2020年05月30日

What is not seen ; opportunity cost

制定法を作った結果の影響、また逆に特定の制定法を除いた場合の影響というのは全てが見えるもの(what is seen)ではない。
見えないもの(=what is not seen)とは、機会費用(opportunity cost)であり、制定法によってどのような機会が失われるか、その全てを洞察することは誰にも不可能である。また実証研究をいくらやってもこの”見えないもの”が何かを明確にすることはできない。

おそらく多くの社会経済に対する実証分析に欠けているのはこの観点である。実証分析は見えているものしか対象と出来ない。しかし失われた機会が何であるかを明らかにしないかぎり、制度の効率性を論じることは出来ない。失われた機会にはその可能性としてほぼ無限の機会が含まれる。
ハイエクが言うように「特定の手段から起こりそうな全ての影響をはっきりと考察する能力が、人間には一般にない」というのはそういった意味で常に真実だ。

特定の経済政策のような社会的ルールがいいか悪いかの判断をするとき、明らかに悪い結果があれば自明な場合も多いだろうが、その効果が中立的(0)だったり、プラスに思われる場合には注意が必要だ。そのルールの経済効果がマイナスではないもしくはプラスであると早合点してはいけない。
これは公共事業や高度成長期の傾斜生産方式といった経済政策も同様だ。
政策に対する実証分析がポジティブだと言おうともそれはまず間違っている。

では、なにも判断することはできないのかというとそうではない。
バスティアの基準として、ある人からお金を”取り上げて”別の誰かにそれを移す行為を含むものは全て有害であり強奪行為である。経済効果を云々する以前にそれは間違っているのである。そして法とは、このような不正義がない状態という意味で正義を実現するものなのである。バスティアの寓話は実に深い真実を語っている。

2007年01月26日
posted by libertarian at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | F.Bastiat | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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