2008年01月06日

Houl's moving castle

この正月におそまきであるが、「ハウルの動く城」を見た。
さすがに宮崎駿の作品だけあって、すばらしい出来であったが、この映画はリバタリアン的な作品だと私のフランスのリバタリアンの友人が以前に言っていた。
どこをそう思ったのか、よくわからないが、ハウルは自由人であり、一人で国家や戦争と戦うというあたりがリバタリアン的なのかもしれない。

日本は、戦後、手塚治虫などから連綿と続く天才的な漫画作家を生み出してきた。
これは何故なのかといえば、この世界がどうでもいい領域として政府の管理対象から完全に忘れられた存在だったからだろう。
才能のある人間がそういう社会的、政府的認知度の低い世界で、互いに切磋琢磨しあって、日本の漫画表現を築きあげてきたといえる。
極めて私的な表現でありつつ、読者という市場の評価に常にさらされてきた世界であった。
政府が漫画家を保護なんかしなかったからよかったのだ。

ハリウッドのCGをふんだんに使用した作品なども、日本のアニメ表現を実写的表現に変えて取り入れているようだ。

また、何度も言っているように、こういった著作物を、政府特権=Intellectual Privilegeによって守る必要はないが、これは、別の形での財産的保護が可能だという意味である。
ものに対する財産権は、その対象がひとつでしかないから、ものに対する財産権の保護とは、完全保護しかありえない。つまり、0か1しかないわけだが、無体物に関する保護に対しては、完全保護はありえない。おおらかに、その生み出す価値の10分の1でも回収できればいいわけだ。もちろん、その作品の生み出す価値が多ければ、それは比例利益となる。


つまり、政府特権=著作権による完全保護(物権的保護)をやめるということは、権利の放棄をして公共財にすることでは断じてない。完全保護の否定は、部分保護(=完全ではない保護)である。これは、政府特権がなくても通常の契約による仕組みで可能だということなのだ。
つまり、知的財産権という政府特権制度を廃止して、私的契約の世界、すなわち市場的契約にほかの全ての商品と同様に扱えばよいのであるが、これは情報を全て公共財にするという意味では決してないので、この点を誤解してはならない。

 
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2007年12月09日

Intellectual Privilege

Intellectual Privilege

Tom BELL氏のBLOG
http://www.intellectualprivilege.com/blog/

池田さんのBlogでも少し批判を書いたが(が、削除されたが(笑))、特許や著作権などの知的財産権を、財産権概念に含めるのは大きな間違いだ。
知的財産権は、自然権としての財産権の一部ではない。それは、言葉の意図的な誤用であり、もともと、これは政府から与えられる特権でしかない。

ただ、特権も譲渡可能なものとされると、擬似的な財産権的性格を持つようになる。
しかし特許等を譲渡したら、その維持、登録料などは譲渡された特許権者の負担になる。
つまり政府に対し、登録料を払う限りにおいて特権が認められるのだ。
これは、駐車場を賃借りしているのと似たようなものだ。借りている駐車場に財産権があるわけではない。

こういった言葉の正確な用い方は学問的にも極めて重要なことであろう。
ハイエクは、言葉の意味や使い方にかなりこだわりのある人であった。
The fatal conceiptという、ハイエクの最後の著作では、Our poisoned languageという文章を書いていて、言葉の意味が(左派によって)あまりにも乱脈に使われてきているために、正確な使い方ができる言葉が殆どないと嘆いている。

自由主義者の知財への批判というのは、決して本来的意味での財産権への批判ではない。
むしろ、これはアナルコキャピタリズム的な政府批判であり政府の無用な活動としての特権批判として理解しないとおかしなことになる。
政府が特権を制度化し、政府特権を乱発することで、世の中がおかしくなっているわけだ。だから、知財批判とは、知財だけの問題ではなく、独禁法批判や薬事法違反、あらゆる経済法への批判と一体のものなのである。

さらにもう一つ池田さんの誤解を書いておくと、オーストリアンの言う、リスクと不確実性とは、反対概念だ。池田さんの理解では、riskの反対はreturnで、不確実性の反対は確実性なのだと言う。(笑)
しかし、オーストリアンの言うriskとは、calcurable riskのことであり、これの反対はuncalcurable riskになる。そして、uncertaintyとは、このuncalcurable riskのことだ。つまり、不確実性とは、計算できないリスク(uncalcurable risk)のことをさしている。通常は正規分布を前提にして、リスクを考えるが、確率分布は正規分布だけではない。正規分布や二項分布は大数の法則を前提にするが、ポワソン分布などは少数の法則と呼ばれる。こういうめったに起こらない現象だと経験値の蓄積もないので、予測もできない。個人としては、事故などまれなものだから個々の事故の確率は予測はできないが、保険は多くの個人を集めて大数の法則に近いものを作り、加入者集団の中で負担分散の仕組みを作っているわけだ。

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2007年11月08日

Much ado about nothing

「インクカートリッジ巡る訴訟、キヤノンの勝訴確定」というニュースがあったので、判例検索システムで調べてみたら早くもこの判決の全文が載っていた。
ざっと目を通しただけだが、以下に、この判決の結論部をコピペしておく。


”これらのほか,インクタンクの取引の実情など前記事実関係等に現れた事情を総合的に考慮すると,上告人製品については,加工前の被上告人製品と同一性を欠く特許製品が新たに製造されたものと認めるのが相当である。
したがって,特許権者等が我が国において譲渡し,又は我が国の特許権者等が国外において譲渡した特許製品である被上告人製品の使用済みインクタンク本体を利用して製品化された上告人製品については,本件特許権の行使が制限される対象となるものではないから,本件特許権の特許権者である被上告人は,本件特許権に基づいてその輸入,販売等の差止め及び廃棄を求めることができるというべきである。

 以上によれば,所論の点に関する原審の判断は,結論において正当であり,
論旨は採用することができない。”


==
前にもこの話題は当Blogで少し詳しく論じたことがある。http://libertarian.seesaa.net/article/37255145.html

この最高裁判決では高裁判決どおりにキャノン勝訴を維持したものの、知財高裁の三村理論は採用しなかった。
要するに、キャノン特許の直接侵害品の輸入だとして、キャノンを勝たせたのだ。
これは、前にも書いたように現行法上は最も妥当な判断であろう。
三村理論は論理的に破綻しているので、三村理論を採用しなかった最高裁はまともな判断をしたといえる。
ついでに書いておけば、リサイクル行為自体が問題にされているわけではない。つまり特許の直接侵害行為がなければリサイクルインクを出すことはなんの問題もない。

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2007年08月10日

Future of Software Business

ゆすり行為と非難 「MSはオープンソースコミュニティを分断した」――Ubuntu創設者

「現段階では、マイクロソフトが本当にやろうとしているのは市場を混乱させることだというのは明らかだと思う。この狙いは功を奏しておらず、 マイクロソフトとのそういった類の交渉に応じるのを拒んでいる企業はまったく影響を受けていない。逆に、交渉に応じた企業は高い代償を払う羽目になったことを示す証拠はたくさんある」(同氏)

 シャトルワース氏は、マイクロソフトが資金力に物を言わせてベンダ各社に特許関連契約を結ばせたことも非難している。同氏によると、そういった契約がコミュニティを分断させるのを同社(MS)は知っていたという。

シャトルワース氏は、マイクロソフトがもうすぐソフトウェア特許の廃止に向けたロビー活動を始めるのではないかとの見方も示している。

 「マイクロソフトは、特許訴訟を起こされて莫大な和解金を支払わされるようになる危険性が非常に高い。彼らは1980年代の収益構造を維持するための手段として特許を利用したいと考えてはいるが、今はもうそのような時代ではないことを彼らも理解し、もうすぐ方針を転換してソフトウェア特許の廃止に向けたロビー活動を始めるだろう。それが彼らを束縛から解き放つ唯一の手段であるからだ。マイクロソフトはまだ競争することができ、有力な競争相手だ。彼らは競争で卑劣な戦術に頼る必要はない」(同氏)

http://www.atmarkit.co.jp/news/200708/08/ubuntu.html
=============================

最近のMSのOSS陣営に対する特許戦略はLinuxに対する危機感の現れであることは間違いないが、悪事は長続きはしない。
結局、将来、自分自身が特許訴訟のターゲットになることが確実だからだ。

最近のLinuxを使ってみれば、MSのWindowsよりも多くの面で優れていることがわかるが、Linuxがタダである以上、MSとしては価格競争もできない。そこでこのようなつたない法務戦略に出るのであろう。

私としては、MSが自分のOSにバカ高い価格をつけるのは一向に構わないのだが、全てのパソコンにWindowsがバンドル販売されているというのが許せない。
Lenovoは、今度SUSE Linuxを搭載したThinkPadを海外で販売するそうだが、もともと同社はその販売する全てのパソコンにWindowsを搭載するという契約をMSと結んでいるらしい。私は、ThinkPadのOSなしモデルが欲しいのだが、そういうものは、この契約のおかげで出てこない。
MS商法の本質的な悪は、このバンドル販売戦略にある。こういう露骨な独禁法違反がなんで放置されるのか理解に苦しむ。
パソコンは単にハードウェアとして欲しいのであって、そこに載せるOSは消費者の選択の自由に任せるのが当然だ。

話は飛ぶが、私としては、今後はメインマシンをMacに移行しようと思っている。
Macは、高度にデザインされたコンピューターシステムをそのOSと一体化して売るという戦略だが、これはこれで納得ができる。
Macのキーボードなど、デザインも使用感も非常に素晴らしいが、3400円と激安である。
Windowsのキーボードがデザインの酷いものしかなくその値段も結構高いのと対照的だ。これはなぜなのか?

コンピューターとはマンーマシン インタフェースのエキスペリエンスを統合的に提供する製品であるという点で、Macの戦略と製品が最も優れていると思う。要するに、Macのようにソフトとハードの一体化した製品=モノで儲けるのが商売の原則なのである。
それに対してMSのようなソフトウェアだけで儲けるというのは知財制度がなくしては成り立たないビジネスモデルといえる。
LinuxのようなOSSは、このソフトだけで儲けることを可能とする知財制度に対する根本的な否定だといえるかもしれない。
もっとも、ソフト販売を否定するわけではないが、その販売価格はアフターサービスに対する価格として設定するべきなのである。
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2007年07月17日

Tobin's Q and efficiency of patent system

kinsella氏が、mises orgのコラムで紹介している特許制度批判の論文をざっとみた。
NYTimesのコラムの紹介が分かりやすい。
http://www.nytimes.com/2007/07/15/
business/yourmoney/15proto.html?_r=1&oref=slogin

James Bessen と Michael J. MeurerのIPRに対する法と経済学的研究は、以下に一覧がある。
http://www.patentlyo.com/patent/2007/07/
do-patents-disc.html

トービンのQ理論というのがあるが、これは、Intangibleを評価するときの計測指標としてしばしば用いられる。
これを用いて、特許システムの効率性を評価しようとしたのが、次の論文。
Estimates of Firms’ Patent Rents from Firm Market Value
By James Bessen
(Boston University School of Law and Research on Innovation)
http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm
?abstract_id=912661#PaperDownload

#ただ、この手の研究は、計量経済学の手法を用いるわけだが、やや眉唾ものだ。原因と結果をひっくり返して解釈してるものが多いと思われる。

以下はリンクのまとめ:
http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm
?abstract_id=912661#PaperDownload
http://researchoninnovation.org/dopatentswork/
http://www.researchoninnovation.org.
http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=949778
http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=912661
http://www.patentlyo.com/patent/2007/07/do-patents-disc.html
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2007年06月09日

Notice Notice and Takedown

日本のプロバイダー責任法と、アメリカのプロバイダー責任の違いについて、また少し著作権絡みの話を纏めておこう。
アメリカの電気通信法(1996)は、プロバイダー責任の免責事由を定めている。
通常、発信者(Publisher)と、頒布者(distributor)の著作権侵害責任について、新聞社や出版社などのPublisherには厳格責任(strict liability)となっており、distributorである書店などは過失責任となっているが、これに対しインターネットプロバイダーの著作権侵害に対する厳格責任を免責するのが電気通信法である。#しかし特許侵害などに対しては、プロバイダーに対しても厳格責任は適用される。

またデジタルミレニアム著作権法(DMCA=Digital Millenium Copyright Act、1998)では、Notice and takedownというルールが定められている。

これはプロバイダーに対して、侵害通知の窓口を設けることを要求し、自称著作権者から侵害の通知があった場合、削除(takedown)できることを法律で保証している。つまり著作権者であることの確認を要せず、プロバイダーがこの通知をうけて削除して仮にその要求が間違っていたとしてもプロバイダーが削除したことに対する責任はないこととしているのである。
DMCAは、評判の悪い法だが、実は削除した場合のprovider責任を軽減している。
この点ではプロバイダー側にとってはありがたい法律だろう。

一方日本のプロバイダー責任法というのは、これと似て非なるものである。
自称著作権者から侵害通知があれば、発信者であるプロバイダーユーザーに対し通知をし、その発信者が7日以内に異議の通知をしなければ、削除が"できる"としている。
これはNotice Notice and takedownルールである。

この「できる」というのが曲者で、もし侵害だという通知が間違っていた場合、プロバイダーが発信者のコンテンツを削除するのは違法もしくは不法行為となる。
そしてプロバイダー側には、この判断リスクがあり、削除も簡単にはできない。
Youtubeなどが、通知によってどんどん削除しているのは、DMCAに則った行動であり、日本では削除も実はままならないのである。

また削除しなかった場合は、今度は著作権侵害訴訟のリスクがあり、実際訴訟になれば先に書いたように、著作権法の直接侵害規定の拡大適用がされる可能性が高い。
法環境的には、日本のプロバイダーサービスはあまりにリスクが高く、著作権法を早急に変更しなければ早晩成り立たなくなるだろう。
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2007年06月01日

DRM

さきのポストでは、日本のISPなどの媒介者に対する著作権侵害の責任主体判断は、著作権法112条の直接侵害に対する差止請求権の(プラグマティックな理由による)拡大適用であるということを説明した。
この現状に対する批判としてはいろいろ考えられる。

リバタリアン的な立場からすれば、まず実定法上の著作権というbundle of rightsに対する保護そのものが問題となる。
まず、これを廃止すべきだというスタンスだ。
このようなごちゃごちゃした権利体系は著作権法に特有なものであり、歴史的にアドホックな形で、利害調整目的で修正につぐ修正が加えられてきたためだ。

まず、著作権法上の権利をデジタル化された著作物に対して一切認めないという状況の思考実験をしてみれば面白い。
私はこれによって問題というべき問題は起こらないと考えている。
誰かにとって、多少不都合な事態はあっても、全体としては無い方がよいだろうという考えだ。そして多少不都合な事態とは、誰でも生きていく上で多かれ少なかれ直面する現実であるから、これに対してはいろんな対策方法が考えられる。
政府が偉そうにインセンティブ制度など設計しなくても、不都合な事態を解決すべく人類は進歩してきたのだ。

まず、デジタル化された著作物に対する製作者側のテクノロジーを用いた防衛手段が考えられる。
最近では、WMPでもiTuneでも殆どのMP3プレーヤーには、DRM(Digital Rights Management)技術が組み込まれている。
これを回避するのは誰でも簡単というわけではない。
もし、これを回避して使う人間がいても、それは全体の中ではごく一部であるし、その場合の故意の立証は容易だ。また、DRM回避技術に対しては、ウイルス対策と同様に技術的にどんどん手段を講じることが可能だ。
実際、現在はハードディクス録音、メモリープレイヤー(MP3プレーヤー)は補償金制度の政令指定対象外とな
っている。これはDRMの実効性が高いためでもあるのだ。

また、Windowsのように知財法によってもたらされる独占の地位を利用して、価格をバカ高く設定している場合
は、当然ながら違法コピーが沢山行われるだろう。
これは、その値段が法外に高いと多くの人間が判断するから”違法コピー”のインセンティブとなっているだけであ
って、もしMSがコピーをして欲しくないのであれば、単に値段を下げればいいのだ。
Windowsが5000円程度で、かつ正規購入品に対してのみ、バージョンアップのサポートが行われようにすれば(XPしかり)、”違法コピー”などおのずと激減するのである。

ようするに、自分の著作物を守りたい人間は自分の知恵でそれを守ることができる。柔軟性が0の制定法によっ
て国が大掛かりな全面的な完全保護を行う必要はない。また、それは全く経済的にも割に合わない。
政府の対策は全て税金であるから、制度に対する社会的コストなどが見えなくなっているだけだ。
水も漏らさぬ規制というのは、一旦法律化されると、政府にとって殆ど神経症的な脅迫的な仕事上のテーマとな
り、これが危険なのは言うまでもない。

また多少のフリーライドを残しておくという余裕は、野生の世界でも当然のことなのであり、これは全体としてWIN-WINになるという事実をもっと考える必要がある。
つまり実定法上の権利を与えることによるフリーライドの”完全排除”モデルは経済的にも道義的にも間違っている。

そもそも著作物というのは他者に発表したいから作られるのである。
これは絵画であろうと小説であろうと同じだろう。もし、真似されるのがどうしてもいやなら、発表しなければよい。特にYOL事件(Yomiuri Online)のようなWEBの会員制でもないページに掲載した取るに足らないタイトルをリンクしただけで、不法行為を認定したケースなどはとんでもない間違った判決だ。

井上判事ではないが、妙な喧嘩両成敗的な判決をするから、後に禍根を残すことになる。
もちろん、先例拘束は原則、日本の法定ではないことになっているから、無視すればいいのだが、これは法の”予測可能性”上、社会全体に萎縮効果をもたらす悪しき先例となるのは事実だ。

知財法絡みの問題を解決するには、国連という禄でもない機関を逆手に利用するしかないのかもしれない。
posted by libertarian at 14:31| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | IPR(Intellectual Property Right) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Copyright ,Patent,and Torts

デジタル情報化された著作物の著作権問題について少しまとめておこう。
著作権法というのは、従来はどうでもいいような法律とも思えないような法律であり、零細事業者(芸術家を含む)の利権を保護するための法律だったが、デジタルネットワークの発達によって当初の思惑に反してネットワーク技術、ネット産業の発達の最大の阻害要因となっている。

また、著作権法は、どの国でも産業政策的な位置付けにあるが、国によって法理論上の扱いが実は結構異なっている。
そのため、著作権法のあるべき姿を論じることは、知財専門の法学者にとっても容易なことではない。
現在の日本の裁判例は、東京地裁の高部コートによって多くの重大?判決がなされているが、実は、これらは現行法上はなかなかに良く考えられたものだというのが私の感想だ。
もちろん、それに全て賛成するわけではないが、一審の地裁レベルの判断としては、女性らしいなのか単なる性格のためか、制定法に実直に即した判断を行い、それ以上の判断は控訴審、上告審の判断に委ねようという意図があると推察される。

ネットワーク上の著作権侵害に関しては、直接侵害者の特定が困難であるために、間接侵害者に相当するかもしれないプロバイダーなどの責任が裁判上の焦点となっている。もし直接侵害者に対して裁判を起こすことができれば、本来、間接侵害者?の責任は問われない。つまり直接侵害者を訴えられないから、間接的な救済手段としてISPなどの責任が問われているのだ。
ここにまず、この問題の本質があると考えられる。
現状の裁判上の判断には、制定法上の権利救済を前提として、こういったプラグマティックな執行の実効性を確保しようとする意図があるわけだ。

次に情報の媒介者であるISPなどは、教唆、幇助として、著作権法112条1項の差止請求を適用(類推適用)できるかが問題の焦点となる。

情報の媒介者に対する、著作権法上の侵害責任を問うことは、日本においては1988年の最高裁判決によるカラオケ法理以来、固まっている。
クラブキャッツアイ事件では、侵害者である客と、媒介者である店に人的関係がある場合は、店側の管理・支配の程度が責任を問う基準とされた。
その後、ISPのような直接侵害者と媒介者の間に人的関係がない場合の、媒介者による”道具”の提供に対する侵害責任の判断手法が、昨今のネットワーク化にともなう難問として浮上しているわけだ。
当然ながら、ISPはサーバーなどの汎用装置を提供しているだけである。

また、常に必ず著作権法上の支分権の直接侵害となるわけではない場合、つまり侵害用途ではない使い方がある場合の判断が難しい。
アメリカでは、Sonyのベータマックス事件で、Sonyは辛うじて勝利したが、このときのビデオレコーダーが、この”侵害用途でない使い方がある場合”に相当する。
つまりビデオレコーダーは、タイムシフティング目的で、私的な利用がなされる。
Stevens判事は、タイムシフティング目的、つまり番組を時間をずらして私的に視聴する場合の利用はFairUseと判断し、なおかつ潜在市場に対する影響を証明する責任は著作権者側にあるとし、また著作権者側がその立証ができなかったと判断したためにSonyは裁判に勝利したのである。
(ちなみに日本ではFairUseの法理は一切ない。)

一方、アメリカのGrokster事件では、Grokster側の”特許法上”の教唆規定を認定したが、このような侵害しない用途を有する技術に教唆規定を適用すると、全てのISP、電話会社が著作権法上の侵害責任を問われることになるという批判がされている。

また、イギリスのOWEN事件では、Sony事件とは異なり、実質的な侵害用途が存在すれば、侵害しない用途があったとしても、侵害となるとした。
このようにイギリスとアメリカでも侵害判断の様式はかなり異なる。

大雑把に纏めるとアメリカの裁判においては、著作権侵害に対して特許法上の理論を援用しつつ、媒介者において、支分権の直接侵害が少しでもあれば当然にクロとされるが、媒介者が中立的で、かつその技術に侵害用途でない用途がある場合がグレーゾーンとなり、昨今の趨勢としては、そのグレーゾーンはブラック寄りに判断される傾向にあるといえる。

また、媒介者に対する不法行為上の差止請求がこれらの国では可能であり、全てを著作権法上の解釈で解決しなくてもよいという事情がある。

一方、日本では、著作権侵害の責任主体について、特許間接侵害規程の援用による判断は避けられており、純粋に著作権法上の権利(私的複製、公衆送信権、送信可能化権)侵害の問題として処理されている。
さらに、日本の不法行為法では、差止請求権がないため、最も実効性のある措置である差止請求を求めようとすれば、著作権法112条の差止請求権に訴えざるを得ない。
これによって、カラオケ法理以来、日本では、本来、直接侵害者に対して執行されるべき112条の差止請求権を、間接侵害である媒介者に対しても拡大適用してきたのである。


(差止請求権)
第百十二条  著作者、著作権者、出版権者、実演家又は著作隣接権者は、その著作者人格権、著作権、出版権、実演家人格権又は著作隣接権を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。


しかし、この問題は、複雑なので、いっぺんに書くのは大変すぎる。
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2007年05月02日

Self-apparent inventions

米連邦最高裁、特許の「自明性」を判定する法的基準の緩和を命じる

CNETの記事より次に抜粋


 ”米連邦最高裁判所は米国時間4月30日、これまで長い間特許をめぐる裁判に適用されてきた法的基準について、これを覆す判断を担当裁判官の全員一致で下した。この基準をめぐっては、特許とされるだけの価値がないのに特許と認められる、いわゆる「自明な特許」が大量に生まれる温床になっているとして、ハイテク企業からの批判が強かった。

 今回の判決により、質に問題のある特許への異議申し立てをより簡単にするものとして、大いに待ち望まれていた判断が裁判所によって下されたことになる。既知の発明要素を組み合わせたものを、どこから新しい特許と認めるか、その条件をめぐっては、知的財産権に関わる訴訟を専門に扱う連邦巡回控訴裁判所(CAFC)が設けた基準があるが、今回の判断で、裁判官たちは現在の基準を緩和するよう求めた。

 Anthony Kennedy裁判官が執筆した多数意見(PDFファイル)の中で、最高裁は、「真の新しい要素がない、通常のプロセスで生まれた技術進歩に特許による保護を与えることは、進歩を妨げる危険性がある。さらに、既知の発明要素を組み合わせた特許の場合は、これより先に発明されたものの価値や有用性を損なうおそれがある」と述べている。
[http://www.supremecourtus.gov/opinions/06pdf/04-1350.pdf]

 今回の判決に対し、ハイテク企業はただちに歓迎の意を表明した。以前から、IntelやCisco Systemsをはじめとするシリコンバレーの有力企業数社は、下級裁判所による過去の判決の修正を求める文書を、最高裁に提出していた。

 「今回の判決は、特許を与える価値のない特許や出願について、特許審査官が選別して却下する機会を増やし、特許の質を回復するのに大いに役立つだろう」と、Business Software Alliance(BSA)の顧問弁護士であるEmery Simon氏は言う。BSAには、Adobe Systems、Cisco、Microsoftなどの企業が参加している。

 連邦法には、同分野で「平均的な能力」を持った人なら誰でも考案可能と思われる発明には特許を付与できない、と明記されている。しかし、発明は自明だと後から主張するのは簡単なことから、CAFCは1982年、より客観的な結論を出せるようにするため、法的テストを設けた。

 この自明性テストを満たすには、実際には書面による証拠が必要なことから、自明だとの主張のあった特許でも、これを覆すことは困難になり、しかも、この基準のおかげで、米特許商標庁からの特許の取得は容易になった、との批判が起きていた。ハイテク企業の場合は、新しい製品やアイデアを考案するペースがおしなべて速いため、文書による証拠をそろえるのはとくに難しいとの不満が強い。

 今回の判断を示した連邦最高裁の裁判官たちは、自明性基準をめぐる以上のような批判に理解を示している。「発明をめぐる知的探求、および現代のテクノロジーの多様性を見るに、(自明性に関する)分析をこのような形で制限することはそぐわない。多くの分野では、手法や要素の組み合わせについて、その自明性を問う議論はほとんど行われず、開発の方向性を決するのは、科学論文よりも市場の需要である場合が多いはずだ」と裁判所は記している。 ”


俗に言われる、アメリカのプロパテントはもはや後退局面に入った。そもそもプロパテントなる政策が本当にあったのかどうかも微妙なのであろうが。

Kennedy判事の元の文章は以下の部分である。

The diversity of inventive pursuits and of modern technology counsels against limiting the analysis in this way. In many fields it may be that there is little discussion of obvious techniques or combinations, and it often may be the case that market demand, rather than scientific literature, will drive design trends. Granting patent protection to advances that would occur in the ordinary course without real innovation retards progress and may, in the case of patents combining previously known elements, deprive prior inventions of their value or utility.

開発の方向性は、市場の需要によって決まるとした見解は重要だ。発明そのものも、その発明の価値も市場と切り離せない。いわゆる学問とはそこが違う。発明そのものに価値があるのではなく、市場で利益を生む製品に市場価値があるのである。
だから、発明と言うアイデアそのものを保護する必要は本来的にない。
もし保護をしたいのであれば、不競法の改正で製品の保護を強化すれば済む話だろう。

また、知財法のような法律のメリットーデメリットというのは分析してもあまり意味がない。その法制度がなかったときのメリットーデメリットが、わからないからだ。
だが、特許のような産業政策法がなかったときのデメリットとは一体なんなのか?それはデメリットではなく、単なる一つの自然な現実に過ぎない。
単なる現実であるから、企業はその現実に自然に対応するだけだ。
それがどのような形になるかを予測することも意味がない。
ただ政府の独占特権システムを廃止したからといって、何の問題も起こるわけがないだろう。

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2007年02月14日

Patenting Life


Patenting Life
By MICHAEL CRICHTON
Published: February 13, 2007

マイケルクライトンによるDNA特許批判。
まさに正論である。簡単にその内容を紹介しておく。

[http://www.nytimes.com/2007/02/13/opinion/13crichton.html?_r=1&oref=slogin]

”人間のDNAは完全解読されたが、その1/5について特許が取得され、科学研究を大幅に阻害し、治療価格を法外に引き上げる状況となっている。
SARSの研究も特許にかかることを原因に躊躇された。乳がんの遺伝子検査ではroyaltyのせいで1000ドルが3000ドルに跳ね上がった。遺伝子のmutationの研究も特許にかかる可能性がある。この状況では個人にあわせてつくるオーダーメード医薬の夢など破壊された。医学発展のおそるべき阻害要因となっている。
近くアメリカでは、二人の議員がGenomic Accessibility Actを提出し、自然界で見つけられた遺伝子の特許取得を禁止する法律を作ろうとしている。これをみんなでサポートしよう”

もともと、医療に関しては特許は認めないのがどこの国でも原則だが、アメリカの特許庁が医療に直接絡むことが自明なDNAをも特許の対象としたのだ。
こういう狂った状況は、一刻も早く是正されるべきだ。

2007年02月14日
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2006年12月19日

Natural emerging privilege: Copyrights

Winny事件判決の問題点 開発者が負う「責任」とは by 白田秀彰氏

[http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0612/17/news002_3.html]

”社会のあり方や法律や制度について批判的に語ることは、政治的自由においてもっとも保障されなければならないことだ。法律や制度に対する言論表現の自由は、文句や不満があっても黙っていることの多い日本社会においては、積極的に奨励されていいくらいだと考えている。”



Winny裁判を考える なぜ「幇助」が認められたか by 小倉秀夫弁護士

[http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0612/19/news023.html]





Winny事件の判決が話題となっている。判旨を見ていないのでよくわからないが

上の2つの記事は参考になる。

白田氏の話は、上に引用した部分が真っ当な主張だ。

小倉弁護士の意見は、法理論に正確な実務的見解であり勉強になる。



著作権は、無方式主義で自然発生する形式をとるが、実はその著作物が著作権法上の著作物と認められるか否かは必ずしも自明ではない。

特にYOL事件のように見出しのようなショートセンテンスの著作物性となると、それが著作物か否かから判定されることになる。

”著作権法上の著作物”と、”著作権法上の著作物ではないもの”の2元構成をとっているから、どんなに長編の小説であっても、それは著作権法上の著作物とするには判断を司法が下さなければ(本来は)いけないはずだ。それを自明として、ショートカットしているのではなかろうか?



実はこの著作権発生の無方式主義とは、自明でない、よく分からないものだ。

このような無方式主義をとる「権利」には、特許法における”特許を受ける権利”がある。

そして何度もいうが、この「権利」とは英語でもrightsと書くものの、正確に言えば昔も今も特権(privilege)を意味する。

無方式主義で発生する権利といえば、あたかも自然な権利のように思われるが、無方式で発生する特権と正確に言うべきだ。(ちなみに、”自然な権利”と自然権とは全く違う概念。)

そして、この”無方式で発生する特権”が曲者だ。

著作権も”特許をうける権利”も疑ってかかるべき矛盾を孕む概念と考えられる。



著作権の場合、無方式主義で発生するとはいえ、著作権法上の著作物に該当するには一定の要件を満たしていなければならない。

第二条  この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。

一  著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。



このように、さらりと書いてあるが、意外とこの要件も複雑だ。

この構成要件に該当すると認定されるものだけが、著作権法上の著作物とされる。

そして、これを認定する権限があるのは、裁判所だけだ。

裁判所で認定される前は、全ての著作権者は自称著作権者なのだ。



またここで疑問になるのは、自称著作権者は、権利の行使主体になりえるのであろうかという点だ。

当然、自称であっても権利主体だとなっているのだが、私はその根拠には納得できない。

むしろ、多くの事件では著作権法上の著作物とする認定をしないで、著作権侵害判断をしているが、これはおかしいと見ているのだ。



もし、著作権法上の著作物と認定されて初めて著作権法上の権利が行使しうるとすれば、これは、無方式主義なる権利=特権付与の仕組みが元からおかしいことになろう。

つまり、実体的な権利は裁判所の認定の後に発生することになる。それなら無方式主義で著作権が自然発生するとする構成をとる必要がない。



また池田さんが言うような「コントロール権なしでキャッシュフロー権を確保する方法はいくらでもあるので、両者をアンバンドルするべき」といったアイデアも筋の悪い議論だ。つまり、”特定の手段から起こりそうな全ての影響をはっきりと考察する能力が、人間には一般にない”(ハイエク)からだ。

[http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/f15e12589f16263b4a505a559659f2d4]

むしろ、これら公法上の権利=特権を廃止し、全てを不法行為で、つまり私法の領域で判断すればよいのだ。(不法行為の領域をもっと拡大する必要はあるだろう。)

著作権法の問題を公法の問題として扱おうとすること自体が間違っている。

特許法や著作権法を廃止すべしといったリバタリアニズム的な主張は、これらを私法の領域に戻すべきだという主張が基本にあるのである。



#「全ての人に対する同一の規則の支配、あるいはラテン語で法に相当する本来の意味のlegesの支配であるーlegesは、つまりprivileges(=privilege)に対立する。(ハイエク)
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2006年11月01日

Implied consent or Exhaustion?

インクカートリッジ事件としては、キャノンの知財高裁判決がメディアでも大きくピックアップされたが、もともとインクカートリッジは特許闘争の主戦場であって、キャノン、エプソン以外にもHPも同様の訴訟を多く起こしている。

プリンタ本体は叩き売り?の値段で売り、消耗品のインクで暴利?を稼ぐというのは、大手プリンタメーカーの共通の戦略である。

しかし、たかがインクカートリッジがなんであんなに高いのかは、カラスの勝手、もといメーカーのエゴというわけでもなく、実はそれでも消費者が買うから高いのである。



もし、プリンターが高くてもいいから消耗品が安い方がいいというのが消費者の本当のニーズであるとすればそういうメーカー戦略もありうるだろうが、そういうメーカが少ないのは今のメーカー戦略が消費者にとってもベターだということだろう。そもそも数年前まではプリンター自体もかなり高かった。



感覚的に言えば、お家でプリンターを使うのは写真印刷をしたり、年賀状を出すときくらいで、ビジネス的な

用途ではあまり使われていないのであろう。つまり使用頻度があまり高くない周辺機器の一つなのである。

そういったインクの消費量が少ないたまに使う程度のユーザーであれば、インクカートリッジが少々高くても本体の値段の敷居が低い方がありがたいのだ。

というわけで、ユーザーの裾野を広げるために、メーカーとしては自然と本体低価格戦略にシフトしてきているのだろうと考えられる。



キャノンの事件は知財高裁でキャノンが逆転勝訴したが、この判決はリサイクル問題とはなんの関係もない純粋に特許の消尽論解釈の舞台となった。

高裁は、消尽論に関して画期的なといってよい、”おかしな解釈”を提示したのである。

そもそも、このキャノン特許では頭の良いキャノンの知財部隊が、特許の構成要件の中にこのようなリサイクルをさせないためのトラップ(罠)をわざわざ仕掛けていたのである。

しかし、一審の地裁でも控訴審の高裁でも、このわざわざ仕込んでおいたトラップがうまく機能しなかった。なぜなら、裁判所が侵害要件の判断を単純に間違えたからである。頭のいい人間でも間違えることはあるから仕方ない。



このキャノンのトラップによって、リサイクル品は特許権の直接侵害品の輸入として差止されるのが、現行法での常識的な措置であった。

しかし、その点が驚くべきことに一審二審ともに見逃され、消尽論解釈の大問題に発展してしまったのである。



消尽論については、当Blogでも何度か言及しているが、キャノン事件に対する知財高裁の判断(三村量一裁判長)がある意味で”画期的”であるのは

BBS事件に対する最高裁判例以来、日本の司法の考えとしては、消尽論ではなく黙示の許諾説を採用していることを間接的に明示したことにある。

だが、ここら辺りの解釈は言葉の意味の混乱がかなりあり、非常に分かりにくいものとなっている。



まず特許製品が流通〜消費者に渡る過程で、特許法上は、その流通過程にいる全員が特許権の(譲渡、使用)侵害という違法行為をしていることになるのだが、これは司法上は違法ではないとしている。これを自明の法理と呼ぶ。

商品の自由な流通秩序の維持の上では、それが違法だったら困るでしょうというわけだ。



そしてこの”自明の法理”に対する理由づけとして、所有権移転説、黙示の許諾説、消尽説の3つが別々にある。

ヨーロッパでは、伝統的に消尽理論が採用されているが、実はアメリカでの法理論としては、黙示の許諾理論が採用されているのである。

消尽論の説明根拠は2重利得の禁止であるため、同じ特許で何度も利益を得ることを否定している。

それに対して、黙示の許諾理論では、この2重利得禁止は根拠でなく、一種の契約という解釈であるから、権利行使することもありうる。

さらにいえば、消尽論の対象とされるのは、特許権の譲渡、使用までであり、生産には消尽はありえないとして消尽論の適用を認めない。



アメリカではrepairは許されるがreconstructionは許されないという一般法理が確立しているが、これはつまるところreconstruction(=再生産)した場合は、特許権者の権利行使が可能になるということである。

これは、特許権が消尽(=exhaust)したのでなく、単に黙示の許諾がされていただけだからそれを超える行為に対しては(黙示の)許諾の対象外だという解釈であろう。

キャノン事件の一審判決はこの再生産か否かが判断され、再生産ではないと判断され、被告リサイクルアシスト社の勝ちとなった。

重要なのは、ここでは消尽論を適用せず、修理か再生産かを判断していることである。この判断は修理であれば、黙示の許諾によりOKだが、再生産なら許諾の対象外だとするものと解釈もできる。

ある意味、日本の判例は消尽論を語りながら、生産に対してはアメリカ流の黙示の許諾理論を採用しており、黙示の許諾理論と消尽論が混在している状況といえよう。



一方、知財高裁の三村解釈では、特許は使用、譲渡、再生産に関わらず一旦消尽するという構成をとる。

しかし、2つの類型を新たに提示し、この類型に当てはまる場合は特許は消尽せず、権利行使が可能だという複雑かつ混乱した理論構成をとるのである。

つまり、(1)本来の耐用期間を経過してその効用を終えた後に再使用、再生利用がされた場合と、

(2)第三者により、特許製品中の特許発明の本質的部分を構成する部材の全部、一部が加工または交換された場合の2ケースである。



これは効用を終えるまでは期間限定的に消尽しているということで、効用が終われば消尽も終わるという理屈である。

しかし実は、この理論は消尽論ではなく、黙示の許諾説でないと説明がつかない。

今回、判決に対し”消尽アプローチ”を採用したとされるキャノンの知財高裁判決が、なぜ消尽論ではなく黙示の許諾説を採用しているかといえば、消尽論の説明根拠が

2重利得の禁止だからである。高裁の判断は消尽論の根拠である2重利得禁止の原理を無視して消尽理論を無理やり適用しているといえる。



このキャノンのインクカートリッジ事件は現在、上告中であるから、最高裁で、さらに二転三転があるかもしれない。
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2006年10月03日

Full Value2

「特許権はどこまで権利か」 by玉井克哉

http://www.ip.rcast.utokyo.ac.jp/member/tamai/paper/B/B23.pdf



玉井先生の上の論文を読んでみた。これもためになる論文であった。

この論文は、特許権に基づく差止請求に関する最近のUS最高裁の判決(2006.5.15)を解説した論文である。



この本を読んで気づいたのだが、英米のコモンローではむしろ差止請求は補充的な手段らしい。必ず用意されている救済は損害賠償だけということだ。(私はこの点を以前にこのブログで間違って書いた。やはり相手が専門家だと思って人の話を鵜呑みにすると間違える。)

差止判断はエクイティ上のfourfactor testにかけられる。



この判決からも特許法という制定法に対するアメリカのコモンローアプローチがよく見える。

CAFCによって特許侵害に対する差止請求が常態化していた現状を覆す判決となっており、今後のアメリカの司法に大きな影響を与えるだろうと考えられる判決である。



法廷意見を書いたのはクラレンストーマス。補足意見としてジョンロバーツとスカリアとギンズバーグのものと、アンソニーケネディ、スティーブンス、スーター、ブライアーらの異なる意見が加えられた。



判決は、差止請求を認めないということだが、このフルオピニオンの法廷意見は極めて重要かつ含蓄が深い。



「裁量というのは何をしてもいいということではない。そして法的基準に則って裁量を制限することにより、等しきものを等しく扱うという法と正義の基本原則に近づくことが出来る」のである。そうした基準を識別し、適用する段になれば他の分野と同様、この分野でも「歴史の1頁は論理の一冊に相当する」のである。





意見書も産業界から提出された。予想通り、医薬業界は差止請求権は絶対に必要だというものであり、バイオ業界もそれにほぼ同じ。



IT業界団体(BSA)の意見では、逆に差止請求をデフォルトで認めることは大反対。これはITや電子電気業界における特許権の錯雑状態(Patent thicket)という現状を訴えたもの。



つまり、ハイテク製品やそれに関わる技術標準とは複雑極まりない技術と特許が絡んでいるために、全ての特許侵害を完全に予防することは不可能。またクロスライセンスにも限界がある。



取るに足らない一部の特許を振りかざして差止請求を要求されたら膨大な損害をこうむり、そのような状況ではライセンス交渉における極端な不均衡が生じることになる。



膨大な資金と時間を投資した後の段階でこのような訴訟を起こされると、事業家はホールドアップ状態になる。



そして、このような特許侵害訴訟を専門に行う産業(特許ゴロ)がUSでは組織的に活動している。特許ゴロ(patent troll)はpatent litigation firmであったり、法律家からなるが、、特許発明を事業にするのではなく、特許権を事業にする。つまりは特許侵害訴訟で相手側から法外の和解金を引き出すのが専門の法律家たちである。



ケネディ裁判官ら4人の見解は、こういった事態の変化に対し対応を変えるべきであるというものである。

つまり、patent thicket,特許ゴロ、ホールドアップ問題といった現状に対応し、柔軟にエクイティの法理を運用すべきということだ。



業界によって特許権のFullValueが制限されるのが適切であったり不適切な現状があったりというケースバイケースの柔軟な判断だ。

今後、USで特許権のフルバリュー、つまり損害賠償と差止請求を同時に行使することは難しくなるだろう。



何度もいうが、特許権というのは実に不安定な権利(というか特権)であって、この不安定さは近年日本でもとみに顕著だ。

審査効率を上げるために、異議申し立て制度などを廃止した結果でもあろう。だが、このような不安定な”権利”に法外なフルバリューを与えることは危険極まりない。



実際、USでは特許のFullValueは制限されるわけだし、日本もプロパテントなどという有害極まりない無責任なことを政策とするのでなく、むしろ”権利”の限定化を検討すべき段階にある。



#ちなみに、差止請求権がここで大問題となるのは、差止は事実上、会社もしくは事業への死刑宣告に相当する過酷なものだからである。

差止請求の仮執行も多くの場合、同様の効果をもつ。

特に中小企業の場合、設備を3ヶ月も停止すれば不渡を出すしかないのだ。差止をちらつかせた損害賠償請求であればピストルを相手から頭に向けられたホールドアップ状態であるから、交渉余地はないが、差止請求と同時でなければ、まだ常識的な範囲での交渉が可能だということである。
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2006年09月22日

Article 1 of japan patent law

実定法であっても法律はもろもろの前提が明示的に全て示されているわけではない。

特許法は、第1条で「この法律は、発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もつて産業の発達に寄与することを目的とする。」とある。

しかし、誰が発明することを奨励するかは明示されていない。また発明を奨励すると、なんで産業の発達に寄与するかなど

一切根拠は書かれていない。

おそらく誰でもが考えるであろう理屈を補えば、次のようになるだろう。



この法律は、どこかの発明した者に発明の独占排他権を与えることで、発明の保護及び利用を図ることができ、それにより、他人が勝手に自分のアイデアを真似するフリーライドを政府が強制的に禁止し、よい発明をした人は安心して儲けることができるようにすることで、発明を奨励し たい。なぜなら、よい発明がこの法律のお陰で沢山出来れば、もつて日本の産業の発達に寄与することとなるだろうと思うので、それを目的とするが、ほんとに産業の発達に寄与するかどうかはこの法律の関与しないところである。」



あまりうまくないが、文章を補うとこんな感じかもしれない。

しかし、言葉を補えば補うほど、論理の飛躍だらけで意味をなしていないことがよくわかるのである。

大体法律の文章なんてのはこんなものだ。わざとこんな風に書いているのである。

実定法の世界における、裁判所の役割とは官僚がわざと曖昧に書いた文章の間隙を解釈するくらいのものだ。



この第1条をゴール分析図で書くと次のようになる。



産業の発達に寄与する

  ↑

発明を奨励する

  ↑

発明の保護及び利用を図る



もし技術者がこんなゴール図を描いたとしたら、馬鹿よばわりされるだろう。
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2006年09月20日

Intellectual-property rights and wrongs

Intellectualproperty rights and wrongs

By Joseph E. Stiglitz



[http://www.dailytimes.com.pk/print.asp?page=2005\08\16\story_1682005_pg5_12]



このスティグリッツの記事はIPR批判を含む。

実際、ここに書かれているように現代の強力なIPRロビーは製薬業界と思われる。



IPRをめぐる議論としては、IPRを発明奨励のインセンティブシステムとして捉えるものと、Freerideを防止するシステムとして捉えるものがあり、前者は法の趣旨であり、後者は法の効果、実効である。

そして、どちらも極めて疑わしい論拠しかない。



スティグリッツは、前者のインセンティブシステムということなら単に発明者を表彰するだけでよいのではないかということも言っているのだが、その場合は、はっきりとは言わないがこのFreeride防止の効果はさして重要ではないと考えていることになる。



リバタリアニズム的には、このインセンティブ論そのものを批判する。

所詮、馬の鼻面にぶら下げられた人参など創造的行為には無用だということだ。
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2006年03月28日

Complete exclusion of free riders

IPRをインセンティブ論で語るのはそもそもの間違いだと思う。

IPRという政府特権制度の本質は、フリーライドを排除する効力に帰着する。

そしてIPR制度はフリーライドの完全排除モデル(complete exclusion model)に立っている。



IPRによってフリーライドを排除しなければ、発明や創作への意欲が衰え産業が衰退するというのがIPRが必要不可欠だという根拠である。だが、こんなことはまずありえない。

企業が利益を出すことは絶対命題であり、競争関係の中において商品の差別化のための技術開発は必要不可欠なことだからだ。

技術開発の目的は製品開発が目的であって、特許の取得が目的ではないのは当然のことだ。



IPR制度がなければ、単に市場で個々のプレーヤーが、フリーライドになんらかの対処をしなければならなくなるだけだ。

であるからして、ここで考える価値があることは、IPR制度が一切ない状態での、発明者側の戦略とフリーライダー側の戦略を考察することである。

つまり、お上に一切手助けをしてもらえないとして、どうするだろうかという問題だ。

ここで不法行為法の特別法である不正競争防止法は一応あるものとしてよい。

しかし、薬事法などは存在しないとしよう。

不正競争つまりUnfairな行為は司法によって、それなりに厳しく罰することはできるとする。

つまり、司法システムは機能しているとする。



おそらく、このフリーライド戦略は業界毎に異なるだろう。また複雑になるだろう。

この問題に対処する場合、防御側は製造サイドだけでなく流通の問題もセットにして対策を考える必要がでてくるだろう。

だが、策が何もないなどとは誰も思わないはずだ。



法律的仮構にすぎないIPRによるフリーライドの完全排除モデルから、マーケットメカニズムではフリーライドの不完全排除モデルに

移行することになるだろうが、市場が導き出すだろう様々な対策が政府特権によるIPR制度よりもはるかに優れた

システムを生み出すことは間違いない。



ただ流通に関しても様々な法規制があり、ありとあらゆるところに公的価値を謳った政府規制が溢れているから、自生的で合理的な秩序形成を阻害しているだけだ。

全ての経済法をちゃらにすれば、パーフェクトではないがベストな体制が生まれる。


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2006年03月21日

Price of privilege

デモクラシー=民主政体においては、司法、立法、行政が三位一体となっているが、司法システムはこの内で最も古い。司法は法=juscticeを発見する場であった。

そして社会に立法といった法を作るシステムはもともとはなかった。人間が法=Justiceを作ることなどできるはずもないことだからである。



基本的に司法とは、法=Justiceの発見の場であるというのが重要なポイントであり、コモンロー(=Law finding system)の基本だろう。コモンローシステムでは、さらに司法の場がマルチコートシステム(複数の裁判所が共存するシステム)−協会、王室、地方の中に分散されていたのであり裁判所に特化したものですらなかった。

近代的な社会体制つまりデモクラシーは、立法権力を別個に作り出したところが最も本質的な社会システムの転換だったのだろうと思う。ローマ法から続く中世の法にあっても立法システムは作られていない。

そしてNation stateとデモクラシーが不可分のものとして結びつくことで、支配システムが立法システムに置き換わり立法権力が強化されていくとともに司法は立法に対する付随的なシステムになっていったと考えられる。

そして立法府の不安定な権力に対し、行政機関の安定的権力が優越していきBureaucracyに変化する。Bureaucracyこそが国家社会主義の原動力である。



#昨今のIPR関係の裁判判例を見ると、法解釈なら知的財産の専門家に全部やらした方が結局よいのではないかと思うことが多い。所詮、裁判所は知財関係の法律の条文解釈をしているだけだから知的財産の専門家の方が判事よりも正確な理解を持っていることが多いからだ。司法が正義の発見の場でなく、所詮は(世俗的な意味での)大秀才達による単なる実定法の法解釈の場でしかないなら、そういうやり方でも充分なのだ。



いわゆる物の値段はないわけではないが、市場を抜きにして物の値段の設計は不可能なものであり、権利も同様で立法上の設計ができるものではない。つまり、「いわゆる権利のようなもの」はないわけではないが実際の社会の中での関係性を抜きにしてはありえないという意味で実体として設計できるものではない。法律上の実体としての権利は政府が与える特権であり保証にすぎない。



そういった権利とは政府権力が与えるPrivilegeであり必然的に一国主義であるが、これを世界主義にしようとしているのがIPRに顕著な今の流れだ。アメリカですらパテントを先願主義に転換しようという動きがある。



IPRというのは情報に経済価値があるという大前提に立ったものだが、その経済価値は市場をおいては一切わからないものである。その分からない経済価値つまりは値段に対して一律の権利を与えるという仕組みだ。そして、これがそもそもの知的財産法の矛盾である。相手の行為を実質的に禁止する効力が大概のIPRにはあるから大発明も小発明も同様の絶対的な禁止権、排除権を持ってしまう。つまり値段や価値を無視した法外な効力を無差別に与えているわけだ。IPRとは実に社会主義的な平等な権利である。



#もちろん、知的財産の権利効力の幅には大小あるが、製品がパテントのジグソーパズルとして構成されている場合、小さなパテントも結果的に大きな排除能力を持つ。そしてそれを回避するためにパテントプールのようなものを編み出しているわけだが、これは公正取引委員会が大嫌いなカルテルに極めて近いものだ。



今のIPR法の仕組みは、どの国でも根本的にはインセンティブを付与する産業政策ということになっているが、このインセンティブとは具体的にはモチベーションのことではなくフリーライドを排除する効能という意味しかない。

だが、フリーライドを排除したりしなかったりするのであれば実体的な権利を与えなくとも可能である。それは私的自治の範疇で充分にできることだ。
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2006年03月20日

Michael Crichton on Patent absurdity

March 19, 2006

OpEd Contributor

This Essay Breaks the Law

By MICHAEL CRICHTON



[http://www.nytimes.com/2006/03/19/opinion/19crichton.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print]



"I wanted to end this essay by telling a story about how current rulings hurt us, but the patent for "ending an essay with an anecdote" is owned. So I thought to end with a quotation from a famous person, but that strategy is patented, too. I then decided to end abruptly, but "abrupt ending for dramatic effect" is also patented. Finally, I decided to pay the "end with summary" patent fee, since it was the least expensive."
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2006年03月13日

Intellectual Property

Intellectual Property:

The Late Nineteenth Century Libertarian Debate

By Wendy McElroy

[http://www.libertarian.co.uk/lapubs/libhe/libhe014.htm]



ウェンディ マッケロイのIPRに関する論説
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2006年02月24日

Liability rule and Privilege rule

特許のような知的財産権の効力とは独占排他使用権であるが、この排他独占権は、言葉通り、他人の排除を可能とする国家に保障された特権である。

そして、この特権は国家によって保証された期間限定の絶対的な権利であるが、厳密に言えば他人の行為そのものを規制する”命令的”な性格は本来ないと考えられる。



IPRは排他独占権であるが、それは”他人の行為を禁止する権利”ではなく、単に”他人を排除する権利”だとするのがおそらくその正確な理解だ。

つまり、他人の自由を制限したり他人の行為を禁止する権限ではなく、他人を排除する権利である。

このニュアンスの違いは大きい。



これは、仮に誰かになにがしかの独占排他権があったところで、別の誰かにはそれを無視して実施する自由、もしくは権利があるということを意味する。

だが、それを権利者が排除することが国家のアシストによってほぼ確実で、また単に排除されるだけでなく損害金やら差止権なりが行使されるわけだ。

これは商標などでも同じで、商標権を与える要件はいろいろあるが、要件を満たさないことは商標権が与えられないというだけで、その商標の使用が禁止されるわけではない。単に他の権利者によって排除されるだけだ。



ここで不法行為と権利=特権の意味の違いは本質的なものだ。

どういうことかといえば、不法行為(民法709条)=Tortsとは、被害者が自ら訴えるものであって、被害者が相手を訴えない限り一切問題にもされない。

さらに原告には立証責任がある。つまり”自分の権利の侵害”を訴えているのではない。

不法行為の仕組みでは、自分の損害という”結果”に対する賠償を求める。

これがLiablitityRuleであり、民法=私法の根幹となるルールであり、これはコモンローにおいても同様だ。

元々、日本でも不法行為で侵害される”権利”を「法律上の権利」とする考えもあったが、いろいろと判例の変遷があって、現在は権利侵害を”違法性”という概念で扱っている。



”違法性”概念の方がより包括的な保護であり、コモンロー的な発想からすれば必然的にそうなるに違いない。この”違法性”という概念には英語のjusticeという概念が混じっているだろう。

司法は行為の不公正さを問う純粋な判断をするわけで、ここにJusticeの概念がどうしても入ってくる。権利の侵害を問題とするのではなく、Justice、公正さを問題にするわけだ。



ほとんどの人間が誤解しているようにIPRのようなPositive rights=法律上の権利=特権がなくても、悪いやつがなんでもやり放題という世の中には決してならないのは、まず、この不法行為法の運用が考えられるからである。

例えば、アメリカでは懲罰的に損害額の3倍の賠償額(3倍賠償)の支払いが命じるルールがある。

これは、日本では酷い制度だとマスコミで喧伝されているが、Tortsの実効性を高めるためのルールとしては実にリーズナブルなものである。そのかわり、”原則自由”を規制する制定法の立法が抑えられる。



そもそも、純粋なコモンローの世界では、大陸法のような実体的な権利はなにもない世界であるから法律上の権利侵害などない。

そして「原則自由の世界」では、各人が正義の意識をもって行動することが社会原理となる。

「法律上の権利」=特権を政府が無数に作るのでなく、原則自由の世界で、個人の結果責任を問うことで自由を保障しつつ、個人には責任を課すわけだ。こういった社会では”違法性”という概念を各人がその内面で問うことになる。正義の観念が個人に内面化されることになる。

ルールを守るか否かという点は、表層的な問題にすぎず、重要なのは個人における正義の観念なのである。例えば、大陸法=Positivismになる前のヨーロッパの法も基本的にはそういうものであった。



中世においては、何が法であるかを知るためには、各個人が自分の法感情に問うことが許されたし、またそうせざるを得なかったのである。 − from フリッツケルン「中世の法と国制」




といっても、「原則自由な社会」であっても全てをTortルールでやるわけではない。商取引などで何か問題があれば、まずそこに契約があるか否かが問題となる。もし契約があればまず債務不履行の問題となり、契約がなければ不法行為が問われることになる。

そして、不法行為の立証は被害者の負担も大きく面倒であるから契約が重視されることになる。私的契約と不法行為法というのはある意味セットとなる法的仕組みだ。アメリカが契約社会といわれるのも、それが原因だろう。



この契約と不法行為法=Tortsルールを根本とするのが元来の「アメリカにおける自由」の法的側面と考えられる。ここでは、強行法規がなくても、つまり政府が与える実体上の権利=特権がなくても、個人の責任と自由を重視することが結局ベストなのだといった判断があると思われる。
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2006年02月07日

Trademark and Freetrade

一般にリバタリアニズムでは、IPRには断固反対なのであるがこれにはいろいろと深い理由がある。

しかしIPRといっても商標は微妙だ。TradeMarkに反対するリバタリアンというのは寡聞にして知らない。

そもそも商標はいわゆるIPRに分類するものかどうかも微妙である。

商標とは商標法ができる前から存在する民間の商慣習であり商標法はこれに実体的な権利を与えているだけである。

実体的で強力な”権利”ではあるが、特許のような政府によって与えられる”特権”とは違い、その本質は商慣習の中にあると思われる。実体的な権利を与えなくても商標を守ることは不可能ではないだろうが、商標の存在そのものは重要な商慣習であり、企業としてはこれを守る必要はどうしてもあるだろう。



また商標の機能に関してはアメリカと日本では大きくその捉え方が異なっている。

日本では商標の根本的な機能をその出所混同防止機能として捕らえており、アメリカでは品質保証機能が商標=TradeMarkの本質だと考える。

そして、この商標が持つ根本機能に対する把握の違いがアメリカと日本で判例の違い、運用の違いを生んでいる。



ではどのような運用の違いがあるかというと、並行輸入の問題において顕著である。

つまり商標にも消尽論の問題があるが、国際消尽を認めるか否かで、商標の絡む並行輸入品の完全阻止か無制限許可か、もしくはその中間の制限モデルかになる。

並行輸入の問題に関してEUは完全阻止の立場であり、日本は無制限に近く、アメリカはその中間の制限モデルである。

これは言い換えればEUは国際消尽を一切認めず、日本は国際消尽を認め、アメリカはもう少し柔軟な立場ということだ。

ここらの説明は、東大の玉井克哉氏の以下の論文に非常に詳しい。

[http://www.ip.rcast.utokyo.ac.jp/member/tamai/paper/D/D9.pdf]



これは自由貿易の問題とも絡む微妙かつ解釈の難しい問題なのである。

TradeMarkが元々、民間の商慣習だとすればその本質的機能を、出所混同防止機能ではなく、品質保証機能といった、よりポジティブな意味あいで把握するほうが妥当な気もする。

つまり、出所混同防止機能が主だとすれば、第三者が混同して損害をこうむらないよう政府が保護する”社会的な機能”であるが、品質保証機能というのは民間事業者自らが苦労して育てるべき積極的な価値となり、その意味の違いは大きい。



では、さらに少しばかり玉井さんの論文の内容を纏めてみよう。

ヨーロッパは、EU共同体の域内であれば、どの国であっても商標権利者が自発的に置いたものは消尽するとしているが、EU以外の国、例えばアメリカや日本などにおいた場合は消尽しないという立場で、これによって並行品の輸入を阻止している。これをEU共同体の経済要塞化と呼ぶ。



玉井さんが定義しているところのアメリカの制限モデルとは実質的には完全阻止モデルであり、どんな小さな差異であっても非同一とされ、非同一であれば品質保証機能を損なうこととなり、やはり並行輸入は認められない。



その点、日本の従来の国際消尽論是認による並行品輸入を認める無制限許可の立場は先進国においてマイナーなものだったが、2003年のフレッドペリー事件に対する最高裁判決で制限阻止モデルに転換しつつある。のが現状である。



さらに、玉井先生曰く、この問題を自由貿易の問題つまりは非関税障壁の問題として論じるのは間違っている。

商標の機能が品質保証機能である以上、商品が商標権者の品質コントロールから完全に離れ、コントロールのできない流通に乗ってしまった場合、商標の品質保証機能は大きく損なわれるからである。逆に商標を積極的な品質のコントロールからもたらされる顧客吸引力と信用=goodwillをもたらす積極的な機能と考えた場合、商標を保護することはプラスの循環になる。そして、これが近年の変化を遂げたアメリカの商標理論そのものでもある。



.....というのが大体の玉井教授の主張である。



あと、さらに加えれば、ヨーロッパではドイツ、オーストリア、スウェーデンなどがもともと世界消尽論の立場つまり並行輸入是認の考えであるが、1998年の欧州裁判所におけるシルエット判決によって、EUの共同体商標規則に対する各国の裁量は認めないという判決があった。つまりEUは経済要塞化した。



しかし、こういったためになる優れた論文は、昔はごく一部の人にしか読まれず埋もれてしまったのだろうが、今ではネットで簡単に誰でも読むことができるのがありがたい。



私はこの玉井先生の考えは実に示唆深いものだと思う。少なくとも先進国の企業の多くはこういう形のブランド理論に傾斜しており、それは法律的な要請でもあるという事実が分かる。



しかし商標権による並行輸入禁止の問題を非関税障壁だと捉えるべきでないというのはダウトであって、これは明らかに非関税障壁だ。EU域内では非関税障壁を減らし、アメリカには対抗して障壁を意図的に作っているのだからそれは障壁を作ろうという趣旨そのものだ。そして非関税=直接的な関税ではなくとも、貿易に制限を加えることは税金と等価なのである。



また常識的に言えば、一国の中ですら品質のコントロールを完全にするというのは不可能、もしくはコスト的に無理であったりする。製造ー流通段階から品質を完全にコントロールするというのは理想かもしれないが、それがほんとに可能でかつ意味のある努力であるのかは疑問だ。



こういうブランド理論は一部の目立つ大企業ブランドばかりイメージしているような気がする。

だが商標はどんな小さな会社でも持っているわけで、誰も知らないような部品の商標でも完全阻止モデルで守るとしたら、それは弱小の商標権者にとってかえって売り上げを減らすだけだろう。



いろいろ示唆深い論文ではあるが、やはり自由貿易の原則に立ち返った場合、この結論にはかなり疑問が多い。そのうちまた纏めてみよう。


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2006年01月26日

Against Intellectual Monopoly

[http://www.dklevine.com/general/intellectual/against.htm]



Economic and Game Theory

Against Intellectual Monopoly



by Michele Boldrin and David K. Levine



この本の全部がPDFとHTMLで公開されている。
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2005年11月26日

IPR in Japan

日本の法学界の知的財産関係の学会勢力は東大の中山信弘を頂点として、それに北大の田村善之が追随している形のようだ。

おそらく中山の跡の東大教授のポストは田村が継ぐことになっているのではないか。

私が比較的に評価している玉井克哉教授などは東大の先端技術センターのような傍系に

押しやられている格好だ。

しかし中山も田村もまさに主流派の体制志向で、本質的に創造性のないアホである。

創造性がないのは仕方がないが、そういう人間が知的財産という創造性にかかわるものを

実定法的に強化していくのは社会的に害毒であろう。



私の見たところ中山〜田村の経済理解は全くダメである。

こういう人間がインセンティブなどという言葉をわかったような顔をして

軽軽しく使うべきではない。






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2005年11月04日

Google Print Library Project

[http://print.google.com/]

GoogleのこのProjectは凄いものである。

例えば、これで"Hayek serfdom"とか入れて検索すれば、ハイエクの

"The road to serfdom"絡みの書籍がどどっと、2000冊くらい検索されて出てくる。

さらに、これらをクリックすると、PDFがページ単位で表示され殆ど全文を読むことができるのである。→全ての本がというわけではなく、プロテクトされている本もある。

こんなことを著作権問題をクリアしてよく出来るものだと思ったら、早速、著作権の

問題で噛み付かれているようだ。

しかし、このプロジェクトは実に有益である。
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2005年09月25日

International Standards

ISO,IECやBS、もしくはJISという国際規格,国家規格があるが、

現在は、こういった規格の持つ重要性が高まっている。

ある意味、一国の法律以上に重要である。

ISOは国連規格であり、JISやBSは国家規格であるが、大体

ISOが中心となって、各種規格とのコンパチを実現しようとしてる。

ここには、国連(ISO)→国(JIS、BS)→民間認証団体というヒエラルキーがある。



こういったデジュールスタンダードに逆らっているのが、アメリカのデファクトスタンダード戦略である。

規格をISOの国連主導で決められてしまうと、国連は大国であっても1票しか

認めないから、数の多いEUヨーロッパ諸国に主導権を握られてしまう。

そのため、アメリカはこういった国際規格の流れに対抗して、民間企業主導の

デファクトスタンダード戦略をとっているのだ。



デファクトスタンダードは、国際的に民間企業が集って作るものでコンソーシアム標準

の一種だが、これは独禁法すれすれというか、思いっきり抵触していると言ってよい動きである。

ここに矛盾してねじれたものがある。

アメリカでも反トラスト法はおそろしく強力な強行規定であるが、市場主義の中ではやはりトラストを認めることが国益だと認めているのではないだろうか?



これは、規格と法ルール、反トラストとトラスト、共有と独占、民間と国家といった対立概念が複雑にオーバーラップしている問題なのである。

大陸法的国家主義の極限として国連主義があるわけだが、これは当然、市場主義ではない。

国連主義に対し、アメリカの国益を対抗するには、市場主義しかないが、これは

トラストを認める自由市場主義、自由貿易主義と結びつく。

実際、ISO的な標準化よりも民間企業はアメリカのデファクトスタンダード戦略を好む。








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2005年09月24日

Global intellectual-property plan

The Bush administration on Wednesday announced new plans to expand its crackdown on intellectualproperty infringement overseas.



やはりよくない動きになりつつあるようだ。



[http://news.zdnet.co.uk/business/legal/0,39020651,39220179,00.htm]


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2005年08月10日

Harmonization to Positivism

アメリカの初代特許庁長官は、ジェファーソンであったがジェファーソンは

非常に特許制度