2008年01月06日

Houl's moving castle

この正月におそまきであるが、「ハウルの動く城」を見た。
さすがに宮崎駿の作品だけあって、すばらしい出来であったが、この映画はリバタリアン的な作品だと私のフランスのリバタリアンの友人が以前に言っていた。
どこをそう思ったのか、よくわからないが、ハウルは自由人であり、一人で国家や戦争と戦うというあたりがリバタリアン的なのかもしれない。

日本は、戦後、手塚治虫などから連綿と続く天才的な漫画作家を生み出してきた。
これは何故なのかといえば、この世界がどうでもいい領域として政府の管理対象から完全に忘れられた存在だったからだろう。
才能のある人間がそういう社会的、政府的認知度の低い世界で、互いに切磋琢磨しあって、日本の漫画表現を築きあげてきたといえる。
極めて私的な表現でありつつ、読者という市場の評価に常にさらされてきた世界であった。
政府が漫画家を保護なんかしなかったからよかったのだ。

ハリウッドのCGをふんだんに使用した作品なども、日本のアニメ表現を実写的表現に変えて取り入れているようだ。

また、何度も言っているように、こういった著作物を、政府特権=Intellectual Privilegeによって守る必要はないが、これは、別の形での財産的保護が可能だという意味である。
ものに対する財産権は、その対象がひとつでしかないから、ものに対する財産権の保護とは、完全保護しかありえない。つまり、0か1しかないわけだが、無体物に関する保護に対しては、完全保護はありえない。おおらかに、その生み出す価値の10分の1でも回収できればいいわけだ。もちろん、その作品の生み出す価値が多ければ、それは比例利益となる。


つまり、政府特権=著作権による完全保護(物権的保護)をやめるということは、権利の放棄をして公共財にすることでは断じてない。完全保護の否定は、部分保護(=完全ではない保護)である。これは、政府特権がなくても通常の契約による仕組みで可能だということなのだ。
つまり、知的財産権という政府特権制度を廃止して、私的契約の世界、すなわち市場的契約にほかの全ての商品と同様に扱えばよいのであるが、これは情報を全て公共財にするという意味では決してないので、この点を誤解してはならない。

 
posted by libertarian at 13:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | IPR(Intellectual Property Right) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック