2014年07月03日

Definition of War

戦争論というのは、まず戦争の定義をしようとする。
クラウゼビッツにせよ、クレフェルトにせよ、その定義をしようとするわけだ。
戦争をいかに防ぐか、いかに勝つかという議論は二の次である。
しかし戦争が文化的行為であるとか定義しても、あまり意味を感じない。
だからなんなの?というところだ。
その定義から、戦争は必要不可欠であるとか、必要悪だといった結論になるのであろうか?

ミアシャイマーなどは、戦争の定義など問題にしない。
それがどこで発生するかを予想するのが、リアリズムの議論の中心だろう。
そこが、ミアシャイマーのオフェンシブ リアリズムの面白いところだ。

しかしクレフェルトが書いているとおり、兵士が命を懸けて行動するのは、究極の利他的な行為であるというのはその通りかもしれない。
だが、そういった利他行為は、戦っている双方にあるわけだ。一方にとって究極の利他行為が、もう一方の側からは究極の迷惑行為、残虐行為となる。
利他行為を美しいとかいって感動しているだけでは、そこらの熱血保守老人と変わらない。

私の考えでは、戦争は単に不合理な紛争解決策であり、政治的な野心や、情報の途絶や、プロパガンダによる歪曲によって、故意に起こされるものという理解だ。昔は貿易が大きな情報の交換手段でもあったから、貿易が途絶えれば情報も途絶えた。
現代は農業社会ではないから、土地というのは別に富の源泉ではない。
しかし、居場所という意味では重要だ。そういう点では生存権と絡む問題だ。
だが、経済的には昔ほど価値をもたない。

むしろ、戦争の合理性を、戦略家なる人は問題にすべきなのではないか。
多くの人にとって、戦争はなぜか起こるものであり、なかなか避けられないが、それは全く不合理な天災のようなものと感じるだろう。
だから、戦争の必然性を肯定するのであれば、むしろ戦争行為の合理性を証明したほうがよい。
戦争の定義なんてものは、所詮は俺様流の勝手な決めつけにすぎない。
いかにして、戦争行為を合理的と証明するかが腕の見せ所だろう。

ミアシャイマーは、ある意味経験的なルールとして戦争の発生をみているわけだ。
そこに、大義、イデオロギーといった主観的な価値判断はない。みるのはバランスオブパワーだけだ。
オフェンシブリアリズムの観点とは、起こるものは起こるという、強い経験則だけだ。

現代の大規模戦争、トータルウォー(総力戦)なるものは、国民国家の発生とともに起こったものだ。
歴史的には、ナポレオンが国民国家という制度とともに、国民軍という制度と、絶対戦争という概念をもたらした。
問題なのは、いわゆる広義の戦争ではなく、絶対戦争と総力戦だ。

それ以前の人類の戦争なるものは、これに比較すれば、小規模紛争にすぎないし、ギャング団の抗争とあまり変わらない。
ヨーロッパによるアジアや南米の虐殺はあまりに一方的な行為なので、戦争とすらいえないかもしれない。
明治の日本人が恐れたのは、こういった欧米による侵略と虐殺だろう。
そしてほぼその通りになってしまった。

私が思うに強者が弱者に対して起こす暴力といったシンプルな定義の方が、戦争の定義としてはよさげである。
弱者が強者に喧嘩を売るなんてことは稀である。喧嘩を売る人間がいて初めて争いがおこるのだ。
そして弱者が防衛しようとするから戦争になる。アジアやアフリカの人間は抵抗もできなかったから戦争にすらならなかった。
その証拠に、核をお互いにもつと、強者は喧嘩をふっかけられなくなる。

昔の紛争と現代の総力戦を同じ戦争という範疇で定義するのはおかしい。
文化人類学的な定義で、第2次大戦を論じるのは、飛躍した話でしかないのである。
戦略家たる者は、戦争を定義する前に、戦争の合理性を証明するべきである。

経済学などでは、カーネマンのように不合理な選択の必然性みたいなものを問題にしているが、戦争の必然性ももしかしたら、人間の不合理な選択の必然性に起因しているのかもしれない。
いずれにせよ、経済学同様に、戦略論は人間行動のインセンティブと戦争の合理性を問題にしなければいけない。

経済学的には、途方もない金と人命を費やして領土を奪うよりも、単に自由貿易をするのが合理的な解決策だ。
過去の大戦でどの国にとっても経済的にプラスだった戦争など存在しないだろう。
植民地経営は、圧倒的な搾取だから儲かるように見えるが、長期的には儲からない。自由貿易とは比較にならない愚かな選択だ。
植民地収奪が儲かるというのは、重商主義的錯覚にすぎない。

posted by libertarian at 12:35| 東京 ☁| Modern HIstory | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする