2019年11月08日

百人一首の愉しみ

小倉百人一首を覚えた。
百人一首には正式な番号が振られているが、番号→歌→詠み手が言えるようになったということである。
競技かるたでは、下句→上句を覚えねばならないが、普通の正月かるたでは、上句→下句で十分だろう。
自分も上句→下句ならすぐに分かるが、下句→上句はすぐにはでてこない。上句→下句と下句→上句は人間の記憶メカニズム上、全く別物なのである。だから競技かるたをやるなら下句→上句も別途覚える必要がある。

百人一首は知るほどに奥が深い。百人一首関連本を何冊か読んでみたが、織田正吉の「百人一首の謎」や林直道の「百人一首の世界」は面白いが、国文学関係者からは特に反論されるわけでもなく完全に無視されている。w
しかし国文学の人の評論は感想文以上のものではないと思う。w

定家は言葉遊びのパズル的な撰歌を勅撰和歌集や物語二百番歌合などで行っており、百人一首はそれを発展させて織物のように2次元に10x10に配列したというのが林説である。なお、林氏は織田正吉を評価しているが、織田正吉は林説を否定している。w

百人一首の詠み人の選定は偏っていて、詠み人のほとんどは雲上人だし親子で載っている人も3割くらいあるし、時代の人間関係がけっこう反映されている。時間的にも天智天皇の8世紀から鎌倉の13世紀の5世紀に渡っている。
しかし近代になると正岡子規以降、和歌や百人一首の解釈はゆがめられる。どうも子規の言論は革新的で左がかっている。子規はそれほどの歌人ではなかったろう。

日本は1000年以上前の人間の感情、心情、知性が和歌という形で膨大な量残っているのが実に面白いと思う。
時間的にも繋がりがある選歌になっていて、14番の河原左大臣は嵯峨天皇の子で臣籍降下して陸奥の国司になり、結果大富豪となり京都に凱旋して大豪邸を建てた。そして47番の恵慶法師はその河原左大臣の屋敷が廃墟となった状況を詠んだものだ。「八重むぐら 茂れる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり」
百人一首は全体的に憂愁を感じさせる歌が多い。17番の在原業平の「ちはやぶる〜」のような雅な句も入っているが最後の百番の順徳院の歌が特に憂愁ただよう。この無常観が日本の美意識の根幹にある。


posted by libertarian at 21:56| 東京 ☁| et cetera | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする