2007年05月17日

Totaltarianism by CSR

株主,経営者,従業員と、この3つの法的立場の異なる存在が企業内にはある。
株主はその会社の所有者であり、経営者は株主から委任された存在である。
従業員は、経営者との間で雇用契約を結んでいるだけの労働者である。

従来、日本の会社では株主ー経営者の委任関係が曖昧にされつつ、従業員が出世して取締役や社長になるという出世コースがどの会社でも当然のようにあったから、経営者と従業員の距離は連続的な近いものと感じられてきたが、法的な立場で言えば、大きな隔たりがある。

株主から委託された会社の執行権限者としての経営者は、株主利益のために代理人として動いているという点で従業員よりも経営者に近い存在といえる。
アメリカ型と日本型の経営がしばしば対比されるが、この点は会社法上でアメリカ型も日本型も変わりがない。

意外と解釈が難しいのは、従業者間の関係だ。従業者間では当然に多くの仕事を頼んだり頼まれたりして業務を行っていくわけだが、この間にはどのような契約があるのかというと、明示的な契約は何もない。当然、頼まれた仕事をちゃんとやらなければ評価に響くわけだが、ここに債権ー債務関係があるようには見えない。
いわばこの間の契約はimplicitな契約であり、雇用契約から派生した自明のものと考えられているわけだ。

経営者と従業員の間で労働契約という血の契りを結ぶと、あたかもファミリーの一員のようにして動くわけだが、そこで必要なのが、経営者と従業員との間の連続的な関係性である。
現実は、経営者と従業員は異質な法的存在だが、それを隠蔽するのが、従来の日本の出世(昇進)システムだったといえる。社員といえば法的には株主を指すが、従業員のことを社員と呼ぶ慣習も法的事実関係を隠蔽する言葉のマジックといえる。

だが、株式会社の所有権が株主にあるという法的な明白な事実すらも隠蔽しようとする今の風潮は尋常ではない。
現在、コンプライアンスだCSRだと世の風潮の尻馬にのって騒いでいる連中こそが法的に最も危険な存在といえる。

なぜなら、これらの問題は本来、裁判所で解決すべき問題だからだ。コンプライアンスだなんだという話を聞くと、なんでこんな事件が裁判にならないのかという泣き寝入りの実態が多いことがわかるが、普通の日本人は弁護士も含めてそれを奇異なこととも思わない。
日本の裁判システムがほぼ全く機能していないことを前提として、コンプライアンスやCSRという名目の全体管理強化により問題の事前予防を計ろうとしているわけだが、このことが逆に法の大原則である、契約自由の原則も、個人の自由の保証をも破壊することになり、日本的社会民主主義つまり全体主義の強化を推し進める最悪の結果に帰着するわけだ。

posted by libertarian at 06:22| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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