2006年12月22日

Marbury v.Madison case

マーシャル判事(Chief Justice Marshall)が、このマーベリv.マディスン事件(1803)で、司法再審理の原則を確立した。以下に有名な部分を抜粋し訳も載せておく。



[http://www.lectlaw.com/files/case14.htm]

The powers of the legislature are defined and limited; and that those limits may not be mistaken or forgotten, the constitution is written.



立法者の権力は定義され制限されている。そしてこれらの制限は誤解されたり忘れ去られてはならない。

そのために憲法は書かれているのである。





To what purpose are powers limited, and to what purpose is that limitation committed to writing; if these limits may, at any time, be passed by those intended to be restrained?



もし、これらの制限が、当の制限が課せられるように意図された者達により、いつでも回避されるとするのなら、 なんのために権力は制限されるのか、また何の目的があってその制限は成文化されているのであろうか?



The distinction between a government with limited and unlimited powers is abolished, if those limits do not confine the persons on whom they are imposed, and if acts prohibited and acts allowed are of equal obligation.



制限された政府と無制限の権力をもつ政府の違いは失われることになる。もし、その制限が課せられる者たちを制限しないのであれば。そして禁止された立法と許可されている立法が同じ義務なのであれば。





”It is emphatically the province and duty of the judicial department to say what the law is. Those who apply the rule to particular cases, must of necessity expound and interpret that rule. If two laws conflict with each other, the courts must decide on the operation of each. ”



法とは何かを述べることが司法府のまさに専門とするところであり義務である。

法律を特定の事例に適用する人々は、その規則を説明し解釈する必要がある。もし、2つの法律が互いに矛盾するとすれば、裁判所はおのおのの運用について判断を下さなければならない。



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アメリカの最高裁による司法再審理制は、連邦憲法に書かれているわけではないが、このマーシャル判決から法理として固まってきた。しかし、これは当時の流れの中では、当然のことだったようだ。



ハイエクは、次のように書いている。

「いずれにしても重要なことは、司法再審理が憲法の必然かつ自明の部分であったこと、またその採択後の初期の討論において、彼らの考え方を弁護する必要が生じたときは、かれらが充分に明らかな陳述をしたこと、それからまた最高裁判所の決定により、それがまもなく国の法律となったことであった。」

「司法再審理はアメリカの発明であるというより、憲法それ自体と同じく旧く、またそれなしでは立憲主義は決して達成されなかったであろう。」






posted by libertarian at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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