2007年04月08日

Japanese Court system

司法改革として法科大学院を作り司法試験の合格者を5倍くらいに増やそうとしているが、肝心の裁判官の人数はほとんど増やさないようだ。
これでは、司法はスタックするのは確実だろう。

もし、弁護士を5倍に増やすのであれば、同様に裁判官も5倍に増やすべきである。いや、裁判官の方は2-3倍も増やせば今よりも4-5倍以上の事件処理能力をもつはずだ。
日本の過小な裁判利用率をせめてヨーロッパ並に引き上げるためには法曹を全体的に増員する必要がある。

しかし、日本の司法制度は民事でもほとんど利用されずにきており、刑事裁判では起訴されたら100%有罪という現状では、そもそも司法制度なんていらないということなのだ。
機能してなくても社会はなんとかやってきたのであるから、司法制度自体が大して必要のないものだということの証明だ。

これは中国のような共産主義の独裁国家で裁判制度が大した意味のない制度であるのと全く同じことだろう。

アメリカで陪審員制度という古式ゆかしい制度がかたくなに守られているが、これは陪審員制度が自分達を守る上で大きな価値のあるものだという認識が強いからだろう。
アメリカの裁判官でさえ、(自分が当事者となる)裁判になれば陪審制度でやってもらいたい人がほとんどだというアンケート結果がある。
つまり少なくともアメリカでは裁判制度は個人の財産を守るために重大な意味があると認識されているということだ。
司法とは単なる利害の調整装置ではないのだ。

だが、日本の司法は何を守っている制度なのかすら、明確ではない。
司法官僚制度のなかで、司法官僚は行政官僚と同じ論理で行動する。
特にライブドア事件などをみるにつけ、司法制度はないよりはマシなものだとすら思えない。個人の権利ではなく国家利益なるものを優先する司法などあってはならない。
そこにあるのは、60年以上前の戦中の体制と同じ国家主義、国家社会主義だ。

司法においても、Justice=正義の原理は、集団の論理の中にではなく、個人の中に見出さなければならない。
こういったキリスト教的ともいえる正義観がなければ、司法そのものが単なる国家権力の行使装置となり、自由を守るどころか個人への抑圧装置にすぎなくなる。
posted by libertarian at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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