2016年09月18日

Hayekを読む(その1):The Constitution of liberty


ハイエクの著作「自由の条件」(Constitution of Liberty)とは、一言でいうとアメリカのconstitutionalismについて考察した本だ。
アメリカにおけるclassical liberalismとは、constitutionalismのことといっても間違いではない。ハイエク自身は、おそらくこの本を書いた時点では立憲主義者としてのclassical liberal であったと思われる。
しかし、その後、アメリカの立憲主義の敗北を認識して、「Law,Legislation,and Liberty」を書いたというのがハイエクの後期著作のごくおおざっぱな流れである。

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2014年04月15日

Protectionism caused national socialism movement

1929年にアメリカがスムートホーリー関税法を提出すると株価が大暴落した。そしてイギリスも対抗して大英帝国内のブロック経済を行うことになる。そうこうしているうちに世界大恐慌に至った。
株価の暴落そのものが大恐慌の原因ではなく、その後のFRBの措置が最悪であった事はミルトンフリードマンの指摘の通りだ。
しかし、スムートホーリー関税法によって大恐慌からブロック経済化、そして第2次世界大戦にいたる一連の流れの源流には、この極端な保護関税法があり、世界の経済を完全に破壊するだけのインパクトがあった。

ブロック経済化によって英米以上に打撃を被ったのはドイツや日本といった資源のない国だ。
同じ頃(1929)、共産主義ソ連では第一次5カ年計画を行い、これは当初、非常にうまく行っているように見えた。
こういった背景が、ドイツと日本が国家社会主義化する契機、インセンティブとなる。
アメリカやイギリスに対する反感が、市場経済に対する反感に結びつき、社会主義が非常に魅力的に見えたわけだ。
弱肉強食にみえる市場経済よりも社会主義は道義的にもまさっているように見えた。

今では、社会主義や共産主義が恐るべきものだということは分かっているが、その黎明期、初期においては、魅力的に見えたとしても不思議ではない。

それから15年後、1944年、ハイエクが45歳の時に発表した「隷属への道」では、共産主義も国家社会主義も同じ穴の狢、つまり集産主義であることを指摘した。この本は、当時のイギリス首相チャーチルにも影響をかなり与えた。
この年(1944)にブレトンウッズ自由貿易会議が開かれて、英米もブロック経済がまずかったことは反省したようにみえるわけだが、時既に遅すぎた。スムートホーリー関税法から15年も経っていたのである。

「隷属への道」は反集産主義の本であり、つまりは反共産主義、反国家社会主義、反社会主義の理論的根拠を与える本として歓迎された。
だが、この本では、ブロック経済や保護関税主義などの影響はあまり取り上げられてはいない。
もちろん、ハイエクは自由貿易の重要性は分かっていただろうが、なぜドイツや日本が国家社会主義になったかというインセンティブに関しては何も書いてない。
逆にもし、ドイツが当時、国家社会主義をとらなければ、世界大恐慌の中でどのようなことになっていただろうか?
ドイツは第一次世界大戦の莫大な賠償に喘いでいる状況で、世界恐慌とブロック経済化によってとどめを刺され、経済は完全破綻し悲惨な状態であった。
一時的なものであったかもしれないが、ヒットラーは、瀕死のドイツの苦境をまたたくまに救った救世主であったことは間違いない。もし、ドイツが英米に対して、ブロック経済はやめてくれといっても、やめはしなかったろう。市場経済に対する憎悪がユダヤという言葉にも集約されていったように思う。

こうして見ると、最初に保護主義により、世界の自由貿易、自由経済を破壊したのは当時のアメリカ、イギリスであり、ソ連でもドイツでもなかった。
過激な保護主義によって、英米以外の自給経済圏を持たないほとんどの国が経済的に破綻し、社会主義に活路を求めたといえる。
アメリカ国内においても、国内不況を契機としてニューディーラーが台頭するようになる。これはソ連の5カ年計画を模した計画経済である。アメリカ内部においても社会主義が受け入れられて行く。

こういった歴史的な流れは重要だ。歴史的な時間の順序関係が大事で、前の出来事が後におこる事態の原因、インセンティブとなってるからである。
posted by libertarian at 09:35| 東京 ☀| F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月25日

Hayek's economics by Milton Friedman

ハイエクの経済学に関しては、いままでほとんど関心もなかった。
「隷属への道」は45の時に書かれ、「自由の条件」、「法、立法、自由」といった著作は、60過ぎに書かれたハイエクの後期のものである。
ハイエクは40代でほとんど経済学はやめたような状態であった。
そもそも、ハイエクは経済学に関しては独学だったのではないかと思われる。
最初にとった博士号が法学で、次に政治学で博士号を取得しているが、もとより当時のドイツでは経済学部のような専門教育はなかったのかもしれない。
ハイエクーケインズ論争というのがあるが、ハイエクがIS-LMを理解していたかどうかもかなり怪しい。
LSEで教えている時は学生に初等的な経済学理解がないと馬鹿にされたこともあるらしい。
ハイエクの景気循環論にしても、現代の観点からすれば間違いだらけで、実証性に乏しい観念的なアイデアといったものだ。実際、30代で書かれたこれらの著作は実証的に重大な事実誤認が多い。
ハイエクの経済学についてはやはりミルトン フリードマンも完全に否定しているようだ。

M.Friedman「言っておくが、私はハイエクという人物は心から尊敬している。だが、彼の経済学は認めない。

「価格と生産」は誤りの多い本だと思っている。

資本についての論は読むに耐えない。だが、「隷属への道」は我々の時代の最も重要な著作の一つといっていい。

政治理論についての彼の著作には目を見張るものがある。

こちらの著作については敬服するしかない。ハイエクは「隷属への道」で自分の天職、本当の専門を見つけたに違いないと思っている。」

(ダニエル エーベンシュタイン「フリードリヒ ハイエク」p110

 

ハイエクの影響はこれら後期の著作によるものであり、これが旧共産主義圏の内部でアンダーグラウンド出版物として指導的な反体制知識層に広く読まれ、理論的、思想的なバックボーンとなった。

ベルリンの壁崩壊当時は、彼らはハイエクとフリードマンの思想を西側の人間よりも熟知していたのである。

もとよりハイエクは経済学よりむしろ法学、政治学が本来の専門であったから、後期の著作こそがハイエクの専門分野だったわけだ。

しかし、ミルトンフリードマンがハイエクの経済学を否定してもハイエクの後期の著作を最大限に誉めているように、後期の著作の意味はそれによって否定されるものではないだろう。

ハイエクの後期著作は、マルクスとは真逆の意味で世界を変えた思想だった。

 

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2009年12月26日

Hayek II

なんとHayek全集の第2シーズンが春秋社より売り出されている。今まではハイエクの全集は1期がLaw Legislation Libertyまでの約10巻までを出していただけだったのが、第2シーズンでは、いろんな論集を集めたのを出しているようだ。
しかし、世界でハイエクのこんな立派な全集が手に入るのは日本くらいかもしれない。
アメリカでもそんなにハイエクの本はでていなかったと思う。たしか途中で頓挫してたはず。
これはサイバーなんちゃってリバタリアン、もとい池田さんの影響の成果なのかもしれない。
この点を私は池田さんの大きな業績として評価しているのである。
私もハイエクのこの2期の全集を買ってコレクションに加えようと思う。
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2009年11月01日

Political law

political economyという言葉はあるが、political lawというのはあまり聞かない。
たとえばgoogleでこれを検索すると、ヒットは沢山あるもののwikiなどにはその項目がない。もちろんpolitical economyの項目はある。
political lawという言葉が基本的にないのは、政治と法は別と考えられているからと思う。
例えばpoliticsは薄汚れているが、法には清廉なイメージがあるのであろう。
しかし政治において国会とはまさに法律を作る機関であり、政治権力と法律は一体だ。
国会が法律を作る場というが、この場合の法律とはほとんどがいわゆる公法だろう。
私法を国会で作るというのはそぐわない。
司法において、この公法と私法が渾然となっているが、common lawなどは、この私法がメインだ。ハイエクが法(law)というときは私法を指していて、公法というのは法概念に入れていない。
この公法を大量生産する政府というのが近代中央集権国家の特性といえる。

私が間違っていなげれぱ、西側世界に現在広くひろまっていて多くの人がそれを民主主義の唯一の形態と誤解しているがゆえに守もらなければならないと感じている、代議制政府という特定の形態には、それに貢献させようと意図していた理念から外れる固有の傾向が確かにあるように思う。
 このタイプの民主主義が受容されるようなってしまったから・われわれは、かつてそれこそ個人の自由の確かな安全弁とみなされていた個人の自由のあの理念から遠ざかりつづげ・今や誰も望まなかった体系に向かって漂流しつつあるということは、ほとんど否定しえない。」(ハイエク)

ハイエクは民主主義という概念を、制限された権力というイメージで捉えていて、その意味で民主主義に肯定的だが、代議制という政治形態が民主主義と同じでもなければ、その必然的な形態とも考えていない。逆に現代の代議制は、その正反対の無制限の権力つまりは、無制限の立法権力となっているがゆえに危機的だと考えていた。
私法とは、コモンローの歴史の中で自生的に形成されたもので、そのような法は立法によって生まれるべきものではないとも考えていた。
そして、現代は私法と公法の区別すらも曖昧になっていることを指摘し、立法権力の制限がないタガが外れている状態と思っていたようだ。

結局、政治とは立法権力であるから、政治改革とは本来、立法権に関する改革である。
リバタリアニズム的には、政治の立法権力を本質的に制限することができれば、それは必然的に小さな政府になることを意味する。だが立法権を制限できなければ、いかなる政治改革も小手先のものにすぎず、現状を糊塗するだけのものだろう。
政治の関与可能な領域を限定することは、立法権の及ぶ領域を制限することと同じなのだが、これを可能にする法的、憲法上の根拠が、大陸法圏の国には絶対的に欠けているのであろう。
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2009年06月01日

The Tradition of Spontaneous Order

The Tradition of Spontaneous Order: A Bibliographical Essay by Norman Barry


Norman Barryによるハイエクのspontaneous orderに関する解説。
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2009年04月18日

A TIGER BY THE TAIL

Hayekのケインズに関するコメントや見解を集めた本がでた。
安いので購入してみる。
 
http://www.mises.org/store/Tiger-by-the-Tail-A-P582.aspx
 
経済学は役に立たず?、ケインズ経済学は未だに世に害毒を撒き散らしているようだが、
所詮、経済学は国家や政府のための御用学問としての性質が強いからである。
仮にマクロ経済学を苦労して勉強しても、政府部門の人間でなければ何もできない。
もちろん、何もしないに越したことはないのではあるが。。
 
経済学を勉強しても世の中の経済が合理的に少し分かった気になる程度で、それが実は正しいかどうかもわからないというのでは勉強するだけ無駄というものだ。少なくともそんなものは無駄と考えるのは正しい経済学的思考であろう。
フリードマンやランズバーグの書いているPrice theoryだけ勉強するのが正しいのではないか?
Price theoryこそは経済学の不滅の金字塔であろう。
私の印象では、フリードマンやランズバーグのPrice theoryを正確に理解している経済学者は日本にはあまりいないと思う。
posted by libertarian at 17:49| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月28日

Hayek interviews

hayekの長い(500ページほどもある)インタビュー集がMisesのサイトで公開されている。

この本は、「ハイエク、ハイエクを語る」として翻訳されているもののベースのようだが、全く同じではないようだ。
ROSTENやBorkのインタビューは「ハイエク、ハイエクを語る」には収録されていないと思われる。

The 1978 interviews with Friedrich Hayek conducted by Earlene Craver, Axel Leijonhufvud, Leo Rosten, Jack High, James Buchanan, Robert Bork, Thomas Hazlett, Armen Alchian, and Robert Chitester in 1978

http://www.archive.org/details/nobelprizewinnin00haye
http://blog.mises.org/archives/009657.asp
http://www.archive.org/stream/nobelprizewinnin00haye

ROSTEN: Let me go back to something you just said, which interested me very much, on Ludwig von Mises, when you said you agreed with his conclusions but not with the reasoning by which he came to them. Now, on what basis would you agree with the conclusions if not by his reasoning?

HAYEK: Well, let me put it in a direct answer, I think I can explain. Mises remained to the end a strict rationalist and utilitarian. He would put his argument in the form that man had deliberately chosen intelligent institutions. I am convinced that man has never been intelligent enough for that, but that these institutions have evolved by a process of selection, rather similar to biological selection, and that it was not our reason which helped us to build up a very effective system, but merely trial and error.

So I never could accept the, I would say, almost eighteenth-century rationalism in his argument, nor his utilitarianism. Because in the original form, if you say [David] Hume and [Adam] Smith were utilitarians, they argued that the useful would be successful, not that people designed things because they knew they were useful. It was only [Jeremy] Bentham who really turned it into a rationalist argument, and Mises was in that sense a
successor of Bentham: he was a Benthamite utilitarian, and that utilitarianism I could never quite swallow. I'm now more or less coming to the same conclusions by recognizing that spontaneous growth, which led to the selection of the successful, leads to formations which look as if they had been intelligently designed, but of course they never have been intelligently designed nor been understood by the people who really practice the things.

(粗訳)ミーゼスの議論にある18世紀のrationalismや彼のutilitarianismを私は受け入れることができなかった。
ヒュームやアダムスミスがutilitarianだというなら、彼らの元の型の議論では有益なものが成功するとしも、人々はそれを有益だと知っていてデザインしたのではないという議論であった。
これを合理主義的な議論に変えたのがベンサムだった。
ミーゼスはその意味でベンサムの後継者であった。
彼はベンサマイトユーチリタリアンであった。そしてこのutilitarianismを私は全く受け入れることができなかった。
私は今ではspontaneous growthを認めることで、同じような結論に至った。
spontaneous growthにより、有益なものの選択に帰結し、知的にデザインされたかのように見えるものが形成されるが、しかし実際はそれらは決して誰かが知的にデザインしたものでもなければ、それを実施している当の人間が理解すらしていないのである。

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2008年11月03日

Mechanical expansion of rights

財産の概念がつい最近になって拡張して適用されるようになった別の分野において、独占の防止と競争の維持の問題がいっそう深刻な形で提起されている。ここで私が考えているのは、発明のための特許、著作権、商標のような権利と特権にまで財産の概念を拡張することである。
これらの分野にたいして物質的な物を対象として発達してきた財産の概念をそのまま機械的に適用することは、独占の伸展を助けるのに非常に大きな力を貸していること、そしてもし競争が作用するようにされるべきであるならば、この分野で思い切った改革が必要とされるであろうことは、私には疑念の余地がないように思われる。
とくに工業の特許の分野においては、独占的特許の授与が科学的研究投資に付随する危険の負担にたいする真に最適で有効な報酬であるか否か、真剣に検討しなければならないであろう。
ハイエク 「自由」企業と競争的秩序 より

このモンペルランソサエティーでの講演で、ハイエクは知的財産(特許、著作権、商標)に対する批判と、会社を法人とする機械的な権利概念の拡張などに対して、疑義を唱えている。
まとまった論文ではなく、その後ハイエクがこの議論を発展させたかどうかは知らない(多分してない)が、現代の経済学者〜法学者の間で行われている財産権概念のmechanical expansionを批判する最先端の議論は、このハイエクの根本的疑義を継承しているのである。
#もちろん、こういう高度な議論に対して日本人は完全に蚊帳の外だ。経済学で頑張っているのは池田信夫氏くらいか?法学者ではただの一人もいない。日本における”法学”など学問でも何でもなく、簿記などと同様の実用知識にすぎないのだ。

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2008年09月21日

Hayek Collection : PRICES AND PRODUCTION

PRICES AND PRODUCTION
AND OTHER WORKS:
F.A.HAYEK ON MONEY,
THE BUSINESS CYCLE,AND THEGOLD STANDARD

http://www.mises.org/books/hayekcollection.pdf
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2008年08月19日

ハイエク 知識社会の自由主義

本日、池田先生の新著「ハイエク 知識社会の自由主義」を全部拝読させてもらった。
19日発売ということだったが、本屋にすでに平積みになっていたので、早速購入した。
この本は、非常によく書けた理想的なハイエクの解説書である。さすが池田先生である。
こういった良書が多くの人に読まれることを期待したい。

入門書とはいえ、私の知らないことも多く書かれており、非常に誠実かつ正確にハイエクの思想を解説したものになっている。
この本を丁寧に読んでから、ハイエク全集にあたれば理解しやすいだろう。

現在、巷では新自由主義がどうたらこうたらと、ハイエクもフリードマンも読んだことのない人間がくだらない批判本を沢山書いているようだが、そういった低級な連中の陰口にだまされてはならない。
何かを考えるためには、まず知ることから始める必要がある。
この本は、ほんとうの自由主義とはなにかを知りたいと思っている人間にお勧めである。
posted by libertarian at 00:04| 東京 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月09日

The Birth of Plenty

「豊かさ」の誕生―成長と発展の文明史
「豊かさ」の誕生 ウィリアム バーンスタイン
この本は、以前、アナルコキャピタリズム研究でも紹介されていた本だが、これをこの二−三日で読了した。前から購入して持っていたのだが存在を忘れて本棚に埋もれていた。

非常に面白かった。久しぶりに内容の濃い面白い本を読んだ気がする。

この著者はアメリカの著名な投資家らしいが、これほどの蘊蓄に富み主張の一貫した歴史書を書くというのはただ者ではない。
おそらくこの著者の立場はHayekianであろう。しかしリバタリアンでもオーストリアンでもない。このことは特に矛盾はしないのである。
この本自体がハイエクの後期作品を意識して書かれていることが伺えるし、それを最新のデータ、研究成果に基づいて総括しようとする意図が伺える。


簡単に言えば、この200年の人類の爆発的な豊かさの原因としては4つの原因があるとする。
・私有財産性
・科学的合理主義
・資本市場
・輸送と通信


このうちで、最も重要なのは私有財産性であり、法の支配である。
そして英米の植民地となった国は、私有財産性と法の支配が確立されたためにその後繁栄したが、南米などスペイン植民地となった国では、私有財産性と法の支配が確立されなかったために、スペイン同様に長く繁栄はできなかった。また著者は、現在の貧困な南アフリカ諸国に対しても、先進国ができることは、私有財産性と法の支配の種を蒔くことだけで、後は気長に芽がでるのをまつだけだという。
あと、日本の歴史に対する本書の記述は非常に冷たいものがあるが、これがあちらのインテリの正直な印象なのだろう。

なお、特許などの知的財産制度についても著者は私的財産権の一つとして、その制度的な意味を重視している。ここなどはオーストリアンやリバタリアンには特に異論のあることだろう。
また資本市場として「有限責任制」の登場を重視している。
私の興味ある点を広くカバーしている点では希有な本でもある。

これだけの本が書ける”インテリ”は残念ながら日本には大学人を含めて一人もいないだろう。
興味のある人は是非一読をお勧めする。結構な大著であるが、興味深い蘊蓄と新しい実証的な論考が多く飽きないで一気に読めるだろう。

なお、あまり本筋でないが、この3章の天動説、地動説の話で思ったことを書いておく。
よく言われるように、天動説が地動説になったことで科学的な真実に近づいたというのは、正確な表現ではない。
太陽系を考えた場合、太陽を基準として考えるのが最もシンプルな方程式になるだろうが、
地球中心に座標変換を行えば、数学的には全く等価だ。
もちろん、月を中心に座標変換をしてもよい。
絶対的な軸を想定しないのであれば、どの座標系も等価なのだ。
であるからして、コペルニクスからガリレオーケプラーーニュートンと連なる地動説への転回とは、正確に言えば、太陽系の火星や水星〜土星といった惑星が太陽を中心として回っていると考えたほうが分かりやすく、かつ数学的にシンプルだというだけの話である。
もし、これを地球中心の座標系で考えれば、惑星はかなり複雑な動きをし、軌道方程式も複雑になるだけで、これら惑星が地球の周りを動いているとしても全く問題ない。


不思議なのは、数式的にきれいなものがより真実だと思え、全く等価だが数式的に汚いものは間違っていると人間はなぜ判断するのかだ?
これは種族のイドラなのだろうか?

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2008年01月14日

Nation State and Currencies

ハイエクは、通貨発行自由化論で、通貨発行の政府独占こそが、インフレーションを招き、景気循環を引き起こす原因であると主張した。
そして通貨の発行を民間に開放することで、通貨間の自由競争を行わせることを論じた。政府という究極の独占体に裁量権を与えて通貨の管理を自由にさせることは極めて危険であり、通貨の信用を維持するのにも、競争的な市場秩序が必要だということだ。
ハイエクのアイデアは逆にNation Stateに閉じたものと言えるかもしれない。
ミルトン フリードマンのアイデアは、ハイエクとは異なるが、結局は政府の通貨発行の裁量権を制限することがその本質だろう。
問題は、Nation Stateにおける政府が究極の独占体だということだ。この問題を考える上で現在のEUとユーロが面白い。

その点で、大前研一氏の次のコラムは必読だ。
「規律のユーロ、タガ外れの円・ドル」
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/112/index.html
(無料登録が必要)

大前氏の考えを簡単にまとめると、ユーロに加入すると各国のNationStateは財政を自由にはできなくなり、強力な規律や制限が生まれる。
それに対し、日本やアメリカは、政府独占体が財政を自由にできるため、規律がなくタガが外れた状態にある。そのため、2006年度において、財政赤字のGDP比は、日本が4.3%、アメリカが3.7%、イギリスが3.0%であるのに対して、EUは平均で1.5%である。
EUでは劣等生になるイタリアですら、2.5%だ。

EUにおけるユーロとはハイエクの考えとは逆に通貨が統一されるわけだが、現在のところ、これは各国の裁量権限を抑止する効果があるということのようだ。
しかし、ハイエクの考えも結局、政府の通貨発行権限を制限することにあるわけだから、結果的には同じ目的が別の手段で実現したといえるかもしれない。

通貨とNationStateの主権は、もともと密接に結びついているが、EUという経済共同体は、国民国家の通貨発行の主権を制限することに史上初めて?成功したといえるのだろう。
この成功は拡大しつつあり、主権国家、国民国家の根幹となっている通貨主権もしくは財政主権を制限する方向に向かっているといえる。
大前氏は、今後、ユーロとドル=ダラーが、結びつき、ユーラーになり、さらには世界通貨のグローブになると予言?している。
ありえる話だ!?

要するに、問題は経済なのだ。どんな貧乏国であっても、そこに可能性があり、人々に意志とやる気があれば、それだけで、そこに莫大なマネーが市場から供給される世の中になったのだ。これは、インターネット時代だから可能になったことだ。
やはりインターネットの本質的な役割とは、20世紀までの NationState=国民国家を破壊することにあったのだと後世の歴史家は見るにちがいない。

凶悪な主権国家=国民国家の終わりは意外と近いかもしれない。市場システムとは、無制限の権力=主権を制限する唯一の仕組みなのである。

 
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2007年12月22日

Privilege and Liberty

自由が欠けている場合にのみ、いろいろな個別的な自由があらわれてくる。
すなわち、これらの個別的自由は集団や個人が得るかもしれない特権や免除であって、この場合には、その集団や個人以外のものは、多かれ少なかれ不自由なのである。」 
ハイエク 自由の価値より

これはハイエクの言葉だが、まさに特許権などの知的財産権という特権制度にそのまま当てはまる。
言い換えれば、「消極的な自由」が欠けている場合にのみ、「積極的な自由」が現れるのである。この"positiveな自由"とは政府から与えられる特権や免除である。

 
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2007年10月30日

Counter Revolution of Science

ハイエクのCounter Revolution of Scienceが次のURIから全文をPDFまたはTXTでダウンロードできる。
http://www.archive.org/details/counterrevolutio030197mbp
ここにあるFlipBook形式もなかなか面白い。

なくなるといけないので、以下のリンクからもPDFをダウンロードできるようにした。(12MB)
Hayekcounterrevolutio030197mbp.pdf

この本はハイエク全集の中にも入っていない貴重な著書である。
1955年に書かれているから、ハイエクが56歳の時の著書だが、ハイエクは90才過ぎまで長寿を全うし80を過ぎても著作をだしていたため、ハイエク中期の作品と呼べるかもしれない。思想的には脂の乗った時期であろう。
ちなみに、この本を、ハイエクの最重要の本と呼ぶ人もいる。
例えば、David Gordon氏によると、この本は
Perhaps Hayek’s most important book. Attacks social engineering and defends individualist methodology in the social sciences.
と、いうことだ。

この邦訳も「科学による反革命」というタイトルで木鐸社から出ているが、4725円もする。
私は、図書館で借りて以前読んだので改めて邦訳を買うつもりはないが、そのうちこの英語で再読してみようと思う。といっても、なかなかまとまった時間がとれないが・・。
posted by libertarian at 21:09| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月08日

ハイエク全集新版

ハイエクの春秋社の全集が、復活した。
相変わらず高価なのは問題だが、復活したのは喜ばしいことだ。
翻訳も一部改定しているらしい。
とくに活字が読みやすくなったのがよい。
英語の原書と、この翻訳と両方持っているといいと思う。原書を読んでいてよく分からないところがあったら、この翻訳を見るというのが効率的な原書の読書法である。ハイエクの英語はやっかいだ。
posted by libertarian at 23:21| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月28日

Not for Public, But for Liberty

殆どの人間は、特に全体主義的でもなく、特に個人主義的でもない。
少なくとも、殆どの人間は自分をそのように思っているはずだ。
この点はその人間の頭の出来の良し悪しにあまり関係ない。大鶴特捜部長も大蔵官僚もそう思っているだろうし、そこらのパンピーもプータローもそう思っているだろう。

社会やチームの一員として動くとき、ある程度は自分を殺し、またそうしないと社会の中で生きていけない。そして自分の利益を主張することはごく控え目にしなければならない。これはある意味で事実だ。特に日本ではそうだろう。だが殆どの人間が根本的に理解していないことは、社会のために自分を抑制したり我慢することが、”社会の何のためか”という点である。

この点を社会の構成員全体が勘違いしている限り”社会”は自由から逸脱しつづけることになる。
さらには大鶴特捜部長のように、自分を絶対的な安全圏に置きながら、社会の名において、また公共の名において、自己の得点稼ぎ、立身出世のために”公共権力”をかさにきた卑劣極まりないスタンドプレーを行うリンチ社会になる。私は大鶴に限らずこういった人間を激しく軽蔑し、決して許さない。

CSRという名目で戦中の隣組のような監視社会を作ることが、社会の一体何のためなのかは、彼らは一切考えない。「そこに強行規定があるから、対応しなければならないのだ」と、分かったようなことを言う人間も、その強行規定の意味を知らないで言っている。

社会は、自立的な秩序を持ちうる。ただし、そこに自由競争があればという条件がつく。
なぜ、競争が重要なのかは、トートロジーのようだが自由競争とは、個々の人間が自由に行動することができることの結果だからといえる。
競争を重視することとは、人々の自由、行動の自由を最大限認めることと等しい。

他者の自由、行動を制限すれば競争は成立しない。自分だけが自由で、他の人間が全て不自由であればそれは好都合なことかもしれないがそれは独裁者だけの特権といえよう。
今は競争を制限しようとして、社会全体、全ての人間の自由をお互いに縛ろうとしている。

競争社会を認めその中で自ら活動することは、他者の自由を尊重すること、または他者への強制ができないことを意味し、それが結果的に社会全体の自由を守ることになり、良い意味での自生的な秩序を作るのである。
ハイエクの言う自生的な秩序(spontaneous order)とは、意図せずして生まれる価値のことであり、消極的な価値(negative value)を意味する。

競争の価値とは、それが商品、サービスを向上させ、価格を低くさせることにあるのではない。これらは派生的な”効用”に過ぎないと見るべきだ。
競争が可能な社会とは、自由な行動が可能で保証されている社会のことだ。自由が失われれば、当然にそれだけ社会の自由競争はなくなる。また逆も真なりで、競争を制限すれば、それだけ自由は失われる。

自由競争をなくして、平等な社会を作ろうとしたのが、社会主義の建前上の理念、理想であるが、社会は全く平等にはならず特権格差が極大化し、生活は極限的に貧しくなり、人々の自由はなくなり、凄惨な監獄社会となった。そこでは人間の理性そのものが否定され破壊されるのである。

「競争を作用させるために必要とされるのは一般に合理性ではない。逆に合理的な行動を生み出すのは競争、あるいは競争を容認する伝統である。」
このハイエクの文章で、競争を”自由”と置き換えても意味が通るだろう。

== LLLより以下引用===
”・・だが、合理的行動はしばしば経済理論の前提として述べられているが、そうではない。理論の基本的な論点はむしろ、競争によって人々は暮らしていくために合理的に行動せざるをえなくなるだろう、ということである。
それは市場過程への大部分の、あるいはすべての参加者は合理的であるという仮定に基づいているのではなく、反対に、少数の相対的により合理的な個人の存在がその他の人々に必然的にかれらと張り合わせ、優劣を競わせることになるのは、一般的に競争を通じてである、という仮定に基づいている。

合理的な行動がその個人に何らかの利益を与える社会においては、合理的な方法が次第に開発され、模倣によって広められるだろう。もし合理的であることから利益を得ることができないなら、他の人々より合理的であっても無駄である。
したがって、競争を作用させるために必要とされるのは一般に合理性ではない。逆に合理的な行動を生み出すのは競争、あるいは競争を容認する伝統である。”
ハイエク 「法と立法と自由」3巻より 

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2007年05月05日

Denationalisation of Money

以下の設問は、F.A.Hayekによるものである。
「貨幣発行自由化論」より抜粋する。

1. 一国にはただひとつの通貨が存在すべきであり、かつそれは政府によって管理されなければならないという長く持ちつづけられてきた見解を検討せよ。遠い過去の歴史と最近の歴史から例を挙げて読者の議論を説明せよ。

2。法貨の起源は何か。法貨は貨幣制度の不可欠な基礎であるかどうかを議論せよ。

3。貨幣を定義せよ。それは非貨幣資産とどう区別されるか。貨幣の「数量」という概念は適切かどうか議論せよ。その議論を貨幣「数量」説に適用せよ。

4。「経済の必要に応じ貨幣の供給を変化させうるように政府が貨幣を管理することは望ましいことである。」
「貨幣が政府によって統制されてきたために、人々は貨幣に対する信頼を失ってきた。」
これらの点を議論せよ。

5。歴史の示すところによれば、「法貨」である紙幣に対する信頼が時に失われている。競争紙幣制度はどのようにして公衆の信頼を維持することができるのか。

6。「信頼されるためには、紙幣は価値をもった財や貴金属に交換することが可能でなければならない。」読者は賛成するか。この交換可能性が不可欠である場合とそうでない場合の条件について論じよ。

7。貨幣量が政府によって統制されなければ、インフレーションおよびデフレーションが生じるのは困難もしくは不可能であろうという見解について議論せよ。
1929ー32年の大恐慌と1972ー75年の大インフレーションより、読者の解答を例証せよ。

8。好況と不況は、「資本主義」と結び付いている。それらは資本主義でない経済においても見られるか。それらは資本主義の結果なのかそれとも他に原因があるのか。

9。「利害関係者の激しい圧力を受けあるいはそれにさらされている貨幣当局が、雇用増大のために貨幣量の増加、これによるインフレーションの発生を回避することは政治上は不可能である。金本位制や固定相場制、さらにその他の貨幣拡張を阻止するような制約は不十分であることが分かってきた。」
これらの点を議論せよ。

10。通貨の国際移動を統制する一国の政府権力をどのようにして取り除けばよいか。国際協定で十分であろうか。それよりも通貨のでの競争の方がどれだけ効果的であるか

==========
大学の経済学の教授にお金、もしくは通貨とはなにかを聞いてみれば、その人の経済学理解の根本がどのようなものか簡単にわかるだろう。
moneyもしくはcurrencyとは何かは、経済学の基礎論にあたるDeepなポイントだ。
ほとんどの経済学者は、通貨(=currency)として法貨(=legal tender)以外のものを想定すらしていない。
この本の翻訳をした川口慎二氏のあとがきには、「現代は”貨幣論のない金融論”の時代である。これは貨幣法定主義を前提としかつ金融規制が支配的であったこれまでの制度からの当然の結果であると考えられる。」とある。

ハイエクによれば、通貨発行の政府独占こそが、インフレーションを招き、景気循環を引き起こす原因である。これに対し、民間銀行が発券銀行となり、様々な種類の通貨を発行する競争を行うべきだとしているのである。通貨の信用は民間企業の競争の中から生まれるとする。
インフレーションとは、一般物価価格の”平均的”上昇ではない。そうではなく価格が平均的には上昇せず、相対価格の構造を破壊し、その結果として誤った資源配分や、投資がされることこそが問題だと分析する。

M.フリードマンのマネタリズムには、賛同しつつも、フリードマンの現実主義に対しては「現時点で可能なことを決定するのは政治家の任務であり経済学者の任務ではない。経済学者がこうした姿勢を固執しつづけることは災害をもたらすことになるであろうことを指摘しつづけなければならない。」と書いている。
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2007年03月17日

Defect of Capitalism

ハイエクがLLLの中で書いた「資本主義の欠陥」について以下に原文と私の拙訳をつけておく。
LLLのThe discipline of abstract ruleからの抜粋である。
====
”The possibility of men living together in peace and to their mutual advantage without having to agree on common concrete aims, and bound only by abstract rules of conduct,was perhaps the greatest discovery of mankind ever made.”

ただ人々が抽象的な行動ルールによって結びついていさえすれば、共通の具体的な目的がなくとも、人々が平和に、かつお互いの長所を活かしながら共存できる可能性があるというのは、おそらく人類のなした発見の中でも最大のものであろう。

"The 'capitalist' system which grew out of this discovery no doubt did not fully satisfy the ideals of liberalism,because it grew up while legislators and governments did not really understand the modus operandi of the market,and largely in spite of the policies actually pursued."

この発見から成長してきた「資本主義者」のシステムが、自由主義の理想を充分には満たしていないのは疑いない。なぜなら、その成長は、立法者と為政者が充分にマーケットの運用の仕方(modus operandi)を理解していない間に成長したからである。また、多くの場合、実際に追求された政策を無視してそれは成長してきたからである。

"Capitalism as it exists today in consequence undeniably has many remediable defects that an intelligent policy of freedom ought to correct."

現在ある資本主義とは、結果的に、あきらかに治療すべき欠陥を多く持っているし、知的な自由政策によって修正されるべきものである。

=====================
そもそも、ハイエクの書く英語はセンテンスが長いし、あまり簡単ではない。ハイエク全集の訳は、苦労して正確に訳そうとしたことがわかる、割とまじめな仕事ではあるが、残念ながらあまり読みやすくはない。(きっと私の拙訳の方がましだろう。)

私が日本人の書くハイエク論とかをあまり評価しないのは、単純に外国でなされている言論と比べてレベルが低いということが第一だが、引用文献などが、国内同業の引用ばかりで、外国文献やオリジナル文献をあまり読んでいないものが多いからだ。だから、あまり参考にならない。
阪本昌成氏の「法の支配」の参考文献も殆ど全部日本語文献だ。恐らく実際に日本語のものしか読んでいないのだろうと思う。

しかし、もっと最悪なのは実際の著作をきちんと読み込まずに、自分で適当なストーリーを作って、我田引水的な理解をしている人間だ。これは非学問的であるだけでなくミスリーディングなデマになる。

===
池田さんのBlogで、「それと「資本主義者」なんていう日本語はありません。"Capitalist" systemは「資本主義的システム」あるいは「資本制システム」と訳すんですよ。」とのご返答があった。
どうもご立腹のあまり、筆がすべってしまたのかもしれないが、資本主義者という言葉は当然あるし、capitalistは資本主義者と訳す。
capitalist system を資本主義制度と呼ぶのは一般的だろうが、ここでハイエクはcapitalistをシングルクオーテーションでわざわざ囲っていることを分かっていないようだ。
いずれにせよ、池田さんのハイエク理解およびリバタリアニズム理解はあまりにお粗末すぎて
一から説明しても理解させるのは困難だろう。50歳を超えてしまうと左翼の教養であっても知的サンクコストが大きくなりすぎ、それを処分することができなくなるのだ。
メディアの'専門家'として、そちらの批判と解説に特化した方がいいだろう。



2007年03月17日
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2007年02月26日

Libertarianism and Old Whig

ハイエクの「自由の条件」の最終章「なぜ私は保守主義者でないのか」から抜粋しておく。
(日本語版が手にはいらないために、ちゃんと読めていない人がいるようなので。)


In the United States, where it has become almost impossible to use "liberal" in the sense in which I have used it, the term "libertarian" has been used instead. It may be the answer; but for my part I find it singularly unattractive. For my taste it carries too much the flavor of a manufactured term and of a substitute. What I should want is a word which describes the party of life, the party that favors free growth and spontaneous evolution. But I have racked my brain unsuccessfully to find a descriptive term which commends itself.

私の訳↓
”アメリカでは私の用いる意味で”liberal"を用いることがほとんど不可能となり、そのかわりに”Libertarian"という用語が使われるようになった。それが正解なのかもしれない。
しかし私としてはその言葉に魅力を全く感じない。私のセンスからすれば、Libertarianというのは作られた用語で代用語だという匂いが強すぎる。
私が欲しいのは人生の党(the party of life)、自由な成長(free growth)と自発的な漸進的変化(spontaneous evolution)を支持する党を表す言葉である。しかし、頭を絞ってみたもののお薦めできるような、うまくそれを表す用語を見つけることはできなかった。

全集の訳↓
”アメリカでは私の使った意味で”Liberal"を用いることがほとんど不可能となり、そのかわりに”Libertarian"という用語が使われるようになった。それが回答かもしれない。
しかし私としては特に魅力をその言葉に感じない。私の好みからすると、Libertarianというのは作られた用語で代用語だという匂いが強すぎる。
我々が望みたいのは生命の党(the party of life)、自由な成長と自発的な発展を好む党を表す言葉である。しかし、頭を絞ってみたが推薦できる記述的な用語を見つけ出すことに失敗した。


統制されない社会の力を信頼することに対するこの恐れは、保守主義の他の二つの性格に密接に結びついている。

Whiggism is historically the correct name for the ideas in which I believe. The more I learn about the evolution of ideas, the more I have become aware that I am simply an unrepentant Old Whig - with the stress on the "old."

私の訳↓
ホイッグ主義は私の信じる思想に対する歴史的に正しい名称である。思想の展開(evolution)について学べば学ぶほど、自分はただ頑固な一オールドホイッグ(Old Whig)だということに気づくようになった。このoldを強調して。

ハイエク全集の訳↓
ホイッグ主義の名称は、歴史的には私の信奉する思想にとって正しい名称であるというのは依然として正しい。思想の発展について学べば学ぶほど、私は後悔を要しないOld Whig党員―「Old」を強調して― の一人であることにますます気づき始めた。”



2007年02月26日
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2007年01月07日

WIKIPEDIA and HAYEK


CNETの記事でキャス・サンスティーンが、ハイエクとBLOGについて書いた文章がある。
ウィキペディア設立者Jimmy "Jimbo" Walesも、これにコメントを寄せ、”ハイエクを理解せずに、Wikipediaに対するわたしの考えを理解することは不可能だ”と書いている。
だが、USAのWIKIは成功しているが、日本のWIKIはどうもだめだ。この違いはなぜなのか?
ハイエクが日本では全く知られていないのが原因なのか?

       ====
http://blog.japan.cnet.com/lessig/archives/002211.html#more
しかしこれではどうにも抽象的だから、すこし焦点を絞ってみよう。20世紀のもっとも重要な議論のひとつはハイエクの価格システムの概念を巡るものだ。すなわちハイエクは、いかなる「価格」も情報と多くの人々の嗜好を捉えたものであり、その精度は最善の識者たちによる判定をも凌ぐと主張した。よって価格はどのような中央計画者よりもはるかに優れた働きをする。ここで問題:この価格システムとwiki、オープンソースソフトウェア、さらにはブロゴスフィアのあいだのアナロジーはどこまで有効だろうか。類似が破れるのはどこか? 具体的には、wikiとBlog圏が分散情報を集約する仕組みとして有効でなくなるのはどのような場合か?

[Cass R. Sunstein (キャス・サンスティーン)はシカゴ大学ロースクール教授。]

(ウィキペディア設立者Jimmy "Jimbo" Walesはこのエントリへのコメントで、"Wikipediaプロジェクトに関する自分の考えはハイエクの価格理論が中心になっている"と述べている。「(...) ハイエクを理解せずにWikipediaを理解することも不可能ではないかもしれない。Wikipediaに対するわたし自身の理解が間違っているかも知れないから。しかしハイエクを理解せずに、Wikipediaに対するわたしの考えを理解することは不可能だ。」)

http://blog.japan.cnet.com/lessig/archives/002221.html

ハイエクの大きな主張は、価格システムは広く分散した情報や好みを集約するというものだった。ハイエクはこれを「驚異」と呼んでいる。これまで情報を集約するその他の仕組みについて触れてきたが、Wikipediaから話を進めることは有益だろう。Jimbo Walesがコメントでハイエクに言及したというだけでも。

Wikipediaはまさに分散情報の集約をおこなっている――それも驚くほどに。広い意味で、これは間違いなくハイエク的プロセスだ。だがWikipediaと価格システムには少なくとも二つの違いがある。まず、Wikipediaは経済的インセンティブに基づいていない。人々は品物や金銭のために参加するのではないし、取引もない。次に、Wikipediaは基本的に「後手必勝」のルールで動いている。最後の編集者、すなわち一人の人間が大きな力を持つ。ところが価格システムでは、最後の購入者は普通大きな影響力を持つことはできない(もしあなたがラリーの著書をそれぞれ一万部ずつ買ったとしても、本の価格を変えることにはならないだろう)。つまりWikipediaは、分散した情報を独特の、比較的信頼性の低い方法で集約する点で価格システムと異なる。

ただし書きが二つ。1) いずれにしろWikipediaは機能する。すくなくともほとんどの部分では。 2) 価格システムも、ときに野火のように拡がる誤情報が暴騰・暴落を招くという意味では常に機能するとは言えない(だから行動経済学者が示したように、ハイエクはあまりに楽天的すぎたといえる)。

この議論が見落としているものが何かあるだろうか?
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2007年01月04日

Rothbard and Hayek

Rothbard and Hayek: A Personal Memory
by Ronald Hamowy
[http://www.lewrockwell.com/orig4/hamowy1.html]

Ronald Hamowy
[http://www.cato.org/people/hamowy.html]


ロナルド ハモウィの書いたハイエクとロスバードの思い出という講演文章。
これを読むとロスバードには、NYの60年代文化のにおいがするがハイエクはドイツーオーストリアの謹厳な学者というイメージがする。

ハモウィは、学生の頃からロスバードやハイエクなどから個人的に薫陶を得た人だ。
しかし、後にハモウィはハイエクの"Constitution of liberty"におけるハイエクの強制概念に関して批判し、ハイエクと論争をしている。
その議論の内容は、ロスバードの”自由の倫理学”で取り上げられている。
ハモウィの議論はロスバード仕込みのケーススタディ検証による反証論法かもしれない。

このロスバードの本が最初に出版されたのが1982年で、ハイエクの"Law Legislation and Liberty"が出た年と同じだ。
ハイエクは、"Constitution of liberty"と"Law Legislation and Liberty"が出版されるまでの間に、よりリバタリアン的にRadicalになったようだ。
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2006年11月16日

Mr. Sachs is wrong that Hayek was wrong

http://online.wsj.com/article_email/article_print/SB116355956112023480lMyQjAxMDE2NjEzNTUxNTU5Wj.html



Dismal Science

By WILLIAM EASTERLY

November 15, 2006; Page A18



Scientific American, in its November 2006 issue, reaches a "scientific judgment" that the great Nobel Prizewinning economist Friedrich Hayek "was wrong" about free markets and prosperity in his classic, "The Road to Serfdom." The natural scientists' favorite economist Prof. Jeffrey Sachs of Columbia University announces this new scientific breakthrough in a column, saying "the evidence is now in." To dispel any remaining doubts, Mr. Sachs clarifies that anyone who disagrees with him "is clouded by vested interests and by ideology."

・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・

Mr. Sachs is wrong that Hayek was wrong. In his own global antipoverty work, he is unintentionally demonstrating why more scientists, Hollywood actors and the rest of us should go back and read "The Road to Serfdom" if we want to know what will not work to achieve "The End of Poverty." Hayek gave the best exposition ever of the unpopular ideas of economic freedom that somehow triumph anyway, alleviating far more national and global poverty than more fashionable Scandinaviaenvy and grandiose plans to "make poverty history."



ジェフリーサックスがサイエンティフィックアメリカンにとんでもなハイエク批判を載せたらしい。↓

[http://www.sciam.com/article.cfm?articleID=000AF3D56DC9152EA9F183414B7F0000]



ここに引用した文章は、Wall street Journalに載った、サックスの方こそが間違っていると批判した内容である。



おそらくサックスは超エリートとしての自負からか、名声への野心が強すぎるのであろう。

自分の過去のロシア政策の大失敗にハイエク批判をオーバーラップさせているのかもしれない。

今では大慈善家の顔をして、”税金を使って”貧困撲滅運動をやっているのもノーベル平和賞を狙いで、誰にも否定できないような”実績”を作りたいのに違いない。

だがサックスのやっていることは短期的には”善”かもしれないが、おそらく中長期的な観点では”悪”とでるはずだ。

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2006年07月07日

Classical Legalism in USA

世界で唯一、"Constitution of liberty"(=自由の憲法)を保持する大国アメリカにおいて20世紀初頭まで、司法が議会と激しく対立しながらアメリカの自由を頑なに守ろうとしていた。

これをClassical Legalismという。



アメリカの連邦最高裁は、最低賃金法にも違憲判決(1923年 Adkins v.Children's hospital case)を出し、政府の福祉政策や経済政策に対し違憲判決を次々と出し続けたのである。



この政府と裁判所の対立は今にも続くものだが、第2次大戦あたりから世界的な社会主義化の流れにあって司法は劣勢を強いられてきた。

司法と議会との対立がピークに達したのが、Franklin D.RooseveltのNew deal政策に対して最高裁が次々と違憲判断を出した時である。

#これはアメリカが"Rule of law"思想を、最高裁による司法再審理制によって担保しているからできることだ。

日本では違憲立法審査制度は全く機能していない。



しかし当時、ルーズベルトの権力はカリスマ的であったために、最高裁への露骨な攻撃を開始した。(Court packing bill)

これがアメリカの”1937年の大危機”とハイエクが呼ぶものである。

だが、この危機は奇跡的に回避され、"Constitution of liberty"は維持されることになった。



立法府自体が、司法制度を擁護しルーズベルトに対立したからであった。

一時的なその場かぎりの有益性よりも、アメリカの憲法制度を維持することの方が計り知れないほどの重要さを持つということを議会自身が最高裁判所に対して言ったのだ。

この事実をハイエクはアメリカの偉大さと賞賛している。



基本的にリバタリアニズムといっても別に新しいものではなく、こういったClassical Legalismを引き継いでいる部分もある。

”制限された政府”というハイエクのキーワード自体、アメリカの建国からある”自由の条件”の一つをピックアップしただけのものなのだ。
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2006年07月03日

Constitution of liberty

[http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715420020411003.htm]



アナルコキャピタリズム研究(仮)で紹介されていた知ったのだが、阪本昌成さんという広島大学の憲法学の先生がハイエキアンだということらしい。

Googleで検索したら、上の国会審議の詳細な議事録を見つけた。



非常に面白い会議録でお勧めだが、平成14年にこのような国会議事があったのだと興味深い。確かに阪本氏はハイエキアンだ。

また議事録を見る限りでは、右左の議員も好意的な応答をしている。

私の考えでは、阪本氏が公共財の理論に屈服しているのがイマイチだが、ハイエクもそこらの問題にはあまり批判的ではなかったから致し方ないのかもしれない。



サッチャーは首相になってから閣僚を集めハイエクの勉強会を開いたそうだが、日本の国会議員もハイエクの輪読会を開けばよいのではないか。



レーガンにいたっては愛読書が、バスティア、ハイエク・・となっていてかなり本格的にクラシカルリベラリズムを勉強していたようだ。



今の日本でハイエクの学説紹介を一番やっているのは、恐らく中川八洋氏だろう。中川氏は自称、熱狂的なバーキアンということだが、私の印象では、その著書はかなりハイエクの本からガイドされているのではなかろうかと思う。



中川氏には少しファナティックなところがあり、結論部はかなりわけの分からないところがあるが、それも熱がこもっていて面白い。実は割とまともなハイエキアンなのではないかというのが、私の中川氏に対する印象だ。



『法の支配―オーストリア学派の自由論と国家論』という阪本先生の本を拝見することにしよう。
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2006年04月09日

Hayek misunderstood

ネットで、池田さんであるとかが「国家の品格」をやけに熱心に批判しているが、私は別にムキになるほどの本ではないと思う。また、この本を批判するのにハイエクを持ち出すのも大袈裟すぎる。この本について私も前にもポストしたが、要するに内容がかなり出鱈目だということだ。



#ふと思ったが藤原氏のネタ本にはもしかしたら、”フリーメーソンの陰謀論本”の類もあるかもしれない。その手の本でもフリードマン、ハイエクが悪の黒幕として批判されている。w



だが、藤原氏が情緒といった「日本の心」(→岡潔の本の題名)を持ち出すのは、世界的な大数学者である岡潔への心酔から来ているのは間違いない。これは藤原氏の他の本を読めばわかることである。それ以上でもそれ以下でもないのだ。

”日本の情緒”なるものは、まあ悪く言えば岡潔からのパクリなのだ。



#こんなことも見抜けないのは岡潔の名前も知らない人間が多くなったということだろう。

岡潔に関してはフランスの某数学者が、岡の業績があまりに物凄いので

Okaというのはブルバキのような天才的数学者集団の名前だろうと本気で思っていたという逸話がある。

[http://www.lib.narawu.ac.jp/oka/]



さらに言えば、ハイエクに関して日本で流布しているワンパターンな情報理論?の解説をあまり繰り返し持ち出す人はハイエクが分かっていない人だと思う。

野中郁次郎とかハイエクを情報”理論”として持ち出す人間もほとんどハイエクを理解はしていないと私は思う。

#そもそもこのことを最初に主張したのはハイエクではなくミーゼスだ。



ハイエクを理解するには、リバタリアニズムのもう少し広いコンテキストからあたるべきである。

ヒュームやカントとハイエクの関係というのも、晩年人から指摘されて、そうかもしれないなとハイエクも思った程度のものであってハイエクは意識的にそこから出発したわけではない。

むしろポパーとカント哲学の関係から、ポパー経由でハイエクに来ているとみるべきだろう。



あと意外と知られていないのが、ハイエクは最初の博士号をドイツで法学で取ったということだ。その後に経済学の博士号を取得している。ハイエクのLLLにしても法律のことを門外漢が書いていると思っている人間もいるようだが、それは違う。(当然ながらドイツの法学博士号はとるのが非常に難しく権威がある。)
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2006年03月12日

Key concepts in Hayek's thought



Key concepts in Hayek's thought

[http://www.adamsmith.org/blog/index.php/main/heroes/select/Friedrich%20Hayek/]



Markets versus planning. Market exchange works because people value things differently. The planned economy rests on the unlikely assumption that everyone can agree what to produce, and how.



Importance of prices. The price system reflects the imbalance of demand and supply, and automatically steers resources to where they are most needed without the need for planners to discover, understand, and correct the imbalance.



We're all planners. We all plan, and we do so on the basis of our own knowledge of local conditions. There is far more useful and current information in this dispersed knowledge bas than could ever be collected in a central planning agency.



Competition is dynamic. Competition is not a textbook 'given' but a dynamic process, in which people constantly search to discover the cheapest mix of resources to produce the most desired outputs.



Human action but not human design. The social order is like language. It is a product of human action, but not something that we have deliberately designed. It evolves and changes, but endures because it is useful to us.



Limits to our understanding. Just as language is built on complex rules of grammar that we follow with ease but cannot necessarily articulate, the social order is built on complex regularities in our behaviour common law, ethics, customs, manners whose importance we only faintly understand.



The fatal conceit. The totalitarian disasters that have occurred when utopians attempt to redesign society according to their rational plan shows just how little we know about the workings of the complex system of rules on which the social order is based



===============



イーモン バトラーによるハイエクのキーコンセプトの解説。


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2005年05月07日

Cafe Hayek

Cafe Hayek というBLOGがある。

このBLOGは、Russel Roberts氏と Don Boudreaux氏の2人のシカゴ派経済学者の大学教授がポストしているサイトである。

ラッセルロバーツ氏は、「インビジブルハート」や、「寓話で学ぶ経済学―自由貿易はなぜ必要か」 の著者である。



この二人はハイエキアンであり、だからBlogもCafe Hayekなのだが、コラムが非常に気が利いていて内容がよい。

ハイエクに興味がある人は、このサイトから多くを学ぶことがあるはずだ。



日本では、公共財の理論により、ハイエクのような新古典派的経済学は過去のものとされたみたいなことが教えられているようだが、それは大間違いである。

公共財の理論の前提を鵜呑みになどしないのが、まともなハイエキアンの立場だろう。



"Here’s the thumbnail version of my view. I agree that judges should not make law. I disagree that judges should defer meekly to legislatures. No one should ‘make’ law. As much as possible, law should be ‘made’ by a decentralized process of human interactions. From this decentralized process, law emerges organically. Judges should discover this law and apply it."

Don Boudreaux




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2005年01月04日

HAYEK ON THE ROLE OF THE STATE

HAYEK ON THE ROLE OF THE STATE: A RADICAL LIBERTARIAN CRITIQUE

[http://www.cis.org.au/Policy/autumn00/Aut003.pdf]



With respect to theory, we have to continue to work

on these topics as Hayek would have expected us to do.

Hayek did not give us a theory of ‘public’ goods. He leaves

us without defence against the popular myth of public

goods. This is especially virulent in view of the ecosocialists’

misuse of the quest for clean air, forests, etc.,

as they place this quest in the service of creeping

socialism (‘Externalities are the last refuge of the

dirigistes’). He did not produce a theory of taxation, nor

did he develop a fully fledged theory of the dynamics of

democracy. He has not provided us with effective defences

against the popular myth of democratisation, and the

concomitant danger that creeping socialism enters

through the backdoor of democracy. In summary,

Hayek’s theoretical position—was he really a ‘minimal’

state theorist?—could generate policy outcomes of

which he would not approve.

====================



ハイエクが、Public Goods theoryへの反論をきちんと残さなかったことを

この文章は嘆いている。これは、もっともな不満だ。私もハイエクには、この理論をバシッと、はっきり否定しておいてほしかった。後に続くリバタリアンは、この理論を自分で否定しなければならない。ハイエクは後年は、経済学から法思想へ傾斜していったから、経済学者の立場での発言は少なかった。PublicGoods批判をハイエクから深読みしようとしたら、ハイエクの法思想、政治哲学から批判へ結びつけなければならない。

これは、厳しいかもしれない。



こういったハイエクへの不満というのは結構あるようだ。

例えば、プライバシー権、知的財産権などの問題に対してもハイエクのスタンスは生温かったり、”リベラル”っぽかったりする。

Hans Herman Hoppeなどに言わせればハイエクはSocial Democratsに近い存在だということになる。



たしかにハイエクにはおかしな主張もないわけではないし、ハイエクを神格化して全ての発言を鵜呑みにする必要は全くない。

だが、ハイエクはコメンテーターではないのであるから、あれを言わなかったとか、これに対する言及が不十分だというのは、ないものねだりというものであろう。


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2005年01月01日

Constitutional law : 憲法とは何か

Constitutional law

by F.A.Hayek "Law,Legislation and Liberty"



To the rules which we are in the habit of calling 'law' but which

are rules of organization and not rules of just conduct belong in the

first instance all those rules of the allocation and limitation of the

powers of government comprised in the law of the constitution,

They are commonly regarded as the `highest' kind of law to which a

special dignity attaches, or to which more reverence is due than to

other law.



But, although there are historical reasons which explain this, it would be more appropriate to regard them as a superstructure erected to secure the maintenance of the law, rather than,as they are usually represented, as the source of all other law.



The reason why a particular dignity and fundamental character

is attributed to the laws of the constitution is that, just because

they had to be formally agreed upon, a special effort was required

to confer on them the authority and respect which the law had long enjoyed.



Usually the outcome of a long struggle, they were known to have been achieved at a high price in the comparatively recent past. They were seen as the result of conscious agreement that ended long strife and was often ceremoniously sworn to, consisting of principles whose infringement would revive sectional conflict or even civil war.



Frequently they were also documents which for the first time conceded equal rights as full citizens to a numerous and hitherto oppressed class.



Nothing of this, however, alters the fact that a constitution is

essentially a superstructure erected over a preexisting system of

law to organize the enforcement of that law.



Although, once established, it may seem `primary' a in the logical sense that now the other rules derive their authority from it, it is still intended to support these preexisting rules.



It creates an instrument to secure law and order and to provide the apparatus for the provision of other services, but it does not define what law and justice are.



It is also true, as has been well said, that `public law passes but private law persists'.



Even when as a result of revolution or conquest the whole structure of government changes, most of the rules of just conduct, the civil and criminal law, will remain in forceeven in cases where the desire to change some of them may have been the main cause of the revolution.



This is so because only by satisfying general expectations can a new government obtain the allegiance of its subjects and thereby become `legitimate'.



Even when a constitution, in determining the power of the different

organs of government, limits the power of the lawmaking assembly proper, as I believe every constitution should and early constitutions intended to do, and when for this purpose it defines the formal properties which a law must possess in order to be valid, such a definition of rules of just conduct would itself not be a rule of just conduct.



It would provide what H. L. A, Hart has called a `rule of recognition', enabling the courts to ascertain whether particular rules possess those properties or not; but it would not itself be a rule of just conduct.



Nor would such definition by the rules of recognition alone confer on the preexisting law its validity. It would provide a guide for the judge, but, like all attempts to articulate conceptions underlying an existing system of norms, it might prove inadequate, and the judge might still have to go beyond (or restrict) the literal meaning of the words employed.



In no other part of public law is there greater resistance to the

denying to it the attributes of rules of just conduct than in constitutional law.



It seems that to most students of the subject the contention that the law of the constitution is not law in the sense in which we describe the rules of just conduct as law has appeared to be just outrageous and not to be deserving of consideration.



Indeed for this reason the most prolonged and searching attempts to arrive at a clear distinction between the two kinds of law, those made in Germany during the later part of the last century concerning what was then called law in the `material' (or `substantive') and law in the merely `formal' sense, could not lead to any result;for none of the participating writers could bring themselves to accept what they saw as the inevitable but, as they thought, absurd conclusion, namely that constitutional law would, on any sensible principle of distinction,have to be classed with the law in the merely formal and not with law in the material sense.







ハイエクの憲法論である。

正月になると一部の新聞で憲法論が盛んになるが、憲法とはそもそもなにかが論じられることはない。

ハイエクによると「憲法という法は、正しい行為ルールを法として叙述しているものという意味での法ではない」

そして、「具体的な意味をもつ法としてではなく、単に形式的な法として分類されなければならない」

さらに、憲法とは、”憲法より前に存在する法体系の中の法ルール(privatelaw=私法)を支持するものだが、憲法という公法=publiclawから正しい行為(=just conduct)が導かれるわけではない。”

「公法は移り変わるが私法は持続する」−public law passes but private law persists.



つまり、憲法という公法はそこから他の法が導かれる法源とはなりえないのである。

法の本質は歴史的産物であり憲法の前に存在する私法の中にある。
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2004年12月26日

Taking Hayek Seriously

Taking Hayek Seriously blog

[http://hayekcenter.org/takinghayekseriously/]

This Blog is excellent!



especially you should read "Peter Boettke's Hayek Memorial Lecture at the LSE"

@ October 26, 2004 .



日本で小さい政府VS大きい政府論争というのが、過去ほとんど皆無であったのは事実だが、これはつまるところ、日本でハイエク研究がほとんどされていなかったことを意味している。反政府の研究を政府の金で運営されている大学では出来ないのはやむなしかもしれない。その点、日本のハイエクの優秀な研究者は昔から早稲田大学出身が多いのは当然かもしれない。(渡辺幹雄さんもそうだ)



だが、このようなサイトを見ると、英米と日本ではハイエク研究の厚みが違いすぎることを痛感する。では、どうすればよいのか?とりあえず、あちらの成果を一生懸命勉強すればいいのである。問題はそれを如何に展開するかだが、まずは理解しないと何もはじまらない。



このサイトとアダムスミスInstituteのBlogとMises研究所のBlogをBookMarkに追加した。
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2004年12月12日

ハイエクと現代自由主義

「ハイエクと現代自由主義」という本を図書館で借りてざっと目を通した。

渡辺幹雄さんという人が書いたもので春秋社からでている。この人が20台後半という若年で出版したものだ。意欲的に政治哲学の多岐にわたる関係について書かれたものであるが、どうもはじめの方のハイエクの説明を読んだだけで、読む気が失せた。が、それでもざっと目を通した。



どこか根本的にハイエクが読めていない気がするのである。すくなくとも1996年という出版年からすれば、リバタリアニズムからのハイエクの評価がもっと書けていなければならないだろう。コンテキストが十分に見えてないところで、勉強の成果を書いているから、ちぐはぐで、部分的に正しい記述が多くとも、全体としては間違っている。もしくは、見当違いというものになってしまう。

日本人の大好きなロールズとか、そういったものと対比してハイエクを語るのもあまり意味がない。またポパーの読解もなかなか難しいものだが、ハイエクとポパーの関係の記述もいまいち出来が良くないようだ。



さらにConstructivismに対する訳語を設計主義でなく「構成主義」で通している。これはまあよいとしても合理主義、反合理主義といった訳語の使い方が、あまりに安易なのもいただけない。これは、日本のこの手の学界に共通するものだろうが。



何かを書くときに、もっとつきつめた思考が必要だ。Legal Positivismにいかに対抗するかをハイエクは"Law,Legislation and Liberty"で、随分老齢になってから挑んだわけだが、それは名著とはいえ決して完成されたものではない。

また分量的にも特に大きいわけでもない。(約3分の1は注であるし)

しかし、そこにある思想的切り口は、大きなヒントになるはずのもので、ハイエクが残してくれた知恵である。

それを現代に継承しようとしているのが、リバタリアニズムであるから、ハイエクを語ろうとするならそこにフォーカスすべきだったと思う。ハイエクの”哲学”にフォーカスしすぎて、その現代的な問題意識を見誤ったと言えるかもしれない。
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2004年12月06日

デフレ脱却をめぐる思想の対立

Rietiの小林慶一郎氏の論説

ハイエクの設計主義批判とからめ、デフレ論議の論理的飛躍を明晰に説明している。ちなみにこの貨幣数量式はマネタリズムのモデルである。



[http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/kobayashi/16.html]

から以下に引用



日銀の大胆な金融緩和によってデフレから脱却できるはず、という議論をもう少し詳細に見ていきたい。デフレの問題が難しい理由は、物価水準を決めるのが、人為的な設計の産物であるベースマネー(日銀が制御できる)と、市場秩序によって定まる貨幣流通速度という2つの要素が複合した結果であるためだ。物価、ベースマネー、貨幣流通速度の関係を示す貨幣数量式は次のように書くことができる。



PY=MV

ここで、Pは物価水準、Yは実質国内総生産(モノの量)、Mは日銀が供給するベースマネー、Vはベースマネーの貨幣流通速度をあらわしている。



ベースマネーの量は、日銀が自分の意思でほぼ決めることができる。しかし、日本経済に供給されたベースマネーがどの程度の速さで経済全体を流通するか、ということは、日銀が決めることはできない。流通速度を決めるのは、銀行、企業、消費者の間で行われる取引活動の総体であり、まさに市場秩序が流通速度を決める、といって良い。



経済学の理論モデルでは、議論を単純化するため、流通速度Vは一定不変であると仮定するのが通常である。つまり、日銀が制御するベースマネーMの効果を考える際に、市場秩序によって決定される流通速度Vが変化しないことが理論上の前提になっている。



ところが、現実の日本経済では、Vはバブル崩壊後の不況期を通じて年々低下しており、特に日銀がベースマネーの供給量を著しく増やした90年代末以降には、あたかも金融緩和政策の効果をうち消そうとするかのように、Vは急激に低下しているのである。



これは、設計主義の犯した論理の飛躍とまったく同型のものだと思われる。設計主義は「企業などの組織は、理性的設計によってコントロールできるし、そうするべきだ。だから、市場秩序を含む経済全体の秩序も、設計された計画によってコントロールできるはずだ」と考える。デフレ脱却論も「ベースマネーMは日銀が理性的設計によって完全にコントロールできる。だから、物価水準Pも、日銀の設計どおりにコントロールできるはずだ」と考える。ところが、物価Pは、市場秩序によって決まる流通速度Vの影響を受ける。上のようなデフレ脱却論の主張は、V(つまり市場秩序)がどのように動くかを解明した上で議論しない限り、論理の飛躍といわれても仕方がないものであろう。



問題は、こうした論理の飛躍が見過ごされたまま、「金融政策のみによるデフレ脱却」という議論が、非専門家の論壇で強い支持を集めていることだ。それも、保守系の論者も革新系の論者もこぞって支持している点が興味深い。これは、経済の閉塞感の中で、市場ルールから逃れたい、原初的で整然とした組織秩序に身を置きたい、という設計主義の幻想が広く日本の論壇に広がっていることを示しているのではないか。
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2004年12月04日

Hayek on Freud

The destruction of indisapensable values by scientific error:Freud

科学的誤謬による不可欠な価値の破壊ーフロイト



私は最後に、多年にわたって、徐々に私の主要な関心事であると共に憂慮の種の一つとなってきたものを取り上げる。すなわち、かけがえのない価値が科学的誤謬によって次第に破壊されてきた、ということである。私が考察しなければならない誤謬は主として社会主義に通じるものであるが、脅威は何も社会主義からのみ生じるわけではない。



社会主義は、哲学、社会学、法学、および心理学の関連分野における純粋に知的な誤謬から支持を得ている。最初の三つの分野において、これらの誤謬は主としてデカルトの科学主義やオーギュスト・コントによって発展させられたような設計主義からきている。論理実証主義は、あらゆる道徳的価値が「意味を欠いた」、純粋に「情緒的」なものであることを立証しようとしてきた。



(snip)



行動主義者のB・F・スキナーによって、まさにこれらの言葉で特徴的に再主張された信念)と要求する知識社会学は知識の成長過程をまったく誤解してきた、と私は完全に確信している。

私はこの研究の初めのほうで、あらゆる法ルールは意識的な立法行為から引ぎ出されるものでなげればならず、しかもあらゆる正義概念は特定利益の産物である、と信じる法実証主義がなぜ歴史的にも概念的にも間違っているかを立証しようとした。

だが、文化的にもっとも荒廃させる結果は、人々をその生得本能を解放することによって治療しようとした精神科医の努力から生まれた。



先に私のウィーンの友人、ポパー、ローレソツ、ゴンブリッチ、ベルタランフィを賞賛した後で、恐縮だが、カルナップの論理実証主義やケルゼンの法実証主義は、ウィーンから生まれた最悪のものに比べたら、さしたるものではない、ということを私は認めなければならない。



教育に対する深い影響力を通して、ジークムント・フロイトはおそらく文化の最大の破壊者となった、晩年、『文明とその不満』において、かれは自分の教育の結果の一部によって少なからぬ動揺を受けたように思われるが、文化的に獲得された抑.圧を取り除ぎ、自然の欲動を解放する、というかれの基本的な狙いは、あらゆる文明の基礎に対するもっとも致命的な攻撃を開始した。その運動は三〇年前に全盛をきわめ、その後に成長した世代は、主としてその理論に基づいて教育されてきた。私は当時のものから、その基本的な考えについて、後に世界保健機構(WHO)の事務総長になったある有力なカナダの精神科医が特に露骨に表現したものを、1つだけ貴方がたに示しておく。



一九四六年に、故G・B・チザム博士は、アメリカの法律の大家によって賞賛された著作のなかで、これを擁護した。



「幼児教育の基礎であった正邪の概念の根絶、老人たちの確信するものを信頼する代わりに、知的・理性的な思考をもってくること、[……その後]大部分の精神科医と心理学者、およびその他多くの尊敬すべき人々はこれらの道徳的な拘束から逃れ、自由に観察し、思考することができる。」



かれの意見によれば、人間を「不具にする善悪という重荷」と「正邪という厄介な概念」から人類を解放し、また、それによって、人類の近い将来を決定するのは、精神科医の任務であった。



われわれがいま集めているのはこれらの種子の収穫物である。何か自分が決して学習したことのないものとは自分は相容れないと主張し、「反文化」の構築を企てさえするような、教化されていない野蛮人は、文化の荷を伝えることがでぎず、しかも野蛮人の本能である自然の本能に頼る、甘えの教育の必然的な産物である。



『ザ・タイムズ』の報告によれば、最近行われた上級警察官およびその他の専門家のある国際会議は、こんにちのテロリストのなかで、社会学、あるいは政治学や教育学を勉強したものが著しい割合を占めている、ということを認めたが、私は少しも驚かなかった。自分は常に背徳者であったし、今後もそうであるだろうと公言して渾らなかったある人物によって、イギリスの知的世界が支配されていた五〇年の間に成長した世代から、一体われわれは何を期待できるというのか。



(snip)



私は、主としてカール マルクスとジークムン卜 フロイトの名前と結びつけられるわれわれの時代を迷信の時代として、人々が回想するだろう、と信じている。

私は人々が次のことを発見するだろうと信じている。すなわち、ひじょうに広い範囲にわたって跋扈し、二〇世紀を支配した考え、すなわち、正義にかなう分配を伴う計画経済、抑圧や因襲的伝統からのわれわれの解放、自由への道としての甘えの教育、そして市場の代わりに強制権力を有する団体による理性的調整をもってくること、という考えはすべて、言葉の厳密な意味において迷信に基づいていた、ということである。





以上はハイエク全集10の「法 立法 自由」の終章の240244pからOCRスキャンしたものである。
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2004年11月17日

Competition and Rationality : 競争と合理性

”競争は、単に他の人々が所有しているかもしれない知識や技能を利用するためのわれわれの知る唯一の方法であるだけでなく、また、われわれが現に所有する知識や技能の大部分をわれわれに習得させた方法でもある。このことは、競争擁護論が競争に参加する人々の合理的行動という仮定に依拠している、と主張する人々には理解されていない。



だが、合理的行動はしばしば経済理論の前提として述べられているが、そうではない。理論の基本的な論点はむしろ、競争によって人々は暮らしていくために合理的に行動せざるをえなくなるだろう、ということである。



それは市場過程への大部分の、あるいはすべての参加者は合理的であるという仮定に基づいているのではなく、反対に、少数の相対的により合理的な個人の存在がその他の人々に必然的にかれらと張り合わせ、優劣を競わせることになるのは、一般的に競争を通じてである、という仮定に基づいている。



合理的な行動がその個人に何らかの利益を与える社会においては、合理的な方法が次第に開発され、模倣によって広められるだろう。もし合理的であることから利益を得ることができないなら、他の人々より合理的であっても無駄である。

したがって、競争を作用させるために必要とされるのは一般に合理性ではない。逆に合理的な行動を生み出すのは競争、あるいは競争を容認する伝統である。”



ハイエク 「法と立法と自由」3巻より 

F.A.Hayek "Law Legislation and Liberty"
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2004年11月14日

Meaning of Negative and Positive: Law Legislation and Libery

私は、NegativeとかPositiveという言葉を多用するが、この意味は説明しておく必要がある。

ハイエクの言葉を引用しよう。



「知的な詐欺師が自由とか、正義とか、法とかを「積極的(Positive)」なものにするよう要求する場合、これも同じように基本的理想を悪用し、乱用する試みである、ということを認識する人はほとんどいないように思われる。



静穏、健康、余暇、安息、あるいは安心といった、その他多くの善事についてあてはまることだが、個人的努力の成功の前提条件となるのは、積極的な善の存在ではなく、ある種の悪の欠如である。

「積極的な(Positive)」と「消極的な(Negative)」を「良い」と「悪い」にほぽ等しい意味をもつものとして使用するようになった現在の語法は、また、人々に「消極的価値」は価値の反対、すなわち非価値あるいは害である、という感じを抱かせるものであり、多くの人々の目をくらまして、われわれの社会がわれわれに与えることのできる最大の便益の決定的な性格を見えないようにしている。」




 ”平和、自由、および正義 ー 三つの偉大な消極的価値”

ハイエク 「法と立法と自由」3巻より 

F.A.Hayek "Law Legislation and Liberty"
posted by libertarian at 10:43| F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月11日

The United States: A Hayekian Solution

[http://www.lewrockwell.com/rockwell/hayekiansolution.html]



Hayek had in mind a system not of force or poverty, but one compatible with the classical liberal spirit: people in their own historic community governing themselves. Let Hayek speak:



Decentralisation need neither mean a Germany partitioned by the victors, which in the course of time would almost certainly produce a new wave of virulent nationalism, nor a Germany condemned to lasting poverty; it would, on the contrary, make it easier to give the Germans a chance to regain economic standards which in a centrallyorganised Germany would appear as a threat to her neighbours. Instead of building up a central German administration, the Allies should tell the Germans…their only but certain path to independence is through developing representative governments in the individual German states, which will be freed from Allied control as they succeed in establishing stable democratic institutions. This process would have to be gradual, with the Allies retaining in the end no more control over the individual state than corresponds to the minimum powers of a federal government.



And yet it is not enough to merely restore these historic institutions:



To be successful such a policy would need to be supplemented by the enforcement of complete free trade, external and internal, for all these German states. This not only would be necessary to prevent those deleterious economic effects which the opponents of decentralisation fear, but it would also constitute the most effective economic control, which would make it impossible for Germany to become again dangerous without preventing her from regaining prosperity. Under free trade Germany could never achieve that degree of industrial and agricultural selfsufficiency on which her economic warpotential rested; she would be driven to a high degree of specialization in the fields where she could make the greatest contribution to the prosperity of the world, and at the same time become dependent for her own prosperity on the continued exchange with other countries. There would, in fact, be hardly any other economic controls required, while this one essential control is also the only kind of control which could not be secretly evaded.



Try to appreciate the genius of this insight. Then and today, it is generally assumed that prosperity goes together with centralization and consolidated government. Hayek was arguing that, despite appearances, the opposite is more likely true. Many governments trading with each other create a kind of peaceful dependency so that autarky is no longer possible. Each region would depend on the other for its well being and yet no central state would gain power to dominate others. Also, there would be no political pressure for protectionism or attempted national selfsufficiency – this was a main demand of Hitler – because such a thing would be obviously unviable.


posted by libertarian at 19:51| F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月20日

Fukuyama on "Hayek's Challenge".

[http://www.hayekcenter.org/takinghayekseriouslyarchive/003110.html]



Fukuyama on "Hayek's Challenge".

HAYEK’S CHALLENGE:

An Intellectual Biography of F. A. Hayek.

By Bruce Caldwell. Univ. of Chicago Press.



Reviewed by Francis Fukuyama
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2004年05月31日

IdeaChannel

[http://www.ideachannel.com/HayekDiscussions.htm]

Friedrich von Hayek



In November of 1978, we taped a series of discussions featuring Friedrich August von Hayek while he was a visiting scholar at the Hoover Institution.



ハイエク、フリードマンらのRealVideo満載

これは必見



お勧め度☆☆☆☆☆
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2004年04月26日

The Road To Serfdom

The Road To Serfdom

by F.A. Hayek



This is a condensed and abridged version, reproduced without permission.



[http://jim.com/hayek.htm]
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2004年04月25日

Liberalism

Liberalism

F. A. Hayek

Written in 1973 for the Italian Enciclopedia del Novicento where the article appeared in an Italian translation.



[http://www.angelfire.com/rebellion/oldwhig4ever/]



Reprinted as Chapter Nine of Hayek, F. A., New Studies in Philosophy, Politics, Economics and the History of Ideas, Routledge & Keagan Paul, London and Henley, 1982 [1978], pp. 119151



これは国内未翻訳のハイエクの文章。

必読。
posted by libertarian at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月11日

F. A. Hayek and The Road to Serfdom: A Sixtieth- Anniversary Appreciation

[http://209.217.49.168/vnews.php?nid=5810]

F. A. Hayek and The Road to Serfdom: A Sixtieth Anniversary Appreciation

by Richard M. Ebeling



Hayek’s challenge was to argue that German Nazism was not an aberrant “rightwing” perversion growing out of the “contradictions” of capitalism. Instead, the Nazi movement had developed out of the “enlightened” and “progressive” socialist and collectivist ideas of the preWorld War I era, which many intellectuals in England and the United States had praised and propagandized for in their own countries.
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2004年04月05日

F. A. Hayek and the Common Law: An Assessment

[http://www.mises.org/asc/2002/asc8hamowy.pdf]

F. A. Hayek and the Common Law: An Assessment

by Ronald Hamony
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Discussions on Hayek - Best on the Web

[http://www.hayekcenter.org/friedrichhayek/friedrich_hayek_best_on_web.html]

リンク切れが多いが、切れてないのもある。
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2004年03月16日

法と主権

法と主権 (ハイエク) 



実証主義者の法理論において中心的な役割を果たしている主権の概念については、以前に述ぺたことに今付け加える必要のあることはほとんどない。

ここでは、主に、ある最高立法当局がもつ必然的に無制限の権力という実証主義による主権の解釈が、人民主権論の、あるいは民主的立法府の無制限の権力の、主要な支持の一つとなってきたから関心を寄せるにすぎない。その実質的な内容を立法者の意志の行為に依存させるように法を定義する実証主義者にとっては、この概念が実際に論理上必要になるのである。

もし、法という用語がこの意味で定義されるならば、最高立法者の権力に関するいかなる制限も、定義によって排除される。



しかし、もし、立法者の権力が、ある仮構の基本的挽範から導出されるのではなく、彼が規定する権限を与えられている部類のルールに関する広がりのある意見の状態から導出されるのであれぱ、彼の権力は、はっきりとした意志をもった行為を表明することができるより高位の当局の介在がなくとも、制限されて当然であろう。



実証主義者の議論の論理は、ケルゼンの体系においてそうであるように、全ての法は立法者の意志から導出されるというその主張が、その妥当性が熟慮の上での意志をもった行為から導出されるだけでなく、その内容もそうであることを意味する場合に限って、やむにやまれぬものとなろう。しかしながら、これは実際には正しくないことが多い。



立法者は、現行の自生的秩序を維持しようとする際に、自分の狙いを達成したいと思っても、彼が妥当性を付与したいと思う何らかのルールを取り出したり、選ぴ出すことはできない。



彼の権力は、彼が強制するルールのいくつかは市民によって正しいとみなされている事実に依拠しているが故に、無制限ではなく、こうしたルールが彼によって受容されたということが、必然的に、他のルールを強制的なものにする彼の権力を制限するのである。



主権という概念は、国家という概念と同様に、国際法のための不可欠の用具であるその概念をそこでの出発点として受け入れるならぱ、そのことによって、国際法という正にその観念が無意味にされることないとまでは確信できないが。



しかし、法秩序の内部的性格の問題を考察するためには、どちらの概念も、人を迷わせるぱかりでなく不要であるよう思える。

事実、自由主義の歴史と同一である立憲主義のの歴史全体は、少なくともジョンロック以降は、主権についての実証主義者の概念や全知全能の国家という関連概念に対する闘争の歴史であった。



Hayek 「Law,Legislation and Liberty」

ハイエク全集9 第8章p8889よりOCRスキャン
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2004年03月13日

Law Legislation and Liberty

序章



 この間題には一つの解しかないように思われる。つまり、人類というエリートは、単純である反面十分に深遠で、卑賎である反面十分に崇高な、人間的知性の限界に気づき、その結果、西洋文明はその避けがたい不利な立場をすすんで甘受することにだろう。

(G・フェレーロ)

     

 モンテスキューとアメリカ憲法の起草者たちがイギリスで生まれ育った制限的憲法の概念を明確化したとき、彼らはそれ以後の自由主義的立憲制の一つの雛形を確立した。彼らの主眼は個人の自由の制度的な保護手段を提供することにあった。そして、彼らのあてにした手段が権力の分立であった。周知の形態での立法府、司法府、行政府問の権力の分割は所期の目的を果たしてこなかった。政府は、あらゆるところで、前述の人たちが政府に与えまいとした権カを憲法上の手段によって獲得した。憲法によって個人の自由を保障しようとする最初の試みは明らかに失敗に帰したのである。



立憲制とは、制限された政府を意味する。しかし、立憲制の伝統的教義に与えられた解釈では、民主主義とは特定の問題についての多数老の意志を制限しないところでの政府の一形態であるという民主主義概念とこれらの定式とを両立させることができた。

その結果、すでに真面目に、憲法というものは現代の政府概念には適さない古い遺物であるということが論じられてきた。

そして実際、万能な政府を可能にする憲法はどのようた機能を果たすのか。その機能は、政府の狙いが何であろうとも、単に政府の仕事を円滑化し効率化することだけであるのか。



こうした事情においては、次のような問いかけはきわめて重要であろう。これら自由主義的立憲制の創始者たちは、彼らの目指したものを追求するに際して、この間にわれわれが得てきた経験のいっさいを支配できるとしたら、今日何をなすであろうか。彼らが全知全能を傾けても知りえたかった過去二世紀の歴史から、われわれは多くのことを学びえているはずである。私にとっては、彼らの狙いはかつてと同様に有効であると思われる。しかし、彼らの手段は、結果的に間違っていることが明らかとなったので、新しい制度的発明の必要が生じているのである。



私は、別の本で自由主義的立憲制の伝統的教義の再論を試み、ある意味ではその明噺化に成功したと考えている。しかし、こうした理念が偉大な政治運動のすべてが依拠する理想主義者たちの支持をなぜ失ったのかを明瞭に理解するようになり、それらと両立しないことが明らかとなった現代の支配的な信念が何であるのかを理解するようになったのは、その本を書き上げて以後のことであった。



この展開の理由は、主に、個人的利益から独立した正義への信念の喪失、正義にもとる行為を防止するだけではなく、特定化された人間ないしは集団に特定の成果を達成させるための、強制を権威づけることを目的とした立法の必然的使用、さらに、同じ代表議会における正義に適う行動ルールを明文化する仕事と政府を指示する仕事との融合とにあると、今は思っている。



前の本と同じ一般的テーマの本をまた書こうという気になったのは、自由人から成る社会の存続はこれまで十分に解明されてこなかった三つの基本的洞察に依拠するという認識があったからであり、そのために本書の三部をこれらの三つの洞察に割いた。



その洞察の第一は、自己増殖的または自生的秩序と組織とは別ものであり、その差異はそれらを支配する二つの異種のルールもしくは法に関係づけられるということである。



第二のものは、今日一般的に「社会的一正義または分配の正義とみなされているものが、この種の秩序の第二の差、すなわち組織の範囲内でしか意味をもたず、アダム.スミスが「偉大な社会」と呼び、カールポパー卿が一開かれた社会一と呼んだ自主的秩序のなかでは意味をもたず、まったくそれと両立しないということである。



第三は、同一の代表機関が正義に適う行動ルールを制定し政府を指示する、自由主義的民主制度の典型的モデルは・必然的に、自由社会の自生的秩序を組織化された利益のある連合への奉仕に導く全体主義的体系へと、漸次、変換していくということである。



私が解明したいと思うこの展開は、民主主義の必然的帰結ではなく、民主主義がそれと同一視されるようになってしまった無制限政府というあの特定形態のみがもたらす結果なのである。



私が間違っていなげれぱ、西側世界に現在広くひろまっていて多くの人がそれを民主主義の唯一の形態と誤解しているがゆえに守もらなければならないと感じている、代議制政府という特定の形態には、それに貢献させようと意図していた理念から外れる固有の傾向が確かにあるように思う。



このタイプの民主主義が受容されるようなってしまったから・われわれは、かつてそれこそ個人の自由の確かな安全弁とみなされていた個人の自由のあの理念から遠ざかりつづげ・今や誰も望まなかった体系に向かって漂流しつつあるということは、ほとんど否定しえない。



しかるに、無制限の民主主義が没落の一途をたどりつつあり、急激にではなく、緩やかに崩壊していくであろうという徴候はいくらもある。高まってしまった期待の多くが、民主的議会の手から決定力をとり上げて・確固たる組織された利益の連合とそれらが雇う専門家たちに決定力をゆだねることによってのみかなえられることとは・すでに明らかになりつつある。

事実、代表機関の機能が「同意を取り付ける」こと、すなわちそれらが代表する人々の意見を代弁するのでなく、操作することになってしまったことは、もうわかっている。



遅かれ早かれ、人々は、自分たちが新しい既得利益の意のままにされていることに気付くであろう。それぱかりではなく、給付国家の必然的帰結として育ってきた擬似政府の政治機構が、変化する社会における既存の生活水準の引き上げはいうまでもなくその維持にも必要とされる適応を社会に許さたいが故に、一つの行き詰まりを生みつつあることにも、気付くであろう。人々によってつくりだされた制度によってこのような手詰まりへと導かれてきたことが認められるには多少時間がかかるであろう。しかし今、出口を考えはじめることは時期尚早とはいえまい。



(snip)



そのときには、「constitution」という言葉を、人の適合性の状態を叙述するためにも使う、より広い意味で使った。法律的な意味で、どんな立憲的取り決め(constitutional arrangement)が個人の自由の存続に最も役立つのかという問題に取り組むのは、これがはじめてである。



(snip)



これらの学間分野のうち最古の二つ、すたわち経済学と法律学の分野以上に専門への分化の効果が害を及ぽしているところはない。

モンテスキューはいうに及ぱず、デヴィッド・ヒュームやアダム・スミスのような一八世紀の思想家たちは、自由主義的立憲主義の基本概念は彼らのおかげであるが、彼らの一部が「立法の科学」と呼んだものに、あるいはこの用語の最も広い意味における政策の原理に、依然こだわっていたのである。



本書の主要な主題の一つは、法律家の研究する正義に適う行動ルールが法律家がそれについてはほとんど知らない性格をもつある種の秩序に資する、ということである。また、この秩序は主に経済学者によって研究されているが、その経済学者も同様に、自分の研究する秩序が依拠する行動ルールの性格をほとんどわかっていないということである。



しかし、かつては一つの共通な研究分野であったものがいくつかの専門分野に分化したことによってもたらされた最も深刻な影響は、無人の地帯を、すなわち、ときに「社会哲学」と呼ぱれる曖昧な主題を残したことである。



(snip)



だが、事実的解釈のみならず政治的立場もまた完全に依存するこれらの重要問題は、事実と論理を基礎として答が出せるし、また出さねぱならない問題なのである。



(Snip)



本書の第一章では、一定の広く抱かれている科学的、政治的見解が社会制度の形成に関する一つの特定概念に依存することを明らかにしようと思う。



私は、その概念を「設計主義的合理主義(constructivist rationalism)」と命名するつもりであるが、これは全ての社会制度は熟慮の上の設計(design)の産物であり、そうあるべきであるとする概念である。この知的伝統は、事実面、規範面、双方の結論の点で誤りであることを示すことができる。なぜなら、既存の諸制度は必ずしも全てが設計の産物ではないし、同時に既存知識の利用を大幅に制限することなく、全面的に設計に依存する社会秩序を作ることはできないからである。



そうした誤解は、人間の知性を、社会制度も従う同一の進化過程の産物そのものとしてよりはむしろ、自然およぴ社会というコスモスの外部にある実在物とみる、同じく間違った概念と密接に関係している。



(snip)



それらは共に普通、合理主義と呼ばれるが、私はそれらを一方では進化論的(evolutionary)(またはポパー卿がいうように、「批判的」)合理主義と、他方では誤った設計主義的(constructivist)(ポッバーのいう「素朴な」)合理主義とに区別しようと思う。設計主義的合理主義が事実についての誤った仮定に立脚していることが証明できれぱ、科学的、政治的思想の同学派群全体の誤りも証明されることになろう。



理論的分野では、それは、特に、法実証主義とそれに関連したこの誤りと生外を共にする無制限の「主権」権カの必要性への信念とである。同じことは、功利主義についても少なくともその特殊主義派あるいは「行為」派については、いえる。またいわゆる「社会学」の相当部分がその狙いを「人類の将来の創造」としたり、ある著述家がいったように「社会主義は社会学の論理的、不可避的帰結である」と主張するとき、それは設計主義の直接の系譜ではないかという気がする。社会主義というのは単にその最も高貴で影響力のあるものにすぎないのだが、全ての全体主義的教義はまさにここに属する。



それらは、基礎にしている価値のゆえではなく、偉大な社会や文明を可能にした諸力を誤解しているがゆえに、間違っているのである。



社会主義者と非社会主義者の相違は・究極的には、科学的解決が可能な純粋に知的な間題に帰着するのであって、異なる価値判断によるのではないということの証明こそ本書における一連の思考過程の最も重要な帰結の一つであるように私には思える。また、同じ事実誤認が政治組織の最も決定的な課題、すなわち別の「意志」を上に置かずにどうやって「人民の意志」を制限するかという問題に、長いこと答がないかの上うに見せつづけてきたように思う。



偉大な社会の基本秩序が全面的に設計に依拠することができず、したがって特定の予見可能な結果を目指すことはできないということが認識されれぱ、すぺての権威の合法化としての、一般的意見によって是認された一般的原理への委託という要件が、そのときの多数者の意志を含むあらゆる権威の特定の意志を有効に制限すれぱよいということが、すぐわかる。



私の主要関心事であるこれらの間題に関する限り、デヴィッド・ヒュームやイマヌエル・カント以降、ものの考えはほとんど進歩しておらず、いくつかの点については、われわれの分析は彼らが筆をおいたところから再開されなけれぱならないであろう。価値の地位を全ての合理的構築物から独立した指針的条件としてはっきり認識したのは彼らで、一その後、彼らの線を越えた者はいない。



ほんの一部の側面しか取り扱うことができないけれども、私がここで究極的に関心をもっているのは、時の経過とともに現代の巨大な悲劇と思えるようになってきた、科学的誤りによる価値の破壊である。悲劇といったのは、科学的誤りが排斥する傾向のある諸価値が、実はあらゆるわれわれの文明の不可欠の基礎をたしているからであり、そこにはそうした価値に敵対してきた科学的努力そのものも含まれる。



設計主義がみずから説明できたいこれらの価値を、その解説者が当然と考える事実の必要条件としてよりはむしろ、悉意的な人間的決定、意志の行為、あるいは単なる情緒によって決定されるとする傾きが、設計主義にはあるから、そのことが、文明と科学そのものの根底を大きくゆるがせてきた。



そして、科学も科学的に証明しえない価値の体系に依拠しているのである。



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ハイエク全集8

「法と立法と自由」の序章(p514)をOCRスキャンした。

(Snip)とあるところは、私が省力した部分のことである。
posted by libertarian at 18:01| Comment(0) | TrackBack(0) | F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年02月16日

Hayek on Tradition

[http://www.mises.org/journals/jls/17_1/17_1_2.pdf]

Hayek on Tradition

By Edward Feser

40pのPDF



Traditional morality is rejected today as commonly as it was once

taken for granted. And if the specific content of that morality, especially

where it touches on matters of sexuality, is widely regarded with

contempt, the metaethical notion that one ought to respect a moral

code precisely because it is traditional gets even worse treatment: It

is held to be beneath contempt. Modern educated people take it to be

a sign of their modernity and education that they refuse to accept the

legitimacy of any institution or code of behavior, however widespread,

ancient, and venerable, which has not been rationally justified. Traditional

morality stands doubly damned in their eyes: It is not rationally

justifiable, and its adherents fail even to attempt to justify it so. The

traditional moralist, they take it, is a slave not merely to the “conventional

wisdom” but to the conventional wisdom of people long dead.

He is in the grip of irrationality, superstition, and ignorance; worst of

all, he is out of date.
posted by libertarian at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年12月15日

The Courage of Friedrich Hayek

[http://wwwhoover.stanford.edu/publications/digest/003/buckley.html]

HOOVER DIGEST

2000 No. 3

William F. Buckley Jr.



William F. Buckley Jr. reflects on Friedrich Hayek’s invaluable contributions to the fight against socialism—a fight that was still very much under way when Buckley delivered these remarks a quarter of a century ago.


posted by libertarian at 13:47| Comment(0) | TrackBack(0) | F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年11月03日

アリストテレス

このような事情を背景として、アリストテレスのある有名な文章は、isonomia という言葉をもはや使っていないけれども、その伝統的な理想の一つの弁護と思われる。

『政治学(politics)』のなかでかれは、つぎのように強調している。

「市民のうちのどの人物よりも、法が統治すべきであること」、最高権力をもつ人びとは、「ただ法の後見人、かつ使用人としてのみ任命されるべきである。」

そして、「最高の権力を心の中に認めようとする者は、神のうちに、また法のうちにそれを置く」と。



かれは「法律でなく、人民が統治する」種類の政府、また「すべてのことが法律でなく、多数決によって決定される」種類の政府を非難する。

このような政府は、かれにとって、自由な国の政府ではないのである。

「というのは、法はあらゆるものの上に立つ最高のものであるべきであるから、政 府が法律にもとづいていないときには、自由な国は存在しない」



「人民の投票にすべての権力を集中させている政府は、正確 にいえば民主主義であるはずがない。」

というのは、かれらの法令は、その範囲において普遍的ではありえないからである。

もしこの言葉に「修辞学」のなかにあるつぎの文章を加えるならば 法による統治の理念についてかなり完全な叙述になるであろう。



「非常に重要なことであるが、よく書かれた法律とは、可能なかぎりすべての点を明確にすべきであり、できるだけ裁判官の判決にまかせる余地を少なぐすることである。」

なぜかというに立法者の決定は、特定的でなく、将来に関するものであり、そして一般的なものであるからである。



ところが実際は議会や陪審の人たちは、かれらの前にもちだされた具体的な事件の判決をくだすことが自分たちの義務と思っている。



F.Hayek Constitution of Liberty より
posted by libertarian at 10:54| Comment(0) | TrackBack(0) | F.A.HAYEK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする