2014年10月07日

Army,Nation State and Law

ハイエクがLaw,Legislation,Libertyを書いた時の問題意識とは、Constitutionalism(立憲主義)によって自由を確保するという方法、アメリカの実験は失敗したという認識にあった。そして、その為に、別の制度的な発明が必要だとハイエクは考えた。
その際、根本的な問題は、いかにして法の支配を確保するかということにある。

メディア権力は3権分立の蚊帳の外であり、メディアの権力は司法によって間接的に制限されないといけないが、実際はメディアは増長し、腐敗する一方である。この最たるものが、世界にもまれなる巨大な国営放送局、NHKだ。
それに朝日、毎日といったマスゴミが連なっている。これらは全て早急に清算、解体されないといけない。

日本のマスゴミのどうしようもなさは、日本社会に法の支配のないことが淵源となっている。
だから、日本の愚劣なるマスゴミ問題は、単にマスゴミの問題として矮小化してとらえるのは間違いだ。
メディア権力は、3権分立の蚊帳の外にある第4の権力であるから、メディアはtorts rule のような民事賠償ルールによって、間接的に制限されないといけない。
その権力の乱用を、民事賠償ルールによって制限するべきなのだ。アメリカのメディアは実際にそうなっていて、数億円単位の民事賠償はしばしばされているようだ。それが間接的なメディアに対する制限となっている。
だが日本は司法が有名無実なので、メディア権力が野放しになり、無法化している。

法というイメージは、国家を超越したものであって、社会的、歴史的なものであり、国家を超越したものというのが自然法のイメージだろう。
国家があって、その行政部門の一つとして法があるわけではなく、その前に法がある。
Legal Positivismのヨーロッパ法ー日本の法律だと、このような自然法、コモンロー的な概念が根本的にない。
法は国家ー行政ー司法という制度にあって、司法は国家に従属するというか、国家の1機関にすぎない。
これは極めて危険な考えである。国家権力によって法の強制力が担保されるという程度の考えだろう。
そうではなく国家の前に自然発生的な社会というものがあり、社会が形成されればそこはアナーキーな世界ではなく、秩序をもつ。
社会が永続性を持つためには、法がそこにあるということだろう。その法に社会が自然と従うわけだ。そうすることに、ミクロな経済合理性もあるわけだ。

3権分立といった国家制度の仕組みは、権力を制度として人為的に作るが、絶対権力は絶対に腐敗するから、権力を三つ巴の関係にして絶対権力を作らせないというのが設計理念である。国会や行政の権力は人為的、制度的に与えられた権力だが、法の支配という意味での司法の権力はそれとは本来異質な権力といえる。もちろん、司法も人間が携わる以上完全であるわけがなく、司法に絶対権力があれば絶対に腐敗することになる。
constitutionalismにおいては、憲法が3権分立といった制度の上にあるという構造だが、その憲法とは、特別な法だ。司法、立法、行政といった3権力の上に立つ法権力としてあるわけだ。
権力の正当性は全て法に基づき、国家権力の正統性は憲法に基づく構造だ。その憲法の番人として連邦最高裁という特別な裁判所が置かれる。しかし、その仕組みが壊れてしまった。というのがハイエクの認識であった。

#ヨーロッパや日本は、憲法は持っていても仕組み的には、アメリカ型の立憲主義ではない。

しかし、そもがそもそも、国家制度とは、社会において、戦争をするために作られたのではなかったか。
近代、ナポレオン辺りから、国民軍という軍事組織を作ったことから、近代の国家イメージは作られてきた。政府とはまず軍隊としての機能が先にあった。軍隊の機能に付随して、行政権力、立法権力が肥大化していていったのだと思う。
富国強兵といわれたように、強固な軍事組織を作るために、近代、この200年ほどの間に国家の機能が肥大化してきたわけである。



posted by libertarian at 00:09| 東京 ☀| Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする