ミルトンフリードマンの「資本主義と自由」が日経BP社から新訳で復刊したが、その後書きを高橋洋一氏が書いている。私は本屋で後書きのところだけ、立ち読みした。
しかしこのフリードマンの名著を持っていない人間は、すぐにでも買って読むべきだろう。
その後書きの中で、なぜ自由化をするのかという現状肯定派の問いに対して、高橋氏は本来、自由が原則であって、それを規制するのであれば規制する側に挙証責任があると書いている。だが、現状は規制された状態がデフォルトであるので、自由化する側に挙証責任を転嫁されてしまう。そこで、これを説明するのに、高橋氏は”フリードマン論法”を用いたそうだ。
つまり、規制状態の問題をつらつらと挙げたわけだ。
さらにいえば市場とかマーケットという概念も、自明のようで自明ではない。
自由主義=市場主義というのもなかなか理解されにくいようだ。
こういった正しい経済学概念を日本人は教わる機会がほとんどないからだ。
そもそも教える側がそれを全く理解していないのだから話にならない。
また市場主義と設計主義を、効率の比較として論じるのは意外と難しい。
設計主義(=constructivism)の害悪について、ハイエクが批判した40年代頃は情報問題として原理的かつ抽象的な批判することしかできなかった。そもそも当時はConstructivismは50年くらいの歴史しかなく、それはまだ実験の途中段階だと考えられていた。
つまり設計主義は理想主義的かつ高邁な科学的試みで、さらには実験によって科学のようにどんどん進歩していくものといったイメージで捉えられていたのである。
このロジックを否定するのは、簡単ではない。もちろん社会主義の凄惨な実体が明らかになった現代では、それを事実に基づいて批判することは容易だ。だが、それだけでは必ずしも反証にはならない。なぜなら社会主義とは”永遠の実験”なのだから。
ハイエクの情報説による設計主義批判は原理的な批判ではあったが、これも完全な批判としては充分ではないかもしれない。
実際、ハイエクの設計主義批判は、社会主義〜共産主義というラディカルな設計主義の失敗に関する実証データによって社会的に受け入れられた。つまり必ずしも理論的な勝利として受け入れられたわけではなかった。
しかし、このハイエクの情報理論による設計主義批判は、その後のPositivism批判にダイレクトに結びついている。ハイエクの頭の中では、当初からPositivism批判もしくは消極的価値の擁護という、かなり説明の困難なイメージがあり、情報論を持ち出したのは、苦労してそれを具体化したものだったに違いない。
効率性を論拠とした設計主義や統制主義に対する批判は現代でも完全には解決はされていない。
そのため、社会民主主義的な混合経済主義(mixed economy)といった統制と自由の折衷的なスタンスが圧倒的な多数派なのだ。それは完全な市場主義、完全な自由主義を当然のごとくに否定し、国家社会主義と市場主義の折衷に解を求める現代の迷信といえる。
そのため完全な市場主義、完全な自由主義が、つまりはリバタリアニズムが、未だにマイナーなものとされているのだ。
だがmixed economyと完全な市場主義との効率性の比較もできないわけではない。それはかつてのようにmixed economy体制間での効率性の比較として実証データにより、自由な部分の多い、または統制の少ないmixed economy体制の方が優れていることが”証明”されていくのかもしれない。だが、これも残念ながら必ずしも証明にはならないという問題が残る。
しかし社会主義がもともとその効率性の高さによって支持されたのではなく、その理想主義が人を惹きつけたように、自由主義も現代の理想主義となる必要がある。
だが自由主義が理想主義としては理解されることはなく、弱肉強食の論理のような乾いた現実主義にすぎないと考えられているわけだ。一体、それは何故なのか?