2017年07月01日

教育から学習へというコペルニクス的転回

前から書いているように、教育とは強制であり、一方の学習は自発的な行為である。
そして自由な社会では、強制はミニマムに制限されなければならない。
英語でeducationには、teaching,training,coachingといった強制的な面が色濃く有る。
そして学習は、learningで、自発的なものだ。
つまり欧米では、教育とは犬の調教のようなイメージで捉えられていることが伺える。
さらに言えば、教育制度とは欧米の数千年の歴史がある奴隷制度の延長なのである。
日本も明治以降、欧米の教育という強制制度を取り入れてきたから、同じようなものだ。
しかし、江戸時代の寺子屋はそうではなかった。それは完全に自由な学習機関であった。
もちろん、テニスのプロがコーチを高給で雇うように、自発的にコーチングやトレーニングを依頼するのは問題ではない。

今の日本の文科省に支配され、さらに日教組が寄生して間接支配する強制制度にすぎない教育システムとは、アメリカのシステムを真似たものだろう。それはヨーロッパのシステムがベースになっている。

そして、アメリカも日本も奴隷養成システムと化した教育機関は、カルト的洗脳機関となっており、リベラル、社会主義、共産主義、全体主義の再生産装置となっている。
社会の再生産システムが、このようなカルトによって支配されているために、自由主義 対 {社会主義、全体主義、集産主義}という構図はエンドレスゲームとなっている状況だ。

この枠組を打ち破るためには、e-Learningが有効だろう。自由市場ではe-Teachingなど有り得ないのだ。
学習とは、どの車を買うか、どの服を買うかと同様の個人の趣味や価値観の問題だからである。
posted by libertarian at 00:45| 東京 ☀| et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする