2015年03月12日

Islam as a libertarianism

イスラームの原理主義について穏健なイスラムと急進的なイスラム原理主義があるという理解は間違いなのかもしれない。
イスラームには、近代の世俗主義があるとした方がいいのだろう。つまり原理主義があるのではなく、世俗主義が近代の国民国家に分割統治されたイスラムに特異なものとしてあるとみる見方である。逆に言えばいわゆる原理主義とはイスラムそのものということだ。

中田考氏によるとイスラームは、アナキズムとしかいいようのないものだそうだ。国家や政府はイスラムには反するし、当然に税金もイスラムに反するからない。実際、過去1000年以上、イスラム社会では税金はなく、異教徒に対してのみ信教の自由の保証の代わりに人頭税を課していただけらしい。イスラームはアッラーに対する服従という意味だが、同時にアッラー以外の政府や権力への不服従を意味する。

その点、リバタリアニズム的な社会というのは、イスラム社会において既に1000年以上前から完成されていたといえるのかもしれない。
イスラムは国家なき共同体、政府なき共同体である。
リバタリアニズムのようなものは、世界宗教にはまずならないだろうから、先進国内における政治的主張に留まるだろう。
そもそも日本のように、自由という概念にあまり求心力がない社会も多いわけだ。

リバタリアニズムの唱える自由とは消極的自由であり、外部の権力による強制がないことだから、それは政府がない状態において完成される。
イスラームは、戒律が厳しくて自由がないイメージがあるが、実はそのような消極的自由を1000年以上昔に完成させていたといえる。
イスラム法という自然法による支配がイスラーム世界の本質であり、カオスや無秩序ではない無政府の共同体ができていたわけだ。

欧米はやはりベースがキリスト教社会だから、欧米の知識人はイスラムを全くしらないのであろう。
David Friedmanやミルトンフリードマンは、リバタリアン的な社会は過去に存在したことがないと言っているが、それは単にイスラームを知らなかったということなのではなかろうか。

イスラームは拡大しつつあり、既に世界の約4人に一人がムスリムだ。
もしカリフが再興されれば、これが一つのイスラームとして国家を超えたまとまりをもつ共同体になる。
スンナ派とシーア派の対立も、実はそれほど根深いものではないそうだ。確かに昔のカリフの誰を認めて誰を認めないかの問題だから、そんな深刻な問題とは思えない。それが大問題なら、今カリフがいないことの方がはるかに大きな問題だろう。
今のスンナ派とシーア派の対立は宗派対立というより今の国民国家の政治的対立により先鋭化したもののようだ。

posted by libertarian at 23:54| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする