こうなると、舛添の方がまだましだったのではないかと思うが、後の祭りである。
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2017年05月28日

現代の疎外論 w

「仕事なんか生きがいにするな」という本をざっと読んだ。
著者は泉谷閑示という精神科医で、次のネット記事を見て少し興味を持ったためである。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/238739/030200240/

泉谷:そうなんです。しかし面白いことに、インド・ヨーロッパ語族の言語も7世紀くらいまでは、やはり日本語と同じように主語というものはなかったのだそうです。しかし、そのうち動詞の活用が始まり、主語も登場してきた。英語では12世紀頃、主語の義務化が起こるようになってきた。それはムラ的だったヨーロッパの中世の社会が、「個人」に目覚めていった社会の流れと密接に関連しているわけです。


興味を持ったのはこの部分で、ほんとかどうかは知らないが、ほんとだとすると興味深い。W
しかし、こういった断片的な知識では何とも言えないし、事実関係については注意深くあるべきである。

先の本は全く面白くなかったし、つまらない本を買ってしまったと後悔したが、同調圧力とか、主語の問題というのは興味深い。が、そういう話は先の本には載ってなかった。
労働教を否定するのに、フロムやらマルクスの甥やらウェーバーやらいろいろと引用が出てくるが、こういった名前を聞くだけで、著者の知的背景はなんとなくわかるのだ。W
労働教、労働価値説、怠ける権利、実存主義、、こういった20世紀初頭からもてはやされたリベラルの空疎な概念をもてあそんでも100害あって1利なしだ。
著者は労働教といったものが現代にあるとして、それを否定的に扱っているのだが、これも一種の昔からある左の疎外論だろう。

私が前々から思うに、右と左のわからない人間がほとんどだが、右と左がわからない人間はまず例外なく左なのだ。この精神科医も右も左もわからない左である。

子供のころ、つむじが右回りか、左回りかというのがはやった。たしか、左回りのつむじだと賢くて、右回りだとバカということだったと記憶している。私はこの理由がわからず不思議であったが、今思うに、これは左と右をからかった話だったのかもしれない。W
posted by libertarian at 12:03| 東京 ☁| et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月27日

ペンとノートとキーボード

ここのところ、筆記具、文房具、キーボードに凝っていた。この手の道具は普段は何となく使ってるが、意外と奥が深いことを再認識した。w
現代人にとっては、手書きもキーボードも日常的に必須の道具で、どちらか一方だけというわけにはいかない。

思うに手書きの場合の一番のメリットは、落書きができるということかもしれない。
パソコンでも落書きはできないこともないが、やはりノートに書いた方がしっくりくる。
雑然とした考えやイメージを絵、図形などの落書きで徐々に整理していくには、ノートとペンというシンプルで自由度の高いものがよいのである。コンピューターは便利だが、基本的にとんでもなく複雑なもので、自由度も高くない。プログラムされた機能に制約される。
紙やペンには、紙の質感や書き味という要素があるがコンピューターにはない。まあ、ないわけじゃないが、良質の紙とペンのフィーリングにはまだ遠く及ばない。

コンピューターは、ノートとペンのもつ、質感とか書き味といった感覚的な要素を一切廃した情報としてしか扱わないわけだ。そこがコンピューターの良いところでもあり限界でもある。
しかし、人間の能力をより引き出してくれるのは、ノートとペンの方だろう。

タイピングゲームの寿司打の1万円コースでタイピングと手書きのスピード比較をしてみた。大体、手書きもタイピングも同じくらいのスピードのようである。手書きも練習をすれば、もう少しきれいに早く書けるようになると思う。今の状態では、寿司が流れる前に手書きできるが、力が入りすぎるのか乱雑になる。
しかしタイピングの方がずっと速く書けるように思っていたが、あまり大差ないというのは、発見であった。w

書くスピードが大差ない上、実際は考えたり思い出したりする時間が圧倒的に長くてそれが律速段階になるので、どちらで書いても時間的な違いはないということだろう。
プログラムもノートに書いた方がいいかもしれない。w
posted by libertarian at 21:21| 東京 ☁| et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月25日

Chrome Remote Desktopのすすめ

複数のコンピューターを使う際に、ディスプレイもキーボードもマウスもその分だけ必要だったりするが、これをChromeのリモートデスクトップを使うことで一元化すると便利である。

今のところ、私が現役で使っているマシンはマック2台、Windows3台だが、これを1台のmacbookproからリモートデスクトップ経由で使っている。もっとも全部使うことはあまりないが、1台はオーディオサーバーのようにしている。
少々古いCore2Duoのノートでもリモートデスクトップ経由で早いマシンを使えるのは便利だ。ほとんどリモートデスクトップだけ動けば十分という感じになる。w
実際は仮想マシンで各マシンに様々なLinuxも動いているので、10台以上のマシンを使っているような感じだ。w
リモートデスクトップ経由でもタイピングの遅延もあまり感じない程度に速く不満はない。LAN経由でなくインターネット経由でこのスピードが出るのだからいい時代になったものだ。w

普段は、メインのMacbookProRetinaから、windowsや他のマックにログインして使う。
chromeなどのブラウザーはかなりメモリを消費するので、メインのマシンのメモリをなるべく消費をさせたくない場合、他のマシンでchromeを立ち上げておいて、リモートでそれを見るといった利用法だ。
ながらで音楽を聴くときはUSBDAC経由でオーディオにつなげたPCを操作する。
このような形でPCリソースの有効活用ができる。

また外出時は、モバイルやタブレットPCからリモートでメインのマシンを見れば、非力なマシンでもメインマシンをそのまま利用できるので便利である。同じ環境を非力なマシンにインストールしなくても大丈夫というのも便利だ。もちろんipad,androidからでも使える。

このchrome リモートデスクトップは大変にすぐれものなのでおすすめである。
セキュリティ管理をGmailログインの仕組みで代替しているようで、面倒な設定も一切ない。
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2017年05月23日

ネガティブリストとポジティブリスト

憲法9条を改正して、自衛隊を国軍にしなければいけないという議論があるが、これがだんだんと迷走してきた。
つまり、加憲を行い改正を行わないといった議論だ。
しかし、自衛隊の本質的な問題は、正式な軍隊にして軍法を作らなければ、それを国防軍と呼ぼうがなんと呼ぼうがやはり軍隊として行動ができないということだ。
今の自衛隊は、ネガティブリストでなく、ポジティブリスト形式の軍規のようなものがあるそうだが、軍法がない。そして、ネガティブリストの軍法を持たなければ軍隊ではない。

法律自体が本来、ネガティブなルールでなければいけないというのがハイエクの指摘したことである。
つまり、なになにすべしではなく、なになにしてはいけないというのが法律の本質なのである。このようなネガティブリストが法律の本質である。
たとえば、言論の自由とは、国家が言論の自由を制限してはいけないという、ネガティブルールである。

特に憲法のようなものはネガティブルールを基本とするべきである。
日本国憲法を書き換えるのであれば、それはネガティブリスト形式に文言を書き換えるのがよい。
ポジティブリストの、これこれをしなければいけない、なになにをしてもいいという形式は原則禁止の前提でその例外規定を定めるものであり、自由を著しく狭める。
一方のネガティブリストは、これこれはしてはいけないというもので、原則自由の前提で例外の禁止規定を設けるものである。軍隊がネガティブリストに基づかなければ、臨機応変に行動することは無理なのである。
そもそもポジティブリストで規定されていたら、敵はそのポジティブリストの裏をかいて、手も足も出せないように攻撃することも可能だろう。
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2017年05月22日

将棋の考え方

電王戦を見ていたが、面白かった。佐藤名人の態度や発言が立派で感心しきりであった。
今のコンピューター将棋が、人知を遥かに上回るレベルだというのは、既に数年前からの常識であり、もはや興行的な面白さもなくなったから今回で電王戦は終わるようだ。

将棋というのは、何をどう考えるゲームなのかがわりとはっきりしないゲームだと思う。
つまり、「将棋の考え方」がよくわからないために、上達も難しいゲームだと思う。
谷川浩司永世名人が若い頃に書いた「将棋に勝つ考え方」という本が昔あったが、この本は、将棋の評価をどうするかについて初めて書かれた本ではないかと思う。その本では、持ち駒に点数をつけ、その合計点で客観評価のようなものを行っていた。
しかし、その後、「将棋の考え方」についての本は出ていないと思う。
やれ、最新定跡だ、戦法だ詰将棋だといった本ばかりで、将棋とは何をどう考えるゲームなのかが分かっていない。昔はココらへんを曖昧に大局観という言葉で表現していた。大局観が評価関数のようなものだ。
それは、指す人間によって異なり、強い人間は正しい大局観をもっているから強いのだと思われていた。

今のコンピューター将棋の留まるところを知らない進歩は、この評価関数の進化という風にも考えられるのだろうか。それは非常に複雑なもので、開発者であってもその評価関数の意味を理解することはできない。
おそらく関数という形では中身をみることもできないブラックボックス化されたものだろう。

肝心の評価関数がブラックボックス化されているという点では、従来の人間の評価がその人間に固有のものでブラックボックス化されていたのと似ている。棋士にもなんらかの評価関数があるが、それを正確に言葉にすることはできない。

実際、将棋で学習し上達できる部分は、寄せの技術、詰ます技術くらいかもしれない。
プロでも終盤のこの技術で大体の力関係は決まっているように思われる。
藤井4段も、詰ます技術がすでに棋界トップだから強い。
#しかし、寄せの技術と詰ます技術は似て非なるもので、実際は寄せる技術も高いのだろう。

実際の勝負は時間という要因が大きく、将棋は限られた時間内でどちらが正確に読めるかを競うゲームだ。
特に中終盤の複雑化した局面で、どちらがより深く正しく読むかを競っている。そういった力はR値のようなもので評価できて、かつ年齢に関係がないし、ある程度でその人のもつプラトーになってしまうのではないか。

将棋も高段者になるほど、相手の攻めを手抜きして切り返しの手を指す。高段者の将棋になると何箇所も駒がぶつかっている状況になる。私の印象では女流の将棋よりもやはり男の棋士の方が駒のぶつかりが多いと思う。そして、コンピューター将棋は、さらにこの傾向が強くなる。普通なら飛車をいただきというところで、無視して別の攻めを重ねていく感じだ。
人間同士なら飛車をとって勝ちでも、コンピュータ相手だとそれが敗因になりかねない。
人間は将棋の駒に価値を感じてしまうので、おそらくプロスペクト理論が働いてしまうのであろう。「ヘボ将棋、王より飛車を大事にし」という川柳は、将棋のプロスペクト理論である。これが将棋に恐怖の感情をもたらす。w
もっとも将棋も上達していくと、ある程度、この感覚から離れていくのだろうが、完全には無理だろう。だが、コンピュータには最初からそんな心理要因は働かない。

圧倒的な優位を築くことは、相手が明らかな悪手を指さない限り無理なので、均衡を保ちながら徐々に相手を制圧する感じか。例えばコンピューター将棋は、穴熊の価値はあまり高く見ていないらしい。
あと歩の価値は人間が感じているよりも高いのだろうと思う。コンピュータ将棋は歩がどんどん相手に突き刺さっていき歩で制圧される感じがある。
CPU同士の戦いであれば、ミスは基本ないので、寄せ合いになる前の中盤で4−500点前後の優位を築けばそれで勝負が決まってしまうようだ。






posted by libertarian at 09:22| 東京 ☀| et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月19日

学歴と教育

教育という言葉は私には強制という意味に聞こえる。
学習といえば自発的な響きが有るので、私は学習という言葉がいいと思う。
実際の所、教育は多義的な言葉で、英語で言えば、educationには、teaching coaching learning training などの意味が含まれ、どの意味でそれを使っているかで議論がかみ合わなかったりする。

また、富国強兵のための国策として論じられたり、国民への福祉として論じられたりもする。
#しかし、教育=善という前提で話をするのは大体が教育関係者なので注意が必要だ。今の社会でも教育関係者の利権はあまりにも大きい。それを連中は死守したいのである。

たしかに教育は歴史的にも国策であった面もあるが、そもそも憲法上はそんな国策を人に押し付ける権利は国家にはない。しかし、国家は権利はなくても権力があるからそれをやってしまうのだ。w
義務教育は法律的には親の義務であるが、子供の権利としては必ずしも捉えられていないだろう。
#大体において、未成年者、子供の権利というのは、法律上曖昧である。

今の社会で学歴なるものは、人間のプライシングの手段というのが最大の社会的な意味になっている。
人間を人材、つまり資源としてみれば、価格情報がないと資源は激しく浪費される運命にあるので、人材をプライシングする機能は実際の所、必要な社会的な仕組みだろう。
もし人材という資源に対する価格情報がなければアインシュタインのような天才が、つまらない単純肉体労働をさせられたり、凄い運動能力のあるスポーツ選手が、つまらないデスクワークをさせられたりするわけだ。w
プライシングとは、ある種の差別であるが、社会的には資源の浪費を防ぐために必要な「教育」の肯定的な機能ともいえる。

だが、このようなプライシングの機能は学歴で評価しなくても、いくらでも他に手段はある。
前にも書いたが英検みたいな検定試験でも十分なのだ。
もし、努力とは関係ない地頭の能力で評価したいのなら、IQテストなどというものもある。ww(ちなみに、私はこの手の心理学的概念はしょうもないエセ科学にすぎないと思っている。)

例えば、そろばんで1級とか何段だとか聞いた場合、すごい技術を持っているのだなと思っても、それに引け目を感じたりはあまりしないだろう。だが、学歴の場合は引け目をほぼ全ての人間が感じる。これは、東大卒業生であっても、自分よりちょっとでも優秀な学歴のある人間には引け目を感じるものなのだ。むしろより一層強く感じるようだ。w

これはなぜかというと、プライシングと価値が結びついているからだろう。値段と価値は別の概念だと言っても、なかなかそうは認識されないのだ。w
一方、そろばんの技倆は価値に結びついたプライシングの一種とはあまりみなされていない。
それはあくまで個人的で個別な技倆の尺度なのである。
私はその点、今の学歴システムを検定試験で置き換えてしまえば、プライシングの機能も果たされ、所詮は全ては技能検定にすぎないと皆さん思うようになり、価値との分離ができると思うのである。

今の学歴というブランドによるプライシングが価値と結びついている理由は権威と結びついているからだろう。
日本の場合は東大を頂点とした旧帝大から連なるヒエラルキーが役所的にきっちりと出来上がっているのである。こんなものを誰が勝手に決めたのだろうか?

実力、学力、、こういった力関係は、パワー、つまり権力に結びつく。学歴のあるなしには関係ない。
学歴は日本の場合は特に、権威と結びついている。権力と権威は別の概念なのだ。
つまり、力=権力はあるが権威がない在野の人材というカテゴリーが生まれる。w
本田宗一郎や松下幸之助といった人物は権力は絶大だったが権威には欠けている在野の人間なわけだ。
スティーブ・ジョブスもしかり。w

だらだらと書いて、何を書こうとしていたのか忘れてしまったが、要するに、社会的な権威とは国家が関与することから生まれるわけだ。日本の場合は、私学より国立がエライといった構図が国家が教育に関与している部分が大きすぎるがために起こっている。さらに、権威と権力の分離という日本の歴史の美点までが損なわれているのである。
さらに言えば、権威とは宗教的なものだ。キリストには権力はなかったが、権威を今の信者は認める。なぜならキリスト教は国家よりも上だからである。天皇も権力はほとんどなかったが絶大な権威は日本の歴史を通じてずっとあった。それは天皇が神道の祭祀王だったからだろう。
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2017年05月14日

キーボードについて2

キーボードのキーのリマップソフトには、マックではkarabinerやkeyhacというのがある。
ただしosをsierraにしてしまうと、karabinerは使えず、karabiner elementで最小限の設定しかできない。
keyhacの存在は最近知ったが、これだとsierraでも、キーリマップが細かくできるらしい。
keyhacはwindowsにも対応している。

キーボードも英語配列、日本語配列とあるが、一番の違いは記号の位置である。
英語配列の方が記号の位置が比較的にプログラムする際は便利な配列になっている。
だが、どちらも基本的に、!"#$%()といったプログラムする際に多用する記号キーがホームポジションから離れたところに配置されていることには変わりない。

そこで私はこれらの記号をホームポジションの周辺にキーリマップしている。
英字大文字はシフトー◯というホームポジションのアルファベットを使うが、基本的に大文字を入力することは少ないので、ここに記号をリマップする。例えばシフトーqで!が入力されるといった具合になる。
もし大文字入力が必要な場合はもう一方の側のシフトキーか、caps lockを用いればよい。

こうすることで、プログラミングする際もほとんどホームポジションから手を大きく動かすことなく入力することができるのである。
同時に、このようにリマップしてしまえば、キーボードの英語配列、日本語配列という違いもあまり気にならなくなる。


posted by libertarian at 10:03| 東京 ☁| Computer | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

渡部昇一とハイエク

渡部昇一氏が永眠された。
うらやましいような、いい人生を歩まれた稀有な知識人だったと思う。
渡部氏は大量の著作を出されていて、私はそのほんの一部を読んだことしかないが、それでも20冊くらいは読んだことがあると思う。

私の印象では、渡部昇一はイギリスの良質の古典的自由主義を理解しかつ体現していた日本人ではほんとに稀有な自由人だったのではないかと思う。英文学の研究経由でチェスタトンなどを深く理解していたのであろう。
また、若き日にハイエクの通訳として交流があったというのも稀なる偶然だ。
渡部昇一氏の書いたハイエク本が日本人の書いたハイエク本の中では最も良質な本だと思う。というか、それしかマトモなハイエク本は見当たらない。
ハイエクはオーストリア生まれだが、イギリス人となりイギリスの古典的自由主義を研究し、それをリバイバルさせた人物であったといえると思う。ハイエクの保守主義とはイギリスの古典的自由主義(classical liberalism)のことである。

稀有な特権的な体験を積み重ねる中で、渡部昇一という古典的自由主義者が日本に生まれたというのは奇跡的というべきかもしれない。
70年−80年代の左翼全盛の中で、猛烈な個人攻撃にさらされながらも、独自の言論を展開し続けた胆力はチェスタトン譲りの信念があったからかもしれない。
今の日本には渡部昇一に相当するような知識人はどの世代をみても全く見当たらない。
そして、日本には古典的自由主義を理解する人間はいなくなってしまった。
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2017年05月13日

Rについて

あるアイデアを思いつき、どの言語で作ろうかと考えていた。
私は今までにいろんな言語をかじってきたので、普段は細かいことはほとんど覚えてないが、ちょっと復習すればプログラムを作れるくらいの知識と理解はあるのである。私にとってプログラミングはDIYの楽しみの一つだ。
そして開発言語の選択はDIYにおける道具の選択と同様に重要な問題である。

言語は大体、C系統とlisp系統の関数型言語の2つのパラダイムに分けられると思う。prologもパラダイムの一つに入れられるのかもしれない。が、prologは使ったことがない。w
それにくわえてoopがある。ただしオブジェクト指向はパラダイムというわけではない。昨今の言語は、マルチパラダイム化しており、いろんな言語のいいとこ取りをしているわけだ。oop的なものは最近の言語では大体必須になっている。

で、今回はRを使おうと思った。Rは日本ではコマンドラインで使うフリーの多機能な統計処理プログラムとしてしか認識されていないことが多いが、実際は、立派な関数型言語であり、それに統計処理関係のライブラリーが沢山あるだけという把握のほうが正しい。要するにRは言語、それも関数型言語だ。
大体数学関係のソフトは関数型言語が使われてることが多い。matlab,mathematheca,maximaしかり。
だが、それらは独自言語を持つがその言語の解説書が少ないので、使い方がよくわからない。Rは最近、言語として注目されているようで、解説書が沢山あるのがメリットでもある。
私もRをプログラミング言語として使ったことはなかったので、オライリーのpdf本が役にたったという次第だ。

ちなみにR関係のpdf本は沢山ネット上にあるが、私がいいと思ったのは、Advanced-Rという本である。
lispのような関数型言語の経験があれば、R言語の学習はわりとスムーズにできるのではないかと思うが、javaとかC系統の言語しか使ったことがないと少ししんどいかもしれない。w
Rはlisp,schemeなどと同様にfor文やif文を原則として使わないのがコツである。一応用意されているが、それら制御構文を使うとめちゃくちゃ遅くなる。逆にそれらを使わないでヴェクトル処理だけで書くとC言語並のスピードで動く。
またパッケージライブラリも万の単位で存在する。そんなに沢山あると、どこにどんなのがあるのかさっぱりわからない。どこかで紹介されている良さそうな奴を試すしかない。w
posted by libertarian at 20:46| 東京 ☔| et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

PDF本

最近、今さらのように気づいたのであるが、オライリーなどのコンピューター関係の本は、英語版の原書は大概がPDFで公開されている。これが違法なのか合意の上なのかはよくわからない。大学のサイトに掲載されていることも多いので合意の上での公開が多いのではないかと思われる。

とはいえ、そうなっているのは出版から2−3年以上過ぎた本で、新しく出たばかりの本とかはさすがに公開されていない。コンピューター言語やOSはGNUで無償で提供されていることが一般的になっているので、その無償のソフトを解説した本もある程度売れたら無償で公開するという精神なのかもしれない。

日本人の書いたコンピューター関係の本はいいのがあまりないので、オライリーのような本が無償で読めるのはありがたい。WEB上にも解説的な記事は沢山散在しているが、やはりちゃんとした専門家が気合を入れて書いた本は価値が高い。
それにコンピューターとか技術的な本は英語が文学書と違って平易なので、下手な日本語の翻訳を読むよりわかりやすいということもある。英語は技術書を書くのには適した言語なのではないかという気もする。つまり、日本語より曖昧さが少ないので明確だ。

さらにPDF本はキンドル本よりもコピペが用意というのもメリットだ。
サンプルプログラムをコピペで実際に走らせてみることが簡単なのは大きなメリットである。キンドルだとそうはいかない。
posted by libertarian at 20:02| 東京 ☔| et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

憲法改正について

今の憲法で実害があるのは、第9条くらいで憲法改正はまずは9条の改正だけを行えばよい。
自民の改憲案はヒドイもので、できの悪い学生の答案のようなめちゃくちゃなものだ。その内容は全面改憲であり、幼稚な思いつきを書き連ねただけの、とてつもない改悪案となっている。
こんなヒドイものを出したら、たたき台にもならない。この落書きのようなふざけた改悪案を未だに自民は引っ込めてすらいないのはなぜなのだろうか?はっきりいってそれはGHQの若造が書いた落書き憲法よりも遥かにヒドイものである。
普通憲法改正というと、9条の改正と思うだろうが、自民の改憲案はそうではないのだ。

最近思うに、日本の憲法が硬性憲法であることは事実だが、日本が戦後70年以上憲法をいじれなかったのは、むしろ日本が緩衝地帯となっていたからではないかという気がしてきた。
緩衝地帯でない普通の国ならば、自主的に改憲はできるわけだが、緩衝地帯は普通の国ではないので、普通の国にはできることがとてつもなく困難になるのである。ドイツは敗戦国でありながら戦後も改憲を繰り返しているが、ドイツは東ドイツが緩衝地帯となったお陰で直接の緩衝地帯とはならなかったためだろう。
そして、戦後、もう一つの緩衝地帯がユーゴスラビアだった。
そして現在のヨーロッパの緩衝地帯はウクライナである。これが何を意味しているかというと緩衝地帯というのは、地理的な特異要因だけで決まるわけではなく、移動変化することがあるという事実だ。

日本の場合、社会主義化には2つの勢力があり、それは大きくはソ連、コミンテルンと、チャイナ、中共である。
冷戦の時代は日本はソ連の共産主義が脅威であったが、今はソ連は曲がりなりにも共産主義を捨てた。
そして、昔のソ連の脅威よりも今のチャイナの中共の脅威の方がずっと大きく、中共はあの手この手で日本社会への侵入の度合いを深めつつある。具体的には政治、メディア、行政、教育機関への浸透の度合いを深めている。

もし、朝鮮半島が北主導でソフトに統一されていくと、朝鮮半島はある意味で緩衝地帯ではなくなる。
朝鮮半島は今まで100%の緩衝地帯に過ぎなかったが、同時に日本も戦後は50%くらいの緩衝地帯だったわけだ。
しかし、半島が北に統一されれば、日本が今度は100%の緩衝地帯になっていくだろう。
すると、ますます憲法9条改正のような普通のことができなくなる。
これはかなりの脅威であり、日本は戦争しなくても自滅する可能性が高い。

朝鮮有事は4月には起こらなかったが、まだ予断は許さない。
藤井厳喜氏などは、トランプは朝鮮を見捨てて、南朝鮮からも軍を引き上げるだろうと予測していたが、どうだろうか?これは日本への警告の意味を込めての最悪の予測という意味もありそうだが、高麗連邦なんてのができたらほんとに存亡の危機に陥ることは確実だ。
と同時に、日本の緩衝地帯化はますます強まり、憲法改正どころではなくなり、防衛も不可能になる。
しかし、トランプがそこまで日和るとは思えないが、最悪のシナリオも考えておく意味はある。

ただもし、アメリカが朝鮮半島を放棄すれば一方的にチャイナを利する結果になるわけで、それは軍事戦略的にもどうだろうか?
アメリカが朝鮮半島を放棄すれば、同時にチャイナに対しても降伏を宣言することに等しいだろう。

posted by libertarian at 09:34| 東京 ☔| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

教育無償化案に反対する

安倍首相が教育無償化を盛り込む憲法の加憲案をだして一部盛り上がっているようだが、大反対である。
高校教育無償化を唱えている維新を取り込むための策とも言われているが、この案はどうしようもないほどヒドイもので共産主義政策と変わらない。本来は、この真逆の政策が必要なところである。つまり、公教育の全廃と教育の完全民営化こそが目指すべきことである。

もし全ての教育を無償化すれば、どうなるかは明らかで、今の国公立大学を頂点とする教育システムがますます腐敗し、公教育システムに寄生する日教組のような極左団体の力も強くなる。
日本から教育というサービス産業が完全に失われ、教育サービスの質はますます低下していくことは確実だ。

そもそも税負担を無償というのが大間違いであり、税金負担は無償ではなく、より悪いサービスをより高い値段で選択の自由なく購入させられることになるのである。

高橋洋一氏なども、この案を節操なく支持しているが、これではミルトン・フリードマンの孫弟子とはとてもいえない。w
高橋氏にはフリードマンの著作をもう一度読み直して欲しいものである。w
教育を公共事業の一つとして見て、同じ公共事業であるなら、道路や橋の建設よりも広く国民全体が受益者になるという発想らしい。これはなんともお粗末な論理である。

高橋氏は現代ビジネスで次のように書いている。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51630
「知識に投資することは、常に最大の利益をもたらす(An investment in knowledge always pays the best interest.)」というベンジャミン・フランクリンの名言を引用しながら、教育を投資として捉えると、社会的な便益もコストより高いことを紹介し、そうであるなら、国債で教育の財源を賄うのがいいと書いた。」

しかし、フランクリンのこの言葉の投資主体はあくまでも本人、個人だ。自分で自分に教育投資をするのがいいという、啓蒙主義的な内容であり、これを税金投資のことに主体を置き換えて濫用してはいけない。

もし、分配政策としてやるならば、教育バウチャーのようなものを先にやるべきである。これは教育にしか使えない商品券のようなものを国民全体に配るので、サービスを受ける側に選択の自由が生まれるのが大きい違いだ。
同時に国公立大学を閉鎖していき、民間の教育サービス産業が伸びるようにする。
もし、無償化を憲法に盛り込んで法律にしてしまえば、今の国公立の教育機関に巨大な利権が新たに付け加えることになるだろう。

そもそも、今は昔と違って、ネットの時代なので従来の学校に通って大きな教室で授業を受けるという非効率なシステムは改められなければならない。こんな300年前から変わらない不合理なシステムが未だに残っているのも、教育関係者の利権温存のためである。
同時に知識を得る目的であれば、昔と違ってどんどん安く良質な情報がネットから得られるようになっている。
つまり、今はリアルに教育は無償化しつつあるのであり、税金と国債で教育を高価で低サービスなものにする必要はまったくない。

学生も友達や社会関係が欲しいだろうから、人が集まる場はあってもいいだろうが、それは別に教室でなくても構わない。クラブ活動やスポーツや実技をする施設としてしか学校の価値はもはやないだろう。
むしろ、学歴がブランドになっている現状を改める上で、検定制度を充実させるのもいいだろう。
英検のように、数学検定、国語検定、歴史検定、物理検定といったものでその人の実力を個別に客観的に評価できれば、そのほうが公平であり変な差別もうまれない。

posted by libertarian at 08:13| 東京 ☔| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月03日

パワーバランスの右と左

国際関係論(International relations,IR)という分野がある。ミアシャイマーも、その一つだし、ルトワックなんかも入るかもしれない。
こういった社会学系のいわゆる学問は狭い分野であるが、どの程度の影響力を持っているのかさだかでないところがある。

そもそもIRというのはイデオロギー中立のものではない。しかし実際にその中でやっている人達はイデオロギー中立の科学的な学問だといいたがる。これはミアシャイマーなんかも同様だ。
IRでは歴史的な事実を根拠、論拠にすることが多いが、歴史が少しでも入るとイデオロギー中立はまず困難になる。
事実、ミアシャイマーのTheoryの論拠は歴史的な考察にあるが、ミアシャイマーの日本やチャイナの近代の歴史観は完全にチャイナの文献に依拠しているから、少し歴史にうるさい日本人からみれば、日本に関してとんでもない歴史観をしていると思うだろう。私は、ミアシャイマーのTragedy of great power politicsを英語原書で読んだが、関東軍のことをワンタン軍(kwantung army)とチャイナ表記で書いていることからもこのことを確信した。w

アン・コールターなどは、ミアシャイマーをリベラル連中の一人だと呼んでいる。ミアシャイマーと共著の多いハーバード大学のスティーブン ウォルトなんかは、たしかにゴリゴリのリベラルで、ウォルトはトランプのことも蛇蝎のごとく嫌っており、熱烈にヒラリー・クリントンを支持していた。w
こういうのを見ると、ハーバード大学というのは、ほんとにアメリカのリベラルのアカデミックな牙城なのだなと思う。
しかし、シカゴ大学のミアシャイマーはそんなにリベラルだという印象を私は持っていなかった。ミアシャイマーはトランプのことも支持していると思われる。

アン・コールターのいう左派リベラルの基準はどこにあるのかわからないが、想像するにBalance of Powersをいうような連中は大体リベラル野郎だと判断しているのかもしれない。w
この女史の本を読むと、まずもって、パワーバランスなどという発想はない。共産主義国家のような巨悪との共存といったいわゆる現実主義的、realisticな妥協など許されず、パワーバランスという弱腰なことを言っている奴は彼女の視点ではリベラルなへっぽこ野郎なのだろう。w
レーガンのように共産主義の悪の帝国は容赦なく叩き潰す決意をもたなければならないというのが彼女の考える保守なのだろう。
私はこれは一理あると考える。
パワーバランスという概念を、自由主義圏の中だけに適用し、共産主義圏は断固たる決意でその体制を叩き潰さねばならないということだ。共産主義の悪の帝国との妥協は許さないというのがやはり保守のとるべき態度だろう。



posted by libertarian at 01:06| 東京 ☀| アメリカ政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする