2015年09月28日

Division of Holy and Profane

日本の国史は、基本的に皇室を理解しないかぎり、理解はできない。皇室抜きでは理解できない日本の文化は他にも和歌などがある。和歌を通して国史を知ることもできる。天皇の和歌からその心を察することができたからだ。今の学校教育では皇室に関する教育がWGIPでタブーとされていたことをそのまま70年も引きずっている為に、国民が皇室を全く理解できず、その結果、国史も和歌も全く理解できなくなってしまったわけだ。

議会制民主主義というが、これには大きく2つの形態がある。一つはイギリスや日本型のもので、行政府の長=首相・内閣総理大臣と、国家の権威を体現する元首=天皇・国王とを分けるものである。
国家元首は首相のように行政に関する具体的な仕事は行わず権力をもたないが、その国の尊厳、権威を象徴し、儀礼的な機能を果たす。この点において日本とイギリスは比較的近いが、日本の皇室の方が歴史が比較にならないほどに深い。特にイギリスにおける権威と権力の分離、聖俗分離はわりと最近のものに過ぎない。
フランスは大統領制で、フランス革命の際に王室を全部虐殺してしまったために、王室の代わりに大統領職という権威の象徴を置いているわけだ。だが国家の権威の象徴としては任期制の大統領は皇室、王室よりはるかに格が落ちる。

もう一つはアメリカの共和制で、大統領は国家元首であり、かつ行政府の首長を兼ねる。
アメリカの立憲主義の制度上の問題点としては、国家が肥大化したにもかかわらず、このような元首=首長制度を持っていることもあげられる。つまり、このような元首としての権威と、行政府の長としての権力の役割を同時に体現することを一人の俗人に課すのは実際上、無理がありすぎるのだ。

いわばアメリカの大統領とは聖と俗を同時に体現する人間という制度設計になっており、これは制度設計上の失敗、もしくは古すぎる制度設計に由来する問題である。これは小さな発展途上国ならありえても、スーパーパワーとなったアメリカでは大きな問題がある。
人工国家としてスタートしたアメリカには、社会の歴史的伝統、国家の聖の部分を体現する人間がいなかったからしょうがないともいえるが。。
そしてアメリカの初代大統領、ジョージワシントンは笑ってしまうほどに神格化されているが、これはアメリカの制度上の帰結ともいえる。
そして聖俗未分離のアメリカは、ウェストファリア体制以前の性質を持つスーパーパワー国家、かつ最大のキリスト教国家として台頭し、第1次大戦以降は世界をウェストファリア体制以前の混乱に陥れるようになる。
ウェストファリア以降のパワーバランス外交は失われる。

アメリカの大統領とは何かをイメージする上で役にたつのが24(Twenty-four)というドラマである。
大統領に求められた聖の部分としては、合衆国の崇高な理念なるものがあり、同時にリアルポリティックスを裁く行政府の長、かつ全軍の長として有能でなければならないという2つの役割がアメリカの大統領には求められている。問題はアメリカの大統領が理念の体現者として行動する傾向があることだ。
これがリアリズムに基づく行動から乖離する原因となる。ウィルソンしかりFDルーズベルトしかり、ブッシュしかりオバマしかりだ。

戦後のアメリカの大統領で最も有能な大統領は誰かといえば、ポールジョンソンに言わせると、アイクことアイゼンハワー大統領だったということになる。
アイゼンハワーは将軍から大統領になった人だが、アメリカの場合、軍人が大統領になるのがよいかもしれない。軍人はリアリズムで動き、かつ、国家の聖なる部分も体現しうる戦争の修羅場をくぐった人間だからである。
これは24を観たアメリカ人が共通に抱く感想だろう、ジャックバウアーこそが合州国大統領にふさわしいという感情にも則しているかもしれない。w
ローマ帝国型の軍人皇帝がアメリカの大統領には適切なのだと思われる。
posted by libertarian at 04:08| 東京 ☁| et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする