2017年07月03日

演繹と帰納、そしてAI

人間の理解なるものには、演繹的なものと帰納的な理解の二通りあると思う。
数学的な理解は演繹的なもので、正しい定理から論理的に導かれるようなものであり、帰納的な理解は、WIKIによると、「個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論の方法であり、演繹においては前提が真であれば結論も必然的に真であるが、帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されない」といったものだ。w

つまり、帰納的なものとは、経験、過去の事例という限定的にして個別的・特殊的な事例を真であるとした時に、ある個別的な事案の成否を推論しているわけだ。しかし、それは、前提そのものがほんとに正しいかわからないので、結論の正しさも保証はされない。

人工知能は、基本的に帰納的なものである。いままで、コンピュータといえば、数学的な絶対的な計算を扱うもの、つまり演繹的に真理を出力するものというイメージがあったが、今の人工知能のやっていることは、帰納的な推論だと言えるだろう。

おそらく人間の知的活動のほとんどは帰納的、経験的なものだろう。人間は新しいことを学ぶとき、過去の経験とのアナロジーを見出そうとする。そして、うまいこと、それが見つかったとき理解できたような気になるわけだ。
ここ数年でコンピュータが経験的、帰納的なマターを扱うことができるようになったので、人工知能と呼ばれる。もちろん、コンピュータの行う論理計算はほぼ絶対的に正しいのだが、一方で、帰納的な推論も人間よりも優れているからと言って、それは真であるとは全く(論理的に)保証されない。

人間の作った法のようなものも、基本的には帰納的な判断だろう。それは法が真であるとは別に全く保証されていない。
間違いもあるだろうけど、何が真かは誰にも分らないので、それ以上の判断は難しいということで採用されているルールのようなものである。だから法が法であるために必要なのは多数のコンセンサスを得るという手続きだろう。
その点、法律判断のようなものも、AIがやることにそれほど問題はないのではないかと思う。AIの結論であっても、真であることの論理的な保証は0だが、人間よりはうまくやるという意味でだ。

将棋のようなものも、多分に経験的であり、過去の強い棋士のさした手が仮に正しいとした場合の手を定跡としてきた。だが、AIは経験的、帰納的な推論においても人間を凌駕するために、過去の教師データから人間より深い推論ルールを見出しているのだ。人間は過去の定番の指し手をそのまま定跡としてきたが、コンピュータの行う帰納的推論はそんな単純なものではない。

AIが経験的、帰納的といっても、それは教師あり学習のようなものに対応した話で、教師なし学習は、どうなのかという問題がある。私が思うに教師なし学習もやはり経験的で帰納的な範疇のものだろうと思う。
少なくとも教師なし学習の仕組みが演繹的なものではないのは確実だ。だから、帰納的なものだろうと思う。実際、将棋ソフトなんかは局面の事例を機械的に膨大に発生させてそこから学習している。経験を作り出しているともいえる。
AIのトレンドはそのうちディープラーニングから強化学習になるだろう。w
posted by libertarian at 03:44| 東京 ☀| Computer | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする