2006年10月19日

End public education

池田さんが、教育バウチャーの問題を取り上げている。

この問題はご存知の通り、フリードマンのアイデアであるが、フリードマンはこれを現実との妥協案として出したのだと思う。そもそもバウチャーの原資は税金である。

#ちなみにリバタリアン的には”税金を用いた公教育”そのものに反対する。



また、フリードマンのこのアイデアは40年以上前のものであり、今の現実から見ると旧いアイデアであり、少なくとも今のインターネット時代に対応したものではない。



公共福祉インフラとして教育システムのあり方を考えることは設計主義の最たるものだ。

公教育はどのようにあるべきかという議論そのものが的を外した無意味なものである。

”教育のあるべき姿”は一つに収束させるようなものではなく、それこそいろんな価値観、方法論の上にいろんな人間がやればいい。駄目なシステムは潰れるだけの話だ。

#もちろんこの際、親や子供が塾を選ぶように駄目な学校から別の学校にすぐに移れるという”選択の自由”が条件として必要である。

今の教育システムは、憲法違反とも思われる国民の人格を政府=国家が作り上げるという発想すらあるだろう。



教育システムを見直すには、いかなる規制が教育システムに存在するのかを実証的に調査した上で論じなければならない。

つまり、教育問題とはDeregulation問題の一つに過ぎないのであって、教育システムに存在する数多くの規制と、利権の構造を明らかにした上で、最も効果的なDeregulationを考える必要がある。

つまり、どこに最大の利権が存在し、それを破壊する効果的な方法は何かを考える必要があるのだ。



例えば全ての世帯が生涯に子供を一人だけ持っている状況を想定してみる。私学も公立も実際にかかっている費用は同じとする。

この時、私学へ子供を行かせた場合、親は他人の子供が公立学校へ行く学費と、自分の子供の私学へ行かせる学費を2重払いする結果になる。また公立学校に行かせた場合は、単にその授業料を税金という形で払っているだけだ。

さらに税金という迂回路を通って支払うことで、そのお金は途中でどんどん公務員に抜き取られていく。

仮に1年間で100万円の学費がかかるとして、直接に学校へ払えば100万円だが、税金として政府経路で払おうとすると、例えば200万円が必要になるのである。



最終的には、政府による公教育そのものを廃止することが、万人にとってベストなのである。→もちろん、これはイワン イリイチの”脱学校の社会”とは全く違った意味でだ。
posted by libertarian at 15:16| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック