2008年04月08日

Public Goods Fallacies

公共物、もしくは公共財(Public Goods)の法的な定義とは何か?
法律にそんな定義があるかどうかは知らない(→多分ない)が、なんとなくのイメージならある。 例えば、公道や公園は誰のものでもない。誰のものでもないが、誰でもそこに入ったり一時的に使用する権利はあるのが公共物だ。まあ大体そういうイメージだろう。

この公共物の定義(法的?)と、経済学上の公共財の意味は違う。
だが、これは通常、無批判に混同されて用いられていると思う。
#ここでは、経済学上のPublic goods を公共財と呼び、公共物とは区別する。

経済学上の公共財とは、非排除性あるいは非競合性の少なくとも一方を有する財として定義されている。 つまり、経済学上の公共財やクラブ財といった分類は財産権とは独立したidealな定義だ。それはその財の性質によって一意的に決まるものと想定されている。

公道や公園といった現実の公共物は、きわめて不可思議なものである。
通常、財は特定の個人に独占的に所有されるか、複数の人間によって共同所有される。共同所有のばあいは、各人がパイの持分に応じた完全な財産権を持つ。

しかし、公共物が”みんなのものだ”とする意味は、決してこの共同所有の大規模なものではない。 1億人の国民がいるとして、その1億人で共同所有されているのではなく、どこの誰にも一切の所有権がないのが公共物だ。
誰のものでもないから、誰にも処分はできないし、共同所有のように部分的な処分も一切できない。
これは税金もそうだ。税金は徴税された瞬間に誰のものでもなくなる。もちろん政府にもその所有権はない。そして税金が公共事業によって橋や箱物に変わる。誰のものでもないお金が、誰のものでもない物体に変換される。

この所有権がない点が、公共財に対する、ありとあらゆる合理的な扱いを不可能しているといえよう。社会主義とは本質的に反理性主義だが、社会のすべてを公共財にしようとするのは、その反理性主義らしい帰結といえる。

さらに、経済学上の公共財と公共物の違いを、ほとんどの人間は勘違いしている。
経済学上の公共財だから、公共物とするのがふさわしいと考えてしまう間違いだ。
つまり公共財=公共物という勘違いだ。明らかに論理的な飛躍と誤謬がある。
もともと、経済学上の公共財の定義に所有権概念は含まれない。公共財であることと、その所有権の問題はまったく別であり、公共財であっても、私的所有権を設定することになんの問題もない。

例えば電波がその性質上クラブ財だとした場合、クラブ財だから公共物にするべきだというのは論理的に間違っている。だが政府はなぜかこれを自明なこととしている。
むしろ電波を公共物と政府が勝手に決めているのは、政府が暴力の独占機関だという本質に由来するのだろう。政府とは”暴力の独占”機関だというは、ロスバードの表現だが、情報技術とは古来、最重要な軍事技術の一つだから、電波技術は軍事技術であるために政府の独占物として扱われたきた。
インターネットももとはといえば、軍事技術だ。

posted by libertarian at 21:17| 東京 ?J| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism
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