2009年06月10日

The road to hell is paved with the common good

先に引用したとおり、ミルトン フリードマンもハイエクのように政府の規制権力を抑えるには、constitutionalな制限を作るのが一番現実的で包括的な策だと考えていた。しかし、同時にこのアイデアも極めて実現困難であることは分かっていた。
しかし、ミルトンフリードマンたちが幸運であったのは、レーガン政権が誕生したことだろう。
これによって、アメリカのベクトルがかなり変化したのは間違いない事実で、フリードマンたちの運動が貢献した部分も大きかった。レーガン政権が誕生したのは1981年で「選択の自由」が出版された翌年である。さらにレーガンはレーンキストをタイムリーに連邦最高裁のchief justiceに任命することもできたし、まさに自由主義にとって波に乗っていた黄金時代であった。

20世紀の共産主義は、まさに悪夢であり狂気そのものであった。共産主義的なるものがいまだに人類の敵であることは変わりない。では共産主義の本質はなにかというと、それは生産様式であるとか平等思想であるとかいった説明もあるが、アインランドの洞察ではその本質は「公益」(the common good)という言葉に象徴される何かであった。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉があるが、この「善意」に相当するものがまさに「公益」である。
この洞察から、ランドはエゴイズムという公益概念の反対概念をアンチテーゼとして取り上げ、エゴイズムそのものに価値を見出そうとした。

自由な状態で人間は基本的に自由にエゴイズムに則り自由に活動する。逆にエゴイズムが当然とみなされるのは自由な状態にあるときだけで、自由が失われたときエゴイズムも自明でなくなる。つまり自由とエゴイズムは社会的に消極的な自由が実現されている時にのみ追求できるものといえる。

今後、共産主義が全面的に復活することはおそらくないと思うが(すくなくとも先進国ではないだろう)、いまだに「公益」という概念は政府組織の中心的なイデオロギーとして残っている。またこの概念が批判されることはまずない。
だが、この「公益」概念が真に否定されないかぎり、”共産主義的なるもの”は形を変えて現れるだろう。
それと同時にエゴイズムという言葉の意味が肯定的に捉えられるようにならない限り、自由は「公益」より貶められた概念としてありつづけることになる。そして八百長多数派が公益という言葉を悪用し続けるのは確実だ。実際、現在の世界は1947年の時よりもより社会主義的なのだ。「公益」という言葉は、個人に対する絶対的な集団同調圧力として利用されてきた。昨今コンプライアンスキャンペーンが集団同調圧力を高めるために行われている現状からしても、今は露骨に全体主義的な統制に向かっている。

ジョンマクミランのような学者がリバタリアニズムを否定するとき、リバタリアンとしてあげられているのがランドしかいないのは示唆的だ。mechanism designのような制度設計として政策効率を考えるときにベースとなるのが社会全体の便益というある種の「公益」概念だからだろう。
だが、これはランドの公益概念とは異なるかもしれない。
posted by libertarian at 00:08| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | AynRand | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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