2015年02月18日

Freedom,Anarchy and Law

言論の自由とは、言論の自由を制限する法律を制定してはいけないという政府の立法権に対する憲法上の制約である。
言論の自由とはそれ以上でもそれ以下でもない。
言論は暴力にもなる。だがそれを規制する法律を作ってはいけないということは、事後的に民事的に処理するというのが基本だ。

一般常識的には、相手の言論で被害をこうむった場合は、損害賠償請求なりで民事的に解決する手続きになる。
ただ刑法が適用されることは基本ない。言論の自由とはその程度の保証である。
だが、言葉は強力な暴力にもなりうる。言葉の暴力に対して物理的な暴力で報復すると、今度は報復した人間に刑法が適用されるかもしれない。
だが、傷害事件の場合、事後的に刑法が適用されるだけで、刑法には抑止力が期待されているが、それを行使する人間を止めることはできない。事後的に罰するだけである。これは法律の限界である。

シャルリーエブドのように言論攻撃を、商売として用いる人間は次のように考えるだろうか。

1.商売のために言論の暴力をふるって、相手が賠償請求をしてきたら、多額の賠償金を払ってもよい。
2.相手が暴力に訴えてくれば自分は殺されるかもしれないが、事後的に相手が刑法で罰せられることを期待する。

おそらく、どちらもとも思っておらず、商売としてのい言論では儲けるが、相手が泣き寝入りする、もしくは裁判に勝ち賠償金はほとんど払わないことを期待するのだろう。要するに甘いのである。言論の自由という言葉で自分が法律で守られていると勘違いしているのだといえよう。言論の自由を守れと叫んでいる連中は、一体法律に何を期待しているのだろうか。
これは言論の自由なり法律に対する無理解が原因であり、シャルリーエブドを擁護した連中も同様だ。
相手が間違っているのであれば、論理的に説明するべきであり、宗教上の侮辱といった暴力に訴えるのは商売の為であれば完全な自己責任である。

特にイスラム法の世界の住人に対しては自分の国の法律は全く通用しない。
法律は行動の自由を制限しないしできない。つまりアウトローな解決法を選ぶ行動の自由を阻止するものではない。
言論にしても何を言ってはいけないと法律が阻止することはできないのと同じである。

国家間の関係はミアシャイマーがいうとおり基本的にアナーキーなものだ。共通の法律も強制力もない。
個人と個人の関係も従う法が異なれば、アナーキーだ。
国家や法が守ってくれると思うのは間違っているのである。






posted by libertarian at 14:57| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする