2008年02月21日

Gun Control and Constitution of USA

Becker-Posner Blogで、銃規制の問題が論じられている。
February 18, 2008
Can Gun Control Laws be Effective?
http://www.becker-posner-blog.com/
アメリカでは、こないだのイリノイの銃乱射事件や、コロンバイン事件など、異常者による派手で悲惨な大量殺戮事件が後を絶たない、、というほどに、頻繁でもないのだろうが、こういった事件は印象が強烈だ。

ベッカーは、このような自殺志願の異常者へ銃が渡らないようにする手段として、合法的な銃販売に対する大幅な課税のアイデアを出している。これはタバコなどの規制を同様の仕組みだ。
課税による価格コントロールによって銃の需要に対するネガティブフィードバックを起こそうというアイデアである。 たしかに一丁のピストルが100万円であれば、一般人の需要は減ることは間違いない。つまり、ベッカーは次のような負のフィードバックを期待しているわけだ。
銃の値段が高くなる→気軽には買えなくなる。(だが禁止ではないのでどうしても欲しい人は買える。)→さらにブラックマーケットへの銃の供給者に対する厳罰化→ブラックマーケットの銃の価格が上昇→表と裏の市場で銃の価格が上がり需要が減る→銃の保持者が減少→他人の保有が減れば銃の所有ニーズが減少→銃の値段が高くなる。・・・・・
Beckerのアイデアは、税と、法律の厳罰化の2つの仕組みを用いた価格コントロールであり、よくある考え方だろう。

これに対してPosnerの意見は、ベッカーの意見に対する補足的なものだ。
ポズナーは、銃のような殺傷力の高い武器が、アメリカで1億丁以上も所有されているのは、アメリカの歴史的な背景があるという。

1.The United States was born in a revolution in which the arms used by the revolutionaries were to a large extent privately purchased and owned.
アメリカ合衆国は、革命で生まれたが、その革命で使われた武器の大部分は個人的に購入され所有されたものだった。

2.Hunting was widespread
アメリカでは狩猟が(貴族以外にも)広がった。

3.Hostility to standing armies led to the adoption of the Second Amendment to the Constitution, which created a right to bear arms tied to a policy of relying on the state militias as a defense not only against foreign invaders but also against domestic tyranny.
国内の専制に対する防御として、州民兵への武装が、憲法のthe Second Amendmentに採択されたこと
といったことを挙げている。
もとより今回のイリノイ事件やコロンバイン事件のように、自殺志願動機をもった異常者の犯罪に対しては、厳罰化に意味がないのは明らかだ。人を殺しておいて自分は銃で”安楽死”をするわけだからだ。だから価格メカニズムによる抑制を考えているわけだ。原則禁止はしないが、総需要は抑えられる。

いずれにしても、アメリカは憲法で今のところは銃を所有する権利は保障されている。
私の考えでは、価格を上げたところで犯罪者が銃という殺傷能力の高い武器から、刃物のような武器にシフトするとは思えない。 だがベッカーやポズナーは銃が減れば、そうなるだろうことを期待している。
むしろ銃の価格があがれば、利益率が高くなり、インセンティブも当然に増大する。これを厳罰化によって止めることは麻薬同様にできないだろう。
かえって値段が高くなればなるほど確信的犯罪者に銃が渡り、その他の人は無防備になるかもしれない。

銃擁護派は、銃が人を殺しているのではなく、人が人を殺すのだというが、これも事実ではある。
銃という武器は、ナイフよりは殺傷力が強いが、爆弾よりは弱い。全ての人が爆弾を護身用?に持っているとしたら、普通クレージーな状況と思うだろうが、銃は刃物に近い感覚なのだろうか?
だが、これもマシンガンのような重火器になると、所有を認める意味があるとは思えない。
ここらは、社会的に認められる護身兵器としての感覚的なものがある。

日本でも豊臣秀吉が刀狩をしたのは、民衆の反乱を抑圧するためだった。実際、刀狩によるその後の日本に与えた影響は絶大だったという説もある。一方、アメリカ人は政府権力を信用しないことを憲法の根本に据えたのだ。

やはり、このような悲惨な事故が起ころうとも、政府を信用して、反抗の爪を抜かれるようなまねはするべきではないのだろうと思う。
このようなことを言う体制派の宮廷知識人を、リバタリアンは信用しないだろう。

 
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2008年02月03日

Why the rich get richer

Why the rich get richer
http://money.yahoo.co.jp/column/company/ead/celebrated/person4/person4_list1.html

上は、YahooFinanceでのロバート キヨサキの連載
おすすめだ。なかなかキヨサキの書くものは奥深い。

しかし最近、お金の運用がらみの本をよく読むが、この手のジャンルは極めていかがわしい。「お金は銀行に預けるな」というのもざっと読んだが、実につまらない本だった。


おそらく株をランダムウォークだと捉えれば、取りうる最善の戦略は、一定額の定期的投資になるのだろう。Topixを一月毎に、決められた額だけを買うとかだ。
これは、相場が下がっても上がっても投資額を一定にし、定期的にサンプリングするのが味噌である。
これは、最善の分散投資になる。
こういうのもやっておくといいとは思う。
だが、株の本質がランダムウォークだというのは、「森を見て木を見ず」という気がする。
株式制度の本質は、investmentである。個々の会社に対する投資はinvestmentであって、speculationではない。

要するに、投資する対象が多すぎて、その実態と内容をほとんど理解しないで投資せざるを得ずinvestmentができないのが問題なのだろう。
プレーヤーがinvesterではなく、speculatorが圧倒的に多いためにその挙動はrandomに見える。
株がランダムに見えるのは、時間軸の現象として株を見るからだ。もとより人間活動は全て時間軸の中にあるが、個々の活動の成否は必ずしもランダムな自然現象ではない。
うまくやったものは成功するべくして成功するし、逆も真なりだ。

あと、Nicholas Talebの本は、リバタリアンサイトでは好意的に扱われているようだが、Fooled by Randomnessを書いたTalebを、Foolと呼ぶリバタリアンもいる。
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2008年01月27日

Minimum Wage

最低賃金の引き上げが、またぞろ民主党〜共産党など左派勢力から国会で取り上げられているようだ。
こういう入門レベルの経済学を理解していない人間が、国会議員となっているのは困った問題だ。

しかし、この最低賃金引き上げというのは、主にアルバイトなどを対象としたものだが、
景気のいいときは、正社員に対しても、組合がベアの引き上げを毎年行っていたのであるから、これも最低賃金の引き上げと同じような効果があったろう。

だが、最低賃金法もよくよく考えると、なかなか難しい。マクロに見れば、最低賃金の引き上げは、雇用者側にとっては、雇用抑制のインセンティブになり、失業者を増加させる。しかし採用される人間のメリットと、雇用抑制によって採用されなくなる人間のデメリットを考えなければならない。
採用されている人間にとっては、賃金の引き上げは、それが隠れたインフレによるものでない限りはラッキーなことだ。採用されないリスクと、賃金の上昇によるメリットによる主観的兼ね合いが問題となる。そして、採用されないリスクは目に見えないので、過小に評価されることになる。
また、一方で最低賃金の引き上げで採用されなくなった人間には2種類ある。
つまり、その賃金でもやはり働く気のない人間と、最低賃金法以下の賃金(例えば800円)でも採用されない人間である。

おそらく、最低賃金法のような一律の全国規制が破壊力をもつのは、むしろ地方で顕著だろう。都市部で賃金が高くなるのは経済原理上、自然なことであり、地方に行くほど賃金が下がるのも当然のことだ。だが、地域差を容認しない最低賃金規制では地方の雇用抑制のインセンティブとして強烈に作用するはずだ。
これは、地方の労働者にとっては、都市部に移動するインセンティブになり、地方の過疎化を促進する。そして、ますます地方は住み難い環境になるということだ。

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2008年01月26日

Nazism and CSR

How to Bureaucratize the Corporate World
By Ben O'Neill

http://www.mises.org/story/2832

このarticleは、私が以前からこのBlogで批判している内容とほぼ同じだが、昨今のCSR論議は、日本だけでなくアメリカでもかなり酷い状況のようだ。
日本の、またアメリカでも、全体主義化の基礎となる空気、もしくは前提として、このCSR論がある。もともとこのCSR論はドイツのナチスが唱えていた、企業の社会的責任論の焼き直しなのだ。
CSR論は、極めて危険なイデオロギーであり、何の法的根拠もないデマゴギーだ。
これは、社会主義論理そのものといえる。
昨今の健康増進法やら、消防法による喫煙者の差別、排除、道交法の厳罰化また内部統制等といった全体主義的管理思想の根っこには、このCSR論が存在する。

CSR論とは、株主=shareholderの所有権のprimacyを破壊し、stakeholderという”公”の別名を持ち出し、公のために企業は存在するという論理であり、これは、露骨に社会主義、全体主義の論理に他ならない。

しかし、もし、社会の99%の人が全体主義、社会主義を好むとしたら多数決で明らかに全体主義、社会主義の世の中になるだろう。それはそれで極めて合理的だ。
だが、それを許さないのが正義というものなのだ。
本来の法が、所有権と自由を原理としてミニマムな基準であろうとしているのは、この残りの1%の人間の正義を守るためともいえる。その点、従来の私法はそれなりによくできている。問題なのは、こういった私法のもつ消極的な意味が、法律家にも理解されなくなったことだ。
法律が重要なのではなく、それが示す精神=正義が重要なのだというのが、V for VandettaのVも言っていることだ。

 
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2008年01月21日

Greenspan and Libertarianism

アラン グリーンスパンが、日経に連載しているのは知っていたが、私は新聞は一切読まないし、買わないため読んでいなかった。
だが、グリーンスパンが日経にリバタリアニズムについて述べている部分を、ネットで見つけた。
これは、当Blogを読んでいる人には、周知のことであろうが、グリーンスパンの言葉にはやはり重みがある。

個人の自由を尊重し、国家の介入を厭う、今ではリバタリアニズムと呼ばれる考え方が私の価値観になった。これはまさしくランドの考え方であった。純粋な意味では、こうした考え方を持つ米国人は多数派とは言えないだろう。だが、指摘しておきたいのは、この基本的概念は米国憲法の支柱になっており、米国社会の重要な一面にもなっているということだ。アラン グリーンスパン(日経1/9/2008)

ここでグリーンスパンが米国憲法の支柱になっているというのは、制限憲法=constitutionalismのことであり、さらにはクラシカルリベラリズムのことだ。

ところで、グリーンスパンは、本音では金本位制(gold standard)を今も支持しているようだ。
Fedの議長であった人間が、在職中はリアリズムに突き動かされていても、リバタリアン的な信念を失っていないのは面白い。

http://blog.mises.org/archives/007652.asp


次のURLにはグリーンスパンが40年前に書いた金本位制について論文が載っている。
Gold and Economic freedom
http://www.usagold.com/gildedopinion/greenspan.html

"An almost hysterical antagonism toward the gold standard is one issue which unites statists of all persuasions. They seem to sense-perhaps more clearly and subtly than many consistent defenders of laissez-faire -- that gold and economic freedom are inseparable, that the gold standard is an instrument of laissez-faire and that each implies and requires the other."

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2008年01月15日

Evangelist of libertarianism


無政府社会と法の進化
蔵 研也 著 木鐸社

蔵氏の本をやっと手に入れた。
木鐸社の立派な装丁の本で、学術的な雰囲気が漂っている。(^^)
そういった高尚な本の前書きにkyuuriという名前が出てきたので、少し気恥ずかしさを感じないでもない。(^^;
まだ読んでいないが、ゆっくりじっくりと再読させていただこうと思っている。

やはり、リバタリアニズムの布教=evangelという点では、アカデミズムの中での議論が極めて重要だ。そのためには、理論武装、論理武装をしなければならない。
そもそも一般大衆なるものに布教することなどは何もないと考えて間違いではない。
もし、リバタリアニズムに関心がある人間がいたら、その人間は決して一般大衆ではないのである。

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2008年01月13日

V for Vendetta


V for Vendetta をDVDで見た。
舞台はイギリスだが、アメリカのハリウッド映画。
マトリックスのウォシャウスキー兄弟が作っている。
テーマは、まさにリバタリアニズム的な自由だ。
映画そのものの出来はいまいちだが、こういうテーマをもつ映画はめずらしい。
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2008年01月08日

Golden Age

ジョン C.ライトは、リバタリアンSF作家である。
大体、SFというのは、社会主義的な社会を理想としたような話が多いので、私はSFは苦手なのだが、この人の作品でゴールデンエイジを読んでみた。
どうもイメージのつかめない本で、なかなか物語りに入り込めなかったが、リバタリアン的な主張がそこにいろいろと織り込まれているのは理解できた。結構分厚い本であるが、これは3部作の1冊目。しかし、前置にしては長すぎる感じがある。

気のきいたセリフをメモしておく。
===
その代価として社会をうまく飼いならさなくてはならないのなら、想像力のいらない予測可能なものにし、意気をくじき、夢をもみ消せばいいのだ。

この世界にはもはや正義もなければ不正もない。マシン知性が我々を監視し、われわれが互いに危害を加えないように取り計らっている。もう道徳はなんの意味ももたないのだ。
彼は楽しい人生を送ることができる。ただ求めさえすれば。ただし、それはもう彼の人生とはいえないだけだ。

私達があなた自身の人生の所有権を支配したとすれば、あなたの人生は結果として私達の所有財産となり、あなたは結果として、その人生の単なる管理人か、管財人となってしまうでしょう。そうなってしまう方が人生を大事にするとお思いですか、それとも軽んじると?そして、人生を軽んじるなら、もっと大きなリスクを冒し、もっと自滅的に振舞うのでしょうか?
そうではなくて、人間ひとりひとりの人生がその人自身のものであれば、実験するのは自由ですし、リスクにさらすのは自分のものだけ。気の済むまでやればいいのです。

我々の社会は人類の自由という至上の価値の上になりたっており、それはすなわち自ら進んで負わないかぎり、誰もが他の者に対してなんの義務を負うことはないということだ。

ぼくが大人だとすれば、成功する自由をもつ一方で、同時に間違いを犯す自由を持たないということはできないんです。

お前がさっき言った自由のパラドックスは私達の社会全体に当てはまる。私達は自分自身を傷つける自由なしには自由で有り得ない。
===

書きながら思ったが、「この世界にはもはや正義もなければ不正もない。マシン知性が我々を監視し、われわれが互いに危害を加えないように取り計らっている。もう道徳はなんの意味ももたないのだ。」というのは、意味深い。ライトは法律家でもある。
つまり、行政が我々を法律やルールで監視し、われわれが互いに危害を加えないように取り計らっているということは、法律による道徳の否定といえるのだ。道徳という消極的な価値を、法が否定することになる。
そして、道徳という消極的な価値がなくなれば、その社会に自由はない。

 
posted by libertarian at 09:33| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月19日

Hello Tokyo Tom

Tokyo Tomさん、はじめまして
コメントとTomさんのBlogを拝見しました。
そこでJeffrey Tuckerさんがコメントしていたように、Tomさんの主張のポイントはよく分からないですね。

地球温暖化に対する環境統制の問題を語るのに、climatologistである必要はありません。
つまり地球温暖化問題とは、一つに純粋な科学上の研究テーマであり、もう一つはその研究結果からくる予測を根拠とする政府統制の問題です。mises blogやeconlogで扱っているのは後者の問題です。2つの問題を同時に議論すると話が混乱しますね。

IPCCの地球温暖化仮説が正しかったとしても、地球温暖化にはメリットーデメリットがあります。
こういった便益の問題に対しては、経済学的なアプローチが必要で、むしろclimatologistの扱う範疇ではないでしょう。これは、地球科学上の事実関係とは、ある程度独立に論じることが可能です。
さらに、地球環境のコントロールを口実に、政府権力によるコントロールを用いようとすれば、これは当然にリバタリアンが反論すべき問題になります。

 
posted by libertarian at 04:44| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月15日

Cato multi linqual website

Cato研究所が、世界各国語でのリバタリアニズムのサイトを開いた。
スペイン、ロシア、アラビア、ペルシア、クルド、中国、ポルトガル、スワヒリ語のサイトだ。
残念ながら日本語バージョンは今のところない。

http://www.cato.org/foreign/index.html
posted by libertarian at 13:07| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月01日

Constitution of liberty

私の考える自由の憲法とは次のようなものだ。
極めて短いが、これだけでいい。

自由の憲法

第1条 何人もまたいかなる組織も、他人の財産権を侵害してはならないこと。
第2条 政府は国民の財産権を保証するためにのみ存在すること。
第3条 国民および外国人の財産権を直接または間接に侵害する可能性のある税金ならびに法律と規制は一切許されず、無効とされること。
第4条 他人の財産権を侵害したものには、懲罰賠償を下すこと。


以上

他に何か加えることがあるだろうか?

posted by libertarian at 20:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Deadweight loss

ガソリンや石油、灯油価格が高騰している。
原油価格が上がっているからだが、これは実は簡単に解決が可能だ。
要するにこれらに課せられている高額の税金を減税すればよいだけだ。
日本は海外先進国と比較しても、この高率の税金のせいで燃料費が異常に高い価格になっている。
さらにガソリンなどは、これに加えて消費税をとるために、露骨な2重課税となっている。(ビールも同様だ)
原油価格の高騰が問題だというのなら、政府にガソリンや灯油の税金を下させるのが正解なのだ。

#ガソリン税は、現在53.8円/Lだが、これは特別措置で20年以上上げられたままだ。
本来のガソリン税は28.7円/Lである。本来の税に戻すだけでも25円安くなる。


ちなみに消費税は所得税よりも公正な税だといわれることもあるが、これは大間違いだ。
消費税のように末端価格に転嫁される税金は、dead weight lossを生む。だから消費税か所得税かという議論もおかしい。国庫税収そのものを減らすことが”小さい政府”の意味である。

また建築基準法のような一網打尽の規制は、今回の改正でも明らかなように、財産権への直接侵害になる。財産権とは自分の財産の自由処分の原則だ。これに対し一定の基準を満たさないと自分の家の増改築もできない規制を作れば、財産権すなわち財産の自由処分の原則が大きく損なわれることになる。つまり所得税や消費税のように国民から直接に略奪する税金は大前氏がいうように見える税金だが、規制がもたらす見えない税金は測定が非常に困難であってっも、やはり税金であることに違いない。むしろ見えない税金は見える税金を上回っている可能性もある。
法律によってもたらされる社会全体への基準規制がもたらす(税)負担額の測定は難しいのはそのdead weight lossをも求めなければならないからだが、これは現実的には測定が不可能もしくは極めて困難だ。
建築基準規制によって、新築はおろか旧い住居の増改築も困難になることで、社会全体の地震リスクが高まるのは自明だ。もし今、地震が起こって旧い住居が倒壊して下敷きになればまさに、これはdead weight loss(死加重)になるというしゃれにもならない事態になる。

国家権力による税金という名の公然の略奪や窃盗を大前提とする社会体制がいかに矛盾と欺瞞に満ちているのかということだ。略奪と窃盗をやめれば社会は正常化するのだ。公共という美名のもとに権力による生命財産権の侵害という重大犯罪を前提とした社会がうまくいくわけはない。
また、いかにエゴイスティックな金持ちであっても、政府という合法的略奪者より、はるかに合理的で慈悲深い存在であることを理解すべきだ。なぜなら彼らは市場と消費者に対して従順でありつづける限りにおいてのみ金持ちでありえるからである。
起業家や金持ちは民衆の守護神だが、政府はその対極にあることを理解すべきだ。

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2007年11月20日

Heositarou

屁尾下郎 論

糸井重里氏へのインタビュー記事だが、おもしろい。
#これは池田BLOG経由で知った。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071031/139184/?P=1&ST=sp_hobonichi07
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071023/138300/?P=3&ST=sp_hobonichi07

屁尾下郎とは、”屁をしたろう” もしくは、”へびげろ” と読むのであろうか。
法統制に対し全体主義だという批判も最近は少しは挙がるようになったが、依然として相対的に少なすぎるし、統制を正義、もしくは法ルールに従うことが正義であるとするような倒錯した連中がはびこっている。
これは文化大革命の時と同じような集団心理があるという糸井氏の指摘はその通りだろう。私も以前そのようなことを考えたことがあった。

全体主義のベースには戦前も法律があった。法がベースとなって、集団心理が作られる。
そして、この心理とは、まさしく屁尾下郎の心理といえる。さらに法律の前に官僚制=Bureaucracyがあるのだ。

ルールの絶対化をするだけで、社会はこのように容易に全体主義的監視社会になるのである。
既に日本は恐怖社会になっているのではなかろうか。
万人が万人とも自分が損をしないために、他人を密告し、貶めることが、コンプライアンス=法令順守しいては社会正義とされるわけだ。これは、まさしく数10年前の日本でありドイツの空気に違いにない。

これが根本的に倒錯した間違った論理であることを分かっている法律屋はほとんどいない。


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2007年11月16日

Tax and Freedom to move

先の大前氏の本の話と絡む話だが、日本の政府は相続税のアップを検討しているらしい。
これに対して、大前氏は次の資料を提示して批判している。
http://vil.forcast.jp/c/ah28abt8em2llPad
#どうも、これを見ると昔からフランスが相続税0というわけではなかったようだ。

税の問題は極めて本質的なものだ。最大の"社会問題"といってよい。
人々の移動の自由が保証されている限りにおいて、税はグローバルな競争ファクターとなる。
税率の競争は一国の中だけではまず実現できないが、国際間の人間の移動が保証されていれば、当然に税を下げる”市場圧力”が加わることになる。
税と、公共サービスの間のコストベネフィットもこれからは問題となってくるだろう。
税を有効に活用して、優れた公共サービスを提供している国と、そうでない国との間で税収に大きな違いが出てくる。
例えば税は極めて低いが、治安が極めて悪いとなるとやはり富裕層は移動しないだろう。
究極的には、税が0で、治安を優れた民間警備会社を頼れる国が最も人気を集めるかもしれない。
#驚くことに、モナコは所得税が0だ。
グローバル競争と人間の移動コストの劇的な低下が、ロングレンジでは政府の存在価値を減少させていき、人間の自由にとってプラスに作用していくことになるに違いない。

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2007年11月08日

Sinful bureaucrat

Financial Japanの11月号をBookOffで買った。
木村剛氏と、野村修也氏(中央大学教授)の対談が面白かった。
#野村氏はなかなか良識のある法学者とみた。
村上ファンドやライブドア事件の検察の暴走犯罪に対して、痛烈に批判している。
こういう公正な司法官僚批判をどんどんすることは、法律学者の責務であろう。

この事件での検察の暴走は、大鶴特捜部長の個人的な資質によるもので、大鶴による自分の矮小な出世欲による凶悪な犯罪である色彩が強いが、これを受けた裁判所の対応もあまりに酷いもので日本の司法が腐りきっていることを広く世界に知らしめた。しかし大鶴の犯罪は万死に値するものであるといって過言ではない。

野村氏曰く、「伝統的な法律学の分野は実際に社会主義的な要素を含んでいる。・・若かりし頃に刷り込まれた論理の影響は大きく、また、権力をもった人間には都合のよい論理なので、自らそれを壊そうとする人は少ない。」

木村氏曰く、「私は外国人には、日本でビジネスをするのに六法全書はいらない。三法だけでよい。それは、出る杭は打たれる、長いものには巻かれろ 泣く子と地頭には勝てぬだ。この3つだけ覚えておけば、日本では法律は要らない。」
実に至言である。


現在の日本では、本来、私法の領域で処理すべきことに対して、重大な刑事罰化がどんどん進められている。例えば道交法の改正なども恐るべき内容だ。
違法=illegalと,犯罪=Crimeと、罪=sinの意味の本質的な違いというのを、根本に立ち戻って考え直す必要がある。
おそらく日本の法学に決定的に欠けているのは、罪=sinの概念だ。
Sinは、宗教的というより、権力とは独立した概念である。一方のillegal,crimeというのは権力概念である。法=権力との関係から生み出される概念だ。
大鶴の行為は合法的だが、株式市場を破壊し、有能な若者の人生を暴力的に破壊したという点で重大かつ深刻な罪なのだ。 

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2007年10月17日

Changing the guard

Changing the Guard

Private Prisons and the Control of Crime

Edited by
Alexander Tabarrok


Highlights
  • Until the mid-1980s, the number of privatized jails and prisons
    could be counted on the fingers of one hand. Overcrowding and rising
    costs, however, prompted lawmakers to take prison privatization
    seriously. By 2002 there were 184 fully privatized jails and prisons in
    operation or under construction around the world, with total housing
    capacity of approximately 143,000, including 153 in the United States,
    with a capacity of nearly 120,000. (p. 77)



  • Private prisons have grown faster than the prison population.
    From 1991 to 2000, the U.S. prison population, including those confined
    in local jails, increased by 65 percent. During the same time period,
    the worldwide capacity of privatized facilities increased an astounding
    849 percent. (p.78)



  • Private prisons are cheaper and faster to build.
    Constructioncost savings are typically 15 to 25 percent. (p.134) In
    Florida, a prison with capacity for 1,318 inmates was built privately
    for $69.9 million, while another of comparable size was built publicly
    for $85.7 million, 23 percent higher. In Texas, a private company built
    a detention facility for the U.S. Immigration and Nationalization
    Service (INS) in six months, as compared to the INS’s own average of
    2.5 years. (p.135) Cost savings typically are larger the more authority
    the private firm has to choose where and how to build prison
    facilities. (p. 136)



  • Private prisons are cheaper to operate. Twelve of 14 studies
    found that private prisons are 5 to 28 percent cheaper to run. (p. 137)
    If all the studies on cost savings published in the U.S., Australia,
    and Great Britain were taken as a group, estimated operating-cost
    savings would be 10 to 15 percent. (p.139)



  • Critics’ predictions of legal obstacles to prison
    privatization haven’t panned out. No correctional facility management
    contract awarded by a local, state, or federal agency has been
    invalidated on legal or constitutional grounds. Nor has any agency
    faced legal action as a result of alleged wrongful acts or omissions of
    a private prison firm. (p.78)



  • Opposition to private prisons has limited their adoption. The
    public sector rarely competes directly with private firms and very few
    public prisons have been converted to private. (p.81)

Synopsis

Changing the Guard: Private Prisons and the Control of Crime, edited by Alexander Tabarrok
(Research Director, The Independent Institute), examines a
controversial aspect of prisons and crime control -- the growing use of
private prisons. Virtually unheard of twenty years ago, private prisons
are now a big business not only in the United States but increasingly
in Canada, England, Australia, South Africa, and elsewhere. Although
private prisons now house approximately 120,000 prisoners in the United
States, the private sector is still small relative to the total prison
population of some 2,000,000 prisoners.


In the United States, private prisons have grown because of prison
overcrowding and the desire of the states and Federal government to cut
costs. Numerous studies now exist demonstrating that private prisons
have operating costs approximately 15 percent lower than equivalent
public prisons. In addition, private prisons can be located and built
more quickly than public prisons.


Although there was initially a concern that cost-savings might come
at the expense of quality, the data has not borne this out. Whether in
terms of physical quality of the prison, legal access, food quality,
and other measures, private prisons have been found to be as good as
public prisons and sometimes better. Thus after surveying some 333
indicators of quality at two public and one similar private prison,
noted prison-privatization expert Charles H. Logan (University
of Connecticut) concluded that “the private prison outperformed its
governmental counterparts on nearly every dimension.” Surveys of
inmates also find a preference for private prisons because they tend to
control violence, committed by staff and prisoners, better than at
public prisons (p. 141).


The Economics of Prisons

Private prisons cannot be evaluated without also evaluating prisons and punishment more generally. Economist Kenneth Avio (University of Victoria) opens Changing the Guard
with an analysis of the broader questions surrounding the
private-prison debate: Does prison pay? What do we know about
punishment and recidivism? How large is the crime-deterrence effect?
What is an optimal prison sentence? Are too many people in prison or
too few? Avio concludes that, on average, the criminal justice system
“works,” but the system could be improved dramatically if
attention were focused on the small number of criminals who commit the
vast majority of crimes. Drug offenders and other non-violent criminals
are jailed far too much.


Avio focuses his survey on the economic analysis of crime but
concludes that we need a more comprehensive understanding of human
nature than that depicted in the economic model. “We know little about
how and why a shared moral order is developed and maintained. This
change in perspective . . . suggests a return to a relatively neglected
part of the research program Adam Smith laid out in 1791. Analysis of
the social institutions that inculcate self-command and that otherwise
function as civilizing forces in our society, should be part and parcel
of the research strategy social scientists adopt to help understand and
control crime.”


Correctional Privatization: Past, Present, and Future

Private prison authority Charles Thomas (Homeland Security
Corporation) provides the empirical context for understanding the
debate over private prisons, examining their historical origins,
present status and future prospects. Intriguingly, Thomas notes that
many aspects of the criminal justice system have long been privatized.
Many states, for example, house one-third to two-thirds of their
interned juveniles in private facilities. Seen in this light,
opposition to private prisons is difficult to understand.


Thomas argues that the full benefits of privatization are threatened
by “governmentalization,” i.e., the tendency of contracting agencies to
require contractors to run things exactly as a government bureaucracy
would, only cheaper. In some cases, private prisons have even been
required to have the same menus as their government counterparts! The
real benefits of privatization come when private firms are allowed to
innovate to find new and better ways of doing things. Flexibility in
contract design, however, raises the possibility that private firms
will take advantage of the government. Addressing these issues may
require careful design of contracts and more attention paid to
monitoring outputs rather than inputs. Further diffusion of “best
practices,” such as performance incentives and on-site compliance
monitors that have developed in twenty years of contracting, can manage
these twin difficulties.


Privatization and Public Policy

Samuel Jan Brakel (Issac Ray Center) and Kimberly Gaylord
(DePaul University College of Law) survey the evidence on construction
cost, operating expenditure, quality and other factors and find strong
reasons to favor prison privatization in the United States. Brakel and
Gaylord also examine the moral and ethical arguments against private
prisons and find them deficient. Perhaps the most compelling evidence
that prison privatization works is that prisoners themselves have few
objections to private prisons.


However, Bruce Benson (Florida State University and The
Independent Institute) raises some objections to prison privatization,
even while accepting the findings of lower costs and higher quality.
When secondary effects are considered, Benson suggests, prison
privatization may be seen as a Faustian bargain resulting in a more
efficient way to punish people for victimless crimes or for breaking
laws that may be unjust. The Roman Empire’s private tax collectors, for
example, may have raised revenue efficiently, but it’s hard to see that
such efficiency benefited the populace. Thus, legal reform should
considered along side prison privatization.


Benson himself notes that public law enforcement bureaucracies have
been among the most powerful lobbyists for expanding the war on drugs,
which increases the demand for their services. The California
Correctional Peace Officers Association, for example, was a key funder
of California’s “three-strikes” ballot initiative and is today a key
opponent of limiting three strikes only to violent offenders. The union
also works to restrict drug policies that promote treatment over
imprisonment, Benson notes.


Owners of private prisons would also have an incentive to lobby for
more prisons, but there is a difference. The union has a virtual
monopoly on prison workers, so any increase in prisons benefits its
constituents. But even today there are multiple firms that run private
prisons; thus, a firm that lobbies to expand prisons in general (as
opposed to lobbying to expand its prisons) does more to benefit its
competitors than it does to benefit itself. Indeed, as the
private-prison industry grows larger, the incentive for any one firm to
lobby for general prison-expanding policies declines.


Conclusion

Although prison privatization has slowed somewhat during the
twenty-first century, its rapid progress during the 1990s -- and the
serious fiscal troubles experienced recently by the federal government
and many state governments -- suggests that the issues examined in Changing the Guard
make its release timely. Not only has the time for prison privatization
come, its relative infancy suggests that the number of private prisons
will increase, thus making the practice less controversial over time.
As editor Alexander Tabarrok puts it in the book’s Introduction: “At
present, private firms compete primarily with public bureaus -- which
is sort of like the repeated competition between the Harlem
Globetrotters and the Washington Generals. But to raise the level of
the industry truly, it is necessary that the best compete against the
best. Competition works better when all the competitors have strong
incentives to achieve, which means that privatization will be more
successful when a large share of the prison industry is privatized, and
competition between private firm and private firm is the norm.”


この本は前のポストとの関係で興味深い。Privatize Prisonは必要不可欠だろう。
しかしBruceBensonの指摘はもっともだ。”被害者なき犯罪”の”犯罪者”に対する投獄という手段は許されないとするべきである。そうなったとき、受刑者は激減し、生産性もそれ以上に低下する可能性はあるように思う。
posted by libertarian at 01:17| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月16日

Mechanism Design

http://blog.mises.org/archives/007306.asp

The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences 2007

Justin Ptak

The Royal Swedish Academy of Sciences has decided to award The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel 2007 jointly to Leonid Hurwicz, University of Minnesota, Eric S. Maskin, Institute for Advanced Study, Princeton, and Roger B. Myerson, University of Chicago, "for having laid the foundations of mechanism design theory".
Alex Tabarrok tries to explain mechanism design in terms your grandmother would understand.
Tyler Cowen has his doubts about the practicality of their results.
Peter Boettke discusses the links between Hurwicz and Hayek and links to Co-Nobel Prize winner Roger Myerson's views on the connection between Hurwicz, Hayek, and Mises.
Barkley Rosser looks at the influence of the Committee Chair, Juergen Weibull, a game theorist, in the awarding of another prize for game theory so soon.
Rosser concludes:
"In any case, for those who are not aware of it, Hurwicz's approach to mechanism design looks an awful lot like an effort to figure out how to do central planning right."
As The New York Times noted:
"The prize winners’ groundbreaking work has been pivotal in assessing how institutions perform under such conditions [where markets supposedly work imperfectly], and in designing the best mechanism to make sure that goals, such as optimal social welfare or maximum private profit, are reached, the academy said. The winners’ work has helped determine whether government regulation may sometimes be necessary."
As Thomas DiLorenzo sees it the prize was awarded to three mathematicians who clearly do not understand the freshman-level idea that benefits and costs are subjective, and that human beings tend to place different subjective values on goods and services.

ノーベル平和賞と、経済学賞は、政治的な賞に過ぎない。
リンクの文献は後でゆっくりと読むことにしよう。
posted by libertarian at 12:39| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月14日

Stop the movement

 ロンボルグは、環境問題に対して比較的まともなことを言っているが、元々左翼であるため最終的には政府に環境問題をどうにかせよという結論になってしまっているようだ。
現代の反ーエコロジストは、武田邦彦氏にしても、途中まではなかなか鋭いが結論部でずっこける。

一方で炭素税の導入も、D.フリードマンが批判するようにナンセンスだ。これも政府に何とかしろというのと全く同じ発想である。
もっともマンキューが言っている炭素税導入のアイデアは、他の税をその分下げるという点がアイデアのポイントなのだが、単純に考えても全ての化石燃料使用を増税すれば、ほぼ全ての価格があがり、物価上昇が起こるだろう。

”環境問題”に対する最善の対処策は、政府が一切何もしないことにつきる。
地球環境は常にロングレンジでは変動しているが、これは単に自然現象であり”問題”ではないし、必ずしもHazardとはいえない。

環境問題とは杞憂問題に他ならず、現実におこってから対処するべきなのである。なぜならそのような"問題”は空が落ちてこないのと同様に決して起こらないからだ。

だが、ゴアがノーベル平和賞をとって、このようなデタラメ映画やデタラメ本が多くの人が読んで洗脳されることで、デマがデマを呼び、世界規模でのヒステリーが高まるだろう。

環境問題という犯罪的なデマの総元締めである国連は何とかして廃止しないと、ほんとに世界社会主義が実現してしまいそうだ。国連は環境危機のデマをあおることで「人類一家、皆兄弟」の世界政府となろうとでもしているのだろう。そしてその世界政府なるものは社会主義政府なのだ。
地球温暖化より世界が社会主義化する脅威の方がはるかに深刻である。


AdamSmithInstituteでのCool It : Bjorn Lomborgに対する書評を抜粋しておく。

Cool It : Bjorn Lomborg
http://www.adamsmith.org/blog/index.php/blog/individual/cool_it_bjorn_lomborg/

However, it's his suggestion for positive action that I take issue with.
He suggests that governments pledge to spend $25 billion a year on devising low or no carbon technologies.
Now I agree that the best solution to the whole thing is for us to invent such technologies, make them cheaper than current ones and Bob's your parental sibling of choice.
The foolish part is in asking governments to spend that money, in asking them to pick winners.
We've already seen what happens here with the biofuels and corn ethanol fiascos on both sides of the Atlantic.
We also know that a large part of the Green movement (who would, of course, be asked to help direct this sort of research program) aren't so much interested in reducing emissions as in abolishing capitalism or imposing a Morrisonian rural socialism.
It just doesn't seem sensible to rely upon a governmental process, one we know doesn't work very well, to do such a thing.

But then perhaps Lomborg is actually correct when he claims to be a bit of a lefty.
Only someone on the left would believe that governments are capable of running such a program with even the minimum of the necessary efficiency.

 
posted by libertarian at 13:51| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月09日

Technology Schedule

http://econlog.econlib.org/archives/2007/10/malthusian_myop.html
Intuitively, this make sense: When more people share a pie, each slice gets thinner. And in the short-run, this Malthusian assumption is clearly correct. When a couple has its first child, the family's per-capita income plummets by one-third. Clark documents, similarly, that when repeated plagues cut England's population in half, living standards for the survivors roughly doubled.

But here's the problem: As Michael Kremer and especially Julian Simon explain, there are powerful long-run effects of higher population that go in the opposite direction. Most notably:
1. More people increase both the supply and demand for new ideas.
2. More people make it possible to exploit economies of scale - including scale economies of transportation and communication.
3. Since human diversity rises with human population, more people allow for efficiency gains from specialization and trade.

These effects could easily suffice to overpower the Malthusian diminishing marginal returns effect, so the right diagram looks like:

clark4.jpg

econlogのBryan Caplanの記事から抜粋した。
マルサスの人口論に関する誰かとの議論から発展して、このSimon/Kremer modelのグラフを載せている。
要するに、人口が増えることで、新しいアイデアに対する需要が増え、規模の経済が可能となり、技能の専門化などが可能になることで、テクノロジーが発展する。
こういったlong-termの効果が大きいために、マルサスモデルのように人口が増えることはパイの取り分が減ることにならない。むしろ増えるのである。
このTechnology scheduleはある意味で、自生的秩序でありevolutionだろう。

posted by libertarian at 00:46| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月26日

Ignorance and politics

以前、ブライアンカプランが自分のホームページで、世の中の人があまりにも経済学的な酷い誤解を沢山しているために、政府も政策を間違え続けるのだというようなことを書いていた。世の中の人というのは、ほぼ全ての人である。学者であるか研究者であるか、経済学者であるか否かも関係ない。

経済学では、現在もまだイデオロギー上の対立が強く、経済学上の結論なるものも、そのイデオロギーから演繹されているようなものが多い。
そのため、経済学における学問的な真理も、あまり定かではない状態だ。
こういう点が、自然科学とは大きく異なる、経済学がまだ科学とは呼べない理由だろう。
といっても、ある程度異論のない決定的な部分もあるはずで、D.フリードマンがいうように、それはクラシカルリベラルの知見であったりする。
#前にも書いたように、モンペルランソサエティの活動は、クラシカルリベラルの知見を第三世界の左翼知識人に教授することにある。

しかし、世の中の人間がどれほどに経済に関する誤解をしまくっているのか、アンケート調査を大々的に行ってみると面白いだろう。
いかに世の基礎教育が酷いかが明らかにする意味で重要だ。算数や英語の学力よりも、酷いことになるのは確実だろう。
義務教育から大学教育にいたるまでの間違った教育により、でたらめなご意見が生まれ、そういった間違った信念、ご意見による多数決で政策が動いていくから世の中はどんどんおかしくなっていく。

世の中の人にある程度、直感的にでも正しい見識があれば、それも政策に反映されうるのである。しかし、ここだけは、間違っちゃいけないという点もほとんどの人は間違って考えている。この傾向は高等教育が一般的になって、かえって酷くなっているのではないか。
左翼教育と、左翼的な政策がカップリングすることで極めて強力かつトンデモナイ政治勢力を主流派として形成しているのだ。
#とはいえ、郵政民営化を国民の相対多数は支持したわけだから、意外と過半数の人はあながち直感的には間違った判断をしていないのかもしれない。

池田さんが熱心に言っている正社員とフリーターに対立があるという話も、基本的には間違っている。
私企業は、公器(institution)では断固ないので、従業員を採る、とらない、さらに誰を採用する、しないも企業の勝手なのだ。こんなことは社会問題ではありえない。

私企業に問題とすべき既得権益があるとすれば、政府によって作られた参入障壁であり、法的特権だけである。#分かりやすい例では、電波利権のような異常な法的特権はすぐにでも取り上げるべきだ。
他にも、参入を制限する特権は莫大な数がある。公共道路で、モノを売るのが制限されるように、公共の領域が増えるほどに、だれにもハンドリングできない領域が広がるということで、参入の自由、活動の自由がなくなる。

本質的な対立は、StateとSocietyの間にある。私企業というのはいかに巨大になろうとも原則は、私の領域〜Societyの領域にあることを間違えてはならない。
posted by libertarian at 15:15| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月25日

Backroom boy

日経ビジネス(2007.8.27)に、竹中平蔵氏の話が載っていた。
以下に、これから少し抜粋しておこう。
=========
・無難な舵取りによる政権維持が難しい今、国論を二分するような大きなテーマ設定が必要な時を迎えたと私は考える。
・昨秋、安倍総理と近い人たちと議論したことがあった。郵政民営化に匹敵するような、つまり国論を二分するような強い政策を打ち出していかないと、来るべき参院選は厳しい結果になると思うとその時申し上げた。これに対して総理に近い人たちは、衆院における与党の圧倒的な力を背景に、無難な政権運営を続きていくという意向を示された。私はそこに疑問を感じざるを得なかった。
・必要なのは、政策に関して国民が何を求めているかのマーケティングをつぶさに行い、そこから大いなる議論が沸き起こるアジェンダ設定を考えることだ。それがうまくいけば、賛成する人、反対する人が半分ずつ出てくる。
・野党が訴えてきた格差是正の政策を見ていると、それこそ「国土の均衡ある衰退」とでも言いたくなる内容である。・・時代遅れのバラまき政治の復活に過ぎない。
・参院での与野党逆転という環境下の国会は、与党と野党の議論の透明度を増し、結果として官僚や族議員による密室の思惑を排除する。
========

2005年の総選挙での自民党の大勝のとき、私は小泉さんには、頭のよい(選挙)参謀がいるようだと書いたが、
それはまさに竹中さんだったようだ。
逆に安倍さんは、小泉さんと違って優秀な参謀選びに失敗したか、もともといなかったのであろう。

http://libertarian.seesaa.net/pages/user/search/?keyword=%8F%AC%91I%8B%93%8B%E6
以下、これから一部再録。
”・・・小選挙区制とは相対的多数の意見を反映し統一的な国家意思なるものを実現しようとする制度だからである。
マイナーな立場の人間がほとんど選出されなくなるから、いわゆる”改革”がやりやすくなる。
一方、各選挙区から1名しか選ばれないから当然、死票は多くなる。
こういう選挙制度では、数学的なモデルでかなり正確な予測ができるであろう。
小泉さんに天才的な直感があるのかどうか知らないが、もしかしたら優秀な数理学者が参謀の参謀でいたのかもしれない。
最初から造反議員の出現も予想していただろうしこのタイミングでの解散総選挙まではシナリオ通りの一直線な動きだったと思う。
要するに自分に有利な争点が明確にできる時点で選挙するのが小選挙区制度上、最善の戦略だからだ。
実際の政策論点なるものは、いくらでもあるが、こういう形で争点をフォーカスできる政局タイミングはあまりないだろう。”
posted by libertarian at 16:19| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月24日

Books written by Horiemon

労働組合が、雇用の流動性を阻害しているのは自明だが、これは不況時になれば若年労働者の雇用差別を積極的に促進することになる。資本家と労働者の対立ではなく、正社員と非正社員の既得権益差別を組合もしくは労働法が積極的に促進することになる。
従業員として雇用されている地位というのは、当然財産権ではないが、組合に守られることで既得権益として半分財産権であるかのように従業員の側も思ってしまう。だがアメリカでは、解雇は組合の存在など関係なくかなり雇用者側の自由である。


何重にも日本社会が狂っているのは、こういう社会であればこそ、起業による社会の新陳代謝をはかるべきであるのに、ホリエモンや村上ファンドのような貴重な芽を法律により役人が積極的に排除に乗り出すことである。
これらは役人による合法的なリンチである。

先日、ホリエモンの書いた「儲かる会社の作り方」という本をBookoffで買ってよんだ。
ライブドアが東証へ上場した後の2004年8月に書かれているが、今や大昔に書かれたかのようなかんがある。内容は素晴らしい。ホリエモンがほんの8年間で、3人で始めた会社を東証へ上場させるまでの話だが、経営者として並々ならぬ手腕と能力をもった人間であることがこれを読むと分かる。

ネットバブルにあっても、ホリエモンの会社は他と異なりキャッシュフローを重視した経営をおこなっていたし、組織のマネジメント能力にも天性のものがあると伺える。経営者に必要とされる資質を高度なレベルで最初から持っていた人間なのだと思う。
序文の「素朴な疑問」という章で、ホリエモンは次のように書く。
「なぜ一生懸命働いている若い人たちの給料が、年老いて労働効率も落ちていて感覚も古くなっている人たちの数分の一であることが当たり前の世の中なのか。」
「年功序列も大企業信奉も間違っている。現在の年金制度は明らかにねずみ講であり、既得権益を握る者達が必死に詭弁を弄して、情報操作を行っているだけである。明らかに若い世代は搾取されているのである。・・多くのサラリーマン社長の保身や彼を頂点とする会社内の年功序列、あるいは派閥。こういったものが日本経済を歪めている。若者は今すぐこの既得権益構造から抜け出し、起業するか、あるいは起業するものについてくべきなのだ」
だが、日本社会の卑劣極まりない旧体制は、こういう素晴らしい若者を合法的なリンチにかけ、社会的に抹殺した。
若者のオプティミズムを叩き潰すのは簡単だ。
今の日本は、もはや絶望感が満ちているが若者が奴隷であることを当然とする社会など存在する価値もない。
奴隷根性のあるいやしい人間を尊重し、アクティブマンを抹殺するのが、社会主義というものだ。
日本社会はこのまま社会主義の強化の道を驀進するのだろうか。
posted by libertarian at 08:44| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月20日

Saloth Sar

「自由とは何か」 大屋雄裕著 ちくま新書

この本は、「自由とは何か」というタイトルであるが、あまり自由については大したことは書かれていない。バーリンの本から消極的自由と積極的自由に分けて論じており、リバタリアニズムにも若干の言及はある。だが、どれも消化不足の理解で書かれているように思われる。論理的に穴だらけのように感じた。また監視の問題を論じているが、これも公共空間における監視と私的空間における監視の問題は分けて論じなければおかしい。
”見ることの権力”やパノプティコンといったフーコーかぶれの話も、若い著者には新鮮なのかもしれないが、私のような中年には”げんなり感”がある。どうも日本の自称哲学者というのは、論理的に穴だらけ、飛躍だらけの文章を書くことを、”哲学的”でかっこいいと思っているのかもしれない。

だが本書で紹介されている「ポルポト伝」 デヴィッド チャンドラー著には興味を持った。そのうち図書館で借りて読んでみよう。
posted by libertarian at 10:33| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月18日

Bureaucracy

Bureaucracy by Ludwig von Mises

http://www.mises.org/etexts/mises/bureaucracy.asp

ここのところ、すっかり遠ざかっていた翻訳のマイプロジェクトだが、そろそろ再開しようかと考えている。次は、このMisesのBureaucracy(官僚制)でも、翻訳をしようかと思っている。
今度は、ただ単に手で翻訳するのではなく、ツールを開発しながら行うことを考えている。

ミーゼスの直系の弟子に当たるロスバードであるとか、Hoppe(ホップ)であるとかは、大御所のMisesを読まないことにはあまりよく理解できないだろう。そして、ミーゼスも相当な数の本を残しているから、それらを読むのはかなり大変だ。
だが、21世紀の日本人はミーゼスを読まねばならないのだ。

私は精神的に挫けそうになったときは、リバタリアニズムの哲学書(思想書)を読むことでリカバリーする。私の精神的な居場所はリバタリアニズムの著書の中にしかないといっても過言ではない。
そして、このマイプロジェクトは、日々の読書の軌跡をなめくじの動いたあとのように後に残すために行うものである。
posted by libertarian at 02:38| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月06日

State and Punishment

NBonlineで、佐藤優氏の「国家と罰」という対談が載っている。
日本の司法制度のあまりの酷さを実体験して、佐藤氏は死刑廃止論者になったということだ。これは納得できる。日本の司法制度では法治国家とはとても呼べない。
特に刑事裁判は、司法官僚連中による”私刑=lynch”でしかないといって過言ではないだろう。

この対談から少し引用する。↓
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070717/129954/
”イスラエルで死刑が廃止されているというのは、「死刑囚がかわいそうだ」というような情緒論ではなく、実は国権論から考えてのことなんです。死刑によって法秩序を維持するのは弱い国家だという意識があるからです。アイヒマンの処刑についてもイスラエル国家の弱さを示すものとイスラエルの知識人は認識しています。”
==

上の文章だが、”死刑によって法秩序を維持するのは弱い国家”というのは、国家と法秩序があり、法秩序をもたらすのは国家の威信だという考えかもしれない。
死刑制度は野蛮な制度で、暴政のイメージと結び付けているのであろうが、だとすれば、これは間違っている。
佐藤優氏もこの対談の後半で国家権力の濫用による冤罪による死刑執行の危険性を危惧しているが、R.バーネットなども指摘するとおり死刑制度の問題は本質的には冤罪の危険性だ。
快楽殺人者を死刑にすることに問題があるのではなく、国家権力の濫用による死刑冤罪の危険性が問題となる。
杜撰な司法制度をもつ国家ほど、この危険性は高まる。日本のように検察などの司法権力を制限する仕組みがない、いわば司法官僚による私刑制度となっている場合は特に深刻な問題となるだろう。

話は変わるが、蔵研也さんの、「無政府の法と社会」を読んだ。http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/anarchic%20society.htm

非常に濃い内容であり、特に刑罰の根本問題にフォーカスされているのは時期的にもタイムリーだと思う。私は、大いに知的刺激を受けた。
私がBlogに書いているような思い付きとは全く異なり深く論理的に考えられている。刑罰制度という極端なケースから、国家権力の本質にリバタリアニズム的な観点でメスを入れるという試みは成功していると思う。
パターナルな強制権力を”国家”に依存しない限り、実効性のある法秩序はありえないという現代人の迷信を覆そうという試みともいえるだろう。
佐藤優氏もこれを是非読むとよいと思う。
posted by libertarian at 11:50| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月27日

Human Intelligence

現在、コンピューターの世界は指数的に進化しているが、これは何故だろうか?ある種のテクノロジーは指数的に進歩し、ある種のテクノロジーはゆっくりと進化するようにも見える。だが、コンピューター技術は、全ての技術のインフラとして底上げをしていくことになる。医学でも、医薬開発でも、化学も、建築も、土木技術も、ほとんどの技術はコンピューター技術の進歩の恩恵を大きく受ける立場にある。コンピューターは、今のところいわゆる人工知能になる可能性は実現できていなくても、人間の知能活動の代替に現実になっているということだ。

どうも、私はコンピューターといっても、所詮、プログラム電卓が進歩したものというイメージしかないのであるが、人類が持っている知能的なアルゴリズムの出力と、コンピューターというプログラム電卓が進歩したものとの出力において、どちらがより正しいかといえば、後者の勝ちであるのは間違いない。
つまり、こういった出力というのは、機械的なjobの結果である。
人間のやっている作業も殆どが単なるjobであるから、機械に代替できるし、機械の方が優れているわけだ。

DeepBlueというIBMのチェスコンピューターがあった。
私はチェスは全く詳しくないが、Deep Blueが史上最強と謳われた天才カスパロフを破ったときの対局で、DeepBlueはチェスのプロも驚く一手を指したそうだ。ある局面で、誰もが指すであろう決定的な決め手となる手があり、プロの誰もがDeepBlueはその手を指して勝つだろうと思った。(将棋でいうところの王手飛車取りのようなものか?)しかし、DeepBlueはその手を指さなかった。そして、DeepBlueの指した手が後の研究によると、やはりBestだったということらしい。DeepBlueはその手でその対局を勝った。一方の天才カスパロフも、その決定的な手をDeepBlueが指すことを逆の期待で読んでいたのであろう。
チェスのプロ棋士は、コンピューターの底力をその時強く感じたそうだ。

当然に、アマチュアの将棋であれば、決定的な手を見逃すなんてことはよくかることだから、決定的な手を指さないことが高度な読みの証明になるわけではない。
逆に言えば、プロになるほどその読みは、機械的になっているということなのかもしれない。トップ棋士になるほど、その読みは”機械的”になっていると想像できるのである。つまり”最善手”を求めるJobは、知能的なようだが、実は機械的な作業なのかもしれない。
つまり、こういう人間の知能活動は高度になるほど、得たいのしれない人間的な精神活動ではなくなり、逆に機械的なものになるのかもしれないということだ。そうだとすれば、コンピューターは、人間的な知能なるものを模倣する必要もないことになる。
人間の知能活動をその精神活動と一体のものとして考えることがおそらく多くの人間の直感的な前提となっているが、これはきっと間違いだ。
posted by libertarian at 10:22| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月12日

One Country and Multi legal system

現代の国=Nation Stateとは、一つの法体系に強制的に全国民が服従させられるシステムである。この点、現代国家とは、法の共同体のことと定義してもよいかもしれない。だが、一つの国に複数の法体系がある体制もある。アメリカがその典型だ。
アメリカは、United states であり、Stateは文字どおり国のことであるから、state毎に微妙に、また大きく異なる法システムを持っている。

例えば、死刑制度に関しても州毎にあったりなかったりする。
その点、無差別殺人者が、州間を移動しながら犯罪を犯す場合など裁判管轄の問題が複雑となるようだ。

しかし、アメリカであっても、どの法律に服するかは、どの州に住んでいるかによるから、移動の自由があるとはいえ、いくらでも選択の余地があるというわけではない。

もし、死刑制度について各人が法を選択できるとしたらどうなるかという仮定の話を先にしたが、法体系において、共通部分と選択部分を設けるという次善策は大いに考える価値があることだ。
もっともこの策のポイントは、住む場所と選択する法律とのバインドをなくすことにある。
法律に関しても、個人のモラルと信念などに照らして選択の自由をあたえるのである。
共通部分は憲法などの最小限の部分にしてもよい。

市場システムが優れているのは、多数者の専制がないのが一つの顕著なところだ。
よくあげられる例で言えば、100人の人がいて、51人は国産車、49人は外車が欲しいとする。これを多数決でどちらかを決めれば、49人の要求は不当に否定されるが、市場システムは、ちゃんと各々の要求を満たすことができる。

これは、当然に法律にも適用できる。
死刑制度の是非を、観念的に論じていけば、正解のない泥沼の議論になるだけだが、どちらかに多数決で決めるのではなく、これを各人の選択にまかせれば、よいわけだ。
選択の自由があれば法システムにも競争が発生することになる。

知財制度も同様にして選択にすることができる。
現在でも知財制度は一国主義だが、知財制度を支持するサークル(=group1)は、知財をそのサークルの中だけでしか行使できないとすればいい。反対に知財制度を支持しない集団(=group2)は、知財制度による保護は一切ないが、模倣の自由があるとする。

このような状況でどちらかをとるかは、面白い。group1に所属していても、group2からの、いわゆるフリーライドが自由だとすれば、知財制度を支持する意味がなくなるかもしれない。
知財制度というのは、全体への強制がなくては成立しない制度といえる。
世界的にも、特許制度は一国主義とはいえ、国連や条約を通じて、世界特許にちかい制度を作ろうとしているわけだ。そうしないと自由貿易の仲間にはしてやらないよという脅しがある。

だが、ここでこの状況をもう少し考えてみる価値がある。group1はgroup2の知財を使うことが自由であるわけだから、group1を敢えて選択するメリットもありうるだろう。いわば、group1は仲間内の不可侵協定のようなものとなる。

立法は、その目的として一つの理想論、建前を掲げ、一つのルールを作ろうとするから間違える。そんな神様のまね事のようなことをするから危険きわまりなく有害なのだ。
複数の法を常に考える必要がある。また、そういう制度的発明は、どこかの少数のエリートが設計主義を駆使した立法をするのでなく、市場により、もしくはその中の多くの英知の中から競争的に発生してくるべきものである。
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2007年08月08日

The Structure of Liberty

ランディ バーネットの「自由の構造」という本は、いわゆる民刑一致の理論を展開しているものだ。
この本で挙げられている犯罪類型が、窃盗のような犯罪が多いことからも、凶悪な快楽殺人のようなケースを意図的に除外しているように思った。
特異な凶悪犯罪を除く限りにおいて、バーネットの理論はそれなりに納得できるが、損害賠償請求であらゆる犯罪に対応するのがいいのかどうかは私は懐疑的だ。私は、犯罪にも特異点があるはずだと思う。

そもそも殺人などの場合、当の被害者は亡くなっているため、遺族に対する金銭的賠償しかできない。
凶悪な無差別殺人者に対しては、抑止の論理も、賠償の論理も基本的に適用できないだろう。
量刑の問題は、基本的に法執行の誤りの問題がその本質である。これには2つの誤りがあり、無実の人を有罪とする誤り(=Type1)と、犯罪者を無罪とする誤り(=type2)とがある。さらに言えば、犯罪者が捕まらず検挙されない問題(the problem of nonenforcement error)もある。
特に厳罰化はType1の問題において、深刻になる。
ここでバーネットは、犯罪予防に対する”オッカムの剃刀”として自然権の理論を適用しようとするのである。

もっとも、犯罪”予防”の問題とは、共有地(の悲劇)の問題だとバーネットの展開する論理に関しては、実に正統的なリバタリアニズム的にオーソドックスなものである。
犯罪の多くは、本質的に誰にも何もコントロールできない共有地でおこり、私有地での犯罪は少ない。
私有地においては犯罪者の進入を阻止することが可能であり、私的警察には、犯罪を阻止する巨大なインセンティブがあるためだ。
一方の共有地には、誰にも犯罪防止に投資するインセンティブがない。

「あらゆる種類の”被害者なき活動”を禁ずる法令は、これらの「法律」を破ろうとする人々に巨大な利益を与えるうまみのあるブラックマーケットを提供してきた。」
「大きな需要がある何らかの取引を違法とすることから生じる巨大なプレミアムは、犯罪者が団体を組織するための強力な財政的インセンティブを作り出す。」
これは、具体的には禁酒法や、ドラッグの禁止などをイメージすればよい。
これらは、逆のインセンティブをも生み出す。つまり、「大きな需要がある何らかの取引を違法とすることから生じる巨大なプレミアムは
犯罪者が団体を組織するための強力な財政的インセンティブを作り出す。」。
現実に個人情報保護法によっても、このようなブラックマーケットは拡大しているそうだ。

抑止を目的として、刑罰を引き上げるのは「安全と引き換えに自由を差し出そうとする誘惑」であり、「個人の権利を不正に制限することによって、
政府の法執行の非効率性を補おうとする誘惑」である。つまり、本末顛倒なのだ。
だが、日本では極端な刑事罰の厳罰化が多くの法律で現在進行形で推し進められている。
(例えば、知財法、不正競争防止法、道路交通法、刑法などなど。。)

バーネットのこの本「Structure of Liberty」は1998年の出版だが、その後、10年ほどの間に、アメリカの民間刑務所システムはイノベーションとともに、かなりの発展を遂げたようだ。これによって、”社会の屑”でしかなかった犯罪者達が、刑務所における労働でいくらかでも賠償を被害者に対しできる可能性が生まれたのである。
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2007年08月03日

Compensation model ,Justice model on crime

「この国が忘れていた正義」中嶋博行著(文春新書)を読んだ。
この本は、日本の犯罪者福祉社会の実態を告発した本である。お勧めだ。

アメリカの犯罪者対策は60年代リベラル左派が人権主義を振りかざした結果、死刑廃止と犯罪者の更正を目的としたMedical modelに大きく振れたが、その後、MedicalModelの失敗と偽善が明らかとなり、急速に被害者の救済を目的とするJustice modelへ転換した実態などが良く書かれている。

日本は、司法もダメだが、刑務所システムなどの行政システムも徹底的にダメだ。その存在自体が犯罪的といえる。
犯罪者を刑務所でも異常に厚遇しているのは、犯罪者の懲罰ではなく更正を目的としているためだ。つまり、依然としてMedical Modelしかない。
年間に刑務所費用に2200億円もの税金を投入し、更正プログラムを実施しながら、出所者の再犯率は4割を超える。おぞましい快楽殺人者を、国家プロジェクトの更正プログラムにかけ、さらに未成年者であればサカキバラのような異常快楽殺人者であっても、ほんの数年で出所させている。
これらの異常犯罪者は優しく遇して国家が更正してあげるべきゲストとして扱われ、異常殺人者達はその罪を悔いることもなく、その贖罪を一切することもなく、ぬくぬくと刑務所で数年を過ごし、すぐに社会に舞い戻ってくるのだ。
アメリカでは、こういった殺人、傷害、性犯罪のような凶悪犯罪者、殺人者への扱いは極めて容赦ない。仮出所も容易ではないし、司法取引として性犯罪者の去勢なども行われる。

アメリカのJusticeModelにおける刑罰とは、基本的に被害者への賠償、罪滅ぼしという側面が強調された賠償モデルである。刑務所は民営が多く、今やアメリカの刑務所産業は年間300億ドル(3兆6000億円)の規模を持つ。
それに対して、日本は収容者数64000人で年間61億円の売上しかない。一人辺りでは年間9万円しかないが、食事はかなり良いものが与えられているのは周知の通りで、食費だけで一人当たり年間20万円ほどかけている。
アメリカの場合、民間が経営することで、ちゃんと利益を出す工夫をしている。また刑務所産業の売上の多くは被害者の賠償にあてられる。つまり囚人の労働力によって得た売上を被害者への賠償にあてながら、民間刑務所として利益も出しているのだ。

もちろん、犯罪者といってもおぞましい異常快楽殺人者のようなのから、軽微な罪の人間までその幅は広いので、扱いもそれ相当である必要があるが、殺人、傷害、性犯罪のような重大犯罪者に対する扱いは厳罰化=死刑等を積極的に採用しつつ、その他の刑事犯に対しては、刑罰の目的を賠償モデルに転換して金銭的な賠償を被害者に対しさせる必要がある。
また、アメリカでも刑務所があふれかえるのは薬物違反等の”被害者のない犯罪”者が多いためだが、こういった”犯罪者”に対しては、(仮にそれを犯罪とするのであれば、)懲罰的罰金刑だけを課すことで済ませるべきだろう。
刑務所システムも、政府には運営から手を引かせ民営化することでしかその改善は一切なしえないのは確実だ。続きを読む
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2007年06月27日

ON MEANS AND ENDS

"the Fundamental Axiom of action - that men employ means to achieve ends" (M.Rothbard)

「(人間)行為の根本的な公理とは、人間は目的を達成するために手段を用いること」というのが、Praxeology
の第一の、もしくは唯一の公理である。これはMiseanであるロスバードの”Man,Economy and State"に書かれて
いる。
http://www.mises.org/rothbard/mes.asp


”It is often charged that any theory grounded on a logical separation of means and ends is
unrealistic because the two are often amal-gamated or fused into one. Yet if man acts purposively, he
therefore drives toward ends, and whatever route he takes, he must, ipso facto, employ means to
achieve them. The distinction between means and ends is a necessary logical distinction rooted in all
human?indeed, all purposive-action. It is difficult to see the sense in any denial of this primordial
truth.
The only sense to the charge concerns those cases where certain objects, or rather certain routes of
action, become ends in themselves as well as means to other ends. This, of course, can often happen.
There is no difficulty, however, in incorporating them into an analysis, as has been done above. Thus,
a man may work at a certain job not only for the pay, but also because he enjoys the work or the
location. Moreover, any desire for money is a desire for a means to other ends. The critics of
praxeology confuse the necessary and eternal separation of ends and means as categories with their
frequent coincidence in a particular concrete resource or course of action.


ここで言っていることは、ある目的に対する手段が、別の手段の目的となる連鎖のケースに関してである。
ところで、このような分析は、昨今のシステム設計論のゴール分析などで現実に使われる。
目的←手段=目的←手段=目的←手段=目的←・・・
という連鎖を分析するのである。

ハイエクは日本語の翻訳があるということもあり、日本ではまだ名前くらいは知られているが、今後はミーゼス
やロスバードがもっと研究され紹介されていく必要があるだろう。
時代はというか学問的な状況は、Praxeologyに追い風となってきたようにも思われる。

この、Man Economy and Stateは、日本語に翻訳があることを最近知った。
posted by libertarian at 03:53| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Premeditated murders

安部譲二の「日本怪死人列伝」(講談社文庫)という本を読んだ。
これは、元ヤクザ出身という濃い現場経験を活かして怪死事件の真相を推理する本だ。
電車の中で気軽に読むのにオススメである。
だが、この内容はなかなかによく考えられ推理されているし、それなりに足とネットワークを使ってリサーチを
している。
新井将敬の事件の推理なども説得力がある。
マスコミ発表と違いこの本に挙げられている殆どの事件が複数犯による組織的な犯行だという見方がリアリティ
がある。

また一方で、角界の不正を暴露していた大鳴戸親方と、橋本某氏の同日死亡事件は、マスコミが煽った謀殺説と
は反対に”ある種の病死”だと推理するのだが、この結論が何かは書かない。知りたい人は本を買って電車の中
で読んで欲しい。

ところでこの事件について「ヤバイ経済学」では暗殺事件だと決め付けて書いているが、若造のレヴィットは、
安部譲二にはまだまだ遠く及ばない証拠であろう。
posted by libertarian at 03:10| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | Libertarianism | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月22日

Judicial Bureaucracy

「狂った裁判官」 井上薫著 幻冬社新書

またも井上元判事の上記本を買って読んだ。この本も面白かった。お勧めである。
この本の方が、先の「司法が腐り・・」よりも、文章の筆致が落ち着いていて裁判官らしく好感が持てる。
先の本は編集者により売らんかなという意図の余計な手が入っているのだろう。
やはり、あくまで、元裁判官らしく冷静な本を出すようにすべきだ。

ただ井上氏の本は数冊読んだが、ネタの重なりが多いのが気になる。
井上氏には、今後、蛇足判決文の分析を本格的にやってもらいたい。ネタは腐るほどあるのだ。
その際、重要なのは法曹らしい冷静な筆致であり、読者に媚びた文章を決して使わないことだ。
そうでないと舐められて、すぐに読者から飽きられる。

裁判官には聖職者のようなイメージがあって、その生活の実態はなかなか普通の人には知られていない。
この本では、裁判官の給料の実態から、六法を読まないで判例だけ読んで判決を書く裁判官が多いことの実態なども明かされている。
私も薄々そうだろうとは思っていた。どうも日本の司法は実定法主義を採りながら、コモンロー的な運用でもしようと思っているのだろうか?
もちろん、これは、単に裁判官が楽をしようとした結果にすぎず、その根っこには官僚的な前例踏襲の慣習があるのである。

要するに、日本の裁判官は心底から官僚なのだ。司法官僚制を取っている以上、これは当然だが、その非人道的なともいえる裁判官への公私にわたる管理主義はやはり特殊かもしれない。
官僚社会は、ある意味で純粋な社会主義社会である。その中でも特に極端な管理的な社会主義である裁判官社会の裁判官が、自由主義を前提とする社会の民間人を裁くわけだ。
日本の民事訴訟などほとんど役にも立たず碌に利用もされていないが、日本の司法はその刑事裁判のあり方が、本質をよく表している。
有罪率がかぎりなく100%という刑事裁判に今後は法律をまったく知らない、みのもんたの番組が大好きな一般大衆のド素人が、重大刑事裁判の裁判員として加わるのだ。悪い冗談ではすまない。
この結果はあきらかだろう。死刑率が高まるのも確実だ。冤罪で死刑になる人間も増えるはずだ。
司法とは名ばかりのリンチ裁判がこれから行われることになる。
社会主義社会では、民衆による合法的リンチが行われるのが常なのである。
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2007年06月07日

Compulsory rule

法律を強制の道具としていくらでも用いて良いと昨今政府は特に勘違いしている。
日本政府に代表される、日本の民度の低さはもはや決定的だ。
民間企業も、大企業になれば官僚的な体制を敷いているから、こういったルールによる強制をコンプライアンスの名目で平気でとるようになった。
強制とは、基本的に”禁止”が基にある。だが、何かを一つ禁止するだけで、思ってもいなかった弊害が沢山出てくるようのは確実である。しかしその弊害が本質的な問題なのではなく、自由を失うことが問題なのだ。
禁止すればするほどコンプライアンスが守られるようになるというのであれば、全てを禁止し、全てを許可制にすればよい。そして自由が0の社会になれば、コンプライアンスという(法)ルール遵守体制は完全なものとなり、表面的には北朝鮮のように静かな活気のない秩序だった社会になるかもしれない。

自由な社会とは、強制のない社会のことである。これはハイエクの自由の定義から導ける定義だが、法が自由を守るための制度装置であるとするならば、法ルールの遵守そのものを目的として、自由を奪うルールを作ることがいかに本末顛倒なことかわかるはずだが、どうも社会全体が幼稚化して小学校の学級会なみになっているようだ。何か問題がおこったら、禁止する規則を作って民主主義の多数決で決めましょうというわけだ。
強制によってもたらされる”秩序”とは、秩序ではなく北朝鮮の”人民”と同じ隷属状態に過ぎないのである。
損害も犯罪に対しても、法の原則は事後責任のLiability ruleが基本であり、それは本来、法の根本機能が自由を守ることからくる良い意味での法の限界であり、また立法に対する重要な制限なのである。

当然ながら強制がなくとも秩序は自由によってもたらされる。これは、自由市場に生きる民間企業の低姿勢ぶりと政府組織の傲慢きわまりない腐りきった態度を見れば一目瞭然だろう。
日本はこれからますます北朝鮮化していくだろう。一方の北朝鮮の体制も期待に反してまだまだ生き長らえる可能性がある。
あと数年で北朝鮮が崩壊するとはとても思えない状況になってきた。国連により世界全体が社会民主主義の方向に向かい、北との違いそのものがあまりなくなってきたのだ。

自由な社会、つまり社会的強制のない社会であれば、そこにおのずと良い意味でのincentiveが無数に生まれるのである。
良きincentiveとは誰かが設計してつくり出す物ではなく、誰にもはっきりとは見えないが自然と発生するものだろう。incentiveとは畢竟個人の中にしかなく、その良し悪しは、誰か他人が判断するものでもない。だが、このような他人の価値観に対する価値中立的な大人の態度が社会的に必要なのであり、自分とは違う価値観を持った人間と、それに由来する多様なインセンティブを認める社会的自由が本質的に重要だ。
#ただ、こういったものをincentiveと呼ぶべきか、initiativeと呼ぶべきか、motivationとよぶべきかも難し
いところだが、とりあえず、incentiveと呼んでおく。

強制は良いincentiveを破壊する一方で、悪しきincentiveを確実につくり出す。つまり誰かが他の誰かを強制し、支配することを社会制度として可能にするからだ。
自由な社会であれば、誰にも他者に対して不当な強制をすることは不可能だ。いかなる大企業であれ、この商品はすばらしいからこれを買えとは誰にも強制できない。だが、政府はこれと同じようなことを平気でする。この法律は正しいからこれを遵守せよと強制してくるわけだ。なぜそれが正しいのかといえば、それはそれが、法律だからだ。
それはつまり正しさを何も意味しておらず、強制権力の絶対性を主張しているにすぎないのである。
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2007年05月01日

Crusader

政治とは社会運動であり、社会運動が政治だともいえる。
そして社会運動のほとんどは、ごくごく一部のマイナーな数人の人間たちの利害や、理想、観念というものによって作られる。
かつての社会主義、共産主義運動もしかりだ。
だが、このような社会運動は先進国では条件付で、ある程度は阻止することができた。
その条件とは、社会主義そのものを多数決の原理にのっとり、取り込むことだ。全面的な否定ではなく、ある程度それを内部に取り組むことで、それ以上の拡大、革命沙汰が阻止されたことにはなる。だが、この結果による社会民主主義化は先進国を芯からむしばむことになった。

法律というのも、国会で特定利権団体の利害関係によって作られ、それ以外の人間、つまり国民の内、数十人以外の人間はそれを全く知らない。当然に立法過程も知らなければ、どんな法律ができたのか、どんな法律があるのかも知らない。まして、その法律が何を意味するのかなど知る由もない。
個人情報保護法しかり、昨今の健康増進法もしかりだ。

これが自由企業であれば、社会制度などは作らないし作れない。どんなに強力な標準を作ったとしても、一時的なものであり、やがて別のものに置き換わるか、自然に淘汰される。Microsoft のWindowsしかりTCP/IPさえもしかりだろう。

立法権限に一切の制限を設けない”デモクラシー”は、こういった誰もあずかり知らない法律を一部の特定利権団体や個人の意図だけで膨大に作ることができるのが最大の欠点だ。そして立法の結果は、あまねく世の人間を拘束する。
つまり、現行のデモクラシーの問題は衆愚政治にあるというより、数人〜数十人の特定利益、特定理想?がその他1億人以上の全体を拘束するという点にある。
一人の人間の観念や妄想が10^8以上に増幅され、他者を拘束し、自由を侵害するのが、現行のデモクラシーの根本的な悪といえる。

これに対するデモクラシー上の対策は、国会の立法権限を憲法によって制限(enumerate)することにある。だが、国会もこのような既得権益を離すわけがない。
一方の裁判所はどうかというと、これも司法官僚制であり、行政官僚組織との違いが本質的にない。

また、実定法主義のもとでは、井上元判事が言うように司法の裁量は極めて少ない、もしくは本来的にない。となると国会という特定利益の代表者集団の立法権力が突出しすぎることになる。
ここで現行のデモクラシーの枠組みの中で3権分立のバランスをとろうとしたら、司法の違憲立法審査制度の実質的な復活しかないかもしれない。
だが日本の憲法は、アメリカのような制限憲法ではないから、司法の国会に対する抑止力も、その要を欠いている。

こういった日本の状況は、どこに向かっているかはほぼ明らかで、ようするに国家社会主義強化の道を驀進しているわけだが、それが環境やらCSR、コンプライアンスといった、少しマイルドで曖昧な表現に置き換わっているだけだ。
この2−3年の日本の空気は、個人情報保護法の制定辺りを境として、極めて不穏なものがある。

リバタリアニズム的には当然政府のサイズは0でもいいが、今の政府が100000000としたとき、0と1の違いを問題にしてもあまり意味がない。
政府とは、徴税権力を柱とした立法権力をはじめとする独占権力の集合体だとすれば、その本丸は徴税権力であり、これを制限しないことには、小さくはならないとも考えられる。だが周辺の立法等の独占権力を制限する方が効率的なのかもしれない。この全体主義システムをどのように解体すべきかについて戦略をたてたリバタリアンはいないだろう。

アメリカの場合、建国の父たちが憲法の中に自由の原理の種を蒔いていたために、未だにバーネットの主張する通り、constitutionalismが全体主義に対する有効な対抗手段となる。
逆に日本も憲法をいじって、事後的にでも自由の原理をその中に取りこませる必要があるのかもしれない。
これは、多くの法律の中に社会主義の種を蒔いた、かつての全体主義=社会主義運動家たちと同様のことをするということである。


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2007年04月01日

The Science of Liberty

リバタリアニズムというと極端な政治思想であるとか観念的な哲学くらいにしか思われていないのであろうが、ほんとにそうだとすると全くつまらない。
これを学術的なものとして象牙の塔の中だけで扱うべきではない。
またリバタリアニズムは政治思想である以上、政治改革を目指しているところもあるが、基本的には個人主義哲学であり、まず第一に影響をうけるのは個人の行動であるはずだと思う。どんな組織であっても変化はまず個人が先で組織はその後だ。

その点、リバタリアンにして現実の巨大ビジネスを作り上げたCharles G. Koch(コーク)の「The science of success」という本は面白そうである。KochはもともとMIT出身の科学技術者であるがハイエクやシュンペーターやフリードマンらに影響をうけ、それらを独学し、また単なる学習に留まらずそれらの思想をビジネスに適用し大成功した人物である。Cato研究所もコークの資金によって設立されたらしい。
アメリカのリバタリアニズムを影で支える大富豪の一人でもある。

Amazon書評から抜粋
”Both fit with Koch's libertarian philosophy of allowing people to make decisions and reap the rewards or penalties that result. Employees are given "decision rights" according to their demonstrated ability to make choices that result in lower costs or returns that exceed the company's "opportunity cost," which Koch defines as the returns from investing in the best alternative. "Any employee who is not creating value does not have a real job in the MBM sense of the word," Koch writes, although a worker on the assembly line might consider his weekly paycheck real enough.
Failure isn't necessarily penalized, unless an employee overlooked some necessary detail or put self-interest ahead of the corporation. "Business failures are inevitable, and any attempt to eliminate them only ensures overall failure," Koch writes.
Readers expecting a recipe book for business success will be disappointed, but those of a more philosophical bent will find Koch's observations fascinating. Not only has he digested the entire Ayn Rand syllabus of free market theory, but he's had the chance to put it to work from his headquarters on the plains north of Wichita"

" The author admits to being greatly influenced by some of the giants of economic scholarship, from F.A. Hayek and Joseph Schumpeter to Milton Friedman.
He attributes the success of Koch Industries to the leadership's concerted effort to meld management principles with the principles of the market economy, and much of the book explains how that translated into real-world decisions, strategies and directions that built the company over the years. ”
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2007年03月10日

Constitutionalism as the second best


Restoring the Lost Constitution
by Randy Barnett

以前この本を買った。内容紹介は以下の通り

http://www.lfb.com/index.php?stocknumber=LL8953
”James Madison, meet Lysander Spooner

There are nine guys in DC who should read this book right away.

Barnett says the Constitution should be interpreted as contracts are interpreted, on the basis of its original meaning, not the original "intentions" of its molders (whose intentions may have varied markedly anyway). So let's stop cutting up holes in the document, he urges in this superb explanation of the crucial importance of constitutions in limiting government power. The book is also, intriguingly, an answer to Lysander Spooner's radical 1870 essay "No Treason" declaring the illegitimacy of the Constitution. Barnett half agrees and half disagrees with Spooner, and dedicates his book to both Spooner and James Madison. Much of the fun here is watching how Barnett gets these two to shake hands (theoretically speaking). ”

"Restoring the Lost Constitution is excellent, and a vital contribution to jurisprudence. It argues, in essence, that the best way to read the US Constitution is as a libertarian legal document, one that presupposes the existence of natural rights and assigns to government the task of their protection. Very readable yet scholarly, in a tone that is wonderfully civil."
--Tibor R. Machan, author of Putting Humans First


さらに、この本へのHuebertによる批判ーバーネットの反論ーHuebertの再批判も論文としてあり、とても参考になる。
Can Judges Save Us From Statism?
http://www.mises.org/story/1976
Libertarianism and Legitimacy
http://www.mises.org/journals/jls/19_4/19_4_5.pdf
No duty to obey the state
http://www.mises.org/journals/jls/19_4/19_4_6.pdf

私はどちらかというとバーネットの立場に賛同する。
Constitutionのoriginal meaningをrestore(再興)することが、Second bestの方法として自由社会を再興する道へつながるという考え方だ。
ハイエクのThe constitution of liberty(自由の条件)では、アメリカのConstitutionalismをアメリカの偉大なる自由の条件として礼賛した。だが、その20年後に出版されたLLLの中でハイエクはConstitutionalismは明らかな失敗に帰したと書いた。

Constitutionalism(立憲主義)とは、純粋にアメリカの憲法体制のみを意味している。
日本にも当然、憲法はあるが、アメリカの意味でのConstitutionalismは存在しない。
簡単に言えばConstitutionalismとは、憲法によって議会を制限(=権限の限定列挙=enumerate)する仕組みである。
すくなくともアメリカにはJurisprudenceの側から、個人の自由を確保しうる可能性がありうる。
しかし、残念ながら日本にその可能性はない。

ルーズベルトのNew Deal社会主義からアメリカの連邦憲法の制限憲法の意味は失われてしまったわけだが、その回復の兆しはレーンキスト コートによって生まれた。それはレーガン革命とともに起きた。
レーガンが任命した最高裁長官のWilliam Rehnquistは、バーネットも尊敬するアメリカの最高裁の偉大なるChief Justiceであった。レーンキストのNew Federalismも、restoring the lost constitutionの一つの重要な動きとみることができる。


2007年03月10日
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2007年03月04日

Order emerges in unexpected places

[http://cafehayek.typepad.com/hayek/2007/03/
order_emerges_i.html]
Order emerges in unexpected places
Russell Roberts
European cities are cutting back on traffic signs in order to let order emerge. (HT: August from a comment here at the Cafe):

European traffic planners are dreaming of streets free of rules and directives. They want drivers and pedestrians to interact in a free and humane way, as brethren -- by means of friendly gestures, nods of the head and eye contact, without the harassment of prohibitions, restrictions and warning signs.

And later on in the article:

But one German borough is already daring to take the step into lawlessness. The town of Bohmte in Lower Saxony has 13,500 inhabitants. It's traversed by a country road and a main road. Cars approach speedily, delivery trucks stop to unload their cargo and pedestrians scurry by on elevated sidewalks.

The road will be re-furbished in early 2007, using EU funds. "The sidewalks are going to go, and the asphalt too. Everything will be covered in cobblestones," Klaus Goedejohann, the mayor, explains. "We're getting rid of the division between cars and pedestrians."

The plans derive inspiration and motivation from a large-scale experiment in the town of Drachten in the Netherlands, which has 45,000 inhabitants. There, cars have already been driving over red natural stone for years. Cyclists dutifully raise their arm when they want to make a turn, and drivers communicate by hand signs, nods and waving.

"More than half of our signs have already been scrapped," says traffic planner Koop Kerkstra. "Only two out of our original 18 traffic light crossings are left, and we've converted them to roundabouts." Now traffic is regulated by only two rules in Drachten: "Yield to the right" and "Get in someone's way and you'll be towed."

Strange as it may seem, the number of accidents has declined dramatically.

====
この話は、簡単に纏めると、ヨーロッパで交通信号を敢えて減らし(自生的)秩序を出現させようとする試みに関する話だ。歩行者と運転手の間の自由で人間的な交流を促すのだ。
この試みの結果、劇的に事故が減少したということだ。




2007年03月04日
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2007年02月20日

リバタリアン宣言

リバタリアン宣言 (新書)
蔵 研也 (著)

この本は著者のDecentな人柄が出ているのか、宣言と言うほどに押しの強い主張はない。まえがきに「この本は、決して常識な考えによって、構成されていません。むしろ非常識なショッキングなものも数多くあることでしょう。」とある。しかし非常識と思う人はあまりいないだろうし、常識的なことを述べていると受けとられるのではないかと私は思った。(だが、アマゾンの書評をみるとそれなりにインパクトがあるのかもしれない。評価が低いのはそれなりに不快に思ったという証拠だろうから。)

エッセイであれば今はBlogでいくらでも書けばよい。本にすることにいくらかでも意味があるのであれば、論理と主張を作品にまで高める努力が必要だ。
私は作者とおそらく近いスタンスにある人間だから、余計に作者には厳しい評価をしてしまうところがあるのは事実だ。
次の作品では、もっと学術的な内容を盛り込んで勝負をして欲しい。

P.S. もっともこの本では、従来のリバタリアニズム解説本にあった、一つの大きな偏見=誤解を修正しているという点で入念にかかれている。
その誤解とは、「リバタリアニズムは、麻薬などの反社会的なものを認めている」といったことだ。
本書では、そうではなく、リバタリアニズムでは「そういった問題に対し政府が介入することを否定している」ということを繰り返し述べている。これは大きな違いである。



2007年02月20日
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2007年01月16日

Wikipedia ,Jimbo wales and libertarianism


WIKIPEDIAの設立者のジミーウェールズはリバタリアンらしい。
以下のWIKIQUOTEのインタビューによると、アインランドが好きなようだ。
ところで日本版のWIKIPEDIAのレベルが英語版に比べて低いのは今のところ事実だが、問題は今後どうなるかだ。アメリカのWIKIPEDIAには相当な書き手が集まっているが、これは英語版のWIKIの利用層は英語で書かれているがゆえにほぼ全世界であり、その利用価値が高いからだろう。
この全世界の人間から参照される百科事典というのが書き手に対する大きなインセンティブとなっているはずだ。
英語版が自生的な秩序を実現しているかのように見えるのは、そこに書き手側の競争があるからだ。日本のWIKIには競争がまだ生まれていない状況だろう。だが、これは到達スピードの問題に過ぎないかもしれない。今のレベルが低くてもそこにインセンティブが生まれれば競争が発生し、中身のレベルがゆっくりとでも向上していくことになる。内容向上が先かアクセスアップが先かというのは大した問題ではなく、日本版WIKIへのアクセス数が増えていけばインセンティブが大きくなる。
2chに書く人間にも大勢から読まれるという同様のインセンティブがあるのだろう。

http://en.wikiquote.org/wiki/Jimmy_Wales

LAMB: Another thing I read about you is that you are a follower or have been at some point a follower of Ayn Rand?
WALES: That's right, yes.
LAMB: Who was she and do you still follow her and what is it about it that you like?
WALES: Yes. So Ayn Rand is the ? she wrote Atlas Shrugged and The Fountainhead, as is viewed by many as, you know, something of the founder of the libertarian strain of thought in the U.S. She would have rejected quite rightly, I think, the libertarian label. But I think for me one of the core things that is very applicable to my life today is the virtue of independence ? is the vision, you know, if you know the idea of Howard Roark who is the architect in The Fountainhead who has a vision for what he wants to accomplish and, you know, there's some time in the book when he is frustrated in his career because people don't want to build the type of buildings he wants to build. And he's given a choice, a difficult choice, to compromise his integrity or to essentially go out of business. And he has to go and take a job working in a quarry. And for me that model has a lot of ? a lot of resonance for me. You know when I think about what I'm doing ? what I'm doing and the way I'm doing it is more important to me than any amount of money or anything like that because it's my artistic work.
LAMB: What year did you read Atlas Shrugged or Fountainhead?
WALES: I guess I was around 20 when I ? when I read The Fountainhead.
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2006年12月27日

Alertness

Israel Kirzner(イズラエル カーズナー)というオーストリアンの重鎮がいるが日本では殆ど話題にもならない。KirznerはMisesの直弟子にあたりミーゼスの助手を務めていたこともある。



KirznerのEntrepreneur論は極めて重要なのであるが、オーストリアンのような反政府的な言論は日本では無視される運命のようだ。とはいっても、何冊かの翻訳もでていたのであるが。

[http://ideas.repec.org/p/hhs/iuiwop/0678.html]

上のサイトにあるpdfファイルの内容はよくまとまっているので、これをもとに次のように簡単に纏めた。



KirznerのEntreprener論において、Entrepreneurの役割は、マーケットプロセスにおけるShiftsに対しAlertであり、そのShiftsに対するnew knowledgeを発見することで、ある種のequibliumに近づける役割がある。

entrepreneur論には、SchumpeterのEntrepreneur論ばかりが日本では有名だが、同じオーストリア学派であってもシュンペータのそれとカーズナーのそれは異なる。



シュンペーターのentrepreneurとは、boldness、selfconfident,courageという属性をもつ人物像であり、disruptiveな行動をとる。つまり既存の均衡を破壊する人物である。それに対してカーズナーのentrepreneurはadaptiveな存在といえる。誰も気づいていないShiftsを発見しそれをprofit incentiveから利益に結びつける存在であり、誰でもがentrepreneurに成りうるし、殆どの活動においてその要素が存在する。entrepreneurはAgentであり、価格や生産量を目的をもって変化させる存在である。またentrepreneurの行動はsystematic search processではない。カーズナーのentrepreneurはvisionをもち、未来のuncertaintyに向かう人間である。(さらにこのuncertaintyという概念は、calculable riskとは異なる。)



また均衡理論(equilibrium theory)において、均衡はゴールであり物理現象のように扱われるが、そこにはentrepreneurの存在が消えている。可能性というunderlying variables(UVs)と、価格や生産量のようなinduced variables(IVs)という概念を用いれば、Growth problemにおいてIVsはUVsによって完全に説明される。そしてGrowth problemは、allocation problemに完全に置き換えられなければならない。



"Economics explains that where there are unexploited profit opportunities,resources have been misallocated,entrepreneur corrects such waste."(I.M.Kirzner)
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2006年12月11日

Gloal Warming



[http://www.fee.org/in_brief/default.asp?id=966]

The freemarket literature is filled with reasons to lack confidence in government solutions to environmental problems. Those reasons include the perverse incentives and inadequate knowledge that pervade all political processes. Any bureaucratic program will be corrupted by power, privilege, and incompetence. So now is the time for us libertarians to direct our unique philosophy toward grappling with potential climate hazards in a manner consistent with freedom and the requirements for prosperity.
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2006年11月19日

FROM SUBSISTENCE TO EXCHANGE



FROM SUBSISTENCE TO EXCHANGE (P)

And Other Essays



by Peter T. Bauer,

with an intro. by Amartya Sen

Princeton University Press, 2000, paperback



Lord Peter Bauer, a pioneer of development economics, reveals the full power and range of his thought in these essays, focusing on the central concern underlying much of his diverse work: the impact of people's conduct, their cultural institutions, and the policies of their governments on economic progress.



For years, Bauer stood virtually alone defending economic liberty against politically powerful "development" economists who claimed that it didn't work in the Third World and that big government was needed there. This collection of brilliant essays affirm that economic liberty benefits all people everywhere.



Bauer cites solid evidence countering the endless claims that free markets make the rich richer and the poor poorer. Rejecting the dogma of Western guilt, he shows how free markets create opportunities for the humblest among us to lift themselves up. He presents an overwhelming case that big governments are responsible for the waste, corruption and brutality which have kept millions impoverished around the world. Even if you aren't particularly interested in faraway places, I bet you'll be fascinated to see that liberty is a truly universal ideal.



"The essays here contain many of the key elements of Professor Bauer's thought, which I regard as an oasis of common sense in a desert of muddled thinking. . . . He goes after weak and selfserving explanations with commendable vigor."

Richard Epstein, University of Chicago

[http://www.lfb.com/index.php?deptid=&parentid=&stocknumber=IL8884&page=1&itemsperpage=24]

==================



この本は是非読んでみようと思う。

この本の第1章のPDFが以下に公開されている。

[http://press.princeton.edu/chapters/s6828.pdf]



ジェフ サックスのようなnaiveな偽りのヒロイズムとは対極にある考えのようだ。

サックスのような人間にすぐ騙される人間は、ロートルの元左翼が多いのだろう。

また、結局そういう人間は右も左もわからないのだろう。
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2006年11月12日

Government control of education

政府=文科省に支配された学校システムはもはや実質的に崩壊しているようだ。

独立行政法人と名前を変えても何も実態は変わっていないし、経営能力はもともと0だ。大学が商売のために特許だなんだと騒いでいるのも愚かであって、そんなことをすれば、企業は余計に大学から離れていくだろう。

さらに私学をも補助金漬けにして、支配下におき半官半民にしているわけだが、もはや文科省を廃絶して、その分の税金を丸ごと減税するしか手はないだろう。



大前さんのライブを試聴してみたところ、ハーバードは寄付金によって3兆円もの資金をもち、さらにその資産を運用して毎年4500億円ものキャッシュを増やしているそうだ。しかし運用益が450億でなく4500億というのは驚きだ。15%の運用効率とは。

[http://www.ltempower.com/lecture1/index.html#ko4]



寄付によって巨額の資金を持ち、独立性を維持しているのはケンブリッジやオックスフォードのようなイギリスの名門大学でも同様である。



これが税金であるなら、その年に使い切らなければならなくて、資金を貯めて運用という当然の手段が取れない。与えられた金を運用することができないから無駄に金をどぶに捨てていくのである。政府に教育費用を税金の形で渡すのではなく、寄付という形で学校に直接に渡すほうがはるかに合理的なのだ。

寄付金も学校経営のひとつの大きな健全な競争要因になるのである。

今後、大学システムを健全にしていこうとするのなら、寄付行為に対する税法上の大きなインセンティブが必要だ。(当然、税制度そのものが巨悪なのであるが。)

日本では大学全体への補助金は2兆円程度でまた授業料収入は全体でも2兆円に満たない。



さらに、少子高齢化で日本の大学全体の定員は入学希望者の数を上回り、東大のような人気大学でも2倍程度しかないらしい。

小学校ー中学校という義務教育の段階も、日教組のような共産主義ー社会主義団体が支配してきていたわけだから、教育システムは昔から根本的におかしな犯罪的なものだったわけだが、未だに何も変わっていないのがさらに異常だ。これは制度自体が法律という不動の膠着したルールによって雁字搦めになり、既得権者である教員という公務員に私物化されてきたからである。

教育制度そのものを政府から取り戻し、健全なサービス産業にしなければならない。

文科省とその関連法律を廃絶することによって、確実に教育の質は向上するだろうし、教育という重要なサービス産業の市場規模も拡大するだろう。



いじめの問題がまた最近騒がれているが、いじめは塾とかではあまりないのではないだろうか。

必修単位問題も、そもそも法律でこの科目は必修だとか必修でないとか勝手に適当に決めているから起こる問題にすぎない。

また国公立大学出身の人間ほど、学校に対する感謝の念や帰属意識がないともいわれるが、そんな役所みたいな存在にシンパシーを感じないのは自然なことである。



政府になんとかしてくれと要求するのでなく、政府は何もするな、文科省を廃止せよと要求するのが正しい本質的な問題解決法なのである。
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2006年10月26日

Salary loan

貸金業規制法の問題について、某大学の法学部教授と話した。

貸し金業規制の根本は民法の90条の公序良俗の解釈が基礎となっている。

(公序良俗)

第九十条  公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする



利息制限法では、最大20%となっているわけだが、これもこの民法90条が基礎となっている。



(利息の最高限)第1条 金銭を目的とする消費貸借上の利息の契約は、その利息が左の利率により計算した金額をこえるときは、その超過部分につき無効とする。

元本が10万円未満の場合

年2割

元本が10万円以上100万円未満の場合

年1割8分

元本が100万円以上の場合

年1割5分2 債務者は、前項の超過部分を任意に支払つたときは、同項の規定にかかわらず、その返還を請求することができない。

(利息の天引)

第2条 利息を天引した場合において、天引額が債務者の受領額を元本として前条第1項に規定する利率により計算した金額をこえるときは、その超過部分は、元本の支払に充てたものとみなす





だが、この金利が実質金利なのかもわからない。

おそらく実質金利ではないだろう。

つまり、30%のインフレであっても20%の金利が上限だということになる。



池田さんのBlogでもこの問題はとりあげられていたが、そのコメントにおける反応のあまりの馬鹿さかげんに驚いていたが、これは池田Blogの読者レベルの低さをあらわしているのではなく、どうも世間一般のレベルよりも少しは高いだろう国立大学法学部教授のレベルと同じだということを知り、げんなりとした次第だ。



もし、中小企業の短期の資金繰りでお金が必要だったとき、大手の銀行はまず貸さない。

30%でないと貸してもらえない中小企業は潰れることになるがそれでもいいのかと聞いたら

「潰れてもらうのがいい」というのがその国立大学法学部教授の答えであった。

呆れて開いた口がふさがらなかった。これが弱者の法的救済を人生の大テーマとしている人間の言葉である。



私には、そういう人間の若かりしころに読んだであろう、本が思い浮かぶ。

そういった矛盾と人情と非情と非論理の世界に彼らは生きているわけだ。



経済学のケの字も知らない、小学生レベルの理解知識しかない人間が、民主主義の多数原理の元、恐るべき悲惨な結果をもたらす法律を設計しているのが今の日本だ。

この規範作りという制度設計は、いわゆる設計主義のような”科学的”で”高尚”なものですらなく、学級会的な多数決の原理で決めるものなのだそうだ。


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2006年10月24日

Adam Smith and Prudence

アダムスミスによる徳目体系の要としての実用知の位置づけ





勇気    節制     実用知   正義   愛

Courage Temperance Prudence Justice Love



勇気と愛は危険なものとして、意図的に体系の両端に位置付けられている。スミスは例えば商業的な勇気、つまり冒険的事業にはほとんど熱意を示さなかった。彼はまた普遍的な愛に過度に依拠することもなかった。

全ての著作の中で彼が最も強調したのは真ん中に位置する三つの徳だった。

つまり「諸国民の富」では、実用知を、「道徳感情論」では節制を、生前刊行されることのなかった「法律学講義」では正義を取り上げている。



私はいまクラシカルリベラルのように発言している。私はヨーロッパ自由主義の再生を願っており、事実としても私たちは手探りながら、その方向へ向けて格闘しつつある。近代主義は、そのための正しい道筋ではない。三つの悪徳が究極の悪であるのは、科学として失敗したからというより、それらが反自由主義的であるからだ。

小農民的で機械論的な経験主義、貴族主義的で高慢な理論は、自由主義の社会を築く基礎にはならない。

さらに社会工学は自由主義社会に死をもたらす。



私たちが依拠する必要があるのは、スコットランドの啓蒙主義であって、啓蒙主義という名のフランスの反啓蒙主義ではない。



経済学において私たちはデビッド ヒュームとアダムスミスの知的かつ道徳的な徳目へと回帰する必要がある。

だが、それを必要とするのは経済学以上のもののためだ。



ー新しく謙虚なブルジョアの経済学 D.マクロスキー「ノーベル章 経済学者の大罪」より
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2006年10月19日

End public education

池田さんが、教育バウチャーの問題を取り上げている。

この問題はご存知の通り、フリードマンのアイデアであるが、フリードマンはこれを現実との妥協案として出したのだと思う。そもそもバウチャーの原資は税金である。

#ちなみにリバタリアン的には”税金を用いた公教育”そのものに反対する。



また、フリードマンのこのアイデアは40年以上前のものであり、今の現実から見ると旧いアイデアであり、少なくとも今のインターネット時代に対応したものではない。



公共福祉インフラとして教育システムのあり方を考えることは設計主義の最たるものだ。

公教育はどのようにあるべきかという議論そのものが的を外した無意味なものである。

”教育のあるべき姿”は一つに収束させるようなものではなく、それこそいろんな価値観、方法論の上にいろんな人間がやればいい。駄目なシステムは潰れるだけの話だ。

#もちろんこの際、親や子供が塾を選ぶように駄目な学校から別の学校にすぐに移れるという”選択の自由”が条件として必要である。

今の教育システムは、憲法違反とも思われる国民の人格を政府=国家が作り上げるという発想すらあるだろう。



教育システムを見直すには、いかなる規制が教育システムに存在するのかを実証的に調査した上で論じなければならない。

つまり、教育問題とはDeregulation問題の一つに過ぎないのであって、教育システムに存在する数多くの規制と、利権の構造を明らかにした上で、最も効果的なDeregulationを考える必要がある。

つまり、どこに最大の利権が存在し、それを破壊する効果的な方法は何かを考える必要があるのだ。



例えば全ての世帯が生涯に子供を一人だけ持っている状況を想定してみる。私学も公立も実際にかかっている費用は同じとする。

この時、私学へ子供を行かせた場合、親は他人の子供が公立学校へ行く学費と、自分の子供の私学へ行かせる学費を2重払いする結果になる。また公立学校に行かせた場合は、単にその授業料を税金という形で払っているだけだ。

さらに税金という迂回路を通って支払うことで、そのお金は途中でどんどん公務員に抜き取られていく。

仮に1年間で100万円の学費がかかるとして、直接に学校へ払えば100万円だが、税金として政府経路で払おうとすると、例えば200万円が必要になるのである。



最終的には、政府による公教育そのものを廃止することが、万人にとってベストなのである。→もちろん、これはイワン イリイチの”脱学校の社会”とは全く違った意味でだ。
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2006年09月22日

Tariff,Antitrust,Licensing,price control

独禁法は、市場の競争を促進又は維持するための経済法だということになっているが、これを素直に信じている人間が多いことには驚かされる。

特に法律家は先生に教わったことをそのまま覚えることが習性のようになっている連中が多いから、このことに何の疑問も抱かない。

私はそういうタイプの学業優秀な”秀才”は馬鹿だとずっと前から確信している。



独禁法という政府規制によって市場競争が促進されるなどというのは、関税によって自由貿易が活発になるとか、価格統制によって市場の自由が保たれるというのと同じ馬鹿げたお話なのである。なぜ皆さん競争促進などというお題目に簡単にだまされるのか?



独禁法の実態を見れば、これは市場主義の名を偽った政府による社会主義的政策以外のなにものでもないことがよくわかる。



知的財産権制度も同様のナンセンスだ。

こういった偽りの名目の経済法による政府規制が複雑に絡まって現代の複雑極まりないレントシーキングでがんじがらめになった社会を作り出しているのだ。



特許法、独禁法、薬事法といった悪法は纏めて廃絶しなければならない。どれか一つを廃止するくらいだと他の経済法の悪影響が拡大するだけだ。
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2006年09月11日

The Choice: A fable of free trade and protectionism

「寓話で学ぶ経済学 自由貿易はなぜ必要か」 ラッセル ロバーツ著 日本経済新聞社



この本を図書館で見つけて読んだ。

ラッセルロバーツは、前にも紹介した「インビジブル ハート」という本を書いた人だが、この本もなかなか良い本だ。



大前さんもこの本を熟読すればよいかもしれない。

#大前氏の「ボーダーレスワールド」についてもこの本の後ろに言及されているが、比較優位則を知らないで自由貿易を言っているから、世界独禁法のようなトンチンカンなものを唱えたりするのである。



比較優位の原理というのは一見簡単に見えるものの奥が深いので、この原理を正確に理解している人間はあまりいないだろう。

この本ではデビッドリカードの亡霊が自由貿易の原理を、説明するという寓話である。



リカードは、1823年の今日、9月11日に亡くなった。



アラブ世界に民主主義なるものを強制してもダメだが、自由貿易を強制すればテロもなくなることだろう。

そのためにはアメリカが自由貿易の守護神となる必要がある。



今の世の流れはなんでもかんでもセキュリティだ情報管理だ内部統制だとほとんど戦時状態のようだが、これは

一種のProtectionismのようなものであって、Freetradeの対極にある動きだ。

情報Protectionismが、情報のfreetradeをスポイルすることで新たな戦争の種を作る可能性が高い。
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2006年08月21日

法の支配

「法の支配―オーストリア学派の自由論と国家論 」

阪本 昌成 著

単行本: 258ページ

出版社: 勁草書房 (2006/06)



先にもBlogにこの本について書いたが、前から読もうと思っていた上記の本をこの休日に読んだ。

ハイエキアンである筆者が、ハイエクの”法の支配”とはなにかを多面的に詳細に論じた本である。



阪本氏が「私自身名著だと信じ込んでいる本書」とあるが、”その価値”は、私の評価では非常に高いものがある。お勧めの本だ。

日本でもやっとハイエクを正確に解説できる人間が出てきたということで、世界的にはあまりに遅まきではあるが、その登場を歓迎したい。

但し、この本はハイエクの本を全く読んだことのない人にはやはり難しいかもしれないし、

逆に日本で法律をまじめに勉強してきた人間ほどハイエクの世界を理解することは障害があるかもしれない。



私は、Wikiのリバタリアニズムの解説をこの本を読んでから書いたわけでは当然ないが、私の解釈と

阪本氏の解釈にほとんどずれはない。

つまり、「リベラリズムとは、いわゆる「消極的自由」を尊重する思想体系である。」といった点である。もっともこれはハイエクのLaw Legislation LIberty(=LLL)でそのまま述べられている内容ではある。



この本が明確に述べている”言葉の意味”のいくつかについて、以下に備忘録として書いておこう。



・正義に適うルール、または自生的ルールはあくまでも「大きな社会」すなわち「市民社会」における行為のルールである。このルール以外にも組織における正義に適うルールが存在するだろう。

・組織は、ある特定目的達成のための特有のルールを持ち、「法の支配」とは別のルールの下に置かれる。

・「国家/市民社会」の二元論は「公的領域/私的領域」という、われわれの生活領域の区分けでもあって、「私的」とは”政府による干渉”があってはならないということ。



この本の結びの言葉を引用すると、

「限られた知識をもって、語れない知識までをも語ろうとしてきた私は、これ以上語ることはできない。・・・ ”「法の支配」を実現する政府があってこそ、我々は、我々の内部に持っているとはつゆ知らなかった知識を知り、これを利用することができる
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2006年08月17日

Wikipedia リバタリアニズム

誰かの書いたWikiのリバタリアニズムの説明を見て、少し間違えを修正するつもりが、書いている内にほぼ全部を書き換えてしまった。

尤も元の構成は基本的にあまり変えていないのだが、構成から全部再検討した方がよいかもしれない。



リバタリアニズムにおける私的財産権という言葉の重さを全く理解していない人が多いが、これはリバタリアニズム理解の上ではずせないキー概念であり、このポイントが分からずにリバタリアニズムを理解することは無理である。



私的財産権の解釈をめぐってはいろいろと幅があるかもしれないが、これはデビッドフリードマンのアナルコキャピタリズムからハイエクのようなクラシカルリベラリズムよりのリバタリアニズムやミーゼス、ロスバードに至るまで共通して認められる、リバタリアニズムの根幹概念なのである。



単に自由だ自由至上主義だといっても、リバタリアニズムにおける自由の消極的意味を指摘しなければ、リバタリアニズムにおける自由概念を説明したことにはならない。



”消極的自由”をSecureする上で必要最小限の制度原理、社会原理が”私的財産権”という概念に濃縮されている。



また、左翼リバタリアニズムうんぬんという説明は、百害あって一利なしである。

きれいはきたないような矛盾用法を使うに等しく、そんなことをすれば、リベラリズムという言葉と同様に、リバタリアニズムという言葉の意味を破壊することになりかねない。



この点、左翼リバタリアニズムに説明をくどく割いている今の英語版のWIKIの説明も非常に出来が悪くなっている。

昔Fareさんが書いていたバージョンが一番出来がよかったのではないか。



さらに、国家と政府という言葉の使い分けも重要である。NationとGovernmentは別の概念だということが分かっていないと話にならない。



まあWikiであるから、これもそのうち誰かが書き換える可能性は高いので備忘録として以下に保存しておく。

文章はつたないが、リバタリアニズムのポイントは簡単に書いてあるつもりだ。



===============================

リバタリアニズム(英:libertarianism)とは、私的財産権(private property rights)もしくは私有財産制を個人の自由を確保する上で必要不可欠な制度原理と考える政治思想、経済思想、法思想である。

私的財産権には、自分の身体は自分が所有していることを自明とする自己所有権原理(principle of selfownership)を置く。(→ジョン ロック)



私的財産権が政府や他者により侵害されれば個人の自由に対する制限もしくは破壊に結びつくとし、政府による徴税行為をも基本的に否定する。



また税とその配分という政府機能を否定すれば、無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム(anarcho capitalism))や国防・裁判・治安維持にその機能を限定した上で政府の役割を肯定する最小国家論者(Minarchist)といった分類は程度の問題といえる。



基本的にリバタリアニズムが追求する自由とは、他からの制約や束縛がないことという意味での消極的自由を指している。



この点において、制定法上の自由権のような政府が与える積極的自由と、リバタリアニズムにおける消極的な自由とは対照的で相異なる概念である。



法的には、ハイエクに見られるように自由とは本質的に消極的な概念であるとした上で、自由を確保する法思想(法の支配/rule of law)を追求する。(→ハイエク)



経済的には、市場におきる諸問題は、むしろ政府規制や政府介入そのものが引き起こしているという考えから、市場への一切の政府介入を否定する自由放任主義(レッセーフェール/Laissez faire)を唱える。(→フリードマン)









[編集]

リベラリズムあるいはリベラルとの違い

リベラリズムという用語が、政府による税の再配分によって平等を実現しようとする社会主義〜社会民主主義的な文脈で使われるようになった。しかし、これはリバタリアニズムにおける自由の意味とは正反対のものであり、それとの差別化を図るためにやむをえずリバタリアニズムという用語が使われるようになったという経緯がある。



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現代のリバタリアニズム 

シカゴ学派リバタリアン ミルトン フリードマン

オーストリア学派リバタリアン(Praxeology) 

ルードウィッヒ フォン ミーゼス(Ludwig von mises)

フリードリッヒ アウグスト フォン ハイエク

マリー ロスバード (Murry Rothbard)

ハンス ハーマン ホップ(Hans herman Hoppe)

アナルコ キャピタリズム 

デヴィッド フリードマン(David Friedman)

Objectivism アイン ランド(Ayn Rand)

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参考翻訳文献

ミルトン・フリードマン『選択の自由』 西山千明 翻訳 

ミルトン・フリードマン『政府からの自由』 土屋 政雄 翻訳 

デヴィッド・フリードマン『自由のためのメカニズム』森村 進、高津 融男 翻訳 勁草書房 (2003/12)

スティーブン ランズバーグ 『ランチタイムの経済学』

フリードリッヒ アウグスト フォン ハイエク『隷属への道』西山千明 翻訳 春秋社

フリードリッヒ アウグスト フォン ハイエク『法、立法、自由』 春秋社

ランディ E. バーネット 『自由の構造 正義・法の支配』 木鐸社 (2000/07)

ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社 ISBN 4833221705

デイヴィッド・ボウツ 著 副島隆彦 訳『リバータリアニズム入門』洋泉社 ISBN 4896913442
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