2014年05月16日

Social contract and Family

大東亜戦争は知れば知る程暗澹たる気持ちになる。
ミクロに見れば、特攻のようなものにもある種の合理性はある。だがマクロに見れば不合理極まりない。
特攻のミクロな合理性とは、無駄な死よりは戦果の高い戦死を選ぶといった意味での合理性だ。
犬死にする恐怖から解放される。そしてあの時は犬死のような戦死をする可能性が極めて高かった。
下世話な所では、特攻で死ねば二階級特進して恩給もあがって家族が助かる。
しかしミクロにいかに合理性があったとしても、マクロな合理性がない場合、最終的には不合理になる。
ミクロの合理性を積み重ねても、マクロの不合理を覆せない。
ミクロな一所懸命の合成が全体ではマイナスになるという悲しさだ。
そしてマクロな不合理を分かっている人は一部にいても、それを正す方法がない。

日本の金融政策の失敗による失われた20年を見ると、大東亜戦争のときと日本社会の体質がかわってないと思う。
個々の企業はミクロに合理的に行動するが、マクロな金融政策が間違っていれば、結局社会全体としては、うまくいかない。
おまけに誰もデフレの責任をとらないし、もし追求してものれんに腕押しだろう。責任の所在がないからだ。
この20年の金融政策の失政による金銭的損害は大東亜戦争のそれを上回るとされるのにである。

日本の場合、社会契約といった法概念が欠如している。それは戦前も戦後も同様だろう。
戦前、国民は天皇の臣民であって、これは対等な契約関係ではなく、絶対的な服従関係、もしくは親子の関係に近いものだったのではないか。天皇は日本家族の家父長というイメージだ。
近代国家では、国と国民の関係は、服従関係ではなく社会契約と見做される。
宗教的な関係、神と人の関係は服従関係かもしれないが、国は神ではないから、契約関係になる。
日本の場合は、国体とは天皇のことだから、国と個人の間に社会契約はない。
このことは、国家指導層にあった国家社会主義といった付け刃的思想より、もっと深い所にある原因のような気がする。
社会主義では、公益=国家利益のようなのが上位概念で、個は公益に殉ずべしといった考えだろう。
これに近い発想は日本にもあった。
公益というものを個人の権利より圧倒的な上位におくのは、公益は契約概念から外れているからだ。
ものの値段は売り手と買い手の間の売買契約で決まるが、社会主義ではものの値段が契約では決まらない。
所有権なき交換だから、それは国家指導者、官僚が適当に決める。
人間の命の値段もそこではいくらでも暴落するのだ。
日本の馬鹿な自称保守連中は公益という言葉が大好きだが、リバタリアニズムは公益という概念そのものを否定する。
なぜなら、そんなものはどこにも存在しないからである。

契約概念の希薄さというのは、日本の会社には未だに強い。
会社に勤めるとは、会社との契約ではなく、ファミリーに入る感覚だ。
国と国民の関係もファミリーの関係にある。
これは未だに日本社会の本質のように思われる。
契約関係は、責任や義務といったものが双方に生まれるが、日本社会は本質的に契約関係ではないから、責任がない。
ファミリーの内部の上下関係だけで動いているわけだ。

ファミリーの問題となると、責任の追及を裁判所でやるという発想もない。政府の責任に対しては、アメリカは裁判で問題にする。日本は政府責任を裁判で訴える事などほとんどないし、その発想がない。次の選挙まで我慢するしかないと思っているわけだ。
日本は法意識という点では前近代的な段階にまだあるようなかんじだ。

posted by libertarian at 01:10| 東京 ☁| Modern HIstory | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする