2015年02月10日

More limited government

日本のような制定法主義、大陸法の国は、立憲主義=constitutionalismの縛り、制約というのが弱いのが大きな問題だ。
アメリカの押し付け憲法はけしからんといって憲法を変えるのはよいが、それが単なる民族主義的な心情からの改変だとかえって悪くなる危険性が高い。実際、自民の改憲案は少し見ただけでも酷いものである。改憲が改悪となっては悲劇である。
憲法の改正は、自由を高めることが目的でなくてはならない。もちろん、これは自由権の拡大のことではなく、実質的な自由の拡大のことだ。法的には正義の拡大と自由の拡大は矛盾しない。

立憲主義の根本は制限憲法にあり、個人の自由を確保するために、政府をどのように縛るかという点こそが肝要である。
この点が日本ではほとんど理解されていない。村社会的な素朴な集団主義が全体主義的な方向へ向かう危険性は日本において非常に高い。
アメリカの憲法も、政府に対する制限という意味では弱すぎたというのが教訓である。
とくに政府権力の経済活動の介入に対する制限が弱すぎたというのが、フリードマンらの見解だ。この典型は自由貿易の問題だ。

日本においては、財務省を筆頭とする行政部門の権力があまりにも強いのが最大の問題点である。
なぜ、このようなことになったのであろうか。
立憲的な制約が弱すぎたのか、それとも制度設計上の失敗なのか?
もっともアメリカの場合、日本と違い行政部門が暴走している印象はあまりない。主に暴走するのは立法府、議会である。

立憲主義においては政府の役割を限定列挙的に制限することが必要だろう。
その点、憲法により、政府の役割をセキュリティに限定するのも一つの考えである。
幸福の追求といったアメリカ憲法の文学的、情緒的な表現が行政権力の肥大を招いた。こういった抽象的な表現が、政府活動をあらゆる部門に進出させることとなったといえる。

また欧米と比べた日本の弱点として、司法が弱すぎ、三権の独立した権力というよりは、行政部門の一つに堕している点がある。
これがなぜなのかも大きな問題だ。制度論と法律論の両方から究明すべき問題だ。

日本におけるコンプライアンスは、世間様感覚を法的な強制力とする点で極めて危険だと思っていたが、実際世の中の流れは世間様感覚、空気感覚というものを法的なものと勘違いしている。これは、恐ろしく危険なとんでもないことである。

政府の役割をセキュリティと限定した場合、残るのは軍事とか、それに関連する情報部門、外交部門、および国内の警察部門となるだろう。
もちろん、司法は別にあるし、行政と立法がこれらに限定されるということだ。
これは現代的なminimum governmentと考えられる。
posted by libertarian at 20:03| 東京 ☀| Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする