2009年07月01日

The Right to Employment and the Right to Profit

hamachanはバスティアを読んだだろうか。そして理解できただろうか?
「見えるものと見えないもの」の特に第12章はタイムリーだ。
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/

しかしhamachanはこういうだろう。「労働権は法律が定めた神聖な権利なのだ。経済学がなんといおうとも法律は絶対なのだ。悪法も法律なのだ。」と。
たしかに、hamachanに税金から多額の給料が払われることで、hamachanはぬくぬくとブログを書いていられる。これは見えるものだ。
しかし、その一方で、hamachanを養うために、多額の税金が企業や国民から徴収され、それによって何人もの将来ある新入社員の雇用が失われている。これは見えないものだ。
hamachanの雇用を守るために就職のチャンスが奪われた将来ある若者には権利がないというのだろうか?法律はhamachanには権利を与えたが、将来ある若者には権利を与えないのだろうか?権利は平等ではないのか?
あるものに権利を与え、あるものには与えない場合、これを特権(privilege)と呼ぶ。では、特権は正義なのか?

法とは正義である。

あるものを利するために別のあるものに不利益を与えることは正義ではない。だから特権は法ではない。
法とは不正義がなされないことを、その根本理念とするのであるならば、特権はまさに法によって廃止されなければならない。
そして特権が廃止されれば、hamachanは職を失い、何人かの若者は民間企業に職を得るだろう。

hamachanは法律をふりかざしこう叫ぶ。「だから全ての人間を正社員にすればいいのだ。全ての人間が正社員になれば全ての人の雇用は保証される。それが法律の保障する権利である」と。
かつて、そのような理想を掲げて実現した国があった。旧ソ連をはじめとする共産主義諸国である。
だが、全員の利益が全員の不利益の上になりたつことが論理的に可能でないことは、これら共産主義国家の歴史が示すとおりである。

最後に蔵さんの翻訳を引用しておこう。「労働権の否定」より
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20090701
そうした主義を持つものが社会に果たさせている役割には、恥ずべき部分はないのだろうか?
 彼は社会に対して言う、
「私は社会から職を得る権利を持つ。それだけでなく、利益をもたらす職をである。馬鹿げたことに、私はその価値の10%も失ってしまう職に就いている。もし私の同郷人に20フランの課税をして私にくれるなら、私は損をする代わりに利益を得ることになる。利益を得るのは私の権利である。社会は私にその義務を負っている。」
さて、このような詭弁家に耳を傾ける社会は、彼を満足させるための税負担に苦しむことになる。そして、一つの産業での損失をなくしたとしても、それは別の産業に肩代わりされているだけでまったく損失は変わらないことを見過ごしている。そういう社会は、あえて言わせてもらうなら、そういった負担に喘ぐにふさわしいものだ。
 よって、これまでに扱ってきた多くの話題からは次のことがわかる。政治経済の無知は、現象の直近の効果に目くらましをされることであり、政治経済を知ることは、直近と将来のすべての効果の全体を考慮に入れることだ。



posted by libertarian at 22:14| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | F.Bastiat | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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