2015年01月11日

Freedom of speech and STAP

フランスのシャルリーエブド襲撃事件があり、言論の自由がどうのこうのと話題になっている。
しかし、今回の事件は死傷者の数からすれば、世界で日常的に起こっているテロ事件よりはずっと少ない。
アラブで日常的に起きている数十人、数百人が死ぬテロ事件が片隅にしか報道されないのに、今回、やたらとでかく報道されているのはおかしな気もする。
メディアが報復対象になったことが、メディアなりマスゴミの感情を逆なでしたということにすぎないのだろう。

あまりよく知らないが、シナやコリアに対するヘイトスピーチがいかんとされているようだが、私はそれは言論の自由にふれると思う。
事実無根のことで相手を誹謗中傷するのはもちろんいけないが、それは民事の問題である。
むしろシナやコリアの事実無根の誹謗中傷に対して抗議するのは正当防衛といえる。
シナやコリアに対する対抗言論を、なんでもかんでもヘイトスピーチだと差別的なラべリングをするのは、言論の自由を侵害する可能性が高い。
そんなものよりも、マスゴミによる、STAP報道のような人権侵害事件の方が、はるかに深刻な犯罪であることはいうまでもない。

シャルリーエブド紙は、風刺漫画の出版社のようだが、日本はマンガ大国だが風刺漫画というのがほとんどない。
もし、日本に風刺漫画などがあれば、日本ではヘイトスピーチ扱いされかねないだろう。
事実、日本ではパロディというのが、なかなか著作憲法上も成立しにくい状況がある。パロディによる引用は、著作権侵害として扱われてきた経緯がある。

かつて、ミルトン フリードマンは「選択の自由」の中で、次のように書いた。

”アメリカの合衆国の父たちは、これよりはもっと将来性のある方法をわれわれのために示してくれている。
それは、いわば「一括取引」をすることだ。われわれは、われわれが政治的な経路を経て追及する目的を制限する「自己否定的」な法律を制定すべきだ。

この修正第一条は、「連邦議会は・・言論の自由を制限する法律を制定してはならない。」という一般原則を採用した。
すなわち、ひとつひとつの場合について、それぞれがどんな価値をもっているのかを考慮しないというのだ。
われわれは、自身が多数派である場合には、他人の自由を干渉することについて、それほど深刻な関心を持たない。
しかし、われわれの大半がなんらかの時点において少数派になることはまず間違いないのだ。”

#USA修正第1条は以下の通り
連邦議会は、国教を樹立し、若しくは信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない。また、言論若しくは出版の自由、又は人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない

STAP報道でも、”われわれは、自身が多数派である場合には、他人の自由を干渉することについて、それほど深刻な関心を持たない。”ことが実証された。STAP報道事件は、言論の自由に対するマスゴミによる破壊活動であるともいえる。
マスゴミやメディアは、発信している人間は少数の人間であっても、匿名性をもってブロードキャストされる。ここにメディアと個人の非対称性があり、メディアが暴力装置となるのを容易にしている。
だが、今回のテロのように具体的な暴力行動によって、メディア側も実は少数であることが明らかになる。
メディア側もパロディを明白な”攻撃”だと意識はしていた。しかし、それは”合法的な攻撃”であり、安全地帯からの攻撃だと勘違いしていたのである。
言論の自由なるものも、本来的には個人や個人の集まりに対する言論の自由の保証であって、メディアというブロードキャストシステムを想定したものではなかったろう。それは明らかに2次的な拡張だが、個人とは異質の非対称性をもったメディア組織に対して、言論の自由の名のもとに合法的な暴力を保証するものではないだろう。

posted by libertarian at 20:08| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする