2017年05月19日

学歴と教育

教育という言葉は私には強制という意味に聞こえる。
学習といえば自発的な響きが有るので、私は学習という言葉がいいと思う。
実際の所、教育は多義的な言葉で、英語で言えば、educationには、teaching coaching learning training などの意味が含まれ、どの意味でそれを使っているかで議論がかみ合わなかったりする。

また、富国強兵のための国策として論じられたり、国民への福祉として論じられたりもする。
#しかし、教育=善という前提で話をするのは大体が教育関係者なので注意が必要だ。今の社会でも教育関係者の利権はあまりにも大きい。それを連中は死守したいのである。

たしかに教育は歴史的にも国策であった面もあるが、そもそも憲法上はそんな国策を人に押し付ける権利は国家にはない。しかし、国家は権利はなくても権力があるからそれをやってしまうのだ。w
義務教育は法律的には親の義務であるが、子供の権利としては必ずしも捉えられていないだろう。
#大体において、未成年者、子供の権利というのは、法律上曖昧である。

今の社会で学歴なるものは、人間のプライシングの手段というのが最大の社会的な意味になっている。
人間を人材、つまり資源としてみれば、価格情報がないと資源は激しく浪費される運命にあるので、人材をプライシングする機能は実際の所、必要な社会的な仕組みだろう。
もし人材という資源に対する価格情報がなければアインシュタインのような天才が、つまらない単純肉体労働をさせられたり、凄い運動能力のあるスポーツ選手が、つまらないデスクワークをさせられたりするわけだ。w
プライシングとは、ある種の差別であるが、社会的には資源の浪費を防ぐために必要な「教育」の肯定的な機能ともいえる。

だが、このようなプライシングの機能は学歴で評価しなくても、いくらでも他に手段はある。
前にも書いたが英検みたいな検定試験でも十分なのだ。
もし、努力とは関係ない地頭の能力で評価したいのなら、IQテストなどというものもある。ww(ちなみに、私はこの手の心理学的概念はしょうもないエセ科学にすぎないと思っている。)

例えば、そろばんで1級とか何段だとか聞いた場合、すごい技術を持っているのだなと思っても、それに引け目を感じたりはあまりしないだろう。だが、学歴の場合は引け目をほぼ全ての人間が感じる。これは、東大卒業生であっても、自分よりちょっとでも優秀な学歴のある人間には引け目を感じるものなのだ。むしろより一層強く感じるようだ。w

これはなぜかというと、プライシングと価値が結びついているからだろう。値段と価値は別の概念だと言っても、なかなかそうは認識されないのだ。w
一方、そろばんの技倆は価値に結びついたプライシングの一種とはあまりみなされていない。
それはあくまで個人的で個別な技倆の尺度なのである。
私はその点、今の学歴システムを検定試験で置き換えてしまえば、プライシングの機能も果たされ、所詮は全ては技能検定にすぎないと皆さん思うようになり、価値との分離ができると思うのである。

今の学歴というブランドによるプライシングが価値と結びついている理由は権威と結びついているからだろう。
日本の場合は東大を頂点とした旧帝大から連なるヒエラルキーが役所的にきっちりと出来上がっているのである。こんなものを誰が勝手に決めたのだろうか?

実力、学力、、こういった力関係は、パワー、つまり権力に結びつく。学歴のあるなしには関係ない。
学歴は日本の場合は特に、権威と結びついている。権力と権威は別の概念なのだ。
つまり、力=権力はあるが権威がない在野の人材というカテゴリーが生まれる。w
本田宗一郎や松下幸之助といった人物は権力は絶大だったが権威には欠けている在野の人間なわけだ。
スティーブ・ジョブスもしかり。w

だらだらと書いて、何を書こうとしていたのか忘れてしまったが、要するに、社会的な権威とは国家が関与することから生まれるわけだ。日本の場合は、私学より国立がエライといった構図が国家が教育に関与している部分が大きすぎるがために起こっている。さらに、権威と権力の分離という日本の歴史の美点までが損なわれているのである。
さらに言えば、権威とは宗教的なものだ。キリストには権力はなかったが、権威を今の信者は認める。なぜならキリスト教は国家よりも上だからである。天皇も権力はほとんどなかったが絶大な権威は日本の歴史を通じてずっとあった。それは天皇が神道の祭祀王だったからだろう。
posted by libertarian at 19:48| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月13日

憲法改正について

今の憲法で実害があるのは、第9条くらいで憲法改正はまずは9条の改正だけを行えばよい。
自民の改憲案はヒドイもので、できの悪い学生の答案のようなめちゃくちゃなものだ。その内容は全面改憲であり、幼稚な思いつきを書き連ねただけの、とてつもない改悪案となっている。
こんなヒドイものを出したら、たたき台にもならない。この落書きのようなふざけた改悪案を未だに自民は引っ込めてすらいないのはなぜなのだろうか?はっきりいってそれはGHQの若造が書いた落書き憲法よりも遥かにヒドイものである。
普通憲法改正というと、9条の改正と思うだろうが、自民の改憲案はそうではないのだ。

最近思うに、日本の憲法が硬性憲法であることは事実だが、日本が戦後70年以上憲法をいじれなかったのは、むしろ日本が緩衝地帯となっていたからではないかという気がしてきた。
緩衝地帯でない普通の国ならば、自主的に改憲はできるわけだが、緩衝地帯は普通の国ではないので、普通の国にはできることがとてつもなく困難になるのである。ドイツは敗戦国でありながら戦後も改憲を繰り返しているが、ドイツは東ドイツが緩衝地帯となったお陰で直接の緩衝地帯とはならなかったためだろう。
そして、戦後、もう一つの緩衝地帯がユーゴスラビアだった。
そして現在のヨーロッパの緩衝地帯はウクライナである。これが何を意味しているかというと緩衝地帯というのは、地理的な特異要因だけで決まるわけではなく、移動変化することがあるという事実だ。

日本の場合、社会主義化には2つの勢力があり、それは大きくはソ連、コミンテルンと、チャイナ、中共である。
冷戦の時代は日本はソ連の共産主義が脅威であったが、今はソ連は曲がりなりにも共産主義を捨てた。
そして、昔のソ連の脅威よりも今のチャイナの中共の脅威の方がずっと大きく、中共はあの手この手で日本社会への侵入の度合いを深めつつある。具体的には政治、メディア、行政、教育機関への浸透の度合いを深めている。

もし、朝鮮半島が北主導でソフトに統一されていくと、朝鮮半島はある意味で緩衝地帯ではなくなる。
朝鮮半島は今まで100%の緩衝地帯に過ぎなかったが、同時に日本も戦後は50%くらいの緩衝地帯だったわけだ。
しかし、半島が北に統一されれば、日本が今度は100%の緩衝地帯になっていくだろう。
すると、ますます憲法9条改正のような普通のことができなくなる。
これはかなりの脅威であり、日本は戦争しなくても自滅する可能性が高い。

朝鮮有事は4月には起こらなかったが、まだ予断は許さない。
藤井厳喜氏などは、トランプは朝鮮を見捨てて、南朝鮮からも軍を引き上げるだろうと予測していたが、どうだろうか?これは日本への警告の意味を込めての最悪の予測という意味もありそうだが、高麗連邦なんてのができたらほんとに存亡の危機に陥ることは確実だ。
と同時に、日本の緩衝地帯化はますます強まり、憲法改正どころではなくなり、防衛も不可能になる。
しかし、トランプがそこまで日和るとは思えないが、最悪のシナリオも考えておく意味はある。

ただもし、アメリカが朝鮮半島を放棄すれば一方的にチャイナを利する結果になるわけで、それは軍事戦略的にもどうだろうか?
アメリカが朝鮮半島を放棄すれば、同時にチャイナに対しても降伏を宣言することに等しいだろう。

posted by libertarian at 09:34| 東京 ☔| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

教育無償化案に反対する

安倍首相が教育無償化を盛り込む憲法の加憲案をだして一部盛り上がっているようだが、大反対である。
高校教育無償化を唱えている維新を取り込むための策とも言われているが、この案はどうしようもないほどヒドイもので共産主義政策と変わらない。本来は、この真逆の政策が必要なところである。つまり、公教育の全廃と教育の完全民営化こそが目指すべきことである。

もし全ての教育を無償化すれば、どうなるかは明らかで、今の国公立大学を頂点とする教育システムがますます腐敗し、公教育システムに寄生する日教組のような極左団体の力も強くなる。
日本から教育というサービス産業が完全に失われ、教育サービスの質はますます低下していくことは確実だ。

そもそも税負担を無償というのが大間違いであり、税金負担は無償ではなく、より悪いサービスをより高い値段で選択の自由なく購入させられることになるのである。

高橋洋一氏なども、この案を節操なく支持しているが、これではミルトン・フリードマンの孫弟子とはとてもいえない。w
高橋氏にはフリードマンの著作をもう一度読み直して欲しいものである。w
教育を公共事業の一つとして見て、同じ公共事業であるなら、道路や橋の建設よりも広く国民全体が受益者になるという発想らしい。これはなんともお粗末な論理である。

高橋氏は現代ビジネスで次のように書いている。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51630
「知識に投資することは、常に最大の利益をもたらす(An investment in knowledge always pays the best interest.)」というベンジャミン・フランクリンの名言を引用しながら、教育を投資として捉えると、社会的な便益もコストより高いことを紹介し、そうであるなら、国債で教育の財源を賄うのがいいと書いた。」

しかし、フランクリンのこの言葉の投資主体はあくまでも本人、個人だ。自分で自分に教育投資をするのがいいという、啓蒙主義的な内容であり、これを税金投資のことに主体を置き換えて濫用してはいけない。

もし、分配政策としてやるならば、教育バウチャーのようなものを先にやるべきである。これは教育にしか使えない商品券のようなものを国民全体に配るので、サービスを受ける側に選択の自由が生まれるのが大きい違いだ。
同時に国公立大学を閉鎖していき、民間の教育サービス産業が伸びるようにする。
もし、無償化を憲法に盛り込んで法律にしてしまえば、今の国公立の教育機関に巨大な利権が新たに付け加えることになるだろう。

そもそも、今は昔と違って、ネットの時代なので従来の学校に通って大きな教室で授業を受けるという非効率なシステムは改められなければならない。こんな300年前から変わらない不合理なシステムが未だに残っているのも、教育関係者の利権温存のためである。
同時に知識を得る目的であれば、昔と違ってどんどん安く良質な情報がネットから得られるようになっている。
つまり、今はリアルに教育は無償化しつつあるのであり、税金と国債で教育を高価で低サービスなものにする必要はまったくない。

学生も友達や社会関係が欲しいだろうから、人が集まる場はあってもいいだろうが、それは別に教室でなくても構わない。クラブ活動やスポーツや実技をする施設としてしか学校の価値はもはやないだろう。
むしろ、学歴がブランドになっている現状を改める上で、検定制度を充実させるのもいいだろう。
英検のように、数学検定、国語検定、歴史検定、物理検定といったものでその人の実力を個別に客観的に評価できれば、そのほうが公平であり変な差別もうまれない。

posted by libertarian at 08:13| 東京 ☔| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月25日

自称リバタリアンのほとんどは左派である

リバタリアニズムは、右でも左でもない第3極として自らを位置づけようとしているが、実際のところはリバタリアニズムには左派がかなり紛れ込んでいる。
以前、英語のWikiの解説には左派リバタリアンという項目があり、これは形容矛盾のように感じていたが、どうもそうではなかった。
特に日本でリバタリアニズムを語る人間の殆どは左派である。もしくは無自覚などーしよーもない左派であろう。
こういった連中は、リバタリアニズム=アナキズムと考えており、マルキズム=アナキズムであることから、リバタリアニズム=マルキズムと結びつくことになる。
マルキズムが私的所有権の否定からアナーキーに至るのに対し、リバタリアニズムは私的所有権の絶対化からアナーキーに至る。これは真逆のようでいて、実は同じものだ。
そもそもマルキズムも自称の自由主義なのだ。
自称リバタリアンの多くは、マルキズムが崩壊したので、アナキズムの可能性をリバタリアニズムに見ている連中と言ってよい。
ロスバードのようなミーゼスの信奉者ももともとはマルキストだった。それがマルキストからリバタリアニズムの唱道者になったわけだが、マルキズムの理想であるアナキズムの幻影をリバタリアニズムに投影していたのであろう。

このことからも、左派でないリバタリアンを論じた方が手っ取り早いわけだ。
無政府=アナーキーとは無政府制度という制度問題であり、自由とは関係がないということに注意しないといけない。自由をつきつめるとアナーキーという制度に至るわけではないのである。
大事なのは自由の概念であり、制度ではない。

結局のところ、ここら辺をちゃんとわかっていたのは、ミルトンフリードマンであり、ハイエクだったのだろう。フリードマンは経済を自由の問題として考え、ハイエクは法を自由の問題として論じた。
デビッドフリードマンはアナルコキャピタリズムを唱えているが、そこらへんのところはちゃんと分かっているだろう。w
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2016年08月28日

公共財という害悪

現代の世の中は公共財に溢れている。
だが、歴史的に見れば公共財などというものが登場したのは近代のことで、それまでは、王様の所有物であったり、誰かの私財だったりした。
不動産のことをreal estateというが、これは王(レアル)の財産という意味だ。
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2016年08月20日

バスティアの「法」

昨日、久しぶりにバスティアの「法」を読みなおした。
http://libertarian.up.seesaa.net/rand/THE_LAW.pdf

自分で翻訳したものだが、なかなか翻訳も格調があっていいではないかw

バスティアは1850年に亡くなっていて、「法」は亡くなる直前に書かれたものだ。
1850年というのは、微妙な時期で近代と近代以前の境目あたりの年だと思う。
日本でいえば、江戸末期の頃か。

バスティアが批判してやまなかった、万人が万人から合法的に略奪するシステムとして今の民主主義なるものはその後も続いてきたということだ。
posted by libertarian at 10:10| 東京 ☔| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月01日

ドナルド トゥスク欧州理事会議長とEUの経済思想:Donald Tusk: President of European Council

今のEUの欧州理事会議長は、ドナルド トゥスクだが、元ポーランド大統領でハイエキアンとして知られる。
随分前に、このBlog でも少し紹介したことがある。
Wikiを見ると、どうもトゥスクの考えはオーストリアン、イズラエル カーズナーのようなmises一派にかなり影響を受けているらしい事がわかる。

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2016年06月26日

Brexitは予想どおりの結果であった:Brexit before and after

Brexitの結果は、離脱派:残留派=52:48だったが、これは選挙前に行われた世論調査結果とほぼ同じだ。
この世論調査では53:47で離脱派が優勢だった。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/06/13/brexit-another-big-lead_n_10448794.html

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2016年06月22日

人の移動の自由の経済学的根拠とは?:Freetrade,Comparative advantage,and Liberalization of the movement of persons

自由貿易の理論は、比較優位理論が基本にあり、物資の自由貿易がWin-Winになることを説明している。
ここでよくわからないのは、比較優位説は物資の自由貿易が双方にメリットがあることを説明しているが、人の移動に対する説明にはなっていないのではないかということだ。
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2016年03月27日

Iron

家の包丁がガタガタであった。よくこんな切れない包丁を使っているなとあきれるほどだったので、自分で砥石で研ぐことにした。今のセラミック砥石など結構高価なので、新しい包丁を買った方がいいのではないかとも思ったが、どんないい包丁でも使えばそのうち切れなくなる。だからどうしても自分で研ぐことは必要なのだ。
家には木屋のいい包丁が何本もあったが、研ぐことを通して道具と向き合うというのは大事なことだと気付いた。
道具は使いっぱなしではなく、それを手入れして管理するまでが要求される。
だから包丁を研ぐなどという基本的なことは学校で教えてもいいことだと思われる。
しかし今はyoutubeがあるので、包丁の研ぎ方はネットでかなりのことが学習できる。
実際に研いでみると、これが結構はまる。無心にシュシュっと研ぐのが楽しいのだ。
ボロボロだった包丁の刃が、研ぎによって生まれ変わるのはうれしいものだ。
刃こぼれがひどい場合は100番台くらいの荒砥から研ぐ。そして1000番くらいの中砥で研いだあとは、革砥で仕上げをする。すると剃刀のように包丁が切れるようになる。

昔から刃物は人間にとって欠かせない道具であり、ある意味、神聖な道具ですらあった。
江戸時代の武士など、おそらく刀オタクだったのだろう。
そしてその気持ちはわからないでもない。w
日本では、刀は殺傷道具というよりは、象徴的な美的な工芸品の域に高められていた。
だが刀も研ぎがあってこそ、その品質を維持できるのである。
実際には、江戸時代に刀は全くと言っていいほど使われなかったから、研ぐ必要はなかったろうが、趣味で研いでいたに違いない。
道具の世界は極めて奥が深い。そして、刃を研ぐ道具である砥石の世界もかなり奥が深い。

歴史的には青銅器時代から鉄器時代などと言われるが、これは技術をなにも知らない歴史家の作り話である。
実際は製鉄技術の発明がいつごろにまで遡れるのかははっきりとしない。
posted by libertarian at 22:46| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月20日

The fallacies of marcantilism

重商主義というのは、16世紀くらいに生まれた経済思想と歴史的には言われているが、現代の経済と重商主義との違いというのをはっきりと分かっている人間は少ないだろう。
あの岩井克人のように、未だに経済の本質は重商主義だと言っているアホな元東大教授がいるくらいだから、世間一般のレベルは推し量るべしだ。岩井は近代経済学者のようなふりをしたマルクス主義経済学の徒である。だから東大経済学部長にもなった。

これはいわゆるオーストリア学派も同じで、彼らの経済観は重商主義がベースになっている。
ハイエクしかり、ミーゼスしかり。
高橋洋一氏の話がなかなか理解されないのも、これが原因なのかもしれない。
そして同時に世の中には、未だに重商主義の誤謬が満ちている。

橘玲さんの本で「読まなくていい本」の読書案内というのがあったのでキンドルのサンプルを見てみた。
このサンプルを見た限りだが、世の中には確かに「読まなくていい本」が溢れている。その点は同意した。
もっといえば、読むだけ時間とお金の無駄という本が多すぎる。時間とお金の無駄だけでなく、脳に悪い本も多い。
マルクスの本は全部そうだし、橘さんが挙げているようにデリダやドゥルーズ、日本では柄谷なんてのも読むだけ全くの無駄である。この手の本はムーのような明らかなトンデモ本よりも質が悪いトンデモ本である。
残念ながら、ハイエクやミーゼスのようなオーストリアンの経済本もそうなのである。
彼らの著書の全部がダメなわけでは勿論ないが、彼らの経済学?本は今となってはトンデモ本の部類としかいいようがない。
リバタリアニズム論者の経済学で唯一認められるのは、ミルトンフリードマンくらいしか残念ながらない。
ミクロに関しては、ランズバーグもいいのかもしれないが、マクロはダメだ。

ハイエクやミーゼスの思弁的で難解で無意味で非科学的な経済学本を読んではいけない。
といっても、ハイエクの「資本の純粋理論」とか読んだことのある人間はまずほとんどいないだろう。
ミルトンフリードマンの本だけちゃんと読めばいいのである。
参考)http://libertarian.seesaa.net/article/357096858.html
posted by libertarian at 01:09| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月16日

Jiyuu ,liberty and Serfdom

日本語に自由という言葉がなかったのは、日本には歴史上、「奴隷」がいなかったからだろう。
自由という日本語は、福沢諭吉が明治の頃に考案した翻訳語である。
世界的に自由という言葉の意味は、奴隷でないという消極的な意味であり、西洋社会では歴史的に奴隷が当たり前の存在であったから自由という言葉が、奴隷という最悪の状況に対する反対語として良い意味でつかわれてきた。
ローマ帝国では征服戦争をして勝てば、そこの人々を奴隷にした。ほっておけば将来的に反乱分子となるのは確実であるから、殺すか奴隷にするしかなかったわけだ。殺すよりは奴隷にする方が、ずっと合理的で、かつ幾分は人道的でもあった。ローマ帝国に限らず、昔の征服戦争は大体がこのパターンであった。これが複雑な社会階級を生んだ。

自由なりlibertyという言葉は多義的かつ曖昧なので、定義を明確にしないといくら多弁を弄しても無意味である。たとえば、脳科学で「自由意志など存在しない」というときの自由と、リバタリアニズムでの自由という言葉はあまり関係がないと考えるべきだろう。
リバタリアニズム的には、自由とは、私的所有権しいては自己所有権といった制度概念である。
制度概念を扱うから、リバタリアニズムは政治思想なのだ。

また、現代では奴隷は肯定されていないので、奴隷と自由(自由民)という分類も適切ではないかもしれない。そもそも繰り返しになるが奴隷の概念も曖昧だ。奴隷とは、私的所有権(財産権)のありなし、もしくは許容度合で分類すべき概念かもしれない。少なくとも日本にはアメリカ奴隷のような私的所有権をはく奪された「奴隷」は存在していなかった。
だが皮肉なことに現代の日本には、「債務奴隷」が制度として存在している。連帯保証制度の改廃は進んでいるのであろうか?

現代的には、奴隷よりもserfdom,隷属という言葉を使うのが適切かもしれない。
例えば、日本がアメリカの奴隷だと言えば明らかに言い過ぎであるが、隷属しているとはいえるかもしれない。
posted by libertarian at 12:48| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月12日

Tax and Religion

キリスト教に入信するといろいろと教会税を徴税をされるらしい。
所得税の10%程度を支払わされ、これがヨーロッパでキリスト教が衰退している原因の一つでもある。
ドイツでは国税で教会税を徴収されるらしい。
そのため、若い人がどんどん教会から抜けるので、教会が経営不振となり、身売りされモスクなどになっているようだ。

中田考氏によるとイスラームは税そのものを否定する。
徴税そのものがイスラームの罪であり、徴税人は殺さないといけないとまでされているそうだ。w
イスラームにはキリスト教のような教会組織がないし、アッラーとムハンマド以外の権威は否定されているので、教会税などあり得ないわけだ。
とはいえ、喜捨は宗教的な義務もしくは推奨行為なので、これが一種の宗教税に相当する。


シーア派は五分の1税をウラマーに納めないといけないが、スンニー派は、資産の2.5%の浄財=ザカー(義務の喜捨)だけ。

ユダヤ教徒とキリスト教徒に対しては、ジズヤという人頭税が科せられるが、これは年間6−7万円程度で、資産の多寡にかかわらず同じ。
イスラムは徴税を禁じるから、外部との交易に対しても関税が課せられることがない。


中田氏によればイスラームはグローバルな平和的アナーキズムということになる。
おまけに不換紙幣は偶像崇拝だとして金銀本位制までイスラームは主張する。
イスラームは国家、国家法というものを基本的に必要としない。なぜならイスラームそのものが法であり、属人法だから、地球のどこにいようと従う法が決まっているからである。

そうだとすれば、オーストリアンリバタリアンは、スンニー派のイスラームになってイスラーム社会、イスラームの家を目指せばよいということになるだろう。w
だが、欧米のリバタリアンたちの多くはクリスチャンなのであろう。それもプロテスタント系クリスチャンが多いと推察できる。

ただ、中田氏の話は、カリフがいた時代のイスラームの話であり、今はどこにもイスラームの家は存在しない。今はムスリムにとって、「戦争の家」しかない。
そして「イスラームの家」を復興させるためには、まずはカリフ再興が必要だという話になるわけだ。
#しかし、そもそもイスラームの家は、いつからいつ頃まで存在していたのかという、中田氏の歴史認識についてはよくわからない。もしかして正統カリフの時代だけだったということだろうか?だとすれば、せいぜいムハンマド以降の30年くらいということになる。

現在16億人のムスリムがいるそうで、この調子で増えていけば早晩、世界の半分くらいはムスリムということになりそうだ。
イスラームから見れば、ユダヤ、キリスト教徒は経典の民で、イスラームに包含される存在とみなされるそうなので、欧米のリバタリアンがイスラームになるのはそれほど変な話ではないのかもしれない。

私の知る限りでは、このような視点で欧米のリバタリアンがイスラームを肯定的に論じるのを見たことがないから、彼らクリスチャンは、イスラームを全く知らないか、意図的に無視しているのか、どちらかだろう。

しかし、宗教的な面を除いたイスラームの家のような社会をリバタリアンが目指していることは間違いない。
リバタリアンは、法に対する考え方でも分けることができるが、経済的な原理だけで平和的な無政府体制が可能だとする連中もいる。私は、リアリズムの観点からみて、それはユートピア思想の一種だと思う。w

もちろんハイエクなどは、法を最重視しているからそうではない。ハイエクは国家の作る人定法ではなく、自然法の存在に期待をかけているわけだ。
イスラームの法は宗教法、神の法で、これを中田氏などは自然法とも呼ぶが、ハイエクの自然法とはややイメージが異なる。ハイエクの自然法はいわば民法的なイメージだ。民法は一種の経済ルールでもあるが。
今のところ、リバタリアンにとって確実な自然法とは、生命身体の所有権だけだろう。

私なども法を重視する立場だから、いわゆるアナーキーなリバタリアンには前から懐疑的だが、同時に法を人定法、国家法というものに完全に委ねる立場にも当然に否定的だ。それはつまるところ国家社会主義といえる。

アナーキーなリバタリアンの国家なき自由社会とは、「法のない社会」ではないから、「国家なき法」がカギとなる。そしてイスラームとは、1500年も前にできた、まさに国家なき法である。
もっといえば、リバタリアニズムは、この「イスラームの家」を超克する、それを上回る仕組みを構想できるのかどうかが問題になるともいえる。もしくはアメリカ国内の政治的主張として閉じるかだ。

思うに中田氏も基本は東大文系の左翼な人で、イスラームにユートピア思想を見てるように感じる。
経済に関する考え間違いもいろいろあるが、ユートピア思想の特徴としては、ディレンマとなる要因を排除する点にある。いわゆるリバタリアニズムもユートピア思想的なところが多分にあり、そこにはディレンマとなる要因が見えない。実際は、セキュリティや法といった問題はディレンマそのものなので、それを論じないと自然とユートピア思想になるわけだ。


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2015年10月19日

Aaron Swartz

Netflixで”インターネットの申し子 アーロン シュワルツ”というドキュメンタリーを観た。
よくできたドキュメンタリーでおすすめだ。
シュワルツはredditを作った若き天才だが、Lessigなどの著作権運動に共鳴し著作権問題にのめり込むようになる。
最終的に彼はJstorという学術論文ネットワークに入り込んで論文をダウンロードだことでFBIに捕らえられ13の重罪で訴追されるが、公判を前に自殺する。
SOPA運動では先頭にたち、オンライン海賊行為防止法案を廃案に持ち込むという偉業も達成していた。

検察が彼を重大経済犯罪として訴追したのは、見せしめにしようという目論見からで、その量刑を大きくすることで抑止を狙ったわけだ。

Lessigも出てくるが、私もかれこれ10年位前レッシグの講演を聞きに行ったことがある。
あの頃は自分も著作権問題に関心があったが、その後すっかり離れてしまった。
レッシグも、当時はかなりのアクティビストだったが、今はハーバードの教授になっているようだ。
まだ著作権問題をやっているのであろうか?完全に離れたわけではないだろうが、距離を置いているのかもしれない。

TPPも当然ながら私は支持するわけだが、よくわからないのは知的財産権、著作権関連の問題である。
日本は著作権はフェアユースも認めないから、先進国の中でもかなりユーザー側に厳しいものだが、
TPPでこれらは一体どうなるのであろうか。
今のところ、著作権は親告罪だが、これを非親告罪にしようとする動きもあると聞く。これはアメリカにあわせるということなのだろうか。

私は、基本的に著作権のような登録を必要としない自然発生的な特権はよくないと思っている。
著作物が商業用途なのであれば、基本、登録を必要とする方が分かりやすいだろう。登録手続きをネットで簡単にできるようにすればよいのである。privilegeなら登録制にしてまた維持登録料をとるべきだ。
登録維持をしなければ、特権も消失するようにしたほうがいい。
著作権はbundle of rightsで様々な特権の束だが、登録時にそれらを選択するようにし、そして登録維持料金も特権の請求数によって増減させるなど。

著作権は昔はごく少数の作家、アーティスト保護だったから、ある意味でどうでもいい法律で、増改築で膨れ上がっただけの法律とはいえないような法律である。
ただ、映画のように多大なお金と労力をかけて作られる作品もあるわけで、なにがしかの著作権的な保護がないと成り立たないものもあるのは、やはり否定しがたい。

根本的な制度設計をしなおす時期にあるのだろうが、レッシグが挫折したように、ここには巨大な既得利権があるので手がつけられない。
著作権に限らず、特許でも商標でも知的財産権関連は非常に難問だ。

特権というのは普遍的なものではなく、ある国家が国民に与えるものであるから、支那のような非国家には通用しないという問題もある。
posted by libertarian at 00:25| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月15日

Minaret of freedom

リバタリアニズムとイスラームの類似性は、イスラーム関係の本を読むと直感的に思いつくわけだが、実際にLibertarian Muslimsというのがいるらしい。
これが、そのサイト

そのミッションとは、以下の通り

The Minaret of Freedom Institute was founded in 1993 with a dual mission for educating both Muslims and non-Muslims. For non-Muslims our mission is: 

  • to counter distortions and misconceptions about Islamic beliefs and practice 
  • to demonstrate the Islamic origins of modern values like the rule of law and sciences like market economics 
  • to advance the status of Muslim peoples maligned by a hostile environment in the West and oppressed by repressive political regimes in the East 
For Muslims, in fulfillment of the obligations laid upon them by the Qur'an and the Sunnah, our mission is: 
  • to discover and publish the politico-economic policy implications of Islamic law (shari`ah) and their consequences on the economic well-being of the community, 
  • to expose both American and Islamic-world Muslims to free market thought 
  • to educate Islamic religious and community leaders in economics and in the fact that liberty is a necessary, though not sufficient, condition for the achievement of a good society, 
  • to promote the establishment of free trade and justice (an essential common interest of Islam and the West)
To build upon the words of Thomas Jefferson, in fulfilling these goals we are pledged to wage unending holy struggle (jihâd) against every form of tyranny over the mind of man. 

==

詳しいことは分からないが、わりとまともである。
イスラームは無神論である共産主義とは本来、激しく対立するが、政策的には社会主義政策をとるところが多かった。
それをイスラーム本来の自由主義的な方向にもっていこうとしているのかもしれない。

イスラームではザカートとよばれる喜捨がイスラム五行の一つとしてあり、それが社会的な富の再分配を促進してきた。
これは税を中央政府が強制徴収してばらまくよりよい仕組みではあろう。
サウジアラビアなどは失業率は高いが、サウド家のザカートによって働かなくても生活できるため、失業率が高いままのようだ。
こうなると働く意志がある失業ではなく、単に働かないだけだ。w
イスラーム五行のザカートは、社会主義的な政策とあまり違和感がないように見える。
世俗化と社会主義化は同時に近年のイスラーム圏で起こっているが、これを本来のイスラームの自由主義的経済にしようということなのかもしれない。

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2015年04月28日

Somaliland

ソマリアの”謎の独立国家ソマリランド”についての、高野秀行氏の本を読んだ。
この本はいろいろな賞を受賞したようだが、非常に興味深い本で面白い。

アフリカの角に位置するソマリアは、リドリースコットの映画「ブラックホークダウン」で描かれたくらいで、それ以上のイメージはなかったが、この本を読んで、驚くべきリバタリアンな社会だということがわかった。w

高野氏のアプローチは学術的な側面と、国家や民主主義の在り方に対する根本的な問題意識があるところが、単なる冒険家というより、かなりインテリなものだ。この本自体、いわゆるノンフィクションの枠を超えた意味をもっている。

ソマリアは、紅海沿岸の北部の自称独立国ソマリランドと、海賊業をやっているこれまた自称独立国のプントランドの中部、南部のモガディシュというソマリアの首都のあるいわゆる国連公認のソマリアから成っている。
この3つの地域に高野氏は足を運び、その実態をルポルタージュしている。

基本的にソマリアは、イスラームの国でイスラム法があるが、外部からは簡単に見えない下部構造として強固な氏族社会だということがある。
氏族社会の構造の上に、イスラームが乗っかっている構造だ。この氏族社会(Clan)の構造は非常に複雑なのだが、高野氏はその構造をかなり詳しく解き明かしているのがさすがである。

イスラームも、中田考氏が言うとおり、1500年も続いたある種の自然法と呼ぶべきものかもしれないが、さらに氏族社会の構造にある自然法というものがある。
この本を読む限り、イスラム法よりも、この遊牧民の氏族社会構造からくる法の方が、ソマリアにおける実効性のある法のようである。
ソマリア人は契約の民で、その法的思考は驚くほど深いことがうかがえる。

日本人は、正直なところ中東やアフリカの人間に対しては少し優越感のようなものをひそかに持っていて、中東やアフリカ世界の人間の知性というものにあまり興味もないし、敬意も正直持っていないだろうが、それが西欧中心の世界観に洗脳された悪いところといえよう。
ソマリア人の法意識と、自然法的思考というのは、日本人より勝っていると認めざるをえないというのが感想だ。

例えば、ディアという仕組みがあり、殺人などがあるとその賠償としてラクダ100頭、金銭にして200-300万円が賠償として払われる。
もちろん、殺人を犯した人間が払えるはずもない額だが、これは氏族のメンバー全体の共同負担で払われる。
基本がイスラーム法なので、被害者は金銭的補償でなく、目には目をの制裁を望むこともできるが、それは血の報復の連鎖を招くので、このような仕組みで解決されているらしい。

もともとが社会というのは、このような下部構造が積み重なってできたもので、下部構造にある法の集積が自然法になる。
そして、下部構造が積み重なってより大きな社会になるが、そこに国家という外枠は存在しないわけだ。
西欧の今の国家定義はトップダウンな外枠を定める仕組みであるというのが問題なのであろう。それをまた、西欧人が上から目線と差別意識から、無責任に何も考えずに、ディープな氏族社会に押し付けようとするから、社会がめちゃくちゃになるというのがパターンである。

国連に認められたソマリアはまさにそうで、ここは社会はめちゃくちゃで危険。というか、戦争のようなトラブルそのものが産業という危険地帯となっている。つまりウォーロードと、イスラム過激派アルシャバーブが闊歩する紛争地帯だ。
だが、首都のある都市国家であり、トラブルが金になるので、戦争が絶えることがない。
一方の国連に認められていないソマリランドは、平和で驚くほどに民主的な社会となっており、ソマリアとの差は天と地のさがある。
ソマリランドでは、自然法が生きている社会のように見える。

この3つの国の対比が、鮮烈に描かれており西欧の介入したソマリアの混乱と、自然法による驚異的な民主主義と平和のあるソマリランドの対比が面白い。ここら辺の事情は、植民地支配の歴史的な経緯もからんでいる。

この中間にあるプントランドはいわゆる海賊国家で、海賊業がプントランドの自称政府による最大のビジネスらしい。
この紅海での海賊家業の話も興味深い。映画で「キャプテン フィリップス」というソマリアの海賊に人質になった実話をもとにした映画があるが、映画と海賊の実体はやはり違うようだ。
海賊が船を襲う最大の目的は、船荷であって、人質ではないらしい。船主も保険に応じるのは、船荷の価値が高い場合で、全てがお金、ビジネスライクに進められる。実際、人質に危害が加えられることはないそうだ。人質はほんのおまけのようなものらしい。
石油タンカーが積荷の価値が最大の獲物だが、大した価値のない日用品が船荷だと骨折り損になることもあるようだ。
この海賊にしても、彼らなりの法意識の下に動いている。

ハイエクは、自然法を西欧社会の中に見つけようとして、イギリスのコモンロー、初期ローマ法など民法の系譜にそれを見出そうとしたが、イスラーム社会では、自然法は割と容易に見いだせるようだ。
社会制度が法に先立つという観点では、西欧的な押し付け民主主義体制が即席で便利だったということにすぎないわけだ。
しかしむしろ、法が社会制度に先立つという考えが正しい。

この本は翻訳して欧米人、特にアメリカ人にも読ませたらいいのではないだろうか。

posted by libertarian at 15:47| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月19日

Crossborder

世界の約4人に一人はムスリムで、約4人に一人はキリスト教徒。つまり一神教徒は約二人に一人の割でいるということになる。
イスラームは、ユダヤ教、キリスト教などを兄弟宗教とみているから、一神教徒とそれ以外という分け方になるだろう。
ほとんどの日本人は無宗教で、神について考えたこともないから、そもそも一神教などという迷妄をなんでまともな大人が信じられるのか不思議に思うわけである。
普通の日本人は、そんなものを信じる連中は、オカルトを信じる人間と変わらない危ない奴らと思うのではないか。

自分は世界に真理はあると思っているが、真理と神という概念とは結びつかない。
逆に一神教を信じる人間が神を真理と結びつけているようにも見えない。
イスラームは、実体のない概念、記号を偶像崇拝だとして避けるそうだが、アッラーという言葉にどういう実体をみているのか疑問だ。

中田考氏の本を読むと、カリフ制再興はイスラーム法上の義務だと考えているわけだが、これは中田氏のオリジナルというわけではなく、ジハード団の革命のジハード論を受け継ぐものらしい。
イスラーム法上、立法はアッラーの大権であり、これを国家法という人定法で置き換えることは、イスラームの教えをゆがめるという主張が第一にある。世俗化という政教分離はイスラーム法上、決して容認できない大罪と考えている。
そもそも人定法は、領域国民国家という植民地主義の装置からくるものであり、国民国家などは最近の制度にすぎず、なんの必然性もないものだという認識がある。
イスラームはもともとが、唯一のアッラー、一人のムハンマド、一つのクルアーン、一つのイスラーム共同体であるから、国民国家という制度、ボーダーをなくす必要があるといった革命のジハード論に行きつくわけだ。
だから、ムスリム同胞団のような中途半端な現実主義を嫌う。
一国の革命ではなく、アラブに張り巡らされた国境をなくさないといかんというわけだ。

しかし、中田氏の考えは宗教の信者としては純粋だが、結構、素朴に左翼っぽいと感じる。中田氏のいうところのグローバリズムも、典型的に左翼的な把握で、私にいわせれば、それはまさに実体のない概念、つまり偶像としか見えない。
さらにイスラームは実体のない概念をさけるがゆえに、紙幣という記号、偶像を嫌い、金という実体のあるものを重んじるようだが、金というのもやはり偶像、記号でしかないというのが事実だ。

トルコのケマル アタチュルクの世俗化主義は、最近では衰えつつあり、その代わりにイスラーム主義が台頭してきているらしい。
ケマルという無敗の大将軍が、世俗化主義に舵をきろうとしたのは、多分に軍事的な理由であろう。つまり、イスラームでは欧米に勝てないし、それに固執すれば、みじめな植民地的敗北状態になるのは避けられないといった軍事的リアリズムに基づく洞察からだろう。
イスラーム圏では、軍部が反イスラームの傾向があるが、これは、彼らの職業的判断からの必然的結論なのだろう。

この点は、日本が明治維新で旧い幕藩体制を破壊し、脱亜入欧を目指したのと同じような決意があった。
しかし、トルコはそこらのヨーロッパの国より経済は遥に良いが、イスラームという差別的理由で、EU参加を拒否されてきている。
ここら辺から、結局、イスラームの脱亜入欧は無理なのだということを国民が認識しだしたようだ。

オザル政権になると、ケマリズムを弱め、イスラーム主義への転換が図られるようになり、エルドアン政権ではさらに反ケマリズム的な方向になっていった。
カプランは、ケマルパシャが旧体制との連続性を断ち切るために、首都をイスタンブールから内陸のアンカラに移したことが、かえってイスラーム濃度の高いアナトリアの土地へ移る結果になったと見ているようだ。

とはいえ、別にEUに参加することはそんなにいいこととも思えない。大事なのはEUではなく、自由貿易体制だ。
トルコは世俗化を進める中で、経済的に発展し、ヨーロッパコンプレックスのようなものが薄らいで行っているのだろう。
これも、日本と同じような過程を通っているようにみえる。
むしろ、自分たちのアイデンティティーを大事にしようという気持ちになってきているのは、軍事的敗北の痛手から、経済的発展によって立ち直ったからだと思う。




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2015年04月02日

Map,Geography,and Guide book

最近は、グーグルマップやグーグルアースのような恐ろしく便利なものがあるので、分からない地名がどこにあるのか一瞬にチェックできる。
カプランの本を読んだ際は、分からん地名が沢山出てくるので頻繁にマップでチェックしていたが、ついつい周辺もいろいろ見てしまい、読み進むのが遅れた。しかし、これはこれで充実した本の読み方といえよう。分からん地名の話を聞いても、地名がどこにあって、どんなところかもわからなければ、読んでも全く意味がないのである。
さらにグーグルアースに切り替えれば、臨場感のある3D表示もできるから、なんとも凄い世の中になったものである。
しかし、グーグルアースの画像は、凄みがあるというのかあの海の青さも非常に不気味である。

だが、グーグルマップやグーグルアースがいかに凄くても、それだけでは情報として不足している。
私が”地理”を知るうえで重宝しているのは、あの悪名高き、地球の歩き方シリーズだ。旅行ガイドではあるが、地理やその場の土地感覚、距離感覚を知る上で非常によくできた本である。国ごとのこれほど詳細な資料は他にはない。まあ悪名をはせたのも今は昔のことで、最近のは無難に仕上がっているようだ。

地図の詳細さは大事だが、反面、地図が詳細だと人間はそれを認識しにくくなる。世界地図をみても、あまりに複雑で、普通は、それを認識できない。ここで大事になるのが、複雑なものを抽象化し、単純化するという知的作業になる。
こうやって地理を認識、もとい地図を認識するようにすれば、地図が頭の中で概念化される。
昔の測量術が未発達であったころの世界地図などは、概念で書かれているから、稚拙ながら認識しやすい。
このように詳細な地図を単純化、概念化するのである。

また地図やグーグルマップやグーグルアースでは山や山脈が誇張されすぎている。
地球の直径が12700Kmだから、エベレストであっても、約1/1300の凸でしかない。
これは、1mに対し1mm以下の凸凹だから、ほとんど誤差みたいなもので、地球は実際は、ほとんど凸凹のないつるつるの球体なのである。




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2015年04月01日

LibertariBanism@Japan

本ブログもかれこれ10年以上続けている。
誰が読んでいるのか知らないが、割とコンスタントにアクセスがあるようだ。
しかし、少々飽きてきたので、イスラームを来るべきリバタリアニズム社会と考え、サイト名を改名することにした。

新しいサイトは、次の通りにする予定である。乞うご期待。

LibertariBanism@Japan


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2015年03月12日

Islam as a libertarianism

イスラームの原理主義について穏健なイスラムと急進的なイスラム原理主義があるという理解は間違いなのかもしれない。
イスラームには、近代の世俗主義があるとした方がいいのだろう。つまり原理主義があるのではなく、世俗主義が近代の国民国家に分割統治されたイスラムに特異なものとしてあるとみる見方である。逆に言えばいわゆる原理主義とはイスラムそのものということだ。

中田考氏によるとイスラームは、アナキズムとしかいいようのないものだそうだ。国家や政府はイスラムには反するし、当然に税金もイスラムに反するからない。実際、過去1000年以上、イスラム社会では税金はなく、異教徒に対してのみ信教の自由の保証の代わりに人頭税を課していただけらしい。イスラームはアッラーに対する服従という意味だが、同時にアッラー以外の政府や権力への不服従を意味する。

その点、リバタリアニズム的な社会というのは、イスラム社会において既に1000年以上前から完成されていたといえるのかもしれない。
イスラムは国家なき共同体、政府なき共同体である。
リバタリアニズムのようなものは、世界宗教にはまずならないだろうから、先進国内における政治的主張に留まるだろう。
そもそも日本のように、自由という概念にあまり求心力がない社会も多いわけだ。

リバタリアニズムの唱える自由とは消極的自由であり、外部の権力による強制がないことだから、それは政府がない状態において完成される。
イスラームは、戒律が厳しくて自由がないイメージがあるが、実はそのような消極的自由を1000年以上昔に完成させていたといえる。
イスラム法という自然法による支配がイスラーム世界の本質であり、カオスや無秩序ではない無政府の共同体ができていたわけだ。

欧米はやはりベースがキリスト教社会だから、欧米の知識人はイスラムを全くしらないのであろう。
David Friedmanやミルトンフリードマンは、リバタリアン的な社会は過去に存在したことがないと言っているが、それは単にイスラームを知らなかったということなのではなかろうか。

イスラームは拡大しつつあり、既に世界の約4人に一人がムスリムだ。
もしカリフが再興されれば、これが一つのイスラームとして国家を超えたまとまりをもつ共同体になる。
スンナ派とシーア派の対立も、実はそれほど根深いものではないそうだ。確かに昔のカリフの誰を認めて誰を認めないかの問題だから、そんな深刻な問題とは思えない。それが大問題なら、今カリフがいないことの方がはるかに大きな問題だろう。
今のスンナ派とシーア派の対立は宗派対立というより今の国民国家の政治的対立により先鋭化したもののようだ。

posted by libertarian at 23:54| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月18日

Freedom,Anarchy and Law

言論の自由とは、言論の自由を制限する法律を制定してはいけないという政府の立法権に対する憲法上の制約である。
言論の自由とはそれ以上でもそれ以下でもない。
言論は暴力にもなる。だがそれを規制する法律を作ってはいけないということは、事後的に民事的に処理するというのが基本だ。

一般常識的には、相手の言論で被害をこうむった場合は、損害賠償請求なりで民事的に解決する手続きになる。
ただ刑法が適用されることは基本ない。言論の自由とはその程度の保証である。
だが、言葉は強力な暴力にもなりうる。言葉の暴力に対して物理的な暴力で報復すると、今度は報復した人間に刑法が適用されるかもしれない。
だが、傷害事件の場合、事後的に刑法が適用されるだけで、刑法には抑止力が期待されているが、それを行使する人間を止めることはできない。事後的に罰するだけである。これは法律の限界である。

シャルリーエブドのように言論攻撃を、商売として用いる人間は次のように考えるだろうか。

1.商売のために言論の暴力をふるって、相手が賠償請求をしてきたら、多額の賠償金を払ってもよい。
2.相手が暴力に訴えてくれば自分は殺されるかもしれないが、事後的に相手が刑法で罰せられることを期待する。

おそらく、どちらもとも思っておらず、商売としてのい言論では儲けるが、相手が泣き寝入りする、もしくは裁判に勝ち賠償金はほとんど払わないことを期待するのだろう。要するに甘いのである。言論の自由という言葉で自分が法律で守られていると勘違いしているのだといえよう。言論の自由を守れと叫んでいる連中は、一体法律に何を期待しているのだろうか。
これは言論の自由なり法律に対する無理解が原因であり、シャルリーエブドを擁護した連中も同様だ。
相手が間違っているのであれば、論理的に説明するべきであり、宗教上の侮辱といった暴力に訴えるのは商売の為であれば完全な自己責任である。

特にイスラム法の世界の住人に対しては自分の国の法律は全く通用しない。
法律は行動の自由を制限しないしできない。つまりアウトローな解決法を選ぶ行動の自由を阻止するものではない。
言論にしても何を言ってはいけないと法律が阻止することはできないのと同じである。

国家間の関係はミアシャイマーがいうとおり基本的にアナーキーなものだ。共通の法律も強制力もない。
個人と個人の関係も従う法が異なれば、アナーキーだ。
国家や法が守ってくれると思うのは間違っているのである。






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2015年01月11日

Freedom of speech and STAP

フランスのシャルリーエブド襲撃事件があり、言論の自由がどうのこうのと話題になっている。
しかし、今回の事件は死傷者の数からすれば、世界で日常的に起こっているテロ事件よりはずっと少ない。
アラブで日常的に起きている数十人、数百人が死ぬテロ事件が片隅にしか報道されないのに、今回、やたらとでかく報道されているのはおかしな気もする。
メディアが報復対象になったことが、メディアなりマスゴミの感情を逆なでしたということにすぎないのだろう。

あまりよく知らないが、シナやコリアに対するヘイトスピーチがいかんとされているようだが、私はそれは言論の自由にふれると思う。
事実無根のことで相手を誹謗中傷するのはもちろんいけないが、それは民事の問題である。
むしろシナやコリアの事実無根の誹謗中傷に対して抗議するのは正当防衛といえる。
シナやコリアに対する対抗言論を、なんでもかんでもヘイトスピーチだと差別的なラべリングをするのは、言論の自由を侵害する可能性が高い。
そんなものよりも、マスゴミによる、STAP報道のような人権侵害事件の方が、はるかに深刻な犯罪であることはいうまでもない。

シャルリーエブド紙は、風刺漫画の出版社のようだが、日本はマンガ大国だが風刺漫画というのがほとんどない。
もし、日本に風刺漫画などがあれば、日本ではヘイトスピーチ扱いされかねないだろう。
事実、日本ではパロディというのが、なかなか著作憲法上も成立しにくい状況がある。パロディによる引用は、著作権侵害として扱われてきた経緯がある。

かつて、ミルトン フリードマンは「選択の自由」の中で、次のように書いた。

”アメリカの合衆国の父たちは、これよりはもっと将来性のある方法をわれわれのために示してくれている。
それは、いわば「一括取引」をすることだ。われわれは、われわれが政治的な経路を経て追及する目的を制限する「自己否定的」な法律を制定すべきだ。

この修正第一条は、「連邦議会は・・言論の自由を制限する法律を制定してはならない。」という一般原則を採用した。
すなわち、ひとつひとつの場合について、それぞれがどんな価値をもっているのかを考慮しないというのだ。
われわれは、自身が多数派である場合には、他人の自由を干渉することについて、それほど深刻な関心を持たない。
しかし、われわれの大半がなんらかの時点において少数派になることはまず間違いないのだ。”

#USA修正第1条は以下の通り
連邦議会は、国教を樹立し、若しくは信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない。また、言論若しくは出版の自由、又は人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない

STAP報道でも、”われわれは、自身が多数派である場合には、他人の自由を干渉することについて、それほど深刻な関心を持たない。”ことが実証された。STAP報道事件は、言論の自由に対するマスゴミによる破壊活動であるともいえる。
マスゴミやメディアは、発信している人間は少数の人間であっても、匿名性をもってブロードキャストされる。ここにメディアと個人の非対称性があり、メディアが暴力装置となるのを容易にしている。
だが、今回のテロのように具体的な暴力行動によって、メディア側も実は少数であることが明らかになる。
メディア側もパロディを明白な”攻撃”だと意識はしていた。しかし、それは”合法的な攻撃”であり、安全地帯からの攻撃だと勘違いしていたのである。
言論の自由なるものも、本来的には個人や個人の集まりに対する言論の自由の保証であって、メディアというブロードキャストシステムを想定したものではなかったろう。それは明らかに2次的な拡張だが、個人とは異質の非対称性をもったメディア組織に対して、言論の自由の名のもとに合法的な暴力を保証するものではないだろう。

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2014年12月25日

Redistribution of wealth

現代において、右左を分ける論点としては、富の再分配をどの程度にするかが最大論点かもしれない。
共産主義は、完全平等を目指すというトンデモ論であったが、これはもはや終わっており、現代は、再分配をどの程度にするかという程度の問題になっている。
共産主義が、再分配率100%としよう。
一方の極端な考えとしては、再分配は一切するべきではないというものだ。
これは、再分配率0%ということだ。
今は、どちらも採用されておらず、この間の値がとられているわけだ。

ここで混同してはならないのは、再分配と貧困の問題は全く別ということだ。先進国においては、貧困層は100年前の王侯貴族以上の物質的豊かさを享受しているというのは事実であり、再分配問題とは社会内の相対的格差が問題とされている。
リバタリアンは、相対的格差を政治的な問題にするのは間違っていると考えるだろう 。私もそう思う。

だが、私が思うに、これから人工知能化される社会においては、これまで以上に機械から搾取するようになり、機械、システムを持つ数人の人間とそうでないその他全員との格差は、やはり受け入れがたいものになるのではないかということだ。
実際に、機械、人工知能によって人間の雇用が置き換えられていけば、金融政策だけで雇用問題を扱うことはできなくなるのかもしれない。
人類に残された仕事のほとんどはサービス産業のような低賃金職場だけということになりかねない。

SF的な世界では、未来社会が理想的な共産主義として描かれていたりするわけだが、あながち、あり得ない話ではないような気もする。w
100%再分配社会にはならなくとも、来るべき人工知能社会においては、社会の再分配率を高くする方向となるのかもしれない。

posted by libertarian at 10:51| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月22日

Rock Bottom Economics

クルーグマンのコラムから抜粋。


”最近の経済論争でもっとも驚くべきことの一つは、自分の経済理論が現実と照らし合わせて間違っていたことが明らかになったにもかかわらず、あくまで間違いを認めようとしない頑なさが、いかに広くはびこっているかということだ。間違いから学ぶなんてことは期待することもできない。アメリカ議会で新たに多数派となった知的リーダーたちは、相変わらずわれわれはアイン・ランドの小説の世界に住んでいると主張している。ドイツの役人たちは、今でもなお、問題は債務者が充分に苦しんでいないことだという主張を続けている。
こんな状況では、先行きは暗い。権力をもつ人々が知らないこと、そしてさらに悪いのは、自分たちが知っていると考えているが実際には知らないということが、必ずやわれわれを傷付けるからだ。”

この原文は以下にある

クルーグマンの文章は、やや屈折しているが面白い。

自分も長いことマクロ経済を全然知らないで、アメリカ共和党保守寄りのリバタリアンの主張ばかり読んでいたから、かなり間違った経済的主張を信じていた。
お恥ずかしながら、それは別に理解を伴っていたわけではなく、実証的に考えていたわけでももちろんなかった。
ここで、クルーグマンがアイン・ランドの小説の世界に住んでいると主張している人たちとは、まさにアメリカのリバタリアン寄りの保守派のことだ。
彼らは、子供に借金を残すなという形で、政府赤字を批判してきた。
彼らにとって財政赤字=大きな政府という意味で使われている。

リバタリアンと言っても、ミーゼス、ハイエクのようなのから、ミルトンフリードマンまでいろいろな人がいて、主張はかなり異なる。
しかしミーゼス、ハイエクといったオーストリアンリバタリアンの経済学は、相当におかしい。それは科学の体裁をなしていない。
実証性がほとんどなく、哲学的な論に終始している。
論理的にはある種の分かりやすさがあるが、反証性に乏しい哲学となっている。
複雑な事象を、哲学的に考えることは膠着的な思考に陥り、現実が見えなくなるだけだ。

リバタリアンと言われる人の中でも、フリードマンの経済学はオーストリアンとは全く異なる。
経済理論的にはフリードマンのようなリバタリアンしか生き残らないだろう。

今のシステムを前提にものを考えれば、金融政策の政府の重要性は極めて高い。
財政政策は、基本、減税政策の形で行うべきだが、実際に税を集めている以上、財政政策をやらない=緊縮財政をとることは、社会を窒息させるだけの結果になる。もっと現実をみる必要がある。


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2014年11月14日

Bike market and regulation

自転車産業は中小のマーケット規模しか持たない。
これを見ると、国内の販売数は1000万台前後。1台平均3万円と計算して3000億円程度か。
世界全体だと約600億ドルのマーケット規模があり、6兆円程度。

自転車は1990年代にエアロ化が進んだが、その後、UCIという団体が競技でのエアロバイクやエアロポジションを禁止する。
これはヨーロッパの自転車産業を守るのが目的だったようだ。
2000年以降は、バイクのエアロ化の進歩は止まってしまった。

今はヨーロッパの自転車産業もカーボンバイクを作れるようになったし、アワーレコードの規制も最近大幅に緩和せれ、TTバイクによる記録更新が立て続けに起こった。→とはいえ、オブリーやボードマンの記録は抹消されたままで、ボードマンの記録にも届いていない。

競技ではいかなる規制があってもそれはそれでゲームのルールだから構わないが、UCIの動きに自転車産業がそのまま追随することになるのがロードバイクをつまらなくしている。
ミニベロやリカンベントはそういったものと無関係なので自由なのがよい。

ロードバイクはカーボンによる造形上の自由度を得ても、いまだにダイヤモンドフレームなのはUCIの規定によるものだ。
だが、ほとんどの人はロードに乗ってもレースにでるわけではなかろう。
ロードもUCIの規制にとらわれずに、自由な形状の自転車を作ってほしいものだ。
90年代に作られた、cheetahやLotusのようなバイクを今のカーボン技術で復刻させたら面白いと思うのだが、どこかやらないだろうか。
posted by libertarian at 13:35| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月23日

Longtail of Manufacturing

Gizmodとかいったサイトを見ていると、いろいろと面白い発明や新商品の紹介がある。
しかし、それらはほとんどがアメリカのものだ。
技術のすそ野は広いので、何ともいえないが、アメリカの発明意欲、発明による起業というドリームが強いことは感じる。
また、それをサポートする仕組みがネットを通してもある。別にそれは日本からでも利用できるのだが。

それに対して日本では、あまりそういったものがない。というか、Gizのようなものに紹介される製品は減ってきた感じだ。
少し前までは、ソニーといった日本の家電メーカーがいろんなガジェットを出していたが、そういったものは最近とんと聞かなくなった。
素材レベルの基礎的な研究開発能力は日本はまだ高いのだろうと思うのだが、それらを利用して製品化する能力はどうなのか?
大メーカーからでなくても、アイデアベンチャーからもっと出てきてもよいと思う。
そういった、技術を面白がる、楽しむ企業がないともっと沢山出ないとつまらない。利益や採算性は後からついてくるものだ。ほとんどは、失敗することになるわけだが、技術を楽しむ土壌がなければ製造業のすそ野は小さくなってしまうだろう。

家電でも、ダイソンのようなメーカーが気合いの入った製品をだしてきているし、それがまた高価なのにもかかわらず結構売れているようだ。
かくいう私も掃除機はダイソンだ。これは高性能で頑丈で、デザインも面白い。
日本の家電も性能は悪くないのだろうが、後追い商品か従来の延長技術ばかりで、デザイン性、耐久性などが劣る(感じがする)。
つまり、買っても特にうれしくもないし、必要に駆られて買うかもしれないくらいのものだ。ダイソンのはデザインがいいので、特に必要がなくともなんとなく興味がでて欲しくなるような気がする。
appleにしても、従来のアメリカの製品のイメージを大きく覆した。アメリカの製品というとデザインが悪く、繊細さにかける大雑把なイメージがあったが、appleは日本メーカーにも作れない、精密な加工製品を出した。一部の高価なヨーロッパ家電の品質とデザイン性をもったものをアメリカの大量生産技術で可能にしたというべきか。もっともMacBookのようなPCは筐体はただの箱なのでそんな加工精度はいらない。つまりメカのように加工精度と性能との関係性はないのだが、精密な加工技術をデザイン性、品質感を高めるために利用しただけともいえるが。

この分野はどれも日本の影が急速に薄くなりつつある。
デフレの影響は大きく、メーカーが開発力と競争力をデフレによって失った結果ともいえる。
もし、日本が20年デフレにならなかったら、日本のメーカーももっと元気があって勢いがあったろう。デフレは確実にメーカーの研究開発力を削いでいく。
日本が再増税によって、再びデフレの奈落に落ち込むことになれば、もはや日本の製造業は浮き上がれなくなるだろう。


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2014年10月02日

Anarchy,Realism,and LIbertarianism

リバタリアニズムは、自由とか自己所有権を前提とする規範理論である。
規範理論という意味は、自由とか自己所有権を善とする前提をおいた理論という意味である。

#Normative theoryとは wikiによると
 Normative means relating to an ideal standard or model, or being based on what is considered to be the normal or correct way of doing something.

Anarchy,アナーキーとは何か?
これは、実のところ、あまり明確な定義がない。
アナーキーとは、規範がない状態というのが、分かりやすいイメージだろう。規範がない、つまり、倫理的に理想的な基準やモデルがない状態である。また、そういった規範に基づく外部の強制力がない状態である。

では、リアリズムとは何か?
これは、上記の意味でのアナーキーに置かれた状態における行動、国家の行動、個人の行動を力学的に考えるものであろう。
つまり、リバタリアニズムのような規範理論とアナーキーを前提とするリアリズムは、前提が異なり相容れない。
リバタリアニズムのような規範理論は、ある程度、国家なり、法の秩序なり、社会の良識なりの前提が、規範に基づいて機能することを前提としている。その点では、国内政治的な主張である。
一方のリアリズムは、強制力のある規範が一切ない、アナーキーな状態を前提とする、非規範的理論である。

ここに規範理論と非規範理論といった、水と油のような関係がある。
もっとも、アナキーの状態では、リバタリアンは自由と自己所有圏の原理に則り、規範的に行動するのだろう。w

戦争という現実は、アナーキーという意味を我々につきつける。殺戮と破壊を目的とする戦争行為はいかなる意味でも規範的ではない。しかし、国家という生存条件の存亡の上では、戦争さえも合理的なのである。

これを、どう考えるかが問題だ。

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2014年08月03日

Fantasy theory

Realism、リアリズムという言葉の反対は、空想、ファンタジー、fantasyだろうか。
もっとも、fantasismなんてものは聞かない。real の反対がfantasyというべきか。

空想的社会主義であるとか、社会主義は、空想、ファンタジーの世界での想像力をかきたててきたように思われる。
平等とか自由とかいった概念を善の概念として、きちんと定義もされずに空想的に、理想的に空想されてきたわけだ。

アナキズムもそれに近い。アナーキー、anarchyの定義はなきに等しいくらいいい加減だ。
菅野とかいうリバタリアニズムについてつまらん本を書いていた若いやつが最近TVにもでているが、彼の言っていることなどを少し聞くと、彼は左翼だとわかる。文系にはこういった連中が多い。こういう教養のない阿呆がろくに勉強もせずに舌先三寸で食っていけるのが文系の世界だ。
だが、それも彼が左翼だからなのである。左翼だから日本の左巻きアカデミズムに受け入れられたのだろう。

おそらく、日本でリバタリアニズムを言ってる連中のほとんどは、実はかなり左翼、左巻きの連中だろうと思う。
リバタリアニズムはDavid Friedmanのように自由のアナキズムを説く人間がいるように、リバタリアニズムのアナキズムのイメージに吸い寄せられるのだろう。
つまりアナキズムとは、もともと極左の言葉だが、それに飛びついてくる左翼、もしくは右も左もよくわかってない左寄りの人が多いと思う。
フリードマンは、アナキズムをきちんと定義して使っていて、その定義の中で法的秩序の生成がミクロ経済的に可能かどうかを考えたりしているのだと思うが、定義した範囲で語るのは理論的であって、別に空想的という悪い意味はない。
アナキズムを左翼用語の無政府主義と訳していては、フリードマンの話は誤解するだろう。

日本の空想的リバタリアニズムは、左翼とその変種の集まりであって、日本は今、空想的リバタリアンがすこしだが増えている。
日本は、君主、天皇を戴く共産主義を右翼だ極右だと言ってきた歴史があるが、こういう右も左もごちゃごちゃにした、ほとんどニュースピークスのような言葉の乱用がある。
リバタリアニズムも、そうなりつつあるのだろう。






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2014年07月20日

Uncertainty

ナイトの経済学ではcalcurable riskと、uncalcurable riskを問題にする。
後者をuncertaintyとも呼ぶ。
これは今風にいえば、前者が正規分布を前提としたリスクで、後者は例えばべき分布を対象としたリスクといえる。
正規分布のリスクは計算できるが、べき分布だと平均も分散もない。
だからべき分布のリスクは計算できない。
株式市場などは後者のリスクであった。
だが、話はこれで終わらない。
これは物事を理解するとはどういうことかという問題でもあろう。

posted by libertarian at 12:23| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月01日

Kindle`s problem

アマゾンのキンドルは、アメリカ用の第2世代のを持ってるが、これと日本のキンドルは別扱いである。
キンドル統合をやればどうかとアマゾンに勧められてやってみたところ、大失敗であった。
メリットはほとんどなく、統合に伴うバグの嵐に見回れた。
キンドル統合は、非常にバグが多い。これはサーバー側のシステムの問題である。
致命的な問題もある。
新しいAndroidがキンドルで認識されないなどである。こうなると買った本がそこに配信されない。
マーカーやメモの情報が失われるという問題もあった。
アマゾンの対応は、遅くて、何をやってるのかわからない。
キンドル統合は、やらないのが安全だ。メリットはなく、デメリットは巨大だ。
統合してもアメリカのキンドルでは、日本で買った本は読めない。
おまけに、一度統合すると元には戻せない。ずっとバグと付き合うことになる。
電子ブックは、今は乱立しており、つぶれるところも結構あるらしい。
つぶれると読めなくなったりするから、要注意だ。
さすがに、アマゾンは大丈夫とみているが、キンドル化のスピードは遅い。
紙の本と両方出すのは、どちらかが一方を食ってしまうので、意外と難しいのかもしれない。
紙の本には一定の固定費がかかるが、これが回収できなくなるのであろうか。
キンドル専用端末も、基本的には使い捨てと考えたほうがよさそうだ。
なぜなら、ソフトのアップグレードには、対応してないらしいからである。
AndroidやiPadのキンドルで読むのが無難だ。
電子ブックのメリットは、一つに分厚い本を沢山持ち歩けることである。
分厚い本は持ち出しにくいから、なかなか読み終わらないことになる。
しかし、キンドルなら問題ない。
posted by libertarian at 13:31| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月27日

On Education

私は現代社会の貧困の原因の一つは公教育システムにあると前々から思っている。
公教育は大事だとか無条件に前提にしているトンデモ議論が世には溢れている。
公教育にはプラスの意味があったとしても、マイナスも大きい。
公教育が貧困を助長しているという研究もある。
今はプラマイ0ではなく、マイナスサムだろう。

例えば、学校でプログラムの授業を100時間かけて行ったとする。
そのうちの一人はプログラムを作るようになったが、あとの人はその後全くプログラムをしなかったとしよう。使わなかった人には無駄なものだと言い切れる。
プログラムに限らず、目的もなく教養という名目で行われる強制の最たるものだ。

実際は、試験という選別差別システムによって、その強制性が担保されている。
現代の学校というのは、よく言われるように工業化社会のシステムであり、その意義が高いから残っているのではなく、それが社会のインフラとなる利権システムとなっているだけだ。
公教育の重要性を断言するのは、教師のような利権側の人間だ。
公教育はあっても、学びのない学校がいかに多いことよ。

残念ながら現代社会の人々はその人生のスタートを学校という強制システムからスタートすることになっている。
これをインターネットが変えていくことは可能だろう。しかし公教育利権は巨大な利権であるから、抵抗も巨大だ。
その点、いわゆる後進国の方がやはり教育革命の可能性が高い。
日本だと、今後は工業高校のような専門技能教育がむしろ人気になる可能性もありそうだ。
今の工業高校は非常によいらしい。昔は不良の溜まり場だったが。w

これはデューイのような左翼教育論とは全く違うのだ。
強制システムの中で自発性や個性がどうこう言っても、そんなものは矛盾している。
強制システムとしての学校制度そのものをなくすことが、教育の自由化であり、必然的に教育利権の人間は利権を失う形でなされる自由化となる。教育という名で行われきた教師による人間の設計主義を廃することが重要だ。

posted by libertarian at 13:43| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月26日

Japanese conservatives are social democrats

日本に保守はいない。
日本の自称保守連中とは、正しくは国家社会主義者と読んだ方が良いと思う。
戦中の「天皇を戴く社会主義者」連中と近い人間が多いようだ。
連中が主張してる事からも、それは明らかだ。
簡単に言えば日本の自称保守連中とは、TPP反対、増税賛成、財政政策(公共事業)賛成、大日本帝国万歳、天皇陛下万歳という連中の事といえる。他にも原発賛成、大きい政府大好き、小泉憎しといろいろとある。新自由主義なるものも意味は分かっていないけども大嫌いなようだ。

こうしてみると、日本は、右も左も左で、保守がいないという事実に突き当たる。
これは中江兆民が言ったように、日本には哲学がないからなのかもしれない。

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2014年05月11日

Privatizing Army

坂井三郎の「大空のサムライ」という本は、欧米で最も売れた日本人の書いた本らしい。海外で200万部以上売れたそうだ。
これを読んで、国防軍のようなものは、企業組織にしても十分できるだろうと思ったわけだ。
実際に、軍隊のパフォーマンスは部隊毎に大きく違いがあった。
国防会社とすれば、企業間の競争もある。出来高制の報酬体系にもできる。
しかし株式公開はしないなど、いろいろと工夫は必要だ。
例えば傭兵軍とは違って、日本の国防会社は日本の軍隊にしかなれないとする。
特殊な会社形態ではあるが、会社組織にするメリットはある。

このくらいの合理主義を持ち込まないと、日本の軍隊は昔の軍隊同様、官僚主義、非合理主義から抜け出せないかもしれない。
国家主義、官僚制ほど戦争に不向きな仕組みはない。愛国心とか自己犠牲の精神を下っ端に強制するのは間違いで、そもそもトップが官僚主義で自分の組織保存、自己保身しか考えてない自称愛国者の官僚だったら悲惨である。
軍人に愛国心をスローガンとする無私の公益奉仕を強制するだけでは全く駄目だ。
駄目な国防会社から、よい国防会社に軍人の転職ができるのも良い点だ。

基本的に軍人はハイリスクな職業だから、リスクに応じた報酬が必要だ。それを愛国心といった精神主義でごまかしてはいけない。おまけに戦争となると、人の命、兵士の命の値段が暴落する。人の命の値段を暴落させない仕組みが必要だ。

日本の自称保守の連中は、教育に関しては全体主義的な価値観の復活を唱えているわけだが、それは今の学校システムという中央集権システムを全面肯定しているわけだからナンセンスだ。
日本の自称保守は、徹頭徹尾、大きな政府、中央集権が好きな連中だ。大きな国家という幻想の中に、自己イメージを投影し自我肥大しているのだろう。過去の間違いを全く反省できてないわけだ。

大東亜戦争で零戦やら軍艦の技術が凄かったというのも、技術開発の部分は三菱など会社組織だったことがポイントだ。この部分は計画経済の中央集権ではなかった。
アメリカでもアポロ計画では、国家事業の中央集権システムでやったわけだが、実際は多くの企業があったおかげで、いろんなアイデアを採用することができ、サターンエンジンの開発でもブレークスルーが短期間に可能になった。
実際、計画経済的なところは、アポロ計画の負の面で、実際は多くの私企業の存在があったことが本質的な成功要因だった。

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2014年04月22日

Taiwan's Dire Straits

ミアシャイマーの論文「台湾の絶体絶命」が、ナショナルインタレストの2014年4月号に載っている。

台湾は近い将来、支那に併合されることは避けられないという暗い結論だ。
もちろん当の台湾にとっては悪夢のような結論である。
最善で、香港のような自由度を得るくらいしかできない。
それをミアシャイマーはこの10年内と見ているようだが、平松茂雄氏の予想では、それは2021年の中共100周年にあわせての事だろうと予測している。

思うに、ここでのミアシャイマーの悲観論は、次にそのまま日本に当てはまるだろうことだ。
台湾が併合された暁には、日本は今の台湾と同じ状況になる。時間が経てば経つほど中共に有利になる。

台湾は1970年代、80年代に核武装をしようとしたが、アメリカに横やりを入れられて失敗した。
もし、その時、核武装化していればよかったが、時既に遅しとなってしまった。

唯一の希望は、支那の経済がクラッシュして、経済発展が大きく減速することだが、これはどうなるのかは分からない。

日本としては、この20年に及ぶ日銀のデフレ政策によって、おおいに支那の経済成長を助けたわけだ。
日本のデフレ政策なくして、この20年の支那の大幅な経済成長はあり得なかった。

アメリカは核武装した国と同盟して、自分の国が核攻撃されるリスクをさけたいが、この先10−20年と長期的にはアジアを守りきる経済力もない。ここは、日本も日米同盟を維持しながら、核兵器とその周辺技術を早急に持つしかない。
あまり猶予はない。今から初めて間に合うかどうかという状況だ。
ただ日本には支那の経済発展をスローダウンさせるだけの金融政策のオプションがあるかもしれない。

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2014年03月24日

History decides

最近思うに、日本で右とか左とかを決めるのはその人の歴史認識、つまりは近現代の日本の歴史をどう理解しているかで、ほぼ100%決まるということだ。左翼は、ほぼ確実にGHQ史観を持っており、そこから屈折した非論理的な考えを持つようになる。
一方、右派はほぼ確実にGHQ史観に否定的な理解を持っている。こちらの考えは屈折してなく単純明快だ。

かように日本の歴史観は、決定的な意味を持っている。
私は、GHQ史観を完全否定するから、間違いなく右派だ。とはいえ、自分もGHQ史観が正しいのだろうと思っていた期間は意外と長かった。
GHQ史観を強く持っている人間は、一昔前では読書層、いわゆる高学歴層だった。
ここに、罠があり、一昔前はほとんどの本は左派、極左の連中が書いていたから、読めば読むほど、GHQ史観に汚染されるというコースを辿ったのである。
これが崩れてきたのは、ソ連の崩壊が大きな契機となった。実際にそれを境にいろいろと事実が明らかになってきたこともある。

北朝鮮の日本人拉致にしても、実際に小泉さんが北朝鮮へ行って数人の拉致被害者を連れ帰るまでは、その事実そのものを否定する連中が多かった。歴史的な事実を証明するのは容易ではない。
その事実が明らかにならない限りにおいては、いくら状況的な整合性があっても、否定が可能だからである。
多くの人は、実際に拉致被害者を連れ帰って、初めて真実に目覚めたのだ。

つまり、思想だなんだと言う前に、歴史認識が大事だ。
これはリバタリアニズムでも同様。
もしGHQ史観を信じているのなら、いくら自称リバタリアンで,おいらは右でも左でもありませんといっても、間違いなく左だ。
左のリバタリアンというのは、語義矛盾なので、そいつはリバタリアンではないと分かる。
右のリバタリアンは、矛盾がないので、リバタリアンなのかもしれない。w

科学において、実験事実が決定的で、いかなる理論も実験事実に矛盾していれば不採用になるのと同様に、思想においても、歴史的事実、経験的事実が決定的だ。逆にもしここを捏造すればいかなる間違った思想、理論でも成立する。
マルクスも著書において歴史的な事実を故意に大きくねじ曲げていることが、明らかになっている。そして嘘の事実から間違った理論を作ったのである。今の中共、朝鮮がやっていることと同じである。

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2014年03月19日

Total War

日下氏と伊藤貫氏の対談本で、戦争がTotal War(総力戦)になったのは、アメリカが介入しだした第一次世界大戦くらいからとあった。それまでのヨーロッパのウェストファリア条約以来の伝統であった紛争の解決手段としての武力行使が、30年戦争以前のものに退行することになった。
Total war,総力戦とは、相手を完膚なきまでに叩き潰すという意味である。
ウェストファリア条約以来のヨーロッパの戦争とは
・奴隷を使わない戦争で、非戦闘員、民間人を攻撃対象としない
・条件付き降伏
・平和の回復
が条件となっており、勝った側が相手の文化や宗教や国体までを破壊してはいけないという了解があったそうだ。
これが国際法のベースとなる了解になる。

総力戦とは、この全てが逆。
基本的なポリシーは、敵の地上からの殲滅、抹殺であり、それは現実的に難しいが、それに限りなく近いことをする。
アメリカの戦争は常にこの意味で総力戦である。もちろん、アメリカは国際法を一切無視するし、最初から合理的な戦争目的も持っていない。
これはGKチェスタトンの弟のチェスタトンが、アメリカを中世を経ないヨーロッパと見たのはこの意味だ。
インディアンの虐殺しかり、南北戦争しかり、第一次世界大戦、日本、ベトナム、イラク、どれも総力戦だ。
アメリカはまず相手を,demonizeし、つぎにdehumanizeし、人間ではないとする。インディアンも日本人もそうやって虐殺された。

戦争の作法を成金新興国のアメリカが完膚なきまでにぶちこわしたのが20世紀の戦争だった。
第一次世界大戦でドイツに対する徹底的な破壊と不可能な賠償請求、ワイマール憲法の強制もそうで、それがヒットラーを台頭させた。

アメリカは、昔から親中で反日の傾向が強かったが、アメリカと中共は似た性質をもつのだろう。
アメリカの覇権がシュリンクした後には、中共にアメリカのTotal Warが引き継がれる恐れが高い。

posted by libertarian at 15:36| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月17日

Abolish the constitution of GHQ

憲法改正論議はいろいろあるが、憲法廃止論はあまりきかない。
伊藤貫氏が日下氏との対談でこれを言っていた。
これは、憲法をいじくるのではなく、今のGHQの落書きである憲法をなくして廃止してしまうというもの。
つまり、新しい憲法は無理して作らない。イギリス式の憲法なしのコモンローにする。
日本はおそらくコモンローに適した国であろう。
それに日本は憲法はあっても、制限憲法としての仕組みはなく、飾りみたいなものだ。
シンプルでベストな方法かもしれない。

posted by libertarian at 19:05| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月16日

Fiscal policy

4月から消費税が上がるが、せっかく金融緩和によって景気上昇のきざしがあったのに、失速して墜落しそうだ。由々しき問題だ。消費税を上げる分を打ち消すくらいに金融緩和をすればいいが、やはり財務省出身の黒田氏の限界か、岩田副総裁の発言力が弱いのかしらないが、その気配はあまりない。
財政政策とは、いわゆる公共事業のことだが、これは乗数効果もなく全く意味がない。一部の人間だけが潤って全体的にはマイナスの効果しかないのだ。

唯一の効果的な財政政策は、減税という財政政策だ。
減税は、役人が金をバラまくのと異なり、個人個人が使用主体となるから一番効率的かつ効果的なのだ。
だから、金融緩和と、財政政策としての減税を行い、同時に既得権益の廃止として規制緩和をしなければいけないわけだが、とりあえず財政政策を安倍内閣は間違えた。

日本も経済を間違い続けると、安全保障上、かなり危うい状態になる。今既になっているわけだが、私の印象ではあまり時間的な猶予がない。軍事というのは、長期的なものだから、独裁体制の方が有利だ。中国は公称GDP2%の軍事費と言っているが、実際は4%以上あると見られているようだ。
除染などという全く意味のないことに既に数兆円の金が無駄に投じられてきているが、軍事は財政政策の対象としては適切だろう。
軍事、核保有の問題をタブーとしてはいけない。

posted by libertarian at 00:30| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月08日

Confederate states of America

南北戦争(civil war)の時に、南部は連邦から離脱してアメリカ連合国を作った。リンカーンは、州には連邦からの離脱の権利がないとして、連合国を認めなかった。
これはリンカーンのポジショントークである。

しかし連邦からの離脱が憲法上認められているのかと思いきや、こうなると前例上、連邦からの離脱は認められないということか。
革命の権利が認められているはずなのに、離脱の権利が認めれないというのはおかしなものだ。
ここら辺の憲法解釈が、南北戦争のキーポイントなのだろう。

posted by libertarian at 00:26| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月01日

Clony capitalism , Cloney bureaucracy

ルイジ ジンガレス(Luigi Zingales)の「人々のための資本主義」を読む。ジンガレスについては、2008年のリーマンショックの時に少し書いた。
http://libertarian.seesaa.net/article/107009013.html

ジンガレスが、企業とは小さな社会主義、小さな指揮統制経済だと指摘しているが、これは全く同感だ。
企業とは市場の海に浮かんだ社会主義の島なのである。
企業が効率的なのは、競争的な環境にさらされているときだけであり、市場支配力や法的特権を持てば、社会主義になっていく。
典型的には電力会社がそうだし、参入障壁の高い産業はそうだ。

大事なのは競争的な環境にさらされていて、かつ失敗すれば企業が退場するという条件である。
そういったクリーンアップにより、間違った社会主義に流される企業はいなくなることが必要だ。
行動の自由、しいては間違える自由はあれども、結果責任はとらねばならないわけである。

政府は究極の独占体であるから、危険かつ極めて非効率となるのはいうまでもない。
さらにジンガレスが指摘するのは、クローニイズム(縁故主義)だ。

#日本の銀行などは、ネポティズムにならないよう、何等親の人間は採用を制限するみたいなことをしているようだが、メディアなんかは全くなかった。(ー>今は知らん)。私の大学の友人の親父は有名な朝日の役員(編集委員)だったが、どうどうと朝日に入社していたものだ。

とくにクローニー化しているのは、政治家と役人の社会だ。
別に誰が誰と結婚するのも自由であり、禁止することではないが、これにより政治家、官僚の世界が相当程度にクローニー社会になっているのは事実である。役人が組織を家と見て、国、社会全体の利益を顧みず省益のために動くのは、役人社会がクローニー化しているからでもあるわけだ。

社会というのは、時間が経つとどんどんクローニー化していき、同時に社会主義的になっていく。
実力主義、成果主義というのは、小さな会社でないとあまり意味がない。市場支配力の強いような大きな会社や政府組織では、個人の果たす比率が小さくなる分、実力主義、成果主義による評価が難しくなるという面もある。

今のアメリカ社会も、クローニー社会になっていて、それにより、社会主義的になっている。
#これが、顕著に現れたのはリーマンショックの時のAIGという保険会社への公的資金注入だった。

アメリカ連邦政府の官僚システムは猟官システムをとっている部分もあり、このようなクローニー化に対するリセットスイッチがついているともいえるが、日本の官僚役人制度には、そのようなリセットスイッチがない。

つまり、ジンガレスがリーマンショックの際に書いたように
The time has come to save capitalism from (cloney) capitalist
なのである。

しかし、アメリカ連邦政府ももっと小さくならないといけない。
アメリカの州には、連邦から離脱する権利があるから、意外とそのうちそういう動きがあるかもしれない。
例えばカリフォルニア州なんかは独立しても問題ないだろう。
posted by libertarian at 12:23| 東京 ☔| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月18日

Do not aid, Do trade

欧米によるここ数十年のアフリカ援助、途上国援助の根底には、いわゆる設計主義、社会工学的な思想があり、その実験場であったとみるべきだろう。そして、それはほぼ全て失敗で、なにもしない方がよかったのである。欧米人にとっては実験が大事で、自己満足が大事だから、そういう失敗には鈍感なのである。援助する人間にも相変わらずの人種差別意識が隠れている。

そういう反省が行われはじめたのは、ピーターバウアーが先駆けで、イースタリーなどが後に続いている。
前にも書いたが、人道的な見地で必要となるのは緊急的な救助の類である。援助という形で、長期間、他国にコミットし、俺たちの言うとおり賢くやれば発展できるというのは、まさに傲慢なのである。

経済発展のキーワードとして、今、はやっているのは、民主主義、コモンローとイギリス型統治制度(ファーガソン)、個人の自由、法の支配、私的所有権、財産権の確立、契約上の権利の確立、オンブズマン型政府、適正な規模の政府といったものだ。それらは、必要条件と考えられているが、十分条件といえるものはないだろう。

経済学というのは、不十分であまり正確でもない統計データをつかって、なんらかの相関を見るというのが基本的な手法もしくは唯一の手法と思うのだが、こういう分析から得られる結論というのは極めて限定的である。
必要条件がいくつか抽出できたとしよう。しかし、それには、もしかしたら料理や科学の実験のように、特定の順序で、特定の条件のもとで行わないとうまくいかないものなのかもしれない。そういう条件を統計的な手法で解明することはできない。

ハイエクなどは、設計主義に対して自生的秩序を主張したわけだが、これは非常に現実的なスタンスである。
自生的秩序には、時間的な順序関係のようなものもイメージできるわけだ。
経済発展の基礎条件なるもの、私的所有権、法の支配、、といったものを適当に組み合わせて、設計主義的に、他国に経済発展が可能な経済条件を作り出そうとするのは、自称エリート連中の思い上がりであり、結果をみれば、彼らは謙虚に謝罪しなければならないはずなのだ。

むしろ、今、アフリカを発展させているのは、商魂たくましい東洋の中国経済、華僑であり、彼らが自腹を切ってリスクをとりながら、アフリカと対等に交易をすることで、アフリカは経済的に浮上してきているのである。





posted by libertarian at 11:40| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月16日

r U libertarian?

私にとっては、どこかの誰かが自分をリバタリアンと自称するか否かはどうでもいいことだ。彼がリバタリアンであるか否かは、私が判断することだからだ。彼が判断することでも、他人が判断することでもない。
だから、昔の左翼のように、左翼はみな同志なりというようなナイーブな判断はしない。
しかし、日本にリバタリアンはほんとにいないと思う。0と言っても過言ではない。
日本にはサイバーリバタリアンも存在しないし、アナルコキャピタリストもいないと思っている。
このように共同体を求めようとする馬鹿な連中を排除しなければ、思想というのはあり得ないものなのだ。IQが高かろうと低かろうと馬鹿は馬鹿であるというのは、論理的に正しい。
私は、自分の認めない連中は批判することもなく、ただ無視をしつづけるしかない。
馬鹿にはなにを言っても理解できないわけだ。
posted by libertarian at 22:43| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Why nations fail

アセモグルとロビンソンの「国家はなぜ衰退するのか」を半分、上巻だけ読んだ。この本は、経済的発展の必要条件として、私的所有権、契約の自由といった社会制度、つまりはそれらを可能にする法の支配が決定的だということを歴史的にいろんな例を挙げて論じている。

従来、経済的格差を説明する仮説として、地理説(モンテスキュー)や、文化説(マックスウェーバー)、さらに無知説があるが、これらを否定する。この本の結論というか主張は、経済活動には個人のインセンティブが本質であり、インセンティブを喚起する、またはインセンティブを否定しないものとして、私的所有権、財産権が決定的に重要であることは、ハイエクやいろんなリバタリアンが言っていることとほぼ同じ。アインランドとも同じだ。右矢印1The only path to tomorrowを読めば分かる。

ややスタンスが異なってくるのは、この私的所有権を保障するのに、「法の支配」という概念を持ってくるかどうかという点だろう。
スペインがとったような収奪的な制度は、絶対主義(これは絶対的専制君主主義という意味か?)、共産主義、奴隷制、農奴制といろいろ形はあるが、持続可能性がないという。インセンティブを否定する制度に経済的発展があるはずもなく、これは当然か。

「法の支配」を強調するのは、ハイエクのクラシカルリベラルの立場であり、アセモグルもその点は、ハイエクの後継者的な立場かもしれない。つまり、ある程度の中央集権が必要と考えるわけだ。この点は無政府主義が好きなリバタリアンとは異なる点であろう。

アセモグルは経済学者で、ロビンソンは政治学者らしいが、この本は8−9割は歴史書という感じである。
いろんな事例が書かれていて興味深いが、結論は全て同じで、私的所有権、法の支配の重要性を確認している。
歴史書として読まなければ、結構くどい感じがある。

こういった結論は今はそれほど新奇なものではなく、むしろ一般了解事項なのではないかと思う。
例えば、マットリドレーの「繁栄」も、似たような趣旨であるし、ウィリアム バーンスタインの著作、「華麗なる交易」「豊かさの誕生」といった本もそうである。

歴史書としての面白さという点では、私はバーンスタインの本がいいと思う。


あと、この本でソマリアが失敗として上げられている訳だが、ソマリアは無政府状態が長く続き、アナーキーな状態にあるが、それなりの秩序がある状態のようだ。
このソマリアの行方を無政府リバタリアンは、興味深く見守っているようだ。

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2014年02月15日

Development economics

このところ、開発経済からみの本を何冊か読んだ。「善意で貧困はなくせるのか」とか、ウィリアム イースタリーの「傲慢な援助」とかである。イースタリーの本は、「White man's burden」の翻訳だ。

前から不思議なのは、なんで今の欧米人はそんなにアフリカやらの貧困やら病気に熱心なのかという点だ。
思うに、やはり、あちらの心ある人にとっては、自分たちの国の過去の行いに罪の意識があるからかもしれない。少なくともそういう人も一定の割合でいて、その贖罪行為として西側の援助というのは、熱心に行われてきたのだろう。
しかし、その援助なるものも有害無益で、結果的に2重3重に苦しめている結果となっている。
援助なるものも、その根底には、デモクラタイゼーションと同じ社会工学的な発想がある。

中には贖罪意識があるような良心的な人もいるかもしれないが、その一方で援助がおいしいビジネスとなっていることも見過ごせない。
国連なんかも相当に腐敗していて、そういう義援金にたかっている組織だとずっと前から指摘されてきた。こういうパブリックな組織というのは役所と同じ官僚組織で、国連の場合、国内の役所以上に監視がされてないぶん、いくらでも腐敗するのだ。

ほんとにアフリカの貧困をどうにかしてやりたいのなら、アフリカの人間の移民をアメリカやヨーロッパが全面的に受け入れるまでしなくても、アメリカが完全な自由貿易体制をとれば、その方が援助なんかするよりもずっと効果的であろう。だが、それはやはりしないわけである。

またアフリカと一言でいっても広大な大陸であり沢山の国がある。そして多くのアフリカ諸国はこの10年くらいで驚くほど経済発展を遂げてきている。内戦だ難民だと言われながらも、アフリカが全体としてみれば日本など比較にならないほどに、経済発展している事実に気づいている人はまだ少ない。アフリカを後進国ばかりで援助対象としてしかみてないのは、とんだ間違いなのである。
posted by libertarian at 19:39| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月19日

Separation of education and State

Separation of education and State

We advocate the complete separation of education and State. Government schools lead to the indoctrination of children and interfere with the free choice of individuals. Government ownership, operation, regulation, and subsidy of schools and colleges should be ended. We call for the repeal of the guarantees of tax-funded, government-provided education, which are found in most state constitutions.Source: National Platform of the Libertarian Party , Jul 2, 2000

End compulsory busing & compulsory education

We condemn compulsory education laws, which spawn prison-like schools with many of the problems associated with prisons, and we call for an immediate repeal of such laws.

Until government involvement in education is ended, we support elimination, within the governmental school system, of forced busing and corporal punishment. We further support immediate reduction of tax support for schools, and removal of the burden of school taxes from those not responsible for the education of children.

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これはアメリカのリバタリアンパーティーの教育に対する公約だが、実に的を射ている。

私はこれは完全に同意する。

特に教育と政府を完全に分離することが大事。

文部科学省などまっさきに廃止すべき諸悪の根源なのである。

posted by libertarian at 17:58| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月18日

Rights and Obligation

権利と義務は対概念ではない。権利は権利であり、別に義務を伴わない。自由であるという自然権に、他者に対する義務はない。義務は契約概念からでてくるものだ。権利は契約概念ではない。特に自然権のようなものは。
契約において義務は双方に発生する。例えば売買契約であれば、一方は相手に商品を渡し、もう一方はお金を払う義務があるといったものだ。
このようなことを書くのは、権利と義務が対概念であり、権利と同時に義務が発生すると思っている連中が多いからである。全くお話しにならない。
イリイチの話にあるように、権利を義務にするという点に詐欺がある。今の学校システムも権利を義務に転化した詐欺の結果なのだ。
posted by libertarian at 18:06| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

脱病院化社会:Limits to Medicine

イリイチの「脱病院化社会」によると、結核死亡率は、コッホの結核菌の分離発見によって劇的に下がったわけではなく、その以前に結核菌の威力は頂点に達し、その後、勢いが自然と、また急速に弱まっていったそうだ。データによると、ニューヨークの結核死亡率は、1812年には700人/1万人もあった。コッホが結核菌を発見した1882年には既に
それが370人に下がっており、結核療養所が設立された1910年には既に180人にまで下がっていた。そして抗生物質の使用が開始される前に、48人にまで激減していた。抗生物質の発明がこのような結核の劇的な減少をさせたというのは事実と異なるらしい。その前に激減していたのだ。これは結核に限らず、コレラ、赤痢、チフスでも同様の傾向を辿っていた。
この研究はドラッカーの話とも整合している。(このデータはイリイチではなく別の研究者によるもの)
抗生物質の劇的な威力というのは、どうも怪しいわけである。(もちろん、抗生物質の効力を否定している訳ではない。これらの自然減まで抗生物質のお陰とされているのがおかしいという話だ。)

イリイチによると
「市民の自由は他人に私の願望を達成させようと強制するものではない。・・話す自由、学ぶ自由、癒す自由を絶滅する一つの確実な方法は、市民の権利を市民の義務に変えることであり、それを制限することである。自らを教える自由は教育過剰の社会では縮小されるが、それはちょうど健康ケアの自由が過剰の薬物使用によって窒息させられるのと同様である。経済のどの部門も、より高価な平等の水準のために自由が圧殺されるほどにまで拡大されるのである。」

原注には、アリエスの次の引用がある
「中世期末において、またルネサンスにおいても、人は自分自身の死に関わりをもつことを主張した。人は自らの死の主人であるかぎりにおいて、自らの人生の主人でありうるのみである。人の死は彼に属し、彼のみに属すのである。17世紀以降、彼は自らの死に対する主権と同様、自らの生に対する主権も放棄してしまった。」

イリイチのいわゆる医療ファシズムに対する問題意識はリバタリアニズムとも整合的と思う。イリイチはカトリック系の哲学がベースにあるようで、リバタリアニズムを知らなかったのだろうが、問題意識は共通している。
この本は1976年に書かれたものだが、この中で書かれた医療システムはその後も急速に進んできた。

#主体性という言葉が多く使われているが、この元の英語はindependenceであろう。独立性、個人性という意味である。
これは個人の自由といってもいい。主体性などという訳のわからない翻訳後は使うべきでない。
posted by libertarian at 16:14| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

脱学校化社会:Deschooling Society

イヴァン イリイチの「脱学校の社会」という本がある。大昔に読んだが、また読みたくなったのでアマゾンで注文した。まだ来ていない。
このアマゾンのレビューは、なかなか良くかけているのがある。
この本はフリースクール論といった瑣末な本ではなく、「社会の学校化」を根本的に批判した本である。
イリイチはリバタリアンというわけではないだろうが、この問題意識はリバタリアン的ともいえる。

今の社会は、まだまだ強制の多い社会だと思う。
学校という公的な強制システムを通って、会社や役所という強制システムで奉公するという人生を殆どの人は送るわけだ。
自分の意思で動いていると思っていても、実際は強制的な環境に学校で訓化されてしまっている。公的な価値や権威に対する服従を教育で叩きこまれてしまえば、そんな人間はどうとでも扱えるようになる寸法だ。どうでもいい歴史や生物や化学、英語といった雑多な知識を無理やり覚えさせるだけでも、そういう人間を容易に造ることができる。

近代社会は学校、教育システムによって奴隷を生産する仕組みが、がっちりと出来上がっているのである。こういえば陳腐だが、それを実感してない人間は多い。
自由な社会には、学校という奴隷再生産システムを廃止することが第一になすべきだ。

教育システムに関しては、先進国は大体似たようなものに思われる。
学ぶことは多くの人にとって大事だし、ニーズもあるだろうが、他人にそれを強制されるのは全く別だ。
学ぶことは、物やサービスを買うのと同様、個人の欲求、ニーズからでなければいけない。
欲しくもないものを、多大な費用と時間を強制されて押し売りするから、学校というのは根本的に反社会的で犯罪的な末端行政組織なのである。
今の時代でも、どの国でも国家主義、全体主義は学校によって叩きこまれている。

今はインターネットの時代であるから、例えば物理を学ぼうと思えば、MITのLewin教授の熱血授業を聞ける時代である。教育をサービス商品として捉えていけば、教育産業には競争が導入され、芸能界と同じような仕組みになっていくだろう。

よいスター講師に人気が集中していく。もちろん、それなりの多様性、幅がある上での多様化であるから、音楽同様にそれなりの数の専門家が生まれるだろうが、そこで生き残るのは大変という状況になる。それがサービス産業のあるべき姿である。

学校をサービス産業として離陸させる上で障壁となっているのが、公立学校の存在だ。
民主党の時代に高校教育の無料化などと言っていたが、あれはどうなっているのか?
かくして社会はますます社会主義化していく。

ジェファーソンが言ったように、政府権力を絶えざる監視をする、権力と対峙する気概のある個人からなる社会がよい社会である。
権威に飲み込まれる人間は奴隷であり、奴隷を生産する学校システムは、自由な社会の敵である。

posted by libertarian at 10:55| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月12日

Ron Paul

ロン ポールの本「他人の金で生きているアメリカ人に告ぐ」を借りて読んだ。ロンポールの言っていることは大体共感できるが、ミーゼスを信奉しているので、残念ながら経済の部分は駄目だ。
基本的な、名目金利、実質金利の区別もついてないのだ。
金本位制はインフレになりにくいというのは正しいが、デフレになりやすいという致命的な問題がある。
その点、デフレを賛美するミーゼスの主張は根本的な間違いでお話にならない。
前にも書いたが、ハイエクの経済学もミーゼスほどではないが駄目だ。
ロンポールとオーストリアンーリバタリアンは、経済の主張を正さなければ今の政治的な限界を超えられない。

私の印象では、リバタリアニズムはミルトン フリードマンの言論を頂点としてそこからまだ一歩も進んでいないように感じる。

posted by libertarian at 18:20| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月10日

The Ultimate resource 2

ジュリアン サイモンのThe Ultimate resource2 がWebで公開されている。http://www.juliansimon.com/writings/Ultimate_Resource/

Matt Ridleyは、Julian Simon awardを受賞したらしい。
テクノロジーの進歩は想像もできないもので、不可能を可能にしてきた。しかし原発への楽観主義はいただけない。
国家主導のテクノロジーのようなものには懐疑的であるのが正しいと思う。
技術そのものに色はないが、扱われ方には色がある。

今は発電設備が昔と違って小さくて低コストになってきている。
昔はでかくて高コストだったから、大型コンピューターのように発電機能を中央に集中させ分配させるシステムが作られた。
発電も、PCのように低コスト、小型化の方向の行き着く先は家庭での自給発電だ。コンピューターは規制がなく、市場が自由だったからこのような発展がおきた。
一方、発電に関しては規制が既得権となり、自由化も革新もなかった。
しかし、発電技術の進歩も昔では想像もできず不可能だったことが可能になってきた良い例である。
posted by libertarian at 05:48| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする