2014年10月23日

Modern Science and Premodern science

最近、医学は、科学でないと言われるのをきく。
演繹と帰納という論理で、これらは正反対のものだが、膨大な事象を事実として暗記をさせられる内に、まっとうな演繹的な論理思考力が失われてしまうのだろう。さらに、医学は聖域化されており、人体に関しては、医者以外は何も口出しができないようになっている。

血圧が主観的に高いと思えば、塩を減らせといい、コレステロール値が主観的に高ければコレステロールを減らせと言い、尿酸値が主観的に高ければ尿酸を低くしろといい、副作用のある薬を出す。ガンになれば、がん細胞を取り除けというだけだ。
一つの要因だけをみて、減らせだの増やせだのといった論理は極めて幼稚な間違った論理である。
だが、それが通ってしまっている。これでは、バカでも医者はできるし、バカでないと医者をやっていられないことになる。
そして、このような単純なマニュアルで、病院という営利組織に努める技術系のサラリーマンである医者が、医療費を膨大に浪費しているのが現代社会というものである。

膨大な知識を暗記させることで、批判的な論理能力を奪うというのは、人を洗脳する方法としてはよくある。
科学といっても、物理学や工学までは、演繹的な論理が強く要求されるが、経験的、帰納的な推論がメインとなる生物、医学といったものは、科学とは別の呼び方をした方がよいのかもしれない。少なくとも近代科学ではない。
医学では、疫学的な統計が、比較的に数理的な論拠として用いられるが、その解釈が多くの場合間違っており、また統計的に処理するにはデータが少なすぎることが多い。

科学とは、演繹的な論理思考を可能とする大きな原理を求めるもので、ニュートンの物理法則のような原理を求めるのが本質だろう。
逆に、ニュートン以降、このような原理から演繹的に思考することが可能となり、それが物理学となった。近代科学とはニュートン以降の物理学のことだ。
それ以前のいわゆる科学は、経験的、帰納的な推論によるもので、間違った論理だらけであった。近代科学はニュートンによって生まれたといってもよいくらいだ。それ以前のいわゆる経験的な科学は、科学ではないともいえる。ニュートン以降、数学的な公理的な論理思考が可能となった。不完全な推論ではなく、厳密な論理となったわけだ。

だが、医学や生物学などは、依然としてニュートン以前の流れにある。経験的、帰納的な推論で、自分では検証するすべもない沢山の事実を暗記し、多くの場合、論理的に間違えるが、それを組織的ギルド的な権威で押し切るというものだ。
何処まで行っても、これでは近代科学にはなりえない。




posted by libertarian at 06:11| 東京 ☔| Medical | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする