2016年01月16日

Jiyuu ,liberty and Serfdom

日本語に自由という言葉がなかったのは、日本には歴史上、「奴隷」がいなかったからだろう。
自由という日本語は、福沢諭吉が明治の頃に考案した翻訳語である。
世界的に自由という言葉の意味は、奴隷でないという消極的な意味であり、西洋社会では歴史的に奴隷が当たり前の存在であったから自由という言葉が、奴隷という最悪の状況に対する反対語として良い意味でつかわれてきた。
ローマ帝国では征服戦争をして勝てば、そこの人々を奴隷にした。ほっておけば将来的に反乱分子となるのは確実であるから、殺すか奴隷にするしかなかったわけだ。殺すよりは奴隷にする方が、ずっと合理的で、かつ幾分は人道的でもあった。ローマ帝国に限らず、昔の征服戦争は大体がこのパターンであった。これが複雑な社会階級を生んだ。

自由なりlibertyという言葉は多義的かつ曖昧なので、定義を明確にしないといくら多弁を弄しても無意味である。たとえば、脳科学で「自由意志など存在しない」というときの自由と、リバタリアニズムでの自由という言葉はあまり関係がないと考えるべきだろう。
リバタリアニズム的には、自由とは、私的所有権しいては自己所有権といった制度概念である。
制度概念を扱うから、リバタリアニズムは政治思想なのだ。

また、現代では奴隷は肯定されていないので、奴隷と自由(自由民)という分類も適切ではないかもしれない。そもそも繰り返しになるが奴隷の概念も曖昧だ。奴隷とは、私的所有権(財産権)のありなし、もしくは許容度合で分類すべき概念かもしれない。少なくとも日本にはアメリカ奴隷のような私的所有権をはく奪された「奴隷」は存在していなかった。
だが皮肉なことに現代の日本には、「債務奴隷」が制度として存在している。連帯保証制度の改廃は進んでいるのであろうか?

現代的には、奴隷よりもserfdom,隷属という言葉を使うのが適切かもしれない。
例えば、日本がアメリカの奴隷だと言えば明らかに言い過ぎであるが、隷属しているとはいえるかもしれない。
posted by libertarian at 12:48| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする