とはいえ、私は特に巨大建築が好きと言うわけではない。また図体だけでかい企業の情報システムなども全く興味がない。特に日本の最近の巨大建築はニューヨークの摩天楼の巨大建築群に比べると妙に内部構造に懲りすぎていて落ち着きが無く、内部に入るとあまりスケールを感じず、むしろせせこましさを感じることが多い。六本木ヒルズなど最たる例だ。
シンメトリーが意図的に崩された構造物の中に入ると、空間における自分の位置が把握しにくくなり落ち着かない。建築技術の向上によって自由な構造を建築家の思うがままに作れるようになったおかげで、従来の建築の構造的必然からくるシンメトリーな構造美が崩れ、建築家の思いつきの意匠が主張しすぎていると感じる。
どうも巨大化する技術というのが、一本道の技術とでもいうのか目標がはっきりとした延長的な技術なのだろう。技術はどんどん複雑化して高度化するが、あまりクールとは思えない。これはコンピューターも同じだ。巨大化したものは、もはや進歩や発展の余地も少なく、想像力の働く余地が小さい。
都心に高層建築を作るのは土地経済合理性の必然だが、そもそもネットワークの時代にはやはり通勤という馬鹿らしい時間と労力の無駄を省いた組織にする必要がある。一時期、しきりに大きな本社が否定されたが、といって小さな本社になったとは全く思えない。
通勤費用とオフィス代の一部でも従業員に還元する方がWINーWINなはずだ。やろうと思えば在宅勤務など技術的には簡単にできるはずだが、それを難しくしている理由としては、一つに様々な労働規制がある。また無意味に過剰な守秘規定がさらにこれに拍車をかけている。今や企業の中ではなんでもかんでも営業秘密となっている。この結果、リスクコントロールならぬリスク回避がシステムロジックに埋め込まれてしまったことで組織が縮こまっているのだ。
小さな会社が沢山あるのと、大きな会社が少なくあるのとどちらが効率がよいかは意味のない比較で、これを動的平衡関係で考えるべきだろう。会社組織というのは、個人の無限責任を回避するための法的な防御装置にすぎないのであるから、会社が潰れることは全く問題ではない。
むしろ有限責任の株式会社であっても、個人無限責任が平気で問われる現状が問題なのだ。これは日本の金融機関が自らリスク負担をするセクターではなく、リスクを押し付け、回避する機関に成り下がっているからだろう。この淵源の一つとして日本の遅れた民法体系もあることは何度も書いたとおりだ。
法律が社会や経済システムの下部構造にあるのは間違いのない事実で、究極的には経済活動と法律をアンバンドルする必要がある。アメリカのConstitutionalismもしくは制限憲法は、法の領域をあらかじめ限定することで、ある程度はこのアンバンドルを可能にしてきたが、今では法の制限境界はほとんどなくなってしまったようだ。
法を権力の支配のための万能の道具とすることは、歴史上常に行われてきたわけで、むしろそれが法律のメインの機能であったろう。制定法の本質をそのような危険なものと認識していたからこそ、Constitutionalismが生まれたわけだ。しかし、公益という全体主義の呪文によって、この垣根はあっというまに破壊されてしまった。
さらにリスクという強迫神経症的な概念も今では支配のための呪文となっている。だれもリスクとは何かを知らずに、リスクという言葉を呪文のように唱えている。ほんとうの危険性は、自分の自由を誰かに握られることであり、法律によって自由に奪われることが最大のリスクだ。法の本来の目的は脆弱極まりない個人的自由を守ることにあり、その逆に法律がもっともしてはならないのは、自由を部分的にでも制限することだ。これは禁酒法しかりで禁煙法もしかり。個人や企業の行動レベルでリスク管理責任を政府に委ねてしまえば、それはもう社会主義と同じだ。
今はファシストどもが、公益やリスクという呪文を唱えながら、もっとも危険な権力への隷属への道に社会を驀進させているようだ。
日本はこれから旧ソ連のように安定的な低成長社会、マイナス成長社会になっていくだろう。これは人口動態的にも確実だろう。とはいえ、人口は作物のようにお天道様もとい経済成長の影響で出生率が大きく変動するので、万が一好況になれば、バブルのイギリスのように出生率が大きく伸びることもある。
このことから、経済成長の目的は実は人口増加にあるのではないかという風にも思える。これは人間は遺伝子をのこすための入れ物に過ぎないという考えとも適っているように思われるわけだが、私はこういう似非科学的な理由付けは一切認めない。


