2014年01月18日

脱病院化社会:Limits to Medicine

イリイチの「脱病院化社会」によると、結核死亡率は、コッホの結核菌の分離発見によって劇的に下がったわけではなく、その以前に結核菌の威力は頂点に達し、その後、勢いが自然と、また急速に弱まっていったそうだ。データによると、ニューヨークの結核死亡率は、1812年には700人/1万人もあった。コッホが結核菌を発見した1882年には既に
それが370人に下がっており、結核療養所が設立された1910年には既に180人にまで下がっていた。そして抗生物質の使用が開始される前に、48人にまで激減していた。抗生物質の発明がこのような結核の劇的な減少をさせたというのは事実と異なるらしい。その前に激減していたのだ。これは結核に限らず、コレラ、赤痢、チフスでも同様の傾向を辿っていた。
この研究はドラッカーの話とも整合している。(このデータはイリイチではなく別の研究者によるもの)
抗生物質の劇的な威力というのは、どうも怪しいわけである。(もちろん、抗生物質の効力を否定している訳ではない。これらの自然減まで抗生物質のお陰とされているのがおかしいという話だ。)

イリイチによると
「市民の自由は他人に私の願望を達成させようと強制するものではない。・・話す自由、学ぶ自由、癒す自由を絶滅する一つの確実な方法は、市民の権利を市民の義務に変えることであり、それを制限することである。自らを教える自由は教育過剰の社会では縮小されるが、それはちょうど健康ケアの自由が過剰の薬物使用によって窒息させられるのと同様である。経済のどの部門も、より高価な平等の水準のために自由が圧殺されるほどにまで拡大されるのである。」

原注には、アリエスの次の引用がある
「中世期末において、またルネサンスにおいても、人は自分自身の死に関わりをもつことを主張した。人は自らの死の主人であるかぎりにおいて、自らの人生の主人でありうるのみである。人の死は彼に属し、彼のみに属すのである。17世紀以降、彼は自らの死に対する主権と同様、自らの生に対する主権も放棄してしまった。」

イリイチのいわゆる医療ファシズムに対する問題意識はリバタリアニズムとも整合的と思う。イリイチはカトリック系の哲学がベースにあるようで、リバタリアニズムを知らなかったのだろうが、問題意識は共通している。
この本は1976年に書かれたものだが、この中で書かれた医療システムはその後も急速に進んできた。

#主体性という言葉が多く使われているが、この元の英語はindependenceであろう。独立性、個人性という意味である。
これは個人の自由といってもいい。主体性などという訳のわからない翻訳後は使うべきでない。
posted by libertarian at 16:14| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

脱学校化社会:Deschooling Society

イヴァン イリイチの「脱学校の社会」という本がある。大昔に読んだが、また読みたくなったのでアマゾンで注文した。まだ来ていない。
このアマゾンのレビューは、なかなか良くかけているのがある。
この本はフリースクール論といった瑣末な本ではなく、「社会の学校化」を根本的に批判した本である。
イリイチはリバタリアンというわけではないだろうが、この問題意識はリバタリアン的ともいえる。

今の社会は、まだまだ強制の多い社会だと思う。
学校という公的な強制システムを通って、会社や役所という強制システムで奉公するという人生を殆どの人は送るわけだ。
自分の意思で動いていると思っていても、実際は強制的な環境に学校で訓化されてしまっている。公的な価値や権威に対する服従を教育で叩きこまれてしまえば、そんな人間はどうとでも扱えるようになる寸法だ。どうでもいい歴史や生物や化学、英語といった雑多な知識を無理やり覚えさせるだけでも、そういう人間を容易に造ることができる。

近代社会は学校、教育システムによって奴隷を生産する仕組みが、がっちりと出来上がっているのである。こういえば陳腐だが、それを実感してない人間は多い。
自由な社会には、学校という奴隷再生産システムを廃止することが第一になすべきだ。

教育システムに関しては、先進国は大体似たようなものに思われる。
学ぶことは多くの人にとって大事だし、ニーズもあるだろうが、他人にそれを強制されるのは全く別だ。
学ぶことは、物やサービスを買うのと同様、個人の欲求、ニーズからでなければいけない。
欲しくもないものを、多大な費用と時間を強制されて押し売りするから、学校というのは根本的に反社会的で犯罪的な末端行政組織なのである。
今の時代でも、どの国でも国家主義、全体主義は学校によって叩きこまれている。

今はインターネットの時代であるから、例えば物理を学ぼうと思えば、MITのLewin教授の熱血授業を聞ける時代である。教育をサービス商品として捉えていけば、教育産業には競争が導入され、芸能界と同じような仕組みになっていくだろう。

よいスター講師に人気が集中していく。もちろん、それなりの多様性、幅がある上での多様化であるから、音楽同様にそれなりの数の専門家が生まれるだろうが、そこで生き残るのは大変という状況になる。それがサービス産業のあるべき姿である。

学校をサービス産業として離陸させる上で障壁となっているのが、公立学校の存在だ。
民主党の時代に高校教育の無料化などと言っていたが、あれはどうなっているのか?
かくして社会はますます社会主義化していく。

ジェファーソンが言ったように、政府権力を絶えざる監視をする、権力と対峙する気概のある個人からなる社会がよい社会である。
権威に飲み込まれる人間は奴隷であり、奴隷を生産する学校システムは、自由な社会の敵である。

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2014年01月12日

Ron Paul

ロン ポールの本「他人の金で生きているアメリカ人に告ぐ」を借りて読んだ。ロンポールの言っていることは大体共感できるが、ミーゼスを信奉しているので、残念ながら経済の部分は駄目だ。
基本的な、名目金利、実質金利の区別もついてないのだ。
金本位制はインフレになりにくいというのは正しいが、デフレになりやすいという致命的な問題がある。
その点、デフレを賛美するミーゼスの主張は根本的な間違いでお話にならない。
前にも書いたが、ハイエクの経済学もミーゼスほどではないが駄目だ。
ロンポールとオーストリアンーリバタリアンは、経済の主張を正さなければ今の政治的な限界を超えられない。

私の印象では、リバタリアニズムはミルトン フリードマンの言論を頂点としてそこからまだ一歩も進んでいないように感じる。

posted by libertarian at 18:20| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月10日

The Ultimate resource 2

ジュリアン サイモンのThe Ultimate resource2 がWebで公開されている。http://www.juliansimon.com/writings/Ultimate_Resource/

Matt Ridleyは、Julian Simon awardを受賞したらしい。
テクノロジーの進歩は想像もできないもので、不可能を可能にしてきた。しかし原発への楽観主義はいただけない。
国家主導のテクノロジーのようなものには懐疑的であるのが正しいと思う。
技術そのものに色はないが、扱われ方には色がある。

今は発電設備が昔と違って小さくて低コストになってきている。
昔はでかくて高コストだったから、大型コンピューターのように発電機能を中央に集中させ分配させるシステムが作られた。
発電も、PCのように低コスト、小型化の方向の行き着く先は家庭での自給発電だ。コンピューターは規制がなく、市場が自由だったからこのような発展がおきた。
一方、発電に関しては規制が既得権となり、自由化も革新もなかった。
しかし、発電技術の進歩も昔では想像もできず不可能だったことが可能になってきた良い例である。
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2014年01月02日

Legalizing Hemp

ウルグアイ:大麻合法化へ、生産から消費までは世界初

毎日新聞 2013年12月13日 20時14分(最終更新 12月13日 20時27分)

 【サンパウロ朴鐘珠】南米ウルグアイの上院は10日、大麻(マリフアナ)の栽培、販売、消費を合法化する法案を賛成16、反対13で可決した。ムヒカ大統領が署名すれば、120日以内に施行される。大麻の栽培から消費に至る行程が全て合法化されるのは世界でも同国が初めて。政府与党は合法化によって国が大麻の栽培、販売を管理することで、麻薬密売組織の弱体化を図るが、一般市民の手に入りやすくなるのは確実で、実効性は未知数だ。

 新法は、政府機関に登録した18歳以上の国民に対し、毎月40グラムを上限に薬局での大麻の購入を認める。栽培は各家庭で年間に大麻草6本、もしくは480グラムを上限に認める。政府は法の施行までに大麻の価格を定め、大麻が未成年者や外国人観光客などに転売されることを防ぐための方策を探る。

 麻薬密輸犯罪組織が拡大し、武力掃討一辺倒の規制に限界がみえてきた中南米では、メキシコやグアテマラでも大麻合法化が論議されている。

米コロラド州:大麻販売を解禁 全米で初

毎日新聞 2014年01月02日 16時04分(最終更新 01月02日 16時49分)

 大麻の規制を2012年11月の住民投票で大幅に緩和し、酒やたばこと同様に嗜好(しこう)品として合法化することが決まった米西部コロラド州で1日、全米で初めて大麻の販売が解禁された。

 AP通信によると、デンバーなど州内の少なくとも8都市で計24の販売店が開店。解禁を歓迎する愛好家たちが開店前から長い列をつくった。

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2013年11月14日

Cosigner regime

今までも何度か日本の連帯保証人制度の問題について書いてきたが、漸くこの禁止を含む民法改正が120年ぶりに行われるようだ。この民法の規定は酷いもので日本社会をどれだけ歪めてきたか計り知れない。
まず、連帯保証人を要求すること自体が今の普通の先進国では違法である。あり得ないことなのだ。

この連帯保証制度によって、実質、日本の銀行はリスクがほとんど0の状態であったから、本来の与信管理能力が0のままだったのだ。
リスクがほとんどないという点で、日本の金貸し業界は、サラ金も大手銀行も同じような存在だったのである。
実際に、やっていることは大手銀行の連帯保証を根拠とする取り立てはヤクザなみであったし、実際、ヤクザに取り立てを依頼していた過去がある。

これによって金利があがるとか心配している向きもあるだろうが、実際はそんなに変わらないはずだ。今まではリスクの高い借り手も低い借り手にも、調査をろくにせず貸していたから一様の金利だったが、今後はリスクに基づいて金を貸すことになる。
その結果、リスクが高くて借りれない人もでてくるだろうが、長い目で見れば、リスクが高すぎる業者は金を借りない方がいい場合が多いだろう。そういうマイナス分が減ることになる。

連帯保証制度は、貸し手側のリスクを法的にほぼ0にする制度であったから、どうしようもない前近代的な法律規制だったわけで、これがなくなるのは、大進歩であることは間違いない。この、ありえないほどに愚かな法律を120年も維持していきた日本がありえないほどに愚かだっただけだ。こういうほんの数行の条文が社会を長期に渡ってとてつもなく歪めてしまうのだ。
posted by libertarian at 03:24| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月29日

Nobody knows


”アメリカ合衆国の政府は、政府の作り方を知る者も、国の治め方を知る者もいないのだという前提のもとに作り出されたものです。
その結果、治め方を知らなくても治められるようなシステムが発明されました。それはいまでも我が国で実行されており、新しい考えを育ててはそれを試し、だめなら捨てることができるようなシステムです。
合衆国憲法の起草者たちは、疑いというものの価値をちゃんと承知していました。彼らの時代にはすでに、不確かさがあってこそ生まれる可能性と、その可能性にたいして心を開くことの価値がわかるだけ、科学が発達していたのです。”

リチャード ファインマン 「価値の不確かさ」

posted by libertarian at 11:51| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月10日

Independencies

自由を問題にする場合、独立性を考えたほうがいい場合がある。このところ思うのは、次の独立性は、人生において獲得するのは無理ではない。

教育からの独立
エネルギーの独立
医療からの独立

これらが、国家に完全に押さえられているのが現代社会、現代人というものだ。
考えてみれば、昔の人はこの3つは、かなり独立していた。逆に言えば、これらの巨大な利権が政府にあるから、今の政府は巨大になっている。
医療は保険といいつつ完全な税金であり、一般予算70−80兆円にたいし40兆円もある。

特に今の医療は、”症状なき患者”を大量に生み出すようになっている。
そして、治癒のあてのない「治療」を金を湯水のように投入しつつ、なにもしなければ起こらない強烈な苦痛と不安と経済負担を人間に与えるようにできている。やれ、高血圧だ、コレステロールが高いの、血糖値が高いのと、数字を操作して"患者"を作り出しているのだ。
高血圧に関しては、2000年に基準を大きく下げて、160/95->140/90mmHgとし、それ以来、高血圧患者は激増し、降血圧剤は10倍くらい売り上げを伸ばしているようだ。しかしその便益は0どころかマイナスだ。
こういったいかさまが、医学の名のもとにどうどうと行われている。
定期検診などに行かないだけでも、QOLを高め、寿命を延ばす効果は統計的にあるだろう。
posted by libertarian at 01:25| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月06日

administrasion,Energy, Medical , legal circle, and massgomi

日本の腐った業界というのは、行政、電気、医療、検察などの司法、マスゴミと、いわゆるエスタブリッシュメントな既得権業界だ。「権力は絶対に腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」というアクトン卿の言葉は真実である。
それらは、合法的に腐敗しているから非常に悪質である。
医療関係の腐敗ぶりも驚くべきものだ。政府規制が入った業界は絶対的に腐敗する。
もちろん、これらの業界にいる個々人にはエラい人もいる。だが、全体としては腐りきっている。若いうちはエラくてもそのうち、その腐敗に飲まれてしまうだろう。善意だからといって、正しいとは限らない。

しかし、公平にいって、医者も骨折など外傷をおった怪我の際には頼りになるが、病気になると、全く頼りにならない。
実際は風邪ですら医者にはお手上げなのである。頼りにならないどころか、患者は殺してもいいカネヅルでしかないといったら、言い過ぎだろうが、自分なら絶対にしない抗がん剤を患者に押し付けるようなまねをするのである。それに従わないと干されるからだ。

自由だなんだというが、それは抽象的な問題ではなく、具体的には、こういった既得権業界、政府権力といった具体的な権力構造が問題だ。既得権、特権といったものがない社会が自由な社会といえる。
posted by libertarian at 21:05| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月01日

Criticism or Whinge?

リバタリアニズムのようなものは一種の社会批判論理であるわけだが、これと不平不満の違いというのが曖昧である。世の中がデフレであろうと、政府がいかに愚劣であろうと、日常生活的には、その中でやっていくわけだ。
その際、別に不平不満をいいながら、政府のバカヤロー!とかいっているわけではない。
しかし、それも組織化すれば、デモになり、悪いことではない。消費税増税反対デモもあったほうがいい。マスゴミは取り上げないだろうが。
だが私は社会運動は面倒なだけでつまらないと思う。やりたい人、そういうのが好きな人はやればいい。私はまず絶対にやらない。ああいう団体行動はすべて受け付けない体質なのだ。そもそも多数に小数で対抗しても民主主義のルールでは無意味である。論理でしか勝ち目はない。

おそらく、世の自称リバタリアン達は、税金は悪であるとかいいながらも、おとなしく税金は払っている人が多いだろう。私も欠かさずに払ってきた。もめごとは面倒だからだ。
税金払わんと言って頑張っている自称リバタリアンがいたら、それはそれで、その行動力は尊敬に値する。しかし消費税も払わないと頑張ると、店で物を買えなくなる。

だが、不平不満を論理にしようとしたら、これはまた間違いである。それにはミクロな現象からマクロな論理を構築するような難しさがあろう。
では、理論とは、よくある会社の「あるべき姿」論のようなものなのかというと、それも違うと思う。
そういう感じもないわけではないが、よくある会社のあるべき姿論は、出来の悪い作文の類でしかない。
理論はもっとconsistantな深みがないとつまらない。

数学や物理と違って、社会的な発言というのは、なんらかの指針、ベクトル、理念のようなものが示されていないといけない。
そしてその概念は定義されていなければいけない。かつ、その定義に意味がないといけない。
そうやって概念を定義してから、論理を構築したものが理論の名に値する。
リバタリアニズム的な意味での自由概念は、ハイエクあたりがクラシカルリベラルの歴史の中から、再構築したものなのだろう。
自由の概念を真正面きって問題にしているのは、Jan Nerveson とかもそうかもしれないが、ハイエクの重要性は、そこらへんにあるように思う。

20世紀になってリバタリアニズムが再発見されたのは、共産主義や社会主義理論への対抗理論が必要だったという面は強い。
今はそれら社会主義の影がうすくなり、と同時に、自由の概念は希薄になりつつあるようだ。
何が問題なのかもあいまいな状況で、リバタリアニズムの理論は、社会批判理論として存続するだろうか。


posted by libertarian at 22:10| 東京 ☁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月29日

Chain of crisis

自分も無駄に長く生きているので、数々の経済危機、株価の大暴落を見てきた。傍観者の立場ではあるが、結構、頻繁に起きていると思う。
しかし危機というが、騒がれて煽られるほど酷いことにはならず、一時的な混乱が起こるだけという気がする。
何が危機で、何が危機でないかという分類も曖昧なのだ。

アジア危機の時は、ジョージソロスがどうのこうのと言われたが、管理通貨体制を敷いていた東南アジアの国が
変動相場制になるきっかけとなった。これはこれでよいことだった。

EUは、これから何度も危機に陥ることになるのであろうが、そのうち、EUの根本問題に手を付けざるを得なくなるだけだろう。
それは、それで進歩に結びつくのではないかと思う。

そもそも株が大暴落しようと、株が0サムゲームなら、別に問題ないではないかと前から思っていた。
その点、この0サム問題にはひっかかるのである。

株や相場がコントロールできないものという前提に立てば、10年に1-3回は大きな危機が起こるという前提で制度設計をしておかないといけない。
その時、金融機関を政府は救済するのか否かも、あらかじめルール化しておいた方がよい。
今まではtoo big to fail という裁量ルールで救済されてきたので、これはほとんど慣行となっている。しかし政府の裁量にまかせると、不公平感は大きいし、予測が不可能でかえってシステムを不安定にすると思う。

金融機関の救済の最大の問題はモラルハザードと考えられていると思う。お金を政府が融資しようとそれは別にただであげるわけではなく、貸してあげるだけだ。リーマンの際には莫大なお金を銀行救済のために貸してあげたが、今ではほとんど返済されているようだ。

問題はモラルハザードで、救済がルール化されれば、実質経営リスクがなくなる。リスクがなくなれば、でたらめな経営がし放題になる。では、だれにどういう形で正当なリスクを負わせるかというのが問題になる。

もしくは、リーマンショック並の大変動がおきても、金融ネットワークのダウンというシステミックリスクなるものが、起こらないようにする。
多くの論者はこれは、起こらないと考えているので、ほんとにそうなら、救済はしないというルール化になる。
しかし、これは一種の清算主義というやつで、潔いが、時間ファクターを無視している気がする。
自然界では山火事で森が失われるのは、自然の摂理の一つで、それによって新たな森が再生する新陳代謝のような意味があるといわれるが、金融システムの場合、そんなに悠長に待ってはいられないのである。

#大銀行と小銀行の違いはいろいろあろう。まず違うのはコンピューターシステムだ。今ある大銀行のコンピューターシステムを銀行もろとも潰してしまうと、小銀行のコンピューターシステムがそれに置き換わることはすぐにはできない。あと人材とノウハウが違う。これも小銀行が大銀行の機能を置き換えるには人材の移転がおこらないといけない。しかし、そういったことは時間がかかるものだ。
posted by libertarian at 16:23| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

EU

EU問題について高橋氏が書いている。

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http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20130929/dms1309290724004-n1.htm
その結果、ユーロは、ドイツなどの中心国にとっては「割安」になる一方で、ギリシャのような周辺国では「割高」になってしまった。すると、中心国から周辺国への輸出が高まり、中心国は貿易好調で経常収支黒字、周辺国は不況のしわ寄せで経常収支赤字となってしまった。
 こうした不均衡に対する経済学的な解は2つある。1つは財政統合であるが、これには中心国から周辺国への所得移転が必要になってくる。もう1つは周辺国のユーロ圏からの離脱である。そうすれば、周辺国は独自通貨を復活させて、その通貨安を通じて自国経済の再建も容易にできる。
==

EUの劣等生が優等生にカモにされている状態だとすると、なんでEUの劣等生は自らEUから離脱しようとしないのであろうか?
なんのメリットがあると思っているのかわからない。
もし財政統合まですれば、ほぼアメリカのUnited states体制と同じになるのだろう。つまり、連邦税のようなものを払うことになる。

EUはその根本思想からして結局、間違っていたのであろう。
完全なる自由貿易圏にしておくだけで、各国のメリットは最大化する。それだけで十分だった。
この場合、劣等生も優等生も双方にWinWinで、優等生の独り勝ち状態にはならなかった。
通貨統合は全く無用であったとしか思えない。

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2013年09月15日

Inexperienced libertarians

イデオロギーとは結論ありきの思考方法とでもいえようか。
実証、事実というものを無視し、諸前提、条件を無視し、結論ありきで、これが正しいという独善的にして幼稚な思考ともいえる。
その点、多くの自称リバタリアンは、あまりに幼稚である。
こういう手合いは時間の無駄なので相手にする気にもならない。昔のあほな左翼の思考となんら変わらないのである。
自分は正しい理念を知っている。だから私は正しいと、超自己満足的正義感?でわめいているわけだ。w

多くの人間は、自分の幼稚な思考を正しいと信じているので、相場でもカモになってしまう。
理念は理念であって、それは結論ではないということがわかっていない。

現代の経済学は間違っていると啖呵を切るのは簡単だが、簡単な経済分析もできない人間が結論ありきの崇高な理念をわめいても、出直してこいという程度のものなのであるが、○○につける薬はないというのは、古今東西、真理なのであろう。合掌。
posted by libertarian at 23:56| 東京 🌁| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月27日

Elementary Libertarianism

自由主義や民主主義といった、今日の日本ではほとんど間違って使われている言葉について簡単に書いておく。こういった理解なくしては、政治も何も全く分からない「基本の基」であるが、ほとんどの人が学校教育過程で間違ったことを教えられて頭が混乱しているだろうポイントだ。悲しいかな大学教員ですら分かっている人間はほとんどいない。

まず、民主主義(democracy)とは、単に政治制度のことであり、社会主義や共産主義国であっても民主主義、民主制度だといえる。実際、旧ソ連などの共産主義、共産主義国では、我こそが民主主義だと言っていた。一党独裁は民主主義ではないと言っても、一党独裁の民主制度はもちろんありうる。ヒットラーはナチスこそが最高の民主主義であり、社会主義であると言っていたが、これも別に矛盾はしていない。

本質的な対立軸は、民主主義(民主制度)か否かではなく、自由主義か否かにある。

いわば、自由(主義)民主主義と社会(主義)民主主義の対立こそが本質といえば、自民と社民の対立のようだが、日本の場合、自民党は社民党と変わらないから、その本質がみえない。もちろん日本の民主党も社民主義党だ。

 

ハイエクは、社会主義、共産主義、しいては集産主義といったものが、なぜ自由主義でなく、反自由主義なのかという本質的な問題に答えた。自由主義の本質は私的所有権とそれを可能にする法の支配にあることを示したわけだ。

そして旧共産圏内の反体制知的指導者たちは、その意味を完全に骨身に沁みて理解した。ベルリンの壁崩壊以降はソ連でもハイエクやフリードマンに基づく自由主義化、privatizationが大胆に行われたが、その時ネックだったのは、法の支配だった。これはさすがに一朝一夕で変更というわけにはいかなかった。しかし、一方の未だに共産主義をとる中国ではハイエクやフリードマンの思想が体制を打破するところにも行っていない。ベルリンの壁崩壊当時、日本の馬鹿なマスコミは民主主義の勝利と書いていたが、これはサッチャーやレーガンが正しく言ったように「自由主義」の勝利という象徴的な出来事だったのである。

 

現代ではいわゆる西側諸国が混合経済体制という反自由主義に進んでおり、自由主義と反自由主義の対立軸が見えにくくなっている。しかしこの対立は未だに現代の問題だ。

先日、サッチャーを描いた映画「Iron lady」を観たが、あれを観てもサッチャーが一体、何と戦っていたかは感じることはできないであろう。社会を良くするために粉骨砕身した孤独な女性という描き方ではサッチャーの中身がみえない。サッチャーはハイエキアンであり自由の闘士であったわけだが、当時の過激に社会主義化するイギリスを自由主義の方向に舵を戻すべく奮闘していたわけだ。そしてサッチャーは東側の反体制知識人達を自分と同じハイエキアンの同志と呼んでいた。

posted by libertarian at 05:33| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月19日

Floating exchange rate system and Competition of currencies

オーストリア学派の経済学と言われるものがあるが、この内容は定かでない。

ハイエク、ミルトン フリードマン、ミーゼスといった人たちの考えはかなりバラバラである。

ハイエクは晩年に市場における通貨競争というアイデアを考えた。denationalization of moneyで、通貨の脱国有化といったものだ。

一方、ミルトンフリードマンはそれよりも早く変動相場制を唱えていた。 

現代的に意味を持つのはやはりミルトンフリードマンの経済学である。

ハイエクは貨幣数量理論までも批判したが、どうやらハイエクの理論そのものが当時の固定相場制を暗黙の前提としているように思われる。

最晩年に通貨自由化論を考えたが、そこには国際マクロ経済学の観点はなかった。知らなかったのであろう。

マンデルとフレミングが、国際IS-LM理論であるマンデルフレミング理論を出したのが1963年頃だが、既にハイエクは老いていた。

ハイエクはフリードマンに対しても批判的、論争的であったが、変動相場制とは、まさに市場における通貨の競争だから、その点でハイエクとフリードマンの貨幣競争のアイデアは近いところに落ち着いたのかもしれない。

 "Deflation is cure"といったミーゼスの経済学はさらに古く、完全に固定相場制の時代のもので、ミーゼスは変動相場制を知らなかった。特にミーゼスの金本位制理論は、全くのナンセンスであることが歴史的に明らかになっている。

そのためかミーゼスの経済学を教える大学は世界にはない。

ハイエクはその著書「貨幣理論と景気循環」で、大恐慌の実証分析をしているが、そのデフレに関する考察ではハイエクは致命的な間違い、誤解をしていた。ハイエクは1930年代のFRBが信用拡大政策をしていたと間違って思い込んでいたのである。事実は圧倒的なデフレ政策をしていたのにも関わらずだ。

大恐慌に関する分析では、フリードマンとアンナシュワルツの分析が正しく、アイケングリーンやバーナンキの研究に引き継がれた。

ハイエクのこの間違いはかなり致命的だが、ハイエクはその後、この景気循環論でノーベル賞を受賞した。もともと、この受賞そのものはレーガン、サッチャーの時代におけるかなり政治的なものであって、景気循環理論そのものは経済学に影響力をもっていないマイナーなものだ。

つまるところ、ハイエクの重要な業績はその政治哲学、法哲学の部分であってその経済学ではない。

いわばハイエクの経済理解にはかなりイデオロギー的な思い込みがあり、何が正しい事実なのかでなく、イデオロギー的な親和性を重視した、独断の強い思弁的なものにみえる。

一方、フリードマンはやはり偉大な理論経済学者だったのだと思う。

 イギリスでは、サッチャーがハイエクやフリードマンの思想から学び、EUの通貨統合に反対するなど政治的に大きな影響をもった。この点はフリードマン、しいてはハイエクの貢献ともいえる。

posted by libertarian at 19:48| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月09日

RIP Margaret Thatcher

昨日、マーガレット サッチャーが亡くなった。87歳だったらしい。
ハイエク(93歳)、レーガン(93歳)、ミルトンフリードマン(94歳)、マーガレットサッチャー(87歳)の順に80年代の自由主義の旗手がなくなったが、こうしてみると皆さん長寿であった。
サッチャー死すとも自由は死せずであればいいが、社会はミルトンフリードマンが言うようにますます社会主義的になりつつある。

80年代のサッチャーやレーガン、日本の中曽根の時代を私はよく知っているが、当時は彼らの自由主義の意味など何も知らなかった。新聞、ニュースしか観ていなければそんなものは分からないし、当時、日本でそれを理解していた人はほんの数人であったろう。

当時も愚かな左派メディアは、得体の知れないおぞましい悪魔というイメージで盛んに悪口を書いていた。

日本は今も当時と状況はあまり変わらないであろう。

日本はなんでもかんでもガラパゴス化する。

 

ハイエク、フリードマンは思想的、学問的なリーダーであったし、レーガン、サッチャーはそれらを具現化した政治的なリーダーであった。

彼らは、何をどういう優先順序でやるべきで、それをいかにやるべきかまでを示せるリーダーであった。

サッチャーは、最初にHayekのThe constitution of libertyを閣僚に読めと言ったらしい。

またサッチャーはEUにも批判的だった。

In 1990 Thatcher warned that the Euro would end European democracy 

 http://youtu.be/5TPpuIslzG4 

 

サッチャーは、ユーロや、単一通貨、単一の中央銀行による危険性を見抜いていた真の自由主義者であった。

 

posted by libertarian at 13:40| 東京 ☀| Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月03日

Protect yourself from your government

最近、外食の際、内部被曝を避けようとしたらホントに喰うものがないなと思う。日本は海産物が非常にうまかったが、海産物はほぼ全滅だ。
日本料理は出汁が命だが、出汁に使われる椎茸も、高度に放射能汚染されている。
乳製品も希釈はされているが、確実に汚染されており、摂る量が多いだけに結果的にバカにならない量を摂取することになる。
汚染食品の流通を政府が補助金を払って後押ししているために、東北〜関東の野菜は無検査で関西〜九州に運ばれ安く売られているそうだ。
この状況では内部被曝を避けようとしたら海外に行くしかないのかもしれない。
可能な人はそうすべきだし、すでにそうしている人も多いだろう。

まあ、自分のような年寄りになれば、そんなに気にしてもとは思うが、女性や子供の内部被曝はほんとに深刻だ。
女性の卵子は数が決まっていて予め体の中に卵子細胞があるから、長期的な被曝の影響が細胞に致命的な障害を与えてしまうのである。
今後は堕胎産業が繁盛するであろう。
そんなことも日本人はへらへらと水に流して済ますのであろうか。

チェルノブイリで起こったことは、同じような人類である日本人にも当然に起こると推測するのが妥当だが、近い将来日本では恐ろしいことが起こるわけだ。

この幼稚きわまりない国、日本。
農村共同体的な集産主義的なメカニズムで動いていることは認識していたが、もはやなになに主義云々という高尚な議論などもとより縁のない幼稚な人間からなる社会なのだ。
日本人のいわゆる大人は自分の幼稚さを隠そうとして、国家やら組織の権威にすがることで自分を大きく見せようとしているかのようだ。だが中身はガキで、日本社会はガキの集まりなのである。

リバタリアンとしては、日本の小さなガキ、大きなガキのすべてのガキどもにこう言いたい。

Protect yourself from your government.


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2010年06月04日

on Katte

”自由”という言葉は、福沢諭吉が仏教の経典から持ってきた言葉で、それまで日本にlibertyやfreedomに相当する日本語がなかった。おそらく、それに近い意味の言葉としては、”勝手”というのが一番近かった。
実際、自由主義なるものを勝手主義とかしようとする動きもあったらしい。
しかし、勝手というのは、当時もネガティブなイメージもあったのであろう。

「勝手にしろ」とか「勝手なやつ」という言葉はあまりいい意味じゃない。
だが、勝手は、laissez faireにニュアンスが近いものがある。
liberty,freedomというのは政治的な概念だが、laissez faireは、行為に関するものだ。

勝手にはegoism,egoisticというニュアンスも含まれる。
そういう点で、勝手という言葉は見直されるべきかもしれない。

大体、日本人は集団同調圧力の強い集団だから、自由を勝手なことととイメージし嫌悪しているのかもしれない。
だがリバタリアン的には、non-aggression原理のもとでの個人の勝手がまさにその目指すところである。

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2010年04月19日

The road to Freedom

久しぶりにリバタリアニズム関係の文献を読んだ。
Privatopiaでslumlordさんが紹介していたウォルターブロックとミルトン・フリードマンの往復書簡を読んでみた。
「社会民主主義者」としてのハイエク
http://d.hatena.ne.jp/slumlord/20100404/1270400742

1998年の書簡だから結構新しい。このときフリードマンは86歳と高齢だ。
しかしブロックはかなり遠慮会釈なくフリードマン御大に書いている。ここらはアメリカ的なのかなと思う。

ハイエクの主張が、あまりリバタリアン的でないというのは、しばしば指摘されているし、実際、ハイエクは社民的なことをいろいろと書いている。
だからブロックの批判は必ずしも外れてはいないと思う。
一方、ミルトンフリードマンのハイエク擁護は、非常にハイエクへの敬意にあふれたものである。もちろんフリードマンの主張ももっともだと思う。

私はブロックの元のハイエク批判論文を読んでいないが、ここでブロックが取り上げているのは「隷属への道」の一部の社民的な主張だけだから、それをもってハイエクの全体のように主張するのは浅はかな印象がある。
といって、その点に限れば論理的にブロックの主張が間違っているわけじゃないだろう。
フリードマンは、ブロックをfanaticだといって批判したのだが、私もやはりブロックはかなりfanaticだと思う。
このfanaticな点が、Misesianの特徴であり、論理的に一貫しているところがよいところでもあり、かなり自己満足的なところでもある。
そしてこの自分たちの論理的一貫性にこだわる自己満足的なところがミーゼス研究所に集まる人達の限界でもある。

現実に戦後の自由主義を政治的に動かしてきたのは、ミーゼスやロスバード達ではなく、ハイエクやフリードマン達であった。
この事実は重いと考えなければならない。
その一方でミーゼスのサークルはますます身内だけで正しいことを言っているような閉じたものになっていったのではないか。
これはHoppeなんかも同様である。

ハイエクは、オールドホイッグを自称していた時もあったし、理想の自由社会のイメージを過去に求めていたように思う。
これに対して、無政府資本主義(anarcho-capitalism)は、人々に具体的な社会イメージを提供していなかったのではないか。
David Friedmanが書いているように、無政府資本主義的な社会は歴史的に昔々のアイスランドにそれに近い状態があったくらいのものである。
そんなものは誰も知らない。そしてイメージできないものを論理的に主張しても、ヴィジョンとして人々に訴えるものがない。

結局、無政府と政府の間の違いは程度の問題に過ぎない。税金が0なら必然的に無政府だし、1円でもあればそれは政府がある状態だ。
だから、その絶対額で、無政府資本主義がいいとか言っても意味がない。1円の政府と、0円の無政府の違いなどどうでもいいことだ。
問題は、ベクトルとか変化の方向においた方がいい。より自由な方向はベターな方向だという柔軟性だ。
だから、リバタリアニズムは自分に分かりやすい論理的一貫性よりも、より自由な方向へ行く現実性を追求するのが正しいのかもしれない。
もちろん、後者の方がより大変な課題を自らに負うことになるだろう。ハイエクやフリードマンは後者の道を選んだわけだ。

次のミルトン・フリードマンインタビューの翻訳を参照のこと
http://libertarian.seesaa.net/article/37254383.html
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2010年04月06日

Private property and Efficiency

http://d.hatena.ne.jp/KnightLiberty/20100405/p1
”所得の40%を奪はれるといふのはほとんど奴隸だと思ふが、飯田氏はそれでは飽き足らず、「せめて60%ぐらゐ」は取るべきだといふ。なぜ75%ではまづく、なぜ60%なら許されるのか、論理的な説明は一切ないから、別に75%になつても不思議はない。要するに金持ちは少數者だからいくら搾取してもよいのだ。だが少數者への權利侵害を他人事として傍觀すれば、やがて多數者も同じ運命をたどることを忘れてはならない。

政府の介入により社會全體の「效用」が高まるのであれば、財産沒收を含むどんな介入でも許される。これが現代主流派經濟學の教義だ。この議論を延長して行けば、社會全體の「效用」が高まるといふ「證明」さへ出來れば社會主義も是認されることになる。財産權擁護の理論で武裝しない限り、政府から身を守る術はない。”
=======================

木村貴さんがBlogを精力的に書き始めたので楽しみだ。
私もここで書かれている議論におおいに賛成だ。
実際、社会主義の方がなんらかの”効用”が高いという”証明”は非常に多くなされている。
テクニカルで分厚い論文が沢山だされると一々読んで間違い指摘もしていられない。またそれが左派の戦術でもあるわけだから、それに乗ってはいけない。

もっと根本的で本質的な議論をすればいいのだ。
それはここで木村さんが書いている議論になると思う。
すなわちバスティアが唱えたような財産權擁護の理論で武裝するのがいい。
 
これに勝てる経済学者はいないはずだ。

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2010年02月25日

Jobs, Investment , and Spending

Jobs, Investment , and Spending
February 23, 2010 by John Cochran
http://blog.mises.org/archives/011716.asp

But the current problem is driven not by lack of spending by government
or consumers, but by a lack of private investment and its associated
job creation. Private investment is forward looking. Now, as in the
1930s, investment is being significantly restricted by "regime
uncertainty" and the potential of regime worsening.

 Current rhetoric
and proposed policy are attempting to undo the liberalizations that
ended the stagflation of the 1970s and as Andrei Shleifer of Harvard
University put it, began an era that "Between 1980 and 2005, as the
world embraced free market policies, living standards rose sharply,
while life expectancy, educational attainment, and democracy improved
and absolute poverty declined."
posted by libertarian at 00:20| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月15日

The Death of Politics

The Death of Politics
by Karl Hess

http://fare.tunes.org/books/Hess/dop.html
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2010年02月05日

More sex is safer sex

先日でたスティーブン ランズバーグの本「More sex is safer sex]の翻訳「ランズバーグ先生の型破りな知恵」をざっと読んだ。いつもながらのランズバーグのコストーベネフィット分析が面白い。しかし、今までの本に比べると論証がかなり粗雑で不完全な印象がある。
だが日本の自称経済学者連中は、この程度の理解も怪しい人間しか見当たらない。そんな初等的なことは知っていると言う奴に限って何も分かっていないものだ。そういうやつにかぎって、どこどこの有名大学の○○は、こう言っていたとかちゃんと読んだこともない”権威”の発言なるものをでっち上げて、知ったかぶりをするものである。

しかし、私は実はランズバーグのコストーベネフィット分析には結構疑問を持っている人間だ。というのも私は、この分析手法の根本に全体主義的な臭いを感じるからだ。つまり社会全体の便益とコストを論じる場合、それはあくまでも社会という全体を目的関数としている。それでいい場合もあるだろうが、それで全てがいいとは思わない。
具体的に何がどうと今は挙げられないのだが、単純な経済活動や経済活動に対する政府規制に関してはそれでいいと思う。しかし、生命や刑法に関わる問題に対して、それを適用するのがいいかどうかは疑問だ。
ある種の価値に経済的なベネフィットを計算することは、それ自体が全体主義的な価値観の押し付けに相当する場合があるだろう。例えば、たわしの価値はあまりイデオロギーに関係しないだろうから、たわしのベネフィットを論じるのは問題ない。だが、宗教がらみで例えばクリスチャンの十字架とかにそれを適用はできないかもしれない。
全体的な価値と、個人的な価値の間に圧倒的なずれがある場合、それを社会全体の一般価値という前者で割り切るのは単純に過ぎるように感じる。こういった合理主義は、設計主義に流れていく可能性が高い。
一人一人の価値はばらばらだから、個々を論じることはできないが、全体平均なら論じることが出来るという発想だ。そもそも、ランズバーグは良いルール、悪いルールといった一般ルールを考えているのだろう。
つまりこういった合理主義はどこかCentralizedな思想なのだ。
misesのようなオーストリアンの個人主義的でDecentralizedな思想とは根本的に異なる発想なのである。
だから、この両者はあまり仲がよくない。
posted by libertarian at 21:51| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月29日

Keynes vs Hayek

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2010年01月24日

Esprit of Frederic Bastiat



「経済学の教師は、どのようにすれば自分の時間をもっと上手に活用できるか」という問いかけをしてみよう。私の答えは、片手だけを使う経済学者の元祖であるフレデリック バスティアの精神を伝えるよう努力すべきというののである。

その各々がバスティアと同様に、ある話題に関する一般的な考えと経済学的な考え方を対比させることから始めるべきである。経済学者が考えることと非経済学者が考えることの違いをはっきりさせるべきである。たとえば、比較優位、価格統制の効果、労働節約的な技術革新の長期的利益といった結論をいくつか選択し、それを語りつくすべきである。
バスティアがアドバイスするように、「われわれは、・・そのことの是非がはっきりするように、結論を非常に見やすい形で提示しなければならない。それによって、保護主義と自由貿易のどちらが勝利するかを、はっきりとさせることができるだろう。」

アンデルセンの童話に出てくる「王様は裸だ」と叫んだ子供に味方しない人がいるだろうか。
あなたは、聴衆から逃げられてしまうことを心配しているかもしれないが、それはあなたの工夫次第である。私の経験では、「私は正しく、あなたは間違っている」という言い方は、完全に失敗するが、「私は正しく、この教室の外にいる人たちは間違っている。さて、あなたは彼らのようになりたくはないだろう」という言い方をすればけっこう効果がある。
================

これは、ブライアン カプラン(Brian Caplan)の「選挙の経済学」(The myth of rational voter)からの引用である。
ブライアン カプランは期待の若手リバタリアンの俊英だ。
しかしカプランはリバタリアンとしては中道的というのか、リバタリアンサークルの中に閉じて正論を言い続けるだけのスタンスを取らないことを選択した経済学者といえる。たしかにMises instituteのような閉じたサークルで何かいっていても世の中は変わらないかもしれない。

この本は、大衆の経済学的に誤った認識がデモクラシーの元でいかに政策や、選挙結果に影響を与えるかを論じている。例えば、反市場バイアス、反外国バイアス、雇用創出バイアス、悲観的バイアスといった系統的バイアスであり、これらに因るデモクラシー体制での政策形成過程の”合理的な非合理性”を詳しく論じている。
この翻訳は原文があまり分かりやすくないのもあるかもしれないが、素人のこなれてない翻訳で読みやすくはない。誤訳も結構ありそうだ。とはいえ、多少苦労しても読む価値のある本であろう。

しかし、今の世界的な社会主義化への流れは、まさに大衆の間違った経済学理解、バイアスが政策に反映されたものなのは間違いない。これはいつの時代でもそうだろうし、必ずしもその政権の独断専行ばかりとはいえない。ナチスもそうだったし、今の日本の民主党もそうだ。そしてその間違った判断、理解が社会全体の首をしめることになる。

ミルトン フリードマンやハイエクのような歴戦の筋金入りの自由主義者がいたときは、彼らの弁舌にリバタリアニズムは多くを負っていたが、これらの大御所がいなくなった今は、リバタリアニズムのエヴァンジェリストが不足している感がある。

ここでカプランは、フレデリック バスティアを持ち上げているのがセンスがいい。
バスティアは極めて重要な自由主義者なのだが、そのことを分かっている人間は日本にはほとんどいないだろう。
カプランは、秀才らしく草の根的な経済学教育の重要性を説いているが、これはまず自分で実践すべきことであろう。少なくとも、この本はバスティア的な精神を体現したものではなく、中途半端にアカデミックなスタイルとなっているのが残念だ。

ところで、ここで「王様は裸」の話がとりあげられている。私もこの話は好きでよく取り上げるが、この話の解釈については、幼少期の記憶が未だに強く残っている。
この話は小学校の国語の3年生くらいの教科書に載っていたのだが、私はこの感想文を書かされた際、真実を述べたこの子供の勇気と英知をすばらしいと絶賛した。しかし、クラスで一番成績のよい女の子が、いやこれはこの子供が馬鹿だったからそういったのだと主張した。
担任の女教師もそのクラスで一番成績のよい女の子の解釈に軍配を上げているようであった。
私はなんという深い読みをするんだとその時、驚嘆し、自分の解釈は浅くて間違っていたと恥じたのであった。しかし、やはり、そういう読みは非常に日本的というかあまりにどうしようもない。ボーボワール風にいえば、日本人は日本人に生まれるのではなく、日本人になるということなのであろう。

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2010年01月17日

Quantum Game theory

ランズバーグの草稿
Quantum Game theory
http://www.thebigquestions.com/eorms.pdf
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2010年01月10日

Ethics and Economics

数学において証明というのは本質的だ。数学的な証明は絶対的なもので時間がたっても変わらない。物理学で数学的証明に対応するのが検証だ。しかし、これは数学的な証明とはちがって普遍性を保証しない。
一方、経済学なんかでは、検証もどきはあるが、本質的に再現性がないので、定義上、科学には頑張っても残念ながらなりえない。頑張ればなれると思っている人間は検証という言葉の重みを軽く考えてるのであろう。

オーストリアン経済学などは、検証もそれほど重視してないように思う。
実際、いわゆる検証は意味のないことなのかもしれない。例えば、財産権の重要性など自明なことを検証したところで意味がない。逆に財産権が重要でないという検証結果がでたらそれはその検証が間違っているという意味にしかならないのだ。

私は、こういった価値、倫理といった領域のものは、潔く科学的な対象、検証対象ではないと分けて考えることが重要と思う。主観を科学するというのは基本的に語義矛盾であって、主観は科学の対象ではない。これは論理的に自明だと思うのだが、そう思わない人間は結構多い。科学には機械論が根強いから、主観ー客観といったものは物質一元論に還元されると思っているわけだ。
話はすこし違うが、例えば数学は機械で証明できるかという問題がある。コンピューター科学なんかは元々は数学を機械で証明するというのが究極の目標だったのであろう。だが、どうもこれも原理的にできないようだ。
もちろん、MathematicaとかLisp系の言語で数学を解くことはできるが、一般的に証明をするというのはできない。これらも解き方が分かっている特定の領域の問題の解法アルゴリズムを入れているだけだ。解法を考えるというのは、やはりメタな問題だ。

経済学の発展形は、決して脳科学にはないだろうし、心理学みたいなものにもないはずだ。
それは近代経済学が進んだ似非科学とは別の新たな似非科学への方向に過ぎないと思う。
むしろ、マクロ経済学は無用の似非学問として消滅するのがあるべき姿なのではないか。
つまり、オーストリアン経済学のように政治哲学の中に溶け込んでしまうのが正しいのではないかと思う。もともと経済学は政治経済学であり、それが分かれたのは近代だが、経済学として単独で存在するのがそもそも間違っている。分かれたと言っても政治的なイデオロギーがまずありきで、それを補強するための装飾や権威付けという意味合いしか今までなかった。近代経済学もマル経もそういうものだったのだ。社会主義的な分配は正しい、正義だという前提で出発して、分配した方が社会全体の福利が増すみたいなことを”証明”しようとしてきたわけだ。またもし、逆の検証結果が出ても、分配が正しいという前提はみじんも影響をうけない。なぜならそれは倫理的な前提であるから。

むしろ、Ethicsとして経済学的な問題は広く論じられるべきだ。そうした問題として捉えれば、社会主義が間違っているということも合理的に理解できるだろう。

周知のことであるが、かのアダムスミスも経済学者ではなく、倫理学者だったのである。

posted by libertarian at 00:53| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月07日

The World Wide Wall


The World Wide Wall
http://www.thebigquestions.com/2010/01/06/the-world-wide-wall/

ランズバーグの尊敬する人物の肖像を集めた壁?
ほとんどがリバタリアンな人物と科学者、数学者。

posted by libertarian at 00:14| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月03日

The Big Question

Steven Landsburgのサイト the big question

http://www.thebigquestions.com/blog/

ランズバーグはいままで自分のサイトがなかったが、これはなかなか充実している。
posted by libertarian at 17:15| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月08日

How progressives rewrote the constitution

How progressives rewrote the constitution by Richard Epstein

をKindle storeで購入、ダウンロードした。
sampleの序文を読んで、これは買わないとならんと思ったのだ。たったの9ドルちょっとだから1000円くらいか。

 


日本の法学者でRichard Epsteinを読んだことのある人間は非常に少ないだろう。
こういったリバタリアンを堂々と自称するアメリカの保守派論客であるエリート法学者のアメリカ法、アメリカ憲法に対するパースペクティブというのをちゃんと知って理解するべきである。
こういったことを全く何も知らないから、新自由主義だ、なんとか原理主義がけしからんだとか幼稚な後進国根性まるだしの無教養なことを
恥知らずにも平気で日本の大学教師は言うのだ。

そういったバカで無教養で恥知らずな日本の大学教師達のために、そのうちこの本の内容を紹介しよう。

 

posted by libertarian at 23:28| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月15日

Rescue and Aid

 

蔵さんが、シンガーの紹介をしている。シンガーの問題設定は、いかにも理科系的な考え方だと思う。私はこういう”理科系バカ”が嫌いである。

もちろん、こういった考えをする文科系バカも嫌いだ。

だが、シンガーはおそらく頭が悪いのではなく、知識が足りないのだろう。ドラマNumb3rsでも、天才数学者の息子に、学生運動くずれの親父さんが、「お前は数学はできるが、なんでもできるわけではない。たとえば政治は知らない。」という場面があった。これは実に正しい。

 

ここでは、救助の問題と援助の問題が混同されている。

「例えば、池を通り過ぎようとしたとき、そこにおぼれて死にそうになっている子どもがいれば、人は靴や服、そして仕事時間を犠牲にしても、子どもを助けるでしょう。」

とあるのは、救助の問題だ。

「私たち先進国でそれなりの生活をしている人は最貧国の子どもたち(など)を救う義務があるのに、それをしていない。」

というのは、援助の問題だ。

では、救助と援助の違いはどこにあるのか?

援助は救助と違い、持続的なものであることを目的としている。一時的に救助してもその原因が貧困によるものであるならば、貧困がなくならない限り、救助は限りなく必要になる。だが、経済発展を可能にすれば、それにより貧困が減少し、自立が可能となり、救助をしなくてもよくなるだろうという考えだ。だが、これはイースタリーがいっているように何故かうまくいかない。しかし、もちろん、これは別に不思議なことではない。

http://libertarian.seesaa.net/article/104741834.html

それがうまくいかないのは、援助には援助される側のインセンティブがないからである。

イースタリーは、「人間はそうすることが経済的に見合うことはするし、見合わないことはしない」という言葉を使っているが、これは、後進国の人間のことを言っていて、先進国の人間に向けて言っているわけではないのだ。

市場がなければ、ものの値段が存在しないのと同様にインセンティブも生まれない。だが援助は市場メカニズムではない。これはある種の福祉システムの恩恵のようなものである以上、逆のインセンティブ、フリーライドのインセンティブを生んでしまう。それはその途上国そのものを日本の地方自治体のような体質にしてしまい、一向に経済発展しなくなってしまうわけだ。

ここで言えることは、救助の延長線上に援助はないということである。

 

私ももちろん救助は否定しないが、救助はいかに行うべきかということが問題となる。池でおぼれている人の例は、まさに人命救助が必要となるケースだ。だが、この場合でも、その溺れてた人が貧乏で浮浪者だったとしても、救助したその後の経済的世話までしなければならないというおまけはついていないはずである。もし、そんなおまけがついていて、溺れている人を助けた場合、その人間の世話を一生涯みてやらなければならないとか決めれていたなら、誰も助けてはやらないに違いない。

救助は一過性、一時的なものなのである。だから経済的損得とは別に超短期的視野で救助するインセンティブが生まれるのである。そのため溺れる人を助けようとする人間が逆に溺れてしまうということもおこる。

 

前にも書いたように援助をするのではなく、移民を受け入れるほうがより本質的な援助となるだろうし、貧困している個人のインセンティブを活かすことができる。インセンティブは個人にしかなく、集団や国家にはない。今は人格をもった先進国の国民国家が、後進国の国民国家を助けるという構図になっていて、これが根本的な間違いだということだ。

 

 

 
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2009年10月04日

Seniority system

日本の年功序列制というのは、ある種の長幼の序に基づいたもので、大いに形式的な合理性をもつ。
これに対して、能力主義や同一労働同一賃金という考え方は、実質的な合理性を唱えたものだ。
年功序列制つまりは、年齢順というのも悪くはない。なぜなら、仕事の内容が決まっていて、かつそれがそれほどに難度の高いものでなければ、能力が高い低いはあまり関係なくなるからである。
能力が結果に大きく反映されるのは、営業職や研究職のようなものだろうが、これさえも環境によってそうともいえなくなる。
そういった点、能力主義というのは、一見合理的だが、測定、計測が困難で非合理になりがちだという致命的な問題があり、それによってかえって、不公正感が高くなる可能性がある。
むしろ、保険のように統計的な戦略をとるのが、合理的である場合もある。個々の成果を無理に公正に測定しようとするよりも、保険システム的な統計的合理性を選ぶ方がシステム上正しいことは大いに考えられるだろう。この点、年功序列などは、個人より集団に対しての統計的なアプローチとして正しい可能性があると私は思う。

むしろ問題は、能力主義や同一労働同一賃金といったお仕着せの規制を政府が市場に課すことだ。
これらには、結果の平等という考えが反映されているわけだが、機会の平等はどう頑張っても保証はできない。ちなみにここで結果の平等とは、成果に応じた配分という意味であって、成果を平等に分配するという意味ではない。おそらく、機会の平等というありえない条件が保証されていれば、成果主義はだれもが認めるであろう。だが、機会の平等は原則不可能だからこそ成果主義には抵抗がある。
これは、いわゆる組織というのを前提とした場合だ。

何度も言うが、政府がそういった価値や基準の押し付けをするのは本末転倒で、やるべきことは特権となる法的スキームをはずすことなのだ。
その結果として、実現される能力主義もあるだろうが、能力主義であるべきだといった一律の規制は有害なだけだ。そういった私的な、もしくは私的な組織内部のマネジメントにまで政府が首をつっこんで規制するのは大間違いだということだ。私的な組織である企業が仮に年功序列システムをもっていても、それはその企業の重要な自由のひとつだ。
特権とは、雇用規制のような規制そのものであるから、それらをなくせば、結果的に企業は能力主義にシフトしていくところが多くなるかもしれない。
つまり、能力主義を掲げる企業が出てきて、そこに優秀な人間が移ることもあるだろう。
だが逆に年功序列システムをもつ企業を選ぶ人間もいるだろう。
どっちもありだということで、内部的な私的関係に政府がおせっかいな口をはさむべきではないのだ。

同一労働同一賃金といったスローガンを高橋氏なんぞも書いているが、これは明らかな間違いである。
規制撤廃の結果としてそうなる部分は良いだろうが、それを目的として特権の撤廃をするわけではない。
特権の撤廃は、より大きな意味での公正の実現、自由の実現とした方が正しいものだろう。


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2009年10月03日

Beyond normal country

高橋洋一氏のスタンスというのは、日本の社会システムを普通の(先進国並みの)国にしようというもので、リバタリアン的には実に物足りないと感じるだろうが、そのような控えめな改革?であっても、日本では困難きわまるということがよくわかる。日本は全く異常な国としか言いようがない。
官僚国家といわれるが、これほど官僚がのさばり、国をミスリードしている国はないだろう。

社会体制の距離感としては

リバタリアン社会>>>>>>普通の先進国(英米)>普通の先進国(独仏)>シンガポールなどの旧英米植民地諸国>>日本

というところであろうと思う。
この過程が連続的なものであるのなら、確かにリバタリアン社会を目指す前に普通の先進国になる必要がある。

高橋氏は、いわゆるリフレ派というやつに近いのだろう。私はいわゆるリフレ派が書いた本を読んだ記憶がないので詳しいことは知らないが、リフレ派代表を高橋氏の説とするとサイバーなんちゃってリバタリアン氏の見解の相違はここが大きいだろう。
私が、どちらに軍配を上げるかといえば、当然、高橋氏のほうだ。
では、どちらがより自由主義的かといえば、どちらも国家主義的だ。ただ高橋氏はリフレ政策は”普通の国”のスタンスだと言ってる訳である。
一方サイバーなんちゃってリバタリアン氏は、電波政策以外は具体的なことを何も考えていないから具体性も乏しいし、論理があまりに薄っぺらい。どちらが正しいかという以前にサイバーなんちゃってリバタリアン氏には論点になるネタが存在しない。サイバーなんちゃってリバタリアン氏が高橋氏の説を素朴貨幣数量説に過ぎないと批判しているのは、その基本的な経済学理解の薄っぺらさをあらわしていると私には思われる。
また、高橋氏はこの本の中で、サイバーなんちゃってリバタリアン氏も含むリフレ反対論を類型化しその全てにきちんと反論しているので、興味がある人はそちらを参照されたい。


だから、高橋氏の説と対照的に論じるにはオーストリアンの見解を持ってくる必要がある。
高橋氏はFDRの財政政策をも積極的に支持しているわけだが、これは高橋氏が日本の現状が酷いデフレ状況にあると見ているからだ。
氏が、この根拠として示すのがBEI指数(Brake Even Inflation rate)と呼ぶ指標である。これは物価連動国債と一般の10年国債との利回りの差で、マーケットが今後10年で日本の物価上昇率をどう見ているかを示している。
(ちなみにこの物価連動国債も高橋氏の発案で2004年に導入された)

このBEIがこの1年で-3%と大きくマイナスにふれているのである。
この数値を由々しきものと見て高橋氏は危機感をもっているわけだ。このデフレ率で推移すれば、デフレサイクルに陥り、日本はほんとに酷い壊滅的な状況になるだろうとみているわけである。
私もこの指標はこの本を読んで初めて知ったが、マーケットが示す指標であるから、いかなるシンクタンクの予測よりも圧倒的に信頼性が高い。

そこで金融政策をベースとしたドラスティックな対策を、財政政策も含めて実施するべきだというのが高橋氏の提言である。(財政政策にもいろんな方法がある)

そしてここで問題とすべきは、オーストリアン的にそれはほんとに正しい政策なのかということだ。もちろんこれはかなりのダウトであるわけだが、どのように問題なのかは、そうそう簡単に書けるようなことではない。

リバタリアンやアナルコキャピタリストを自称する経済学徒ならば、こういった問題を自分で一生懸命考えてきちんと発言すべきなのだ。
リバタリアニズムとは自分を絶対的に正しい高みにおいてくれるオマジナイではないのである。現実にコミットして発言しなければ、存在理由もないものである。
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2009年09月30日

Free to choose

選択の自由は、基本的な自由だが、このthe right to chooseには、広い意味がある。 
選択とはそもそも何かを選び、何かを選ばないことだから、排除行為に他ならない。 
排除行為には差別の意味もある。 
だからホップ(HHH)なんかがいう、「差別する自由」とは選択の自由のことでしかない。 
これこれの選択はよいが、これこれの選択は差別的だから駄目とするのは、ナンセンスである。 
あらゆる選択行為は排除行為であり、そこに差別性があるからだ。 
ホップは過激な表現を好む人間だから、差別の自由(right to discriminate)という表現で 選択の自由の問題をことさらに取り上げるから、誤解を招くし、つまらない論争の種になるのだろう。

問題となるのは、個人の選択行為が他者の権利侵害や人格攻撃的な状況になるシチュエーションである。 
しかし、それも私的空間においては、まず問題とならない。 
排除行為が、問題となるのは公共空間においてだ。

公共空間における排除行為は、いわゆる権利侵害に相当するケースが多いだろう。 
差別行為にも、いろいろあり、特権を特定の人間に与えるのも差別だし、人種や出自などにもとづいて 
個人の行為を制限する差別もある。 
前者も差別だが、一般に差別とは後者のようなものを想定しているだろう。 つまりある人の選択の自由を積極的に制限する行為である。
例えば以前は南アで電車に乗るとき、黒人は白人の車両に乗ることが許されなかった。 
その電車が私電であるとすると、必ずしも公共空間とはいえないかもしれないが、感覚的には公共空間だ。 しかし私的空間であれば、そこにいる他者の選択権は狭められるのが通常である。
私が自分の部屋でタバコを吸うのは自由だが、他人の家では自由とは必ずしもいえない。
服装で入店を制限する店もあるが、これなどは完全な私的空間だから店側の当然の選択権のうちである。
また前者の差別も、公共空間における差別だから問題になる。

しかし、こういう問題をすぐ”共感”がどうのこうのといった話に結びつけることは間違いだ。 
誰でも共感することはあるだろうが、ここでいう”共感”とは、意味不明な言葉なのである。 
差別の自由が選択の自由であるのなら、あえて論じることもないリバタリアン的に当たり前の主張だ。 
”共感”といった基準がこの問題に入り込む余地などどこにもないのである。
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2009年08月15日

Business cycle theory and Allocation problem

トム ウッズの本(メルトダウン)にも書かれているように、ミーゼスやハイエクなどのオーストリアンの経済学でBusiness cycle theoryとallocation problemはきわめて重要な理論である。

メルトダウンの「政府が原因となるバブル景気とその崩壊のサイクル」から抜粋しよう。
===
公共事業について

1)公共事業支出を行うために人々に税金を課すので、民間に回る資源が減少する
2)公共事業支出によって、本来なら倒産し、精算されるべき企業にお金が回ってしまう。
3)公共事業支出のための資金を得るために、政府は国債や公債を発行する。政府が借り入れを増やすことで人為的に金利が上げられる。それによって銀行からの借り入れがより難しくなり、消費者の需要に実際に対応する企業の資金確保が難しくなる。

景気循環理論について

1)金利は次の2つの方法で引き下げられる。
人々が預金量を増やす
中央銀行が人為的に引き下げる
2)企業家は低金利に反応して、新しいプロジェクトを開始する。そうしたプロジェクトは、金利の上げ下げに敏感な種類のプロジェクトである。高度な生産活動への投資が増える。例えば、鉱山経営、建設、金融資本などの分野で新しいプロジェクトが始まり、投資も増える。一般的な消費財よりも生産プロセスが長期にわたる資本財への投資が増える。
3)中央銀行による操作などの人為的な要因によって金利が引き下げられる場合、全てのプロジェクトが完成することはない。これらのプロジェクトすべてを完成させるだけの資源や資本を人々は貯蓄していないからだ。投資家たちは、持続不可能な方向へ生産活動を誤って導かれてしまう。
 通貨供給の操作の終了が早ければ早いほど、間違った投資は終了し、間違って配分された資源が持続可能な分野に再配分されるようになる。私たちがバブルを継続させようとすればするほど、不可避的にやってくる崩壊はより深刻なものとなる。

バブルの発生
1)間違った投資がなされ、現在の資源量では完成できないほどのプロジェクトが開始される。
2)同時に過度の消費が発生する。


日本の経済不況について

1980年代、日本でも同じようなバブル景気が発生した。これは貸出量が拡大したからだ。つまり、日本の中央銀行である日本銀行が、何もないところから通貨を作り出し、銀行に供給した。通貨供給量の増大に伴う金利の引き下げによって通貨が市場にあふれ、日本でバブルが発生したのだ。
1991年から1998年の間に、不動産価格は80%も下落した。その期間、日本銀行と日本政府は流動化を防ぐためありとあらゆる手段をとった。日本銀行と日本政府は金利を0に近づけた。
バブル経済を正すための市場の動きを邪魔したのだ。
従って、日本の生産構造は消費者の需要に応えられないままとなった。その結果日本は10年間経済不況に苦しんだ。
日本経済における経済不況の影響を最も受けた産業分野を研究してみるとオーストリア学派の景気循環理論の正しさが証明された。オーストリア学派の景気循環理論が正しいとすると、高度な生産段階の資本集積産業の深刻な落ち込みが予想される。そして日本のデータを調べてみるとその通りだった。最も資本集積的で消費財を生産する産業から、最も資本集積的でない産業を順に並べると、鉱業、工業、販売、サービス産業となる。そして、この順番がそのまま、景気後退の影響を受け、売り上げの落ち込みに苦しんだ順番となる。
日本政府の介入によって市場は歪められた。バブル経済は終焉を迎え、その崩壊が始まった時に起こる、資源の再配分を妨げたからだ
簡単に言うと日本政府はオーストリア学派が不況と戦う際にしてはいけないと主張する施策の全てを行ってしまったのである。
ポール クルーグマンのようなケインズ主義者たちが推奨するあらゆる施策をしてしまった。その結果経済不況が15年も続くことになった。ケインズ主義者たちは日本の施策をアメリカでも行うように求めている。しかし、日本では経済が回復していないのだ。
==
以上
ちなみに強調部分は引用者=私によるものだ。
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2009年08月12日

Decentralization doesn't mean small government

地方分権論というのがあるが、私はこれは根本的に間違っていると思う。
大前研一あたりが道州制を謳っていてそれに乗っかって言ってる面々も多いのだろう。
大前研一の地方分権論の目的として中央集権からの脱却ということがあげられている。なぜ中央集権から脱却するのかといえば、官僚の力が強すぎて社会主義的になっているからだという。
では、なぜ地方分権にすれば中央の官僚の力が弱まるのかが分からない。
財源が中央に行くのではなく、地方に行くからだというが、そうなれば地方官僚の権力が強くなるだけだ。
今のままだとまた官僚にうまくだまされ、中央政府も地方政府も両方太るだけの結果になる危険性が大だ。そうなると大前氏のアイデアではじまった東京都の新銀行東京の二の舞、もといその大失敗とは桁違いに凄惨なものになるのではないか。

また基本的な間違いとして、地方分権が手段でなく目的と勘違いされている。
地方分権をしなくても政府を小さくして税を小さくすることは可能であるし、
逆に地方分権をしても大きな政府となって税が大きくなる可能性もある。
仮に地方分権になっても今より大きな政府=大きな税金社会になっては困るだろう。
ようするに目的は地方分権ではなく、小さな政府=小さな税金=小さな規制社会である。
そもそも地方分権によって、今までの法システムがチャラになるわけではない。
地方分権を騒いでいる連中も、そんなこと想定すらしていないだろう。

小さな政府と領土の大小は関係ない。地方分権によって領土はたしかに小さくなるかもしれないが、税金が今より上がれば今より大きな政府だ。

可能かつ妥当な案として、地方に徴税権を移し、中央政府は地方から逆に年貢のような形で地方税収の数パーセントを取る形にし、中央政府の徴税権を廃止する。これによって、地方間での税金競争が可能になる。何もないド田舎なら税率を小さくすればいいのだ。それだけで人と企業が住民登録しようと移動してくる。
実際は登録だけで人は動いてこないかも知れないが、それでいいのだ。
公共事業ばかりやる地域は税金が高くなるから誰も集まらず結果的に税収も少なくなるので馬鹿な公共事業は出来なくなる。もしこのようなシステムになれば皆がなるべく税金の低い地域に住民登録するだろう。
実際にスイスでは自治体間に税率の決定権があり、それによって自治体間での税率を低くする競争があるらしい。

これによって、税は可能な限り小さくなっていく。もちろん、このように地方に徴税権を委譲するにあたって、一切の税率の制限を設けてはならないし、日本での移動の自由は完全に保障されていなくてはならない。これは憲法で保障されなくてはならない。中央政府は憲法の番人として存在すべきだ。
この場合の地方税率の均衡値は税率0%だ。誰も税金など払いたくはないし、税金による公的サービスも馬鹿高いので欲しいとは思わないからだ。
現実的には0%にはならないだろうが、このような徴税権などの委譲によって確実に小さい政府に名実ともになっていく。
また貨幣発行自由化を取り入れるのもいい。

アメリカのような連邦制の表層的な部分を真似るのではなく、本質となる制限憲法の思想を真似なければならない。地方主権などとんでもない。consitutionalismとはどこにも主権がないように意図して設計された仕組みである。
つまり自己=政府の権力に対し自己否定的な法を設計することによって、政府権力を制限する仕組みがconstitutionalismだ。

とはいえ、アメリカの制限憲法は結局失敗した面が大きい。20世紀になってもろくも崩れてしまった。
この理由としては、立法権力=議会を制限する権力が司法しかなく、その憲法の番人の司法が議会に比べて相対的にずっと弱い権力しかもたないからだろう。
憲法に立法府を制限する仕組みが足りなかったのだ。

議会は立法権力だけで絶大な権力を持つのではなく、徴税権力と結びついて初めて金を権力を同時に支配することになる。
だからミルトンフリードマンが言うとおり、徴税権に対する直接的な制限が合衆国憲法には最初から含まれているべきだったのだろう。
関税も徴税権の問題の一つだが、関税もミルトン フリードマンの言うとおり憲法で禁止しておかなくてはならない。
こういったアメリカの失敗を取り入れればconstitutionalismはまだ有効ではないかと思う。


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2009年08月09日

Meltdown

「メルトダウン」 トーマス ウッズを読んだ。
これはMises instituteのリバタリアンであるウッズが最近の金融危機についてオーストリア学派の視点から解説を行ったものでお勧めである。
この本の帯には、あのトンデモ大賞作家の顔がどでかく印刷されていて、かなりキワモノ的な本という印象を強く与えているが原著は優れた本であり、この本を読めばオーストリア学派の思想と考え方がよくわかると思う。私も今回の金融危機の実態について初めて知る内容が多々あった。
現代のオーストリア学派の入門書として、日本語で手に入る本の中ではかなりよいかもしれない。

作者のトーマス ウッズはハーバード卒業だが、シカゴ学派の多いリバタリアンの中でシカゴを経由せずにオーストリアンになった人のようだ。
翻訳は、あのトンデモ大賞作家の甥っ子の古村氏が全部行っているようで、若干硬くて誤訳誤植もところどころあるようだが、まじめな翻訳をしている。
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2009年08月03日

Defend the defenceless:Thank you for smoking


この映画は実にWitに富んだ洗練されたナイスな映画であった。お奨めだ。
タバコ会社のロビイストが弁舌で、反タバコの議員のキャンペーンに対抗するのであるが、
言っていることもWitに富んで筋が通っている。
これは、斜に構えた映画ではなく、反タバコキャンペーンの愚劣さをあざ笑った映画である。

この監督のJason Reitmanはやはり自称リバタリアンのようだ。
アイバン ライトマンの息子でもあるらしい。
posted by libertarian at 22:34| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月12日

Category of liberty?

リバタリアニズムに関する分類としては、帰結主義、功利主義、自然権主義などがあげられている。
私はあまりこういった分類は意識していないのだが、リバタリアニズムの研究者が作った分類であり、こういったカテゴライズは便宜的なものだろう。
これには、ノーマンバリーの「自由の正当性」で書かれた分類が影響を与えているのかもしれない。
この本は1980年代に書かれたもので、当時はレーガン政権で、ハイエク、フリードマンなどが脚光を浴びていた時のものと思われる。手元になくよく覚えていないのだが、この本では、アダムスミスからのリバタリアン系経済学者は功利主義ということになっていた。経済学者は、当然にutilityを問題にするからだろうか。
一方、自然権を前面に押し出すのは、法学系の論者が多いのかもしれない。
自然権を持ち出せば、面倒な分析的説明をしなくても一発で結論が出る点が”功利的”だ。
だが、自然権という概念は、メタな法概念であるから、これを経済学に適用はできない。
しかし、逆にメタな法概念がなければ法哲学は成立しないかもしれない。
また経済的=功利的な説明では、功利性の基準が定かでないため、どのような結論にも持って行けそうな疑念を抱いていると思う。バリーも功利主義的なリバタリアニズムに対して、より哲学的ななにかを求めているように思えた。
ハイエクなどは、どうなのだろうか?自然権論者ではないが、あまり功利主義的とも思えない。
いずれにしても分類とは便宜的なものだ。分類して何か分かったようになるのは間違いだろう。
私は、別にどっちもありだと思っている。問題がでるとしたら自然権=私的所有権による説明と、経済的=功利的な観点での説明の結果に齟齬が生じる場合だと思う。
anacapさんが書いているように、そういう状況もあるだろう。
http://anacap.jugem.jp/?eid=224

だが、それがそれほど深刻な問題にならないのは、それが取るに足らない現実問題だからかもしれない。
ポパーが言っているように、「純粋な哲学的な問題は、常に哲学の外に源を持ち、そうした源が衰えれば哲学的問題も滅びるのだ。」
正義が何かを論じることは難しいが、なにが不正であるかは直感的に明らかな場合が多い。自由もそれ自体は定義が難しいが、自由がない状態がなにかはすぐに分かる。そういう意味で、自由とは消極的概念だ。
自由が大きく束縛された状態=現実の社会があるから、リバタリアニズムの意味はあるのであり、またそれが純粋に哲学的な問題でもある理由だ。

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2009年07月07日

Antitrust problem and 7-11

7−11への公取の介入問題についてもう少し論じてみよう。
世の中には、独禁法が市場の競争秩序を守る市場寄りの法律だと、よく考えもせずに思い込んでいる人間が多い、、もとい、そんな人間ばかりだ。
単に独禁法の立法趣旨が競争的秩序の維持と謳われているから、それは例外的に市場寄りでナイスな法律だと思っているわけだ。

しかし、世の法律がその立法趣旨の文句どおりに機能するのであれば世の中に不正や不利益を蒙ることはなくなり素晴らしいのだが、残念なことにそんな魔法のようなことは起こりようがない。むしろ結果は往々にしてその逆に帰着する。つまり法律が不正や犯罪や不利益を作り出す温床になるのである。独禁法はその例外どころか、その典型である。
(*)ところでリバタリアニズムにおいて独禁法に対する周到な理論的な批判が展開されてきているのは常識である。

まず今回のFCへの公取の市場介入の問題の本質をどう捉えるかだが、私的な契約に対する介入が政府によって恣意的に行われることが問題だとする観点が一つにある。これはanacapさんが指摘しているとおり、世の契約は不完備契約であるのが常であり、不完備契約であることが政府介入の根拠にはならないというのは全く正しい。

さらに加えて、私が言ってるのは、仕入れ政策や価格政策に対する行政介入は価格統制に他ならないということだ。
”モッタイナイ”とかいう主婦的な感情はマスコミや大衆に訴えるかもしれないが、商売というのは常に様々なロスを伴うもので、製造ロスもあれば、在庫ロスもあればで、廃棄ロスはその一つにすぎない。ロスは少ないほうが良いに決まっているし、ロスを少なくする努力は常に行われているはずだが、それでもロスの発生は必然である。しかしロスとはコストの一つに過ぎないから、これをコントロールできればいいのである。
問題となるのはロスがコントロールできなくなるときだ。

また品質管理責任を食品〜流通業界に異常に求めるマスコミキャンペーンがある以上、廃棄処理はマスコミ被害に対するリスク管理の一環としての意味合いも強いだろう。

もとより商売の目的が利益である以上、問題は廃棄ロスではない。先に書いたように利益を最適化するためには目には見えない機会ロスを少なくすることが必要だ。そしてこのためには先に書いたようにむしろ廃棄ロスをやや増やす方向にするのが合理的なコントロールになる場合もある。↓
http://libertarian.seesaa.net/article/122339163.html
つまり、一部のフランチャイジーの店主は、弁当の廃棄によって自分が損をしていると思っているわけだが、そうでない場合よりも利益が多く出ていることを理解していないわけだ。
その一方で、多くのフランチャイジーの店主はFCのインテリジェンス機能の重要性を理解していて、見切り販売に反対しているようだ。
⇒ http://www.ryutsuu.biz/strategy/b062208.html

(*)もっとも、価格戦略、仕入れ戦略の具体的な意味が分かっているのはFCでも数人の担当者だけで、FCの会長といえども理解していないのかもしれない。セブンの会長は売れ残りをなくすことが重要だといっているらしいが、この発言の趣旨がマスコミ向けのジェスチャでないとすれば、問題を理解していないことになる。

また廃棄コストを全てフランチャイジー側に負担させているのがけしからんというが、これについても実際の仕入れ段階での裁量余地がフランチャイジーにあるのだから、フランチャイジー側が負担するのは当然だ。
仮にフランチャイザーの言うままの量を仕入れていたとしても、裁量余地があるかぎりはそれもフランチャイジー側の判断の結果といえる。
FCとは情報管理のインテリジェンス機能と、店舗経営という営業管理との分業がそのビジネスモデルの本質であり、仕入れ管理の責任は弁当に限らず最終的には店舗側にある。

こういう問題に対して、公取はもちろん、ちまたに多数いる反企業の(大学)教師連中も無責任なことを言い過ぎる。こういったFCの店舗経営など逆立ちしてもできない無責任な連中がFCの店主の利益を代表しているようなフリをするのは、大いに恥ずべきことだ。

独禁法がある限り、政府の恣意的で破壊的に無責任な市場介入が、無制限に、またいかなるレベルでも可能となる。
おそらく今、公取の活動を制限しているのはその活動予算だけに違いない。
今回の介入によっても結局損をするのは、7−11だけでなくフランチャイズにかかわる全ての人であり、消費者もそのメリットをいくらか失うだろう。
公取の数人の役人のちょっとした手柄にはなるかもしれないが、その他の人間は皆多かれ少なかれ損害を蒙るのだ。ただ失われるものの全体がどれだけの規模になるか、公取の役人はもとより誰にも正確には分からないだけだ。

ちなみに独禁法のような民法特別法を廃止した場合、こういった問題の処理は民法に還ることになる。
そして権力をかさにきた悪辣な不公正取引があれば、民法の領域で個別に裁くのが本来のあるべき姿なのだ。
さらに言えば、日本の場合は民法も裁判所も弁護士も,つまりは司法システム自体がまともなレベルでは社会的に機能していないのが諸悪の根源で、それがめぐりめぐって行政権によるほとんど無制限の市場統制や市場介入を正当化する口実を与える結果となってしまっている。


#なお、私はFCとは一切の利害関係がないし、たまにコンビニおにぎりの1顧客であることはあるが、特に贔屓のおにぎりもFCもない。
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2009年06月24日

To be a libertarian

自分がリバタリアンであるというからには、リバタリアン的な生き方を選ばなければならないのかもしれない。
これは他人にリバタリアンたれというのとは別で、単に自分がリバタリアンとして生きればいいわけだ。
では、リバタリアンとして生きるというのはどういうことか?
少なくとも、リバタリアンとしての資質はegoisticということではないだろう。正義の主張は単に自分の好き嫌いで行動するという下等で幼稚なレベルとは全く異なる。また反社会的ということでは決してないだろう。リバタリアンは社会の理想である自由を主張してやまない存在である。
しかしリバタリアンの主張する正義の感覚とは、微妙で難しいものだ。
例えば、自分がタバコがいかに嫌いでもそれを政府の強制権力を用いて禁止すべきでないといった主張はなかなかに難しい大人の感覚である。→その点、先日オバマが承認したタバコ規制の連邦法案は最悪だ。日本にも飛び火することは間違いない。

だが、リバタリアンであることは単にリバタリアンな正義を主張すること以上に、リバタリアンとして生きるという難解な課題を本人につきつける。
私もリバタリアンとして生きているとはとてもいえない。まずは経済的な自由を獲得することが実は結構重要でかつ難しいことだと思う。
その方法はいろいろだ。かならずしも大富豪のように有り余るお金がなくてもいい。経済的自由とはもう少し低いレベルからあるはずだ。場合によってはニートであっても経済的自由はあると言える場合もあるだろう。
とはいえ、あまりプアなのも惨めなので、経済的自由をもう少し高いレベルにおいて、経済的自由を達成する努力をするべきなのだろう。もしそれが達成できればリバタリアンとして充分なのではないか?
私もほんとに困ったリバタリアンから助けを求められれば、リバタリアンらしい経済的自由を得る方法をサジェストできればいいと思っている。もし、困っているリバタリアンがいればこのBlogに一報入れてください。リバタリアンらしいミラクルなサジェストをこっそりとしたいと思っている。

そして、ここでもポパーの箴言は意味を持つ。
「人間的でありたいと願う以上、我々のとるべき道は唯一つ、開放社会(Open society)への道しかない。我々は未知、不確実、不安の社会へ行かなくてはならない。」
posted by libertarian at 00:28| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月14日

Freedom and the law

ブルーノ レオーニは、イタリアの偉大な法哲学者だが、以前この”Freedom and the Law” を読んだとき、ハイエクの影響があると思ったが、事実は逆でハイエクがブルーノ レオーニに影響されていたようだ。
この論文は長いが、非常に重要な論文で興味深い。
いつか、翻訳してみたいものの一つだ。

Bruno Leoni, Freedom and the Law (LF ed.) [1961]
http://oll.libertyfund.org/?option=com_staticxt&staticfile=show.php%3Ftitle=920
posted by libertarian at 03:57| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月06日

How to abolish regislations

本日、蔵さんの「国家はいらない」を再読した。
WEBで原稿が前に公開されておりそれを読んでいたので、本は発売時に買ってはいたがちゃんとは読んでいなかったのだ。これを今日、喫茶店でじっくりと通して読んでみた。
もとより記憶の悪い自分としては、前に読んだことはかなり忘れていたので、ほとんど初めて読んだような新鮮な印象で読むことができた。

#WEB版はこちら↓
http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/noneedforthestate.htm

日本の政府組織の社会主義的腐敗の実態はすさまじいもので、こういった事実を読むたびに暗澹たる気持ちになるし、今ではこういった認識を持っている人はリバタリアンでなくとも多いだろう。
だが、なぜこういった構造的腐敗をいつまでも全く修正することができないのだろうか?
むしろ問題は悪くなる一方で、政府の統制圧力、規制権力の拡大が顕著である。
これは第一義的に法律が問題である。その表現型である経済や税や公共事業の問題は二次的な問題と考えられる。→バスティアの「法」を読むべし。

一応、現行法上でも法律を廃案にすることは出来る建前であるが、実際はこれは殆ど無理であり、あまりにも多くの法律、規制が多すぎて、一つ一つ変えるなんてことは事実上の不可能なのが現実だ。
あれほど不評な個人情報保護法ですら、廃止しようという声が高まらない。

#ちなみに法律には六法をはじめとして沢山あるが、さらにその中の一条々が法律である。日本の法律の全てが全部で何条あるのか知らん。

代議制民主主義のスキームとは、代議士をたてて法律を作成する仕組みのことであるが、余計な法律を作ることばかりで、法律の廃棄の仕組みは構造的に非常に弱いのである。
そのため立法は悪法であっても廃棄されず、それが政府と政府に寄生する組織の利権として定着、固着化し、行政組織が幅をどんどんきかせることになる。
行政は法律の執行機関でしかないが、役人は選挙で選ぶわけでもなく、国会からのトップ人事の間接コントロールをうけるだけだ。しかし実際は行政組織によって国は完全に支配されコントロールされている。
また司法も司法官僚制度であるから、他の行政組織と大して違わない。

別にリバタリアンでなくとも、このような行政の実態、不正な規制と既得権益による税の乱用を許せないと思う人間は多いだろう。
さらに昨今ではコンプライアンスが叫ばれ、法律や規則には全て盲目的に従順に従えというのが今の作られた風潮である。Deregulation=規制撤廃が唱えられた数年前とは、180度ベクトルがひっくり返ってしまっている。
コンプライアンスキャンペーンには、このような法律や規制そのもの、つまりは既得権益を問題視する国民の批判を圧殺する意図が背後に明らかにあるのである。
いかに人気のあるタレントであろうと、つまらない”違反”を根拠に社会的村八分にすることで、集団同調圧力を極限的に高めようとしているわけだ。

村社会的な集団同調圧力による人間管理から人間を自由にするのが、本来の法であり、法のありがたさであった。しかしコンプライアンスというスローガンは、法によって集団同調圧力を高める目的で用いられている。コンプライアンスとは、反ー法であり反自由主義=全体主義を意味する。

このような現実を打破するためには、スピードを重んじれば暴力革命が必要となり、ゆっくりやろうとしたら1000年経っても変わらないだろう。
だが、問題は暴力革命で既存の法律をひっくり返したところで、その後の体制の善し悪しはクーデターを起こした連中の一存で決まるのがかなりリスキーなことである。

次なる方法は憲法の改正である。この本にも書かれているが、ミルトン フリードマンは「選択の自由」の中で憲法の修正案を示している。
職業選択の規制禁止、外国貿易の制限の禁止、特定の生産活動への補助金の禁止といった広範な禁止条項を憲法に埋め込むことを提案していたわけだが、これは合衆国憲法が制限憲法、つまり国会の立法権力を制限することを目的とした憲法である趣旨にも則っている。
これと同様に日本の憲法の中に立法権の禁止制限条項を盛り込むのである。
そして、さらに明示的に抽象的違憲立法審査制度を憲法上に明確に定義する必要がある。今の憲法では抽象的違憲審査がないため立法の違憲判断を裁判所は原則的にできない。またドイツのようにそのための憲法裁判所を作るのがいいだろう。
こういった立法ベースがなければ、地方分権などはかえって日本の社会主義を強化するだけなのは目に見えてる。大体、頭の悪い人間が行く不人気職場の典型である地方公務員連中のすさまじいお手盛り給料の実態を知れば、国家公務員より遙かに偏差値の低い馬鹿からなる地方公務員に権力を委譲することの無謀さがわかるはずだ。

こうして、制限憲法に日本の憲法を改正し、それによって立法権力を制限する仕組みが必要だ。
これができれば、法律を廃止する法的基盤ができる。こういった消極的な立法権力を司法に与えるのは悪くないだろう。
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2009年05月26日

Libertarian surrealism?

anacapさんが紹介していた「市場を創る」を読んだ。
anacapさんの紹介している本はどれも当たりだが、こういう面白い本を探すのにもセンスがあるのであろう。私の関心ともかなりオーバーラップするところが多く興味深かった。
この本のおもしろさは、豊富な実例紹介だ。単に経済学の理論紹介に終わっている本が多い中で、経済理論を補強してくれる興味深い事例が満載だ。
しかし、次の点はたしかに少し不満だ。

http://anacap.jugem.jp/?eid=127
おもしろいのは、ここまで市場万歳の本なのにマクミランはリバタリアンを「現実から遊離した推論」「現代経済はリバタリアン原理では機能しえない」として嫌っているということだ。(わざわざ持ち出しているところはリバタリアンと思われたくないのだろう。)市場に対しては民主主義と同じで部分的万歳しかしないというのである。通常の経済学者同様、財産権の保護と公共財供給のために政府は必要である。終わり。となっている。

池田さんみたいな電波問題に関心がある人でも”財産権の保護と公共財供給のために政府は必要である。終わり。”となるが、これは要するにリバタリアニズムをちゃんと知らないからだろう。というか基本が良く理解できていない。
政治的現実の先に理論をすすめることは、ある意味、現実的でないのは事実だが、これは人類が太陽系より外に行くことはしばらくないだろうからといって宇宙論の研究対象を太陽系だけに限定するのと同じ程度に現実的な判断だ。
しかし、学問である以上、問題としているのは理論的な真実であるわけで、”その先”を前提とした研究をしなければならないのは自明なのだ。
ハイエクもミルトンフリードマンの政治的な現実主義を学者の態度としてダメだと批判していた。
経済学者とはあまりに御用学問であるために、そのようなこともわからなくなってしまったのだろうか。
アメリカではリバタリアンを自称する超一流の学者も多いが、リバタリアンを自称することが非現実主義者の烙印を押されるように思っている人も多いのかもしれない。

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2009年04月26日

Beyond Folk activism


David Friedmanの息子のPatri Friedmanが長文のエッセイを載せている。

Beyond Folk activism
http://www.cato-unbound.org/2009/04/06/patri-friedman/beyond-folk-activism/

天才的理論家のリバタリアンの家系に生まれた人間として、パトリフリードマンは次なる実践的戦略を真剣に模索しているようだ。
たしかに、もはや理論は十分すぎるほどにある。自由主義は正しいことは日本を除いて学問的にも世界的な共通認識である。
しかし政治は理論的正しさを無視するインセンティブが強烈に働くので、リバタリアニズムは政治的に実現するのは不可能、もしくはほとんど無理な正論といえる。ミルトンフリードマンが晩年のインタビューで言っていたように、理論では自由主義は勝利したが今日の世界は以前よりも統制主義的になっている。実質的に勝利したのは自由主義ではなく、社会主義なのだ。

また、おそらくハイエクが生きていたらconstitutionalismは今度こそ完全に終わったと思うに違いない。
制限政府という仕組みは、デモクラシーの本質である衆愚制度によって比較的に容易に壊されてしまうものであることが明らかになった。
今回の危機立法に関する、アメリカの連邦最高裁の沈黙は十分に不気味なものだ。

あのNolanチャートを考えたLibertarian Partyを創設したDavid Nolan
ももはや政治的にリバタリアニズムを推進する戦略はあきらめるべきだといっているという。↓

Nolan, the man who founded the Libertarian Party back in 1971, now calls for libertarians to give up on the strategy of electing candidates! Even Ron Paul, who was enormously popular by libertarian standards and ran during a time of enormous backlash against the establishment, never had the slightest chance of winning the nomination.

そこでリバタリアンは戦略を考え直す必要があるわけだ。
パトリフリードマンの言っていることは基本的には、リバタリアン的でない人にリバタリアニズムを理解させることは諦めて、リバタリアンは独自に別の世界を作るという方向の実験なのであろうか?
それが正解かもしれない。


posted by libertarian at 14:19| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月10日

Cut civil serpent at first

日本の公務員の給料は犯罪的に高い。お手盛りもいいところで、ぼったくり犯罪状態だ。
地方公務員、例えば世田谷区の職員ですら40歳平均で900万円以上の年収があるらしい。
これは大企業の製造業平均を大きく上回るだろう。

公務員を一人養うのに、どれだけの雇用が犠牲になっているだろうか。
彼らの仕事の質は、アルバイトでも代替できるだろうし、パートや派遣でも代替がきく。
そういった低賃金労働の年収が仮に200−300万円とした場合、公務員を一人首にすれば3人雇用できることになる。大企業の新入社員も最初の数年はそのくらいだろう。
減税にあわせて公務員を首にしてば、それだけで民間の雇用を増やす効果があるわけだ。
正社員の雇用規制が強いといわれているが、公務員の職業保証はそれどころではない。
犯罪を働いても簡単には首にできないのが公務員なのだ。
だから、正社員の解雇規制を問題にするよりも、減税とそれに合わせた公務員削減を考える方が重要だ。
税の多くは、公務員、準公務員の人件費だから、減税に合わせて首を切れるようにする必要がある。
そうやって支出を抑えることは、当然の話だ。
そもそも役所というのは社会における完全なる非生産部門だ。
その部門に日本全体で、国家公務員、地方公務員を合わせて530万人以上いる。
http://www.esri.go.jp/jp/archive/hou/hou030/hou21-1.pdf
これは労働力人口6600万のほぼ10分の1近い。
首になった公務員はどうすればよいのかといえば、一人首にすれば平均、3人の雇用が生まれるのであるから
その中の一人になるか、もちろん転職してもっと高給をもらってもよい。
公務員改革はこのように非常に大きな意味を持っている。
まず公務員の雇用保障の特権を剥奪することが必要だ。
民間はその後で十分なのである。
posted by libertarian at 21:54| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月08日

Donald Tusk

ポーランドの首相Donald TuskはHayekianらしい。
Misesの記事に載っていたのを引用しておこう。
Donald Tusk ,Hayekian
http://blog.mises.org/archives/009398.asp

Donald Tusk

Interviewer: "In the fight with the financial crisis, are you a Keynesian or a Friedmanite?"


Prime Minister Tusk: "The problem with these theories is that they serve well in thought, but they don't serve well in practice. If I had to identify myself with someone, at this time it would have to be with Friedrich von Hayek who, talking about the business cycle, highlighted the fact that every artificial boom caused by the expansion of credit by banks works in the end against itself. Today in the philosophy of operating American financial institutions there are too many footprints of the Keynesian tradition of regulation, such as intervention for achieving - in effect - only temporary results."

こういったインテリジェンスを感じさせる発言を日本の政治家に求めてもだめだろう。

Tusk氏の顔を見るだけでVIVIDな知性を感じるではないか。
また、この発言からでもTusk氏は、ちゃんとハイエクの著書(貨幣発行自由化論など)を読み込んでいることがわかる。

posted by libertarian at 19:47| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

The Crisis in 1920 and 1930


Robert Murphyによる次の記事は興味深い。

Banks Should Raise Prices in a Recession
http://mises.org/story/3327

このarticleでは、アメリカの1920年の危機と1930の危機の金融政策の違いを論じている。
1920の不況というのはあまり聞かないが、実は1920−1921にもかなりの規模の不況が起こっていた。失業率が1921には11.7%にもなっていた。しかし1922には失業率は6.7%にまで低下し、さらに1923には2.4%まで急速に回復した。
また1920年6月にはじまる記録的な高率の公定歩合政策が、第一次世界大戦の戦争景気に沸いた悪性の投資を締め出す結果になった。
さらにアンドリューメロンによる驚くべきレベルの大規模減税によって、アメリカの1920年代はRoaring Twentiesとよばれる空前の好景気に沸くこととなった。

一方、1930の危機では不況はきわめて長期化し、どんどん悪化していったのは周知のとおりである。
この違いの原因はなんだかったかを論じているわけだが、結論として、1920の危機では公定歩合を大きく上げ、物価を上昇させたが、1930の危機では逆の政策がとられ、公定歩合を記録的な低さにし、大規模増税を行ったのが原因だとする。

現代ではケインズというよりむしろミルトンフリードマンのおかげで、不幸にも流動性危機の際には中央銀行は金利を下げ、マネーサプライを大幅に増やすべきだと考えられている。
ライオネル ロビンズはミーゼスーハイエクのビジネスサイクル理論の観点から次のようにに書いている。

”Now in the pre-war business depression a very clear policy had been developed to deal with this situation. The maxim adopted by central banks for dealing with financial crises was to discount freely on good security, but to keep the rate of discount high.

Similarly in dealing with the wider dislocations of commodity prices and production no attempt was made to bring about artificially easy conditions.
The results of this were simple. Firms whose position was fundamentally sound obtained what relief was necessary. Having confidence in the future, they were prepared to foot the bill. But the firms whose position was fundamentally unsound realised that the game was up and went into liquidation. After a short period of distress the stage was once more set for business recovery.”

つまり、公定歩合を高止まりさせながら、よい証券には自由にdiscountをさせた。
こうすることで、財務状態のよい会社は将来の展望がよくなり、逆に悪い会社は、自ら倒産するしかないと悟ったというわけだ。

今は、良い資産と悪い資産が糞味噌一緒状態で、これをいかに分離するかということが難問とされているが、公定歩合を高くすることで、これは自然に解決する可能性があるという結論だ。
posted by libertarian at 18:40| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Libertarian policy save the crisis

今回の金融危機に対するリバタリアンの主張というのは基本的にぶれがない。
つまり今必要なのは、次の行動である。

・政府支出を劇的に下げよ cut government spending
・金利を上げろ。 raise interest rates
・大規模減税を行え。(税を撤廃せよ)cut tax
・規制を撤廃せよ。cut regulation

こうすることで、市場は自然と回復することになる。
今必要なのは、このような解毒治療だ。
ここで減税と政府支出の削減は一体のものである。
さらに政府支出の削減の一つとして、役人の首をcutすることが当然に必要だと私は思う。

つまり、失業政策として必要なのは、失業者を救済することでなく、役人を失業させる政策なのだ。

今世界的にやられていることは、すべてこれと正反対のことだ。
これによって、人為的に危機は長期化し深刻化する。
今回の危機に対して、10−20年後に行われる、”学術的分析”の結果は、おそらく1930年代の不況に対する今の分析結果と同じ結果になるだろう。

posted by libertarian at 15:49| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

The Power of Names

言葉の力というのはきわめて危険なものである。
D.Friedmanの次のポストにあるように、ある種のネーミングはそれ自体に絶対的な価値評価を含んでいて、それに反対することを無力化する。

Stimulus: The Power of Names
http://daviddfriedman.blogspot.com/2009/01/stimulus-power-of-names.html#links

DFが善の意味をネーミングに含んでいるとして挙げているのは、foreign aid 、aid to education 、right to life ,pro-choiceという言葉がある。またオバマ政権のstimulusも同様だとしている。
一方でpollution=汚染には、悪の意味がはじめからある。

マスコミや政治では、このような言葉の力を不正に駆使することが日常と化している。
メディアはこのように言葉の力を暴力的に駆使することで、政治的な力を得ているわけだ。

ナチスも共産主義者もこのように言葉の力を可能な限り暴力的に使った。それは言葉の意味を破壊することも含んでいた。これをGeorge OrwellはNew speaksと呼んだ。
今は、またこのnew speaksが広まりつつあるような気がする。
たとえば、次のような言葉だ。

自由主義は、自由を破壊する。
市場主義は、市場を破壊する。

といった、マスコミやゴミ大学教員によるスローガンを最近よく耳にするようになった。

ハイエクが自由主義を論じる際に、大きな困難を覚えたのは正確に使える言葉がないということだったらしい。(Fatal conceipt)
左派によって、言葉が破壊され、それを元の意味で用いることができなかった。
そのために、ハイエクは古代ギリシャの言葉、コスモス、タクシス、ノモス、テシス、カタラクシーといった言葉をあえて使ったのである。

posted by libertarian at 15:04| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする