2016年09月18日

Hayekを読む(その1):The Constitution of liberty


ハイエクの著作「自由の条件」(Constitution of Liberty)とは、一言でいうとアメリカのconstitutionalismについて考察した本だ。
アメリカにおけるclassical liberalismとは、constitutionalismのことといっても間違いではない。ハイエク自身は、おそらくこの本を書いた時点では立憲主義者としてのclassical liberal であったと思われる。
しかし、その後、アメリカの立憲主義の敗北を認識して、「Law,Legislation,and Liberty」を書いたというのがハイエクの後期著作のごくおおざっぱな流れである。

しかし、ここにハイエクの現実認識のずれがあり、実際は、「自由の条件」を書いた1960年頃はアメリカ最高裁の退潮時期と重なり、逆にLLLを出版した1980年頃は、レーガン政権の誕生とともにレーンキストが最高裁長官(Chief Justice)に選任され、アメリカ最高裁が憲法の番人として復活を遂げようとする時期であった。

#なお、アメリカの最高裁の歴史については、阿川尚之氏の「憲法で読むアメリカ史(上下)」PHP新書という名著があるのでお勧めだ。

次にこのハイエクの著作を読みつつ、アメリカのconstitutionalismについて書いてみよう。

・司法再審理制について
議会主権または議会の無制限の権力とは、その立法権が制限されないことを意味する。イギリスではEdward CokeがDr. Bonham's Case(1610)において、正義と理性に反する国会制定法をコモンローが抑制し無効とすることができるとしたが、歴史的現実は議会主権(parliamentary sovereignty)を与えてしまった。
一方、アメリカでは、Marbury v. Madisonにおいて、マーシャル判事が司法再審理制を確立し、司法権の議会に対する優位、コモンローの優位が確立されることになった。そしてこの司法による連邦憲法に基づく議会の立法権の制限は1930年代のF.D.ルーズベルトのニューディール時代まで続くことになるが、連邦最高裁は、結果的にFDRのニューディール議会に敗北することとなる。このFDRのニューディール議会を境として、Pre-New Deal CourtとPost-New Deal Courtに分けて呼ばれることがある。

ハイエクのConstitution of libertyが最初に発表されたのは1960年であり、アール ウォーレン(Earl Warren)の連邦最高裁長官の在任期間(1953年から1969年)の中間時点にあたる。しかしこの執筆時点においてハイエクはWarren Courtをアメリカの立憲主義への重大な脅威とは考えていなかったように思える。アメリカは“1937年の大危機”、つまりFDRによる連邦最高裁への露骨な攻撃であったCourt packing billをも乗り越えたのであり、この連邦議会と最高裁の対立によってむしろ「連邦最高裁は極端な位置から後退することになったが、それはまたアメリカの伝統の根本的原則の再確認をもたらし、永続的な意義をもつにいたっている。」と、ハイエクはConstitution of libertyの中で積極的に評価した。しかし、事実は既に連邦最高裁は連邦議会に決定的な譲歩をしてしまっていた。ハイエクのこうした楽観主義は1982年に発表されたLaw Legislation and Liberty(以下、LLLと略記)で自ら完全に否定することになる。

・Lost Constitution
Constitution of Liberty から22年後の1982年に発表されたLLLの中では、ハイエクは”憲法によって個人の自由を保障しようとする最初の試みは明らかに失敗に帰した”と書いた。当然、“憲法によって個人の自由を保障しようとする最初の試み”とはアメリカのConstitutionalism(立憲主義)のことである。


「モンテスキューとアメリカ憲法の起草者たちがイギリスで生まれ育った制限的憲法の概念を明確化したとき、彼らはそれ以後の自由主義的立憲制の一つの雛形を確立した。彼らの主眼は個人の自由の制度的な保護手段を提供することにあった。そして、彼らのあてにした手段が権力の分立であった。周知の形態での立法府、司法府、行政府問の権力の分割は所期の目的を果たしてこなかった。政府は、あらゆるところで、前述の人たちが政府に与えまいとした権カを憲法上の手段によって獲得した。憲法によって個人の自由を保障しようとする最初の試みは明らかに失敗に帰したのである。
立憲制とは、制限された政府を意味する。しかし、立憲制の伝統的教義に与えられた解釈では、民主主義とは特定の問題についての多数派の意志を制限しないところでの政府の一形態であるという民主主義概念とこれらの定式とを両立させることができた。
その結果、すでに真面目に、憲法というものは現代の政府概念には適さない古い遺物であるということが論じられてきた。
こうした事情においては、次のような問いかけはきわめて重要であろう。これら自由主義的立憲制の創始者たちは、彼らの目指したものを追求するに際して、この間にわれわれが得てきた経験のいっさいを支配できるとしたら、今日何をなすであろうか。彼らが全知全能を傾けても知りえたかった過去二世紀の歴史から、われわれは多くのことを学びえているはずである。私にとっては、彼らの狙いはかつてと同様に有効であると思われる。しかし、彼らの手段は、結果的に間違っていることが明らかとなったので、新しい制度的発明の必要が生じているのである。 (Hayek , LLL )


またランディバーネットはレーンキスト前の当時の状況を次のように書いている。

The Founders' plan was more or less intact until the 1930s, when Franklin D. Roosevelt and the New Deal Congress enacted a massive expansion of federal power. By the 1940s, the textual scheme of limited federal powers was effectively swept away by a Supreme Court dominated by appointees of President Roosevelt.

訳)建国者たちのプランは、おおよそ1930年代になるまでは無傷のままであった。1930年代にフランクリン D. ルーズベルトとそのニューディール議会が、連邦議会の権力の膨大な拡張をするまでは。1940年代には、制限された連邦権力の文章上のスキームはルーズベルト大統領によって任命された最高裁によって事実上、すっかり払拭された状態であった。


LLLが出版された1982年はまだWarren E. Barger courtの時代(1969-1986)であった。この5年後(1987)にRehnquist courtが誕生することになる。
そしてハイエクが明らかに失敗に帰してしまったと考えたアメリカのConstitutionalismはRehnquist courtによってその後回復の兆しをえることとなる。

レーンキストコートは、アメリカのLost constitutionつまりFDR以前の憲法体制(Pre-New Deal Constitution)にアメリカを回帰させるものだった。これはレーガン共和党の(新)保守主義革命と共に起こった。1930年代以降、連邦最高裁は長らく自らを議会への従属的な立場に置いてきたが、レーンキストにより憲法の番人としての連邦最高裁の地位を徐々に取り戻す流れが生まれた。

アメリカ合衆国とは、どこにも“主権”のない政体としてその建国の父達が「発明」した国である。Constitutionalism(立憲主義)とは、議会の立法権力をEnumerate(制限)する仕組みであり、さらに連邦制(Federalism)によって州議会の無制限の権力をも制限することにある。この“主権=sovereignty”とはもともと外交用語であったものが、“無制限の権力”という間違った意味で使われているとハイエクは指摘する。もとより合衆国の各州とは文字通りのStateであり、つまり国(state)であるから、外交的な意味でstate=州にsovereigntyがあるというのは間違った使い方ではないのかもしれない。しかし無制限の権力という意味での“主権”は州議会にも連邦議会にも存在しない。また当然のことながら人民にも存在しないのである。

「主権がどこにあるのかと問われるなら、どこにもないというのがその答えである。立憲政治は制限された政治であるので、もし主権が無制限の権力と定義されるなら、そこに主権の入り込む余地はありえない。無制限の究極的な権力が常に存在するに違いないという信念は、あらゆる法がある立法機関の計画的な決定から生まれる、という誤った信念に由来する迷信である。」 (ハイエク, LLL)

“主権という概念は、国家という概念と同様に、国際法のための不可欠の用具であるその概念をそこでの出発点として受け入れるならぱ、そのことによって、国際法という正にその観念が無意味にされることないとまでは確信できないが。
しかし、法秩序の内部的性格の問題を考察するためには、どちらの概念も、人を迷わせるぱかりでなく不要であるよう思える。 事実、自由主義の歴史と同一である立憲主義の歴史全体は、少なくともジョンロック以降は、主権についての実証主義者の概念や全知全能の国家という関連概念に対する闘争の歴史であった。“ (ハイエク, LLL)


ランディ バーネットは、リバタリアニズムの立場から、レーンキストのNew Federalismを支持し”Our Lost Constitution”を復活させようとしたレーンキストを賞賛している。以下にランディバーネットの文章を引用しておく。


But William Rehnquist had a constitutional compass. In the beginning, he took what he could get. As an associate justice, his opening strategy for nudging the court back onto the constitutional path  was to carve out of federal power exemptions for state discretion.
His first major triumph came in the 1976 case of National League of Cities v. Usery, which established a limit on the powers of Congress to interfere with such "traditional governmental functions" as fire prevention, police protection, sanitation, public health, and parks and recreation. (Randy Barnett)

訳)しかし、ウィリアム レーンキストは憲法上の羅針盤を持っていた。はじめに、彼は自分に出来ることをやった。判事補として、司法を憲法上の道へと軽く肘で押す彼の最初の戦略は、連邦権力の例外を削りだし、各州の裁量権にゆだねることだった。彼の最初の勝利は1976年のNational League of Cities v. Usery,でやってきた。この事件は消防活動や、警察、下水設備、公衆衛生、駐車場、レクリエーションのような伝統的な州政府機能に対して連邦議会の干渉する権力を制限することを確立した。


そしてレーンキストはこのNational League of Cities v. Usery(1976 )において、次のように述べ、連邦憲法の意味を再確認している。

”federal government is one of delegated powers, and that all powers not delegated are reserved to the states or the people."(Rehnquist)

訳:連邦政府は委任された権力の一つであり、連邦政府に委任されていない全ての権力については各州とその人々にある。
posted by libertarian at 19:32| 東京 ☀| F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする