2008年07月01日

Problems for Social Problem

社会問題というのは一般に非問題だ。まずもって社会という概念が曖昧すぎる。
だが政治というのが存在する理由は、社会問題に対処するためということになっている。
公共問題、公共事業全てこれらは社会問題という非問題に対するものである。
近代において政治は、公共の領域を広げつつ、社会問題として扱う領域を同時に拡大してきた。
さらにメディアは社会問題を報道するのが仕事だと考えている。
これによって社会問題=公共問題がますます領域を拡大することになる。
このレトリックは政府に権力を集めるために用いられてきたわけだ。
この極めつけが、環境問題であり、これは社会問題どころか人類の課題となっているらしい。
しかし、実際、個々の問題というのは、個人的な問題であり、個人と個人の関係の問題だ。
それが社会問題として一般化?される境界は存在しない。
どこかの狂人による通り魔殺人は以前からあったが、今ではこういった事件をいかようにも社会問題とすることができる。

法律も私法=民法がほぼその全てであった時代は、よかった。

貧困の問題もしょせんは個人の問題だ。Aさんが貧乏なのはAさんの問題にすぎないが、社会政策として政府が税金を使って是正しなければならない社会的な課題となる。

これを世界的にみて、A国が貧乏なのは、世界の社会問題とされる。
社会問題=公共問題を解決すべきものとして、もろもろの公法が際限なく立法さ れるようになっていったのは20世紀の半ばあたりからだろう。
この流れを止めることができなければ、1984の世界は現実となるに違いない。
 
ハイエクは、"Private law persists,Public law passes."と言ったが、現代はむしろ逆である。
"Public law persists,Private law passes." が現実に近い。

posted by libertarian at 23:34| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月19日

Incentive of crime

バーネットの本(自由の構造)について、蔵さんの掲示板で少し話をした。
私が言ったのは、バーネットのいうところの完全賠償が、一切の懲罰賠償を含めないものだとすれば、それは、犯罪者の遣り得に必ずなるだろうということだ。

そもそもなぜ、人が金やモノを盗むのかといえばそれは捕まる確率が100%ではないからだ。
もし、捕まる確率が100%で、かつ懲罰金があれば、泥棒というのは割りにあわない行為となるので、盗みに対するインセンティブがなくなる。
#さらに言えば、捕まるまでの時間も問題になるだろうが。

捕まる確率が犯罪行為のリスクだが、窃盗犯罪でのそれが仮りに10%だとして(もっと高いかもしれないが)、100万円の泥棒をする価値は1000万円になる。
#窃盗犯罪行為に対する賠償請求が実損害(+α)程度しかないのであればそうなる。

これはパチンコや宝くじを買うよりもはるかに割がよいリスク行為だ。
当然ながら、この捕まる確率というのは、犯罪者の主観的な期待確率だから、実際はもっと小さいだろう。
この犯罪価値と賠償額の比較において、犯罪価値が高ければ博打と同様のインセンティブが発生する。
#賭博を犯罪とする国もあるが、たしかに賭博と犯罪には近い心理構造、インセンティブ構造があるかもしれない。それは自分に好都合な期待確率と、スリルである。
もっといえば、これはリスク行為全般にある性格なのかもしれない。

それに窃盗行為そのものは、短時間の行為であろうから非常に割のいいスリルを味わえることになるわけだ。
実際は、民事請求となる損害賠償を犯罪者自身はほとんどすることもないし、禁固になったとしても冷暖房完備の刑務所で楽な労働をするだけで、かなりよい只飯も食えるとなれば、さらに犯罪へのインセンティブは高まる。
この犯罪行為への経済的なインセンティブの高さは日本の服役者の再犯率が4割以上という数字が証明している。
これを経済的にナンセンスな行為にすることが犯罪阻止の基本となる。

私は、犯罪に対しては、時間選好制などといったスノッブな経済学用語を使うことは全くトンチンカンなものだと思う。そうではなく、ほとんどの犯罪は単にインセンティブの問題として扱うべきだ。
検挙率が問題なのも、犯罪者の検挙率が下がれば、これは捕まるリスクを下げることで犯罪行為に対するインセンティブを高めることになるからである。
こういったインセンティブの構造は、殺人などの重大犯罪であっても全く同じことなのだ。
未成年者犯罪であってもこのインセンティブ構造は全く同じだ。

また日本の不法行為法は懲罰賠償を認めないために、ほとんど意味、効果のない法律となっている。そして、その分、刑罰の重罰化を進めているというのが事実だろう。だが、これが本末転倒なのは言うまでもない。

基本的に、窃盗などの犯罪は、金銭賠償で償わせるだけで良いが、多くの犯罪者は勤労能力にかけているだろうから、その場合に、民間刑務所に服役させ強制労働をさせることで、懲罰的賠償額分の労働をすることで償わせるという仕組が考えられる。当然、犯罪者に正当な所持金があれば懲罰賠償額だけを払って、服役しなければ良いということになる。

こういった損害賠償モデルを一般犯罪に適用するためには、刑務所自体がビジネスとして成立していなければならない。
日本の場合は、法務省の役人が刑務所を運営している限り、刑務所がビジネス上の採算性を獲得するということは今後もあり得ない。だが、採算化が仮りに民営化によって可能であれば犯罪者の償いの在り方というのは根底から変わることになる。続きを読む
posted by libertarian at 00:39| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月24日

Selection of capital punishment

>もし、住居を移らなくても、住民が複数の法体系から自分が服する法をあらかじめ選ぶことが可能だとしたら、その人の信条によって死刑制度のある法とない法にばらけるだろうが、私は死刑制度のある法を選ぶだろう。

このとき、被害者の選択した法だけが適用される。被害者が運悪く?死刑制度のある法を支持している場合、犯罪者は自分の選択とは関係なく死刑になる可能性がある。
こうした場合、リスクマネジメントとしては、普通の善良な人なら死刑制度を支持しておいた方が合理的な選択になるだろう。

宗教的な理由など死刑制度を許さないという信条も尊重すべきであるから、そのような法律も選択できるとよいわけだが、そういう人はむしろ少数派ではないだろうか。

年間、刑事犯罪は300万件以上あり、そのうち殺人事件は1400件程度である。単純には0.05%弱だ。そのうちでも特に凶悪なマスコミを騒がす事件となるとぐっと減少するはずだ。
http://www.moj.go.jp/HOUSO/2006/table.html#07
posted by libertarian at 01:28| 東京 ?J| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Crime and Compensation

私は刑事法ー刑事訴訟法は全く疎いのであるが、蔵研也さんの力作「無政府資本主義とはどのような社会か」を拝見して、いろいろと思うことがあった。
http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/anarchic%20society.htm

いつものことであるが、現行の著作権制度を恐れず(笑)、このテキストの4章「現代国家と裁判制度」から抜粋したい。

===
犯罪とは基本的に「社会秩序」に対する罪であって、個人に対するものという意味は薄れているといえるのである。

被害者の立場は国家によって行われる刑事裁判に対して後回しにされている。そしてこの事実は、多くの被害者のもつ刑事裁判制度への不満を生み出しているのである。

 では次に、やや原理的な問題に立ち返りたい。そもそもなぜ犯罪者を罰する必要があるのだろうか?

 第一の考えは、もっとも古くから存在したもので、「古典的応報刑論」と呼ばれる。それは「倫理的に悪いことをしたのだから、その報いとして苦痛としての罰を受けるべきなのだ」というもものである。西洋ではカントなどが主張したことで有名である。これは道徳的な直感を頼りにした議論だが、現在は野蛮である、原始的、感情的であるなどとして声高に主張されることは少なくなってきている。

さて、第二の考えは、「予防刑論」と呼ぶべきものである。これにはさらに細分化して、二種類の考えがある。

 まず、犯罪を犯した特定の個人が再び犯罪行為を引き起こさないように、社会から隔離する必要があるという、「個別予防論」である。あるいは、再び犯罪を犯さないような人格へと「再教育」を行うために「罰」が与えられるのだと考える要素もある。この場合、罰というよりは教育というべきであろう。このような教育刑論は20世紀に入って高まったものである。その考えによると、犯罪者とは何らかの理由で人格の形成上、適切な社会化がなされなかったために犯罪を起こした人たちであり、矯正教育によって、一般的な生活を送ることが可能になるのだという。

 フリードマンのように一般予防を重視する思考は、刑法の啓蒙思想家であったベッカリーアから始まる。18世紀、ミラノのベッカリーアは『犯罪と刑罰』において当時の恣意的な拷問や死刑の安易な適用に代えて、刑罰はその犯罪に見合った適切な量刑であるべきことを説いた。また教育刑や社会政策においてもベンサムなどに影響を与える主導的な思想家だったのである。

 つまり、応報刑論と予防刑論の二つの理念からみた望ましい量刑は異なってしまうが、それはやむをえないのである。また現代社会では、刑罰の執行主体が被害者ではなく、国家であるため、状況はさらに錯綜したものになっているといえるだろう。では、現在のように国家が刑罰を押し付ける状態が解消した場合には、無政府社会ではどのような刑罰が課されるようになっていくのだろうか。

 日本の刑法典では、まず内乱や外患誘致などの国家に対する罪が規定され、その後、社会不安を生じるような騒乱や放火、電車転覆などが規定されている。最後に、純粋に個人的な法益への犯罪としての、殺人や傷害、強盗やレイプなどが規定されている。いかにも、国家主義的な時代の遺物というべき状況にあるのである。国家への罪などそもそも存在せず、社会への罪は個別的な殺人や傷害の可能性に還元されるべきである。私的な刑事手続においては、社会的な罪はすべて、それに応じて潜在的な被害者が感じる恐怖を積分することによって量刑されることになるだろう。

 われわれの生きる現代社会では、犯罪とされる行為に関しては、国家が第一義的にその懲罰責任を負い、刑事裁判制度が活用される。そして、それ以外の私的な紛争の場合には、民事裁判制度を利用することになっている。あるいは利用することが、法規範上は一応、予定されているのである。
 しかし、このような二分法は、そもそも警察活動がもっぱら国家によってなされることとに起因している。現代人はこのような制度にあまりにも慣れきっていて、それ以外の制度がありえるとはほとんど想像することもできないのだ。しかし、無政府主義者が主張するように、たしかに代替案は存在する。

 それは、刑事法を民事法と一体化する、民刑一体の法制度である。簡単にいえば、刑事制度を民事制度に還元してしまう制度だといっていいだろう。そして、無政府の社会には警察活動を独占する国家は存在しないため、民刑一致の法制度はまた、無政府社会では必然とならざるを得ないのである。

 同じように、ベンソンはその著『法の企て(The Enterprise of Law)』の第2章において、ノルマン人の征服以前のアングロ・サクソンの刑事制度が、賠償を中心とする民事制度であったことを、イギリス法制史研究を引用しつつ報告している。その後、ノルマン王朝は「王の平和king's peace」を乱すという名目の下に、徐々に一般刑事事件にその干渉範囲を広げていった。王の主だった刑事事件への関心は、その資金調達にあったという。このように王権が伸張した結果、犯罪者は財産を没収されるが、その財産は被害者には渡らなくなる。歴史的な時間のなかで、人びとは王が犯罪者の財産の没収と罰金を独占する態度に反発し、刑事裁判にむしろ非協力的な態度へと変化していった。

 考えれば、それは無理もないことだろう。現行の英米法における刑事訴訟制度でも、被害者は単なる証人の地位を得ているに過ぎず、その証言活動の主要なモーティベーションは犯人の処罰であって、賠償を受けることではない。皮肉なことに、犯人が有罪判決を受けて刑務所に収監されると、犯罪被害の賠償はますます困難になるのである。

===

以上、長々と引用させてもらったが、蔵氏の博学さと、オツムがよく整理されていることは、毎度感心する。こういう学術的なテイストを前面に打ち出した本を出せば、売れるに違いない。

ところで、事故と犯罪ではその被害=結果が同じようなものでも、受け止め方が全く異なる。
そこにある最大の違いは、やはり相手に対する憎しみという点だろう。
熊や鮫に襲われて重傷を負うのと、異常犯罪者にやられるのとでは意味が違う。

現代国家では、被害者の相手に対する憎しみを補償せず、国家がいわば代理として、その”罪”のみを裁くという構成をとっている。(罪を憎んで人を憎まず。)
つまり、”憎しみの補償”を被害者自身には一切関与させない。言い替えれば被害者は刑事犯罪事件に対する債権者にはなれないわけだ。そこにたしかに違和感がある。
また犯罪といっても、一つ一つが事情の異なるものである。それによって、結果が同じようなものであったとしても、その憎しみの程度は大きく異なる。
通常、こういった議論をすると、マスコミで騒がれる残虐事件をイメージしてしまうが、刑事犯罪の幅は広く、一律には論じることができない。

民事訴訟で行う賠償請求では、凶悪犯罪者に対する被害者の憎しみの補償にはならないのが現実だろう。
犯罪者に対する憎しみと、被害からうける悲しみには相関があるはずだが、人間は通常、憎しみの感情を昂ぶらせることでよって、悲しみを打ち消そうとするのだろう。
しかし国家であれ、第三者であれ、被害者の代理として、被害者の憎しみの補償をある程度させることはできなくはないが、”憎しみの補償”をしても、”悲しみの補償”には完全にはならないという本質的なジレンマがある。

だが、マスコミで騒がれるような異常な犯罪者による自分や身内がうける重大犯罪というのは、いわゆる刑事犯罪のごくごく小さい割合しかないことに注意すべきだと思う。
これは、いつの時代でも、またどの国でもそうだったに違いない。
そういった社会を恐怖に陥れるような凶悪犯罪は、その他圧倒的多数の刑事犯罪と比較すれば、極めて稀なのである。私は、そういった稀なグロテスクな凶悪犯罪に対しては、容赦なく、また成人か否かを問わず、極刑をもって処すのが当然だと思う。
もし、住居を移らなくても、住民が複数の法体系から自分が服する法をあらかじめ選ぶことが可能だとしたら、その人の信条によって死刑制度のある法とない法にばらけるだろうが、私は死刑制度のある法を選ぶだろう。

つまり圧倒的多数の”普通の刑事犯罪”は、損害賠償問題に還元されうるだろうが、一律には扱えない一線がある。
適正な量刑を問題にすることは、職務発明問題の”相当の対価”と同じような、解けそうで解けない問題だと思う。つまり一般解は存在しない。
適正な量刑は、適正な抑止、適正な加害者の人権保証と対応した考えだが、リスクマネジメント的な考えでは、適正な抑止をするには、過大な防御をしなければならない。
適正な加害者の人権保証というのは、幾分誤解を招くミスリーディングな表現かもしれない。
問題は、加害者とされる者が冤罪をうけるリスクである。冤罪によって極刑にならない保護装置を設けることが、社会一般の人間に対する社会的保証として重要なわけだ。

この過大な防御と保護装置というのが、相反する課題となるわけだが、99%の”通常犯罪”であれば、それほど深刻なジレンマにはならないだろう。
そして、問題は通常犯罪の一部である経済犯罪だ。これについては、また今度まとめてみたい。以上考えが全くまとまっていないが、思ったところを書いてみた。
posted by libertarian at 00:28| 東京 ?J| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月19日

Additional Judicial Review

司法は腐り人権滅ぶ 井上薫 講談社現代新書

井上元判事の最新刊を買った。
この中で違憲立法審査制度についての記述があるのだが、まとめておこう。
違憲立法審査制度は、なかなかに私も良く分からない部分であったが、この本の解説を読んでよく理解できた。
まず、違憲立法審査権の憲法上の根拠条文は憲法の第6章(司法)の第81条である。

憲法 第八十一条  最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

この解釈だが、その前に、違憲立法審査制度には、ドイツのような憲法裁判所を置き、立法審査を当たる場合がある。ここにおける”抽象的裁判”で違憲とされた法律はすぐに失効する。
これは司法による消極的立法と呼べる。
しかし、日本には、このような憲法裁判所制度は当然ながらない。
日本の違憲立法審査81条が、憲法上、どのような位置づけにあるかが法解釈上の前提条件になるが、81条は日本の憲法6章(司法)におかれていることから、”司法についての規程”であり、法律にもとづいて裁判所が具体的事件を裁判する場合の規定である。

このため、違憲立法審査権とは、「具体的事件を裁判する上で必要な範囲で行使することができる」と理解しなければならないことになる。「81条の条文の位置が、違憲立法審査を抽象的裁判と理解させる可能性を奪っている」とする。
これにより、違憲に関する”一般論的判決”を裁判所が出すことをできないことを意味し、それをした場合、司法の越権行為であり違法行為となる。
そして「このように、違憲立法審査権を具体的事件を裁判する上で必要な範囲でのみ行使する制度を付随的違憲立法審査制度と呼ぶ。」
#なお、81条の解釈として付随的違憲立法審査権は最高裁にのみあるのではなく下級審にもあることを暗黙のうちに認めている。

そして、井上氏は、1968年の尊属殺人事件で、刑法200条の尊属殺人に対し一般的違憲判決を下した最高裁の大法廷判決は、明らかに違法行為だとする。

具体的には、ここで一般的違憲判断を下したことが間違いであった。親を殺したから即、尊属殺人を適用しようとしたことには無理があり、この事件で「被告人が父を殺した行為に尊属殺人罪を適用することは平等原則に違反するという判断こそ、裁判所の権限からしてあるべき憲法判断でした。」と結論する。こうすれば、尊属殺人そのものに対する一般的違憲判断をしないで済むことになる。

「この憲法裁判所のまねをした本件裁判所の所業を私は”憲法裁判所ごっこ”と呼んでいます。」

#ちなみに、この刑法200条(尊属殺人)は、平成7年の刑法の口語体化にともない、”ついで”に削除された。
posted by libertarian at 14:48| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月17日

Totaltarianism by CSR

株主,経営者,従業員と、この3つの法的立場の異なる存在が企業内にはある。
株主はその会社の所有者であり、経営者は株主から委任された存在である。
従業員は、経営者との間で雇用契約を結んでいるだけの労働者である。

従来、日本の会社では株主ー経営者の委任関係が曖昧にされつつ、従業員が出世して取締役や社長になるという出世コースがどの会社でも当然のようにあったから、経営者と従業員の距離は連続的な近いものと感じられてきたが、法的な立場で言えば、大きな隔たりがある。

株主から委託された会社の執行権限者としての経営者は、株主利益のために代理人として動いているという点で従業員よりも経営者に近い存在といえる。
アメリカ型と日本型の経営がしばしば対比されるが、この点は会社法上でアメリカ型も日本型も変わりがない。

意外と解釈が難しいのは、従業者間の関係だ。従業者間では当然に多くの仕事を頼んだり頼まれたりして業務を行っていくわけだが、この間にはどのような契約があるのかというと、明示的な契約は何もない。当然、頼まれた仕事をちゃんとやらなければ評価に響くわけだが、ここに債権ー債務関係があるようには見えない。
いわばこの間の契約はimplicitな契約であり、雇用契約から派生した自明のものと考えられているわけだ。

経営者と従業員の間で労働契約という血の契りを結ぶと、あたかもファミリーの一員のようにして動くわけだが、そこで必要なのが、経営者と従業員との間の連続的な関係性である。
現実は、経営者と従業員は異質な法的存在だが、それを隠蔽するのが、従来の日本の出世(昇進)システムだったといえる。社員といえば法的には株主を指すが、従業員のことを社員と呼ぶ慣習も法的事実関係を隠蔽する言葉のマジックといえる。

だが、株式会社の所有権が株主にあるという法的な明白な事実すらも隠蔽しようとする今の風潮は尋常ではない。
現在、コンプライアンスだCSRだと世の風潮の尻馬にのって騒いでいる連中こそが法的に最も危険な存在といえる。

なぜなら、これらの問題は本来、裁判所で解決すべき問題だからだ。コンプライアンスだなんだという話を聞くと、なんでこんな事件が裁判にならないのかという泣き寝入りの実態が多いことがわかるが、普通の日本人は弁護士も含めてそれを奇異なこととも思わない。
日本の裁判システムがほぼ全く機能していないことを前提として、コンプライアンスやCSRという名目の全体管理強化により問題の事前予防を計ろうとしているわけだが、このことが逆に法の大原則である、契約自由の原則も、個人の自由の保証をも破壊することになり、日本的社会民主主義つまり全体主義の強化を推し進める最悪の結果に帰着するわけだ。

posted by libertarian at 06:22| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月24日

Gray zone interest on money

井上元判事が、利息制限法一部空文化判決に対して批判をしている。これを読むと井上判事はバランスのとれた、ものの見えた人物だとあらためて分かる。

まずグレーゾーン金利について簡単にまとめておこう。
意外と知られていないのは、出資法と利息制限法といった似たような法律がなぜ二つあるのかだ。本質的な違いは出資法は貸金業者を対象とした産業政策法に属する公法であり、利息制限法は私法に分類され一般人にも適用されるという点だ。

出資法の上限金利が29.2%と固定で、利息制限法は、貸出額に応じて3段階あり、10万円未満が年20%、10〜100万円が18%、100万円以上が15%となっている。
この間の金利がグレーゾーン金利と言われている。
公法である出資法は、違反すると刑事罰が課される。そのため、闇金でない通常の貸し金業者は、出資法の枠内つまり29,2%以下で合法的に営業する。一方の利息制限法は私法であり、刑事罰はない。

実のところ問題は、この利息制限法の方だ。利息制限法がある以上、グレーゾーン金利であっても、違法ではないかと考えるのが普通だろうが、利息制限法1条の全文をちゃんと読まないといけない。
この1条の解釈で、井上元判事が指摘する利息制限法の最高裁による一部空文化判決の問題が登場するのである。

まず利息制限法の条文だが、第1条が次の通り。

(利息の最高限)
第一条  金銭を目的とする消費貸借上の利息の契約は、その利息が左の利率により計算した金額をこえるときは、その超過部分につき無効とする。
   元本が十万円未満の場合          年二割
元本が十万円以上百万円未満の場合     年一割八分
元本が百万円以上の場合          年一割五分

2  債務者は、前項の超過部分を任意に支払つたときは、同項の規定にかかわらず、その返還を請求することができない。


1条1項で上限金利の制限を行い、その超過部分につき無効とする規定をおきながら、2項では、「債務者は、前項の超過部分を任意に支払つたときは、同項の規定にかかわらず、その返還を請求することができない。」としている。この”任意”で支払った場合はというのが、極めて重要な要件になる。
この2項で契約自由の原則を担保しており、任意の支払いであれば、1項の上限金利を上回っていても違法ではないとしているのである。この2項の存在が重大なのだ。

しかし昭和43年の最高裁判決で、この利息制限法の2項を空文化する判決を出した。つまり、2項で規定する任意で支払済みの超過分も、貸した方が返還せよとする判決を出したのだ。
これによって司法府は立法府が作った法律を勝手に空文化したことになる。これは、明らかに3権分立をおかした越権であり司法府が違法を行っているのだと井上元判事は分析する。

その後、この1条2項の空文化判決によってグレーゾーン金利というより利息制限法を上回る金利領域(つまり上限なし)はますます法律解釈的にもグレーなゾーンとなった。利息制限法1条2項によって違法性を否定されてる行為が場合によると違法かもしれないという状況になった。
いわゆる大手銀行であれば、この利息制限法の枠でしか営業をしないし、つまるところは個人のリテール相手にはあまり貸さない。

一方の貸金業であるサラ金業界では、通常このグレーゾーン金利の出資法の上限金利内で商売をし、ほとんど担保もない個人相手に営業をおこなってきた。
だが、貸金業界は、この最高裁の1条2項の空文化判決により法的には極めて危ない橋をわたってきた。
こういった状況から、昨年からのサラ金規制法に至ったわけだ。
この法の効果は劇的であった。だが、サラ金が消えたことよりももっと恐ろしい結末がそのうち明らかになることだろう。
金融社会主義とは、そのまま露骨な社会主義統制経済以外のなにものでもない。
つまり、これによる結末として社会から自由そのものが消える可能性が高い。
posted by libertarian at 07:28| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月21日

Judge's overspeaking

司法のしゃべりすぎ 井上薫 著

この本の著者である井上判事は、こういった司法批判の本を書きすぎて、最近、裁判官を首になった。つまり裁判官のしゃべりすぎというか、ほんとのことを公に正直に書きすぎて、官僚体制から当然のごとくに排斥された人だ。
なんとも裁判官とは思えないほどに正直な人物なのである。やはりというべきか、井上判事は、もともと理系の人で東大の理学部を出ている。
#東大の法学部を出たような人間では、まずこういったことはしないだろう。

理系の訓練を積んだ人間からすれば、日本の司法官僚制度のナンセンスさが耐えがたいものだったに違いない。
官僚による正直な内部批判としては、「お役所の掟」シリーズを書いた宮本さんというのもいたが、それと少し似ている。
彼らは、官僚の立場で、正直かつ軽妙な内部批判をしたわけだが、それによって自分が当然に排斥されるということに思い至らなかったのだろうか。井上(元)判事は、法理論を述べているから自分の批判は中立だと思っていたのだろうか?
それとも、首になることを覚悟した告発だったのだろうか。おそらく前者だろう。だが、こういうまぬけ?な正直さは非常に貴重だ。

判事のしゃべりすぎは、プライベートの範囲では本来歓迎すべきものだ。あのポズナーも、自分のBlogで自由闊達に自らの意見を開陳している。そこに政治的な判断で発言を控えたりといった配慮はほとんどしていないと思われる。
だが、日本の司法官僚制度ではそういうわけにはいかないということだ。井上判事の批判は権威を重んじる司法権力への挑戦とでも受け止められたのであろう。

しかし司法の権威ということでは、アメリカの判事の方が日本の判事=司法官僚よりも圧倒的に高い。
それは、アメリカの司法制度の方が、日本の司法制度よりもはるかに社会的な有用性の高いことが社会的に認知されているという証拠でもある。

井上判事の主張はとどのつまり、実定法の解釈者でしかない判事は、実定法どおりの規則に則った行動しかしてはならないということだ。判決の理由欄に判決と関係のない見解を開陳することは温情的なようでいて実は弊害のほうが大きいということを言っているだけだ。

井上判事は、このような軽妙な本を書くくらいだから、自分も書こうと思えばいくらでも判決理由に蛇足を書くことはできたろう。だが、理系的な実直さから、それが偽善であり間違いだと確信していたわけだ。司法権力が不用意にまたは政治的に書きくわえる判決理由の中の蛇足は拡大解釈され、司法に対して過剰な政治権力までも与える危険性があるのは井上判事が指摘する通り事実だろう。

これがコモンロー的な世界であれば違う。コモンロー判事であれば、自分の法理となる正義を開陳することは自由であり、また推奨もされるだろう。アメリカの判決文ではそれゆえに格調高い名文の判決文が多くある。
だが、大陸法のPositivismは、そのようなルールはもとよりないのであって、判事といえでも司法官僚の行動には制限が規定され大きな限界がある。それはPositivismの限界であり、そこに判事自身が大きな窮屈さを感じているから、慣行的に日本の判事は蛇足を書きつづけてきたのに違いない。

”良心的”な判事は、パターナルな”配慮”から、被告を諭すようなこともいうわけだが、これも圧倒的に非力な個人と、巨大な権力とを同じ立場にたたせ、正義の秤にかけるという裁判の趣旨からすれば間違っている。例えば、ホリエモンの事件でも子供を諭すようなことを判事が言っていたようだが(判決理由の中ではないかもしれないが)、有罪が確定したわけでもない被告に対して国家権力を象徴する判事が言うべきことではない。

日本の司法は、司法官僚の裁量によって時に温情的なようでいて、実は、正義とは別な論理にすぎない実定法という冷酷なルールのみに従っているという事実を蛇足を加えることで誤魔化し、隠蔽しているわけだ。
井上元判事の主張はいわば極端な実定法主義であるが、実定法に極端と中庸の違いはなく、実定法主義をとる限り条文の解釈に終始する”極端”なものとなるだろう。つまり実定法主義=Legal Positivismに従うかぎり、井上元判事の主張が正しい。この司法に対する制約は憲法の命じるところであるから、それを無視し否定した司法の行動は日本の司法システムそのものの自己否定に等しい。

そもそも司法官僚と行政官僚はともに公務員官僚であり、その彼らの身分が彼らの思考と行動様式を規定、限定しているのだ。
posted by libertarian at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月08日

Japanese Court system

司法改革として法科大学院を作り司法試験の合格者を5倍くらいに増やそうとしているが、肝心の裁判官の人数はほとんど増やさないようだ。
これでは、司法はスタックするのは確実だろう。

もし、弁護士を5倍に増やすのであれば、同様に裁判官も5倍に増やすべきである。いや、裁判官の方は2-3倍も増やせば今よりも4-5倍以上の事件処理能力をもつはずだ。
日本の過小な裁判利用率をせめてヨーロッパ並に引き上げるためには法曹を全体的に増員する必要がある。

しかし、日本の司法制度は民事でもほとんど利用されずにきており、刑事裁判では起訴されたら100%有罪という現状では、そもそも司法制度なんていらないということなのだ。
機能してなくても社会はなんとかやってきたのであるから、司法制度自体が大して必要のないものだということの証明だ。

これは中国のような共産主義の独裁国家で裁判制度が大した意味のない制度であるのと全く同じことだろう。

アメリカで陪審員制度という古式ゆかしい制度がかたくなに守られているが、これは陪審員制度が自分達を守る上で大きな価値のあるものだという認識が強いからだろう。
アメリカの裁判官でさえ、(自分が当事者となる)裁判になれば陪審制度でやってもらいたい人がほとんどだというアンケート結果がある。
つまり少なくともアメリカでは裁判制度は個人の財産を守るために重大な意味があると認識されているということだ。
司法とは単なる利害の調整装置ではないのだ。

だが、日本の司法は何を守っている制度なのかすら、明確ではない。
司法官僚制度のなかで、司法官僚は行政官僚と同じ論理で行動する。
特にライブドア事件などをみるにつけ、司法制度はないよりはマシなものだとすら思えない。個人の権利ではなく国家利益なるものを優先する司法などあってはならない。
そこにあるのは、60年以上前の戦中の体制と同じ国家主義、国家社会主義だ。

司法においても、Justice=正義の原理は、集団の論理の中にではなく、個人の中に見出さなければならない。
こういったキリスト教的ともいえる正義観がなければ、司法そのものが単なる国家権力の行使装置となり、自由を守るどころか個人への抑圧装置にすぎなくなる。
posted by libertarian at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月21日

Criminal Code

昨今、知的財産法や不正競争防止法などで、大幅な刑罰の強化が進んでいるが、これは、全く効果がないだけでなく極めて危険なことだ。
この刑罰強化に意味がないという点は池田さんの指摘する通りだ。
ポパーは、次のようなことを書いているが、今は、経済法の分野を端緒として、刑罰理論の逆行が進んでいる。ほとんどの法律屋は分かっていないが、経済法を限定的に捉えるのは間違いであり、これは結局個人への脅威に帰着する。法人税率アップが個人への増税に帰着するのと同じである。


われわれの手で改善された二つの事柄について手短に触れてみよう。
最も重要な点は、私の子供時分や青年の頃にはまだみられた大衆の恐ろしいまでの貧困が今は消滅したことである。

第2は刑法の改革である。
最初、刑罰の軽減は犯罪の減少につながるだろうと期待した。しかし、事態がそうはならなかったとき、われわれはそれにもかかわらず、むしろ悪事を被ろうとする道を選んだ。批判者たちは、われわれの社会が腐敗していると非難する。おそらく彼らは、他方の選択肢が意味するところを理解していないのである。われわれが選んだ法秩序は凶悪な犯罪者にも、疑わしいだけでは罰せられない完全な法的保護を保障する。そして、われわれはこの法秩序を無実の者に対しての法の保護が与えられず、無実であることに何ら疑いのない場合でさえ処罰されてしまうような法秩序に対して選び取ったのである。
しかし、われわれは、おそらくこの法秩序を選ぶ際に、さらに他の価値も選んでしまったらしい。
われわれは全く無意識のうちに、ソクラテスのかの素晴らしい格言を適用したのであろう。すなわち、「不正をなすより、不正を被るほうがよい。」

カール ポパー よりよき世界をもとめて から抜粋


2007年03月21日
posted by libertarian at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月11日

憲法で読むアメリカ史

阿川尚之「憲法で読むアメリカ史」PHP新書を読んだ。
この本は非常に素晴らしい。吉野作造賞を受賞したらしいが名著と呼べる本だ。
私がここ数年で読んだ日本人の書いた本の中ではベスト1だ。
(日本人の書いた本はあまり多くは読まないのだが。)

特に、アメリカの法に興味関心がある人には必読の本だろう。
アメリカの歴史を単に出来事から表面的に眺めても退屈だが、その深層にある
法、憲法をめぐる歴史と捉えると、極めて知的なドラマとなる。

日本では、アメリカ法に関する一般的な良書がいままでなかった。
そのため、ごく一部の専門家を除いて、アメリカ法に対する理解は全くなかったのが実情だろう。
この本はアメリカ法を学ぶときに最初に読むべき最良の入門書だろう。
これを読んでから、ポールジョンソンの「アメリカ人の歴史」を読めば、また違った面白さが味わえる。

訴訟大国うんぬんといった程度のイメージでアメリカを理解するのは無理であって、
連邦憲法の意味を理解することから入らないとアメリカという"法の大国"の素性は全くわからない。

そして連邦憲法を問題にすると、必然的に合衆国最高裁の歴史ドラマとなる。
まさにConstitution of liberty というべきアメリカの連邦憲法は、制限憲法であり、
連邦議会の立法権力を限定列挙で制限(enumerate)し、連邦と州の関係を定めている。

レーンキスト コートのNew Federalismによって現在のPost-NewDeal-constitutionは、元の憲法と連邦最高裁に
ある程度は回帰したが、一旦、巨大化してしまった連邦政府はどうにもならないのが現実だ。
しかし今後もアメリカの政治状況はその憲法解釈と表裏一体で進むのである。



2007年02月11日
posted by libertarian at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月22日

Marbury v.Madison case

マーシャル判事(Chief Justice Marshall)が、このマーベリv.マディスン事件(1803)で、司法再審理の原則を確立した。以下に有名な部分を抜粋し訳も載せておく。



[http://www.lectlaw.com/files/case14.htm]

The powers of the legislature are defined and limited; and that those limits may not be mistaken or forgotten, the constitution is written.



立法者の権力は定義され制限されている。そしてこれらの制限は誤解されたり忘れ去られてはならない。

そのために憲法は書かれているのである。





To what purpose are powers limited, and to what purpose is that limitation committed to writing; if these limits may, at any time, be passed by those intended to be restrained?



もし、これらの制限が、当の制限が課せられるように意図された者達により、いつでも回避されるとするのなら、 なんのために権力は制限されるのか、また何の目的があってその制限は成文化されているのであろうか?



The distinction between a government with limited and unlimited powers is abolished, if those limits do not confine the persons on whom they are imposed, and if acts prohibited and acts allowed are of equal obligation.



制限された政府と無制限の権力をもつ政府の違いは失われることになる。もし、その制限が課せられる者たちを制限しないのであれば。そして禁止された立法と許可されている立法が同じ義務なのであれば。





”It is emphatically the province and duty of the judicial department to say what the law is. Those who apply the rule to particular cases, must of necessity expound and interpret that rule. If two laws conflict with each other, the courts must decide on the operation of each. ”



法とは何かを述べることが司法府のまさに専門とするところであり義務である。

法律を特定の事例に適用する人々は、その規則を説明し解釈する必要がある。もし、2つの法律が互いに矛盾するとすれば、裁判所はおのおのの運用について判断を下さなければならない。



==================================



アメリカの最高裁による司法再審理制は、連邦憲法に書かれているわけではないが、このマーシャル判決から法理として固まってきた。しかし、これは当時の流れの中では、当然のことだったようだ。



ハイエクは、次のように書いている。

「いずれにしても重要なことは、司法再審理が憲法の必然かつ自明の部分であったこと、またその採択後の初期の討論において、彼らの考え方を弁護する必要が生じたときは、かれらが充分に明らかな陳述をしたこと、それからまた最高裁判所の決定により、それがまもなく国の法律となったことであった。」

「司法再審理はアメリカの発明であるというより、憲法それ自体と同じく旧く、またそれなしでは立憲主義は決して達成されなかったであろう。」






posted by libertarian at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月11日

Common law and Civil law

コモンローと大陸法の違いとは、Law finding systemとman made ruleの違いと言いかえられるだろう。コモンローとは単なるルール体系ではなくLaw finding systemなのである。



アメリカの場合、州裁判所はコモンロー裁判所であるが、連邦法は憲法で立法できる範囲がかなり制限されてはいるものの日本と同じく制定法である。

特許法、著作権法、独禁法といった日本の経済法、産業政策法に相当する法律は連邦法に属する。連邦法で制定できるものは、特許、著作権法、独禁法、税法、外国政策・・などと非常に限定されていることが特徴だ。

そしてリバタリアニズム的には、この連邦法にあたる制定法の多くに対し批判的なスタンスをとる。

連邦法の制定法は極めて強力であるがゆえに違憲審査などによって厳しくチェックされてきたが、それでも余計な法律がどんどん出来てしまう

→アメリカのconstitution of libertyとは、この政府の立法権限をも大きく制限することが本質的なところだ。これがハイエクのいう憲法によって”制限された政府”(limited government)という意味である。

それに対し大陸法システムだと、立法が制限されることはない。むしろ何から何まで法律としてルールを作ることになる。

コモンローは、単なるルールではなくLaw finding systemであるから、逆にコモンローが照らさない部分はないと言われるのである。先進国アメリカのコモンローというのは、世界的に見ても最も古式ゆかしいコモンローシステムだ。

危惧すべきことは、アメリカがハーモナイゼーションやら条約やらを口実に、コモンロー優位のスタンスを崩すことである。実際、アメリカは今この方向にあるような印象がある。そうしようとする勢力はやはりリベラル左派勢力だろう。次期の民主党政権では、この方向にかなり大きく舵を取るような予感がする。



逆に大陸法のルールでは現実の変化に法律は追いつかない。全てをルール化しようとすることで、さらに雁字搦めの体系になっていく。

リバタリアン〜アナルコキャピタリズム的には、コモンローを超えて、decentralized law finding systemのようなものをイメージする。

ここらは、ハイエクの朋友であったイタリアの偉大な法学者Bruno Leoniの論文を読む必要がある。



"Freedom and Law" by Bruno Leoni

[http://oll.libertyfund.org/ToC/0124.php]



#特許法及び著作権法は連邦憲法1条8節8項において連邦議会がこれを制定する権限があることを認めている。

これはジェファーソンが悩んだ結果そうなったのであろう。

それに対し商標法は、憲法上の明文根拠がないが、一般規定の州際通商条項(1条8節3項)=commerse clauseを拡大的に適用している。そして1946年ランハム法によって連邦で登録が可能になった。
posted by libertarian at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月25日

Punitive damages

懲罰的賠償(punitive damages)というのは、日本の不法行為法(民法709条)にはない。さらに差止請求権も不法行為法とは別になっているが、アメリカの不法行為法(Torts law)ではこれらは一体となっているようだ。



日本の不法行為法が”弱い”ために、別枠で差止請求権を加えた不正競争防止法を作ったり、重い刑罰を加えた産業政策法などを作って、制度の実行性を担保しようとするわけだ。



例えば、走行中のトラックの車輪が外れ、そのタイヤが歩行者に直撃して死亡させたという事件があったが、この裁判判断では日本の不法行為法のルール通り、要求された懲罰的賠償は拒絶された。



アメリカでの懲罰的賠償の制度もアブノーマルな天文学的賠償額(2002年にタバコ裁判で280億ドルの判決)を陪審制度のもとで被告企業に対し平気で出すようになり企業活動に対する死刑制度のようなものとなったが、2003年の連邦最高裁のまっとうな判断(State farm 事件で米国憲法14条違反と判示)以来、フィーバーは落ち着きつつあるようだ。



TORTS RULEのようなコモンロー的な法理は、殆どの人間活動を民事的に解決していくというパワーを持っており、そのことが行政の介入を制限することにもなる。

逆に日本の不法行為法のように弱すぎると、それを穴埋めする形で政府が介入しもろもろの規制を作り出していく。



アメリカの昨今の懲罰的賠償の行き過ぎはむしろ一時的なものだろう。

判断の根底に企業=悪で、お金を沢山搾取して持っている悪い奴らというイメージがあるのだろうが、それは事実ではない。



また裁判制度そのものが超越的な絶対的立場にあるという前提に立っているため、裁判システム間の競争がありえない。

裁判システムを複数共存させ、それを競争させるというビジョンを非現実的なものとして捨て去るべきではない。

そういった仮定の話はまさに学問的かつ理論的なテーマだ。
posted by libertarian at 04:43| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月23日

Criminal Code

日本は現在、多くの法律で刑罰強化の方向へ驀進しているのだが、このような重大な問題に対しマスコミは完璧に沈黙している。



特に経済法、産業政策法に対する刑罰強化が推し進められている。

これが極めて危険なことであるのは言うまでもない。このような国策=産業政策自体が個人の自由に対する脅威であるのだが、それに対する忠実義務?を犯すだけで、とてつもない刑罰が科されるようになっている。



例えば知財法分野で今推し進められているのは、権利侵害に対する刑罰が最大で10年、それも罰金との併科とすることである。

この懲役10年というのは、飲酒運転で人を殺した場合の刑罰と同じ重さである。



知財法なぞ一般人の生活には関係ないことだから、まあいいやなどと思ってはいけない。ほぼ全ての人間はなんらかの組織に属しており、その組織においてはこういった経済法に服することになる。

こういった刑罰が行政側のレントを強化し、さらには組織が個人を無用に管理強化しようとするインセンティブになり、さらに企業間においても、管理強化に結びついていく。下請けいじめどころか弱小企業は取引先から締め出されていくのである。これは個人情報保護法における一つの帰結でもある。



さらに知的財産権というのは、非常に不安定な権利だ。つまり無効審判などで権利が無効となり遡及的に消滅する可能性が常にある。これは権利満了後でもありうるのである。そのような不安定で不確定な権利に対する侵害でこのような重罰を科すのは間違っている。

懲役10年服役したあと、当の権利が無効になりましたというのでは笑えない。一体、誰が責任をとるのか?



これも中島特許庁長官あたりが推し進めている知的財産推進の一環である。ファナティックな知的財産至上主義者による”我が国”の競争力増大のための浅薄でお粗末過ぎる危険な考えである。
posted by libertarian at 07:12| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月18日

Insider Trading

Insider Trading: An Overview

by Stephen Bainbridge



[http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=132529]



池田さんのBlogでも薦めておいたがこのOverviewは非常によくできたものだ。



どこかの”ほか弁”(=ほかほかの成り立て弁護士で渉外弁護士になるべく留学中の人間をさす。)がフリードマンの見解をプリミティブだとか偉そうな

分かった口を叩いているようだが、フリードマンの見解は、Henry Mannneの古典的かつ画期的な研究と呼応するものである。



ちなみにBainbridge氏は、リバタリアンである。本人がそういっているから間違いない。当BlogでもBainbridge氏のサイトは紹介したことがある。
posted by libertarian at 01:56| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月09日

Principle of Roman law





ローマ法の原理」 フリッツ シュルツ 著 中央大学出版部





普通、大陸法=ローマ法=制定法主義と思われているが、もともとのローマ法はそういうものではななかったことが、この本を読むと良く分かる。ローマ法解釈に対しては、ハイエクも同様の指摘をしていたと思う。



この本は1934年に書かれた。

ナチス政権下において迫害をうけながらシュルツはこの本を残した。

おそらくこの対蹠にいるのが当時のケルゼンだったのではないかと思われる。





”この「法の民族」は、制定法の民族ではないのである。”



”すなわち、ローマ人の基本的考えは原則として法典編纂を嫌悪し、個別立法に対し厳しい抑圧を行った。”



そして”国家による法定立によって創設されたローマ法”は、”その量たるや驚くほど少ない。”



”国家による法定立一般に対する根本的な抑制”があった。



”十二表法は、ローマ法史にあって全く孤立した立場であり、それはギリシアの影響の産物だった。”



”古典法律学は主として私法学であった。”

”ある種の自然法のような印象があり”、それは”ローマの自然法”ともいえる。


posted by libertarian at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月29日

Legal rule

日本の法律は全て官僚が作成している。

こんなものを作れるのは官僚しかいないからである。

司法は、官僚が作った法律(→法=Legal 律=Rule つまりLegal rule)を、法=Lawと呼んで

”てにをは”のレベル、さらには句読点レベルで、あーでもないこーでもないと”厳密”に条文を”解釈”するのが仕事だ。



法律の本をたまに読むと、しばしば「法は○×とすることとした。」のような表現を見る。

しかし、法律の条文を作っているのは、どこかにいる生身の官僚である。

法が作ったのでもなければ、Lawの化身が作ったもんでもない。

この役割分担は実にはっきりとしている。所詮はLegal ruleに過ぎないのであるから、もっと分かりやすく

誤解の余地がないように作ればよいと思うのだが、あえて解釈の余地があるように作っているとしか思えない。



アメリカでは議員立法がさかんだとよく言われるが、あちらは基本的にはコモンローの世界だ。

シャーマン法(日本の独禁法に相当)であるとか、議員の名前がつく法律は、大体において連邦法の実定法の部分であり

アメリカにおける自由を制限する強行法規の部分である。

当然ながら、コモンローを議員立法するなんてことは有り得ない。



おそらくUSAだと、議員立法といっても連邦法の部分だけであるから、議員と数人の優秀な法律家スタッフだけで、法案(Legal rule)を作ることができるのだろう。

コモンローと、連邦法の実定法の部分が分離され住み分けされているのかもしれない。



大陸法圏においても民法(=私法)の部分はかなり固まっているのだろうが、それにプラスアルファして余計な消費者保護だ

個人情報保護だなんだといった産業政策絡みの有害な人権立法がどんどん作られているわけである。

また私法と公法の境もあまりはっきりとはないから、一つのLegal ruleを作るのでも、いろいろ他の法律との相互の絡みを

考えながら作るという難しさがあるだろう。



そしてそれを作れるのは日本のトップエリートである官僚達を置いてはないという構造である。

つまり、日本の評判の悪い試験エリートシステムにはそれなりに意味があって、政府が求めているのは、法律を作れる人材という意味でのエリートということだ。



法律を起案して作るのが国会議員の仕事だとかいうことになっているそうだが、実際は起案までが仕事である。

その先の実際の条文作成は当然、官僚にバトンタッチをするのだが、そもそも法律=Legal ruleを議員が起案などしてはならないのである。

また、なぜか官僚が起案する法律までもある。



ハイエクは国会に与えられた法律を作り出す”無制限の権力”(=制限されていない権力のこと)を批判した。

そして、イギリスにおける古い自由の”原因”を、イギリス人のidleness(=怠惰)という美徳の中に見出した。

つまりイギリスにおける旧い自由の原因を、旧い英国人が法律を作ったことにではなく、積極的に法律を作ろうとはしなかった事実に求めたのである。


posted by libertarian at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月03日

Personal information Slave law

個人情報保護法という恐るべき悪法の施行から早1年が過ぎたが、この法律の本質的邪悪さが現実の運用で明らかになりつつある。

これは情報を悪用した民間企業の奴隷化である。



民間部門対象の個人情報保護法はいくつかの義務規程があるが、これらに反したところで何も罰則はない。その点、一見ゆるそうな法律にも思える。

しかし、ここにはとんでもないトリックがある。仮に漏洩事件がほんの数件起こったとして、それをまじめな企業がこの法律上の報告義務に則って正直に監督官庁に報告したとしよう。



すると、監督官庁はいきなりきわめて高圧的な態度にでてくる。仮に数件の漏洩事件であっても、新聞の謝罪告知を含めたありとあらゆることをしろと要求してくる。その費用が何千万円かかろうとお構いなしだ。さらにセキュリティ対策の強化だ委託先の管理だとありとあらゆる情報強化の手段をとれと迫られる。



なぜ、役人が行政指導の段階でこのような高圧的な態度に出れるのかといえば、個人情報保護法上、監督官庁に企業の生殺与奪の権限が織り込まれているからなのである。



つまり、最初にでてくる木っ端役人の指導は最初は指導ということになっているが、これに全て従順に従わなければ、次はいきなり行政庁である大臣から法的強制力のある勧告という行政命令が出てくる仕組みだ。最初にでてくる木っ端役人の報告次第でいかようにも大臣命令を出させることができるのだ。実際に出しているのは大臣でなく木っ端役人なのである。



さらに命令に従わない場合の罰則は六月以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処するとなっているが、懲役をくらうのは会社の代表者つまり社長ということになるから、そんなことになれば会社は簡単にお陀仏となる。行政はたった数件の個人情報の漏洩事件であっても企業を殺すことが法的に可能になっている。もちろん行政に対し、たった数件だなどといった言い訳は聞かない。もしそんなことを言ったら相手の思う壺である。

法権力をかさにきた下衆役人とは、ナチスのゲシュタポのようなものだ。



この法律は行政に対する強力な民間コントロールのレントを与える結果になるのは最初から見えていたが、周りの様子を見ていると、ここまで悪辣な運用を実際に行政がしてくるとはさすがに思っていなかった。

この法の影響は当分沈静化することはなく、さらなる悪法へのトリガーとなるだろう。

J−Sox法などもその一つだ。




posted by libertarian at 04:54| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月16日

電波利権

本日、池田信夫先生の新著「電波利権」を一気に読んだ。

これは非常に面白かった。良い本とは何かをとてもよく分かった気にさせてくれるものだが、この本もそういった数少ない本の一つといえよう。

今まで池田先生の論文を読んでも良く分からなかったところが分かってきた。



池田先生はやはり本来がジャーナリズムの人なのだろう。戦後の電波行政から現代のIP通信まで変遷の詳しい裏事情までを興味深く明晰に説明している。

この本を読むと電波による言論の支配構造=電波社会主義が見えてくる。



電波というのは目にも見えないし電気屋の専門分野というイメージでなかなか一般人の関心の対象になりにくいが、その本質は行政問題であり、既得権益の問題だということだ。

総務省が特定の事業者に対し一体何の権利があってか、勝手に独占排他使用権を設定しているわけだが、

知的財産権とも違って、使用者側が払う代償が何もない。つまり知的財産権以上の、政府によって与えられた純粋な特権=Privilegeに過ぎない。



総務省による電波の割り当て行政とは、いわば、政府が数兆円相当の価値がある都心の超一等地を、ただで、ほぼ無期限に特定の事業者に独占排他的に使用させているのと同じだ。

#おまけに電波は、土地と違って固定資産税すらかからない。



だが、実際はタダより高いものはないという格言通り、利権という不正な形での相互利益供与体制になっているのだろう。

これはまがりなりにも言論機関である以上、自殺行為である。



電波帯域の割り当て行政の根拠は、従来のアナログ通信技術には干渉=interferenceの問題があるからである。

つまり既存の帯域の”所有者”の財産権を侵さないように調整するという理屈である。

各人がでたらめに帯域を使用すると電波干渉が起こる以上、やむを得ないと思われているのだろう。



池田先生の唱えるIP Over EverythingもしくはEverything Over IPというビジョンは、通信機器、通信方式をIP化することにより帯域は事実上無尽蔵とできるから、電波のScarcityの問題を解決することができるということではないかと思う。

そうなったとき帯域そのものに経済価値は殆どなくなる。コンテンツだけの競争になるし、それは望ましい姿だ。

民放が、どこも似たようなくだらなさ過ぎる番組を垂れ流しているのは、電波利権つまりは帯域インフラの経済価値の上にあぐらをかいていて、肝心のコンテンツの競争がないからだ。

受信料を受益者負担にするべしというのも今後のメディアが目指すべき方向性であることは間違いない。



この本は、ネット時代の問題の本質を考える上で非常にためになる。

一読を是非お勧めする。
posted by libertarian at 22:51| Comment(0) | TrackBack(1) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月27日

Module

 昨今の日本の法改定の動きは、前にも少し書いたが、ある種のデジュールスタンダード戦略であるといえる。

会社法の大改正も、個人情報保護法も、不正競争防止法も全て内部統制を企業に義務づける強行規定と化している。

健康増進法なんていう超危険な法律も既に施行され、街の風景も急激に変わってしまった。



法律が全てこういう内部統制強化の方向に向かっており、実効性を担保するためにもどれもご丁寧にもかなり重い刑罰つきの改正となっているのである。

これが国家主義の強化の方向であるのは言うまでもない。

これを断じて右傾化とか保守化とはいわない。

そうではなく国家社会主義体制の強化と正確に呼ぶ必要がある。

ナチスも旧ソ連も国家社会主義は法律が形作っていたのである。

人々の意識の問題など関係ない。これらの全体主義体制では法律が人を合法的に虐殺していたのだ。



法律の改正に先立って、行政が有識者なる民間のでしゃばりな俗物のバカ連中を集めて行う研究会、審議会がある。

これらの議事録は公開されているからそれを読むと何を考えているのか大体わかる。不正競争防止法の改正過程そのものにおいても、企業のレントシーキング、利権追求の場と成り下がってしまっているのが議事録から分かる。

[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/index.html]



不正競争防止法の改正内容も酷いものだ。田村善之なる北大の教師で中山信弘東大教授の後釜と目されている若造の書いた「知的財産法」によると、不正競争防止法はインセンティブ支援型立法だそうだが、インセンティブなどという言葉を安易に用いるべきではない。

不正競争防止法は元々が不法行為法に差止請求権を加えただけの民法特別法であるが、ここ数年で産業政策的な強行規定となってしまった。

不法行為法を正常に使えば、LiablityRuleによることになるが、これを産業政策的な強行規定にすることで換骨堕胎された感じである。



こういう審議会の議事録などを見ると、日本の立法過程がいかに無責任で考えの足りないものであるかがよくわかる。国会議員の多くは六法がどの法律で構成されているかも知らないようなバカ代表であるため、行政が音頭をとって、民間有識者なるバカ連中を組織し、それらと爺さんの大臣と、東大法学部あたりの法学者を交えて法律の土台を作るわけだが行政側の事務局が人選権を握ることで、行政の思惑通りに立法をしていくわけだ。

要するに小中学生的にみんなの意見を持ち寄って作りましたよという体裁を作っているだけである。



これらを見ると、経済産業省のストラテジーなるものが見えてくる気がする。

誰も話題にもしないが、経済産業省は新産業戦略なるものを1年前に発表している。

これらには安藤晴彦さんとかが旗振りをしているモデュール化戦略なるものも書かれている。

予想するに、これらの法改正が全て産業政策的な強行規定の色彩を強めている背景には、この誰も読まない経済産業省の新産業戦略が反映されているだろう。

恐らくISOのようなデジュールスタンダードに基づく内部統制によって、日本の生産性の低いホワイトカラーの業務をモデュール化し、それによって生産性を高めるという意図が一つにあるだろう。



これらの法改正がなぜ致命的にダメなのかといえば、先にあげたドラッカーの言葉を借りれば、「つまるところ企業や病院はもとより軍を含むあらゆる組織が、まさに自主性を奪われて機能不全に陥る」だろうことにある。

インセンティブを設計することが同時に民間の主体性=initiativeを殺すことになるのである。

法とは自由を保障することだけにその存在価値があり、自由を露骨に制限する法律など法ではないのである。




posted by libertarian at 15:45| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月12日

Judicial corruption

青色LEDの中村修二さんの話によると、日本の司法は腐りきっているということである。

それは間違いのない事実であろう。

中村修二さんは、アメリカと日本で訴訟をしてきて、日本の司法判断は真実や正義を

追求するという精神が全くないことを痛感したという。

アメリカでは、偽証罪によって毎月4000人くらいが牢屋に入れられているのに

対して、日本では戦後3人しかないと言う。



いかに優秀な医者がいても医者の数が少なすぎれば医療サービスは最悪となるのと

同じで、法曹の数が少なすぎることが司法サービスが腐る原因の第一である。



#法曹人口の国際比較をすると、日本が一万人あたり1.7人に対して

アメリカが35.3人、イギリスが15.8人である。

大陸法圏のドイツでも13.6人、フランスで6.1人。

→日本:アメリカ:イギリス:ドイツ:フランス=1:21:9:8:4



これから見ても、日本の法曹の数は今の5〜10倍に増やすべきである。

裁判制度がハングアップしてしまっていて、司法手段での解決が実質的に非現実的な位に非効率であるから

司法システムが利用されなくなっているだけである。

日本人が特別に司法解決を好まないなんてことはありえない。

民事訴訟なんてのは、単なる紛争解決のためのサービス産業と考えるべきものなのだ。



さらに、日本の司法は司法官僚システムであるというのもある。

アメリカのように司法システムの真の独立性がない。アメリカの最高裁はアメリカ憲法の

番人であり、州裁判所はコモンロー主義による正義の実現を目指しているといわれるが

日本の司法は何者でもない。結局、裁判所が機能しなければ法律は死に体となる。



その反面、行政コントロールが異常なまでに強くなっている。

現在の行政の経済産業省辺りの目論見というのは、ISOのようなデジュールスタンダード

法的に最大限活用していこうとするものだ。これらを法ライクな実質的な規範として

社会コントロールの手段にしようとしているのである。



今、日本で陪審員制度を導入しようとしているが、これはうまくいかないだろう。

日本では偽証罪も形式的にあるだけで中村さんの話のように全く運用されていない。

そして、いざ裁判となると勝つために双方嘘の付き合いになるといった

日本の司法の悲惨な現実がある以上、陪審員は単に嘘にだまされるドシロウト集団にしか

ならないのは見えている。



更に言えば日本の司法システムの抱える本質的な問題とはまさに司法の場が正義や真実の

発見の場であろうとする態度が根本的にないことだ。

司法という他の行政権力の武力を借りないかぎり強制力をもたないシステムが社会の

要となりうるのは司法というものへの尊敬と信頼が社会にある時だけである。

正義や真実を追究していない司法が、そのような尊敬や信頼に値しないのは自明なことである。

これが日本の司法制度の本質的な問題であり、日本社会が永遠の第三世界である所以だ。




posted by libertarian at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月31日

Micromanagement is the road to tyranny

Lawless Law

Here is the always entertaining and informative James Lileks talking about Viktor Klemperer's memoir of Naziera Germany:



Some of the details are offhand and precise (“In a pharmacy toothpaste with the swastika”) and others are murky and random, such as the ways in which academic life is poisoned by an incessant stream of laws and decrees. (So many laws: the hallmark of a lawless state.)

What a great insight. As regulations proliferate, it's impossible to enforce them all fairly. Enforcement becomes selective and capricious. Micromanagement is the road to tyranny.
posted by libertarian at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月30日

Does Antitrust Policy Improve Consumer Welfare?

Does Antitrust Policy Improve Consumer Welfare?

[http://www.brookings.edu/views/articles/2003crandallwinston.htm]



Should the United States pursue a vigorous antitrust policy? Soon after the passage of the Sherman Antitrust Act of 1890, economists led by John Bates Clark (1901) argued that the enforcement of such laws should be informed by the prevailing economic theory on the merits of competition and the extent to which firms' conduct can enhance or weaken competition. However, economic theory since then has proven remarkably fertile in pointing out how various actions by firms may be interpreted as either procompetitive or anticompetitive. For example, when prices decline sufficiently so that no firm in an industry is earning economic profits and some firms exit, this outcome may reflect a highly competitive market adjusting to a condition of temporary oversupply, or it could indicate that a large competitor is employing a strategy of predatory pricing to drive out its rivals. Similarly, when a firm builds a large factory, it may be engaged in vigorous competition and new entry, or it may be creating excess capacity as an implicit threat to potential competitors that it may raise output and cut price quickly if circumstances warrant. Although economic theory can help organize analysis of the economic variables affected by antitrust policy, it often offers little policy guidance because almost any action by a firm short of outright price fixing can turn out to have procompetitive or anticompetitive consequences.



Given this range of theoretical possibilities, the case for a tough and broad antitrust policy must rest on empirical evidence that shows that such policies have worked in the broad social interest. In this paper, we argue that the current empirical record of antitrust enforcement is weak. We start with an overview of the budgets and actions of the federal government's antitrust authorities. We then synthesize the available research regarding the economic effects of three major areas of antitrust policy and enforcement: changing the structure or behavior of monopolies; prosecuting firms that engage in anticompetitive practices, namely, price fixing and other forms of collusion; and reviewing proposed mergers. We find little empirical evidence that past interventions have provided much direct benefit to consumers or significantly deterred anticompetitive behavior.1 We acknowledge that the literature has not been able to utilize all potentially fruitful sources of data and has rarely implemented recent empirical advances in industrial organization to analyze the effects of specific antitrust cases. Thus, the state of knowledge is not at a point where we are ready to make sweeping policy recommendations. Nonetheless, the economics profession should conclude that until it can provide some hard evidence that identifies where the antitrust authorities are significantly improving consumer welfare and can explain why some enforcement actions and remedies are helpful and others are not, those authorities would be well advised to prosecute only the most egregious anticompetitive violations.



要するにこの結論は、 独禁法ではthe most egregious anticompetitive violationsだけを取り締まれというものだが、かなり中途半端な結論である。

とはいっても、独禁法を自由市場を守る上で必要不可欠な立法だと信じて疑わない

日本の政府権力に追従することしかできない、思考能力の去勢された大学法律教師よりは

はるかにレベルが高い。



日本の法学者の”法的権利概念”は基本的に狂っているという印象を私は持っているが、

それは受験法学による洗脳の結果なんだろうと思う。

これは連中が意識することもない”イデオロギー”の部分だろう。それは法曹受験の参考書の中に書かれているわけだ。


posted by libertarian at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月07日

裁判所

日本で、今最も必要な政府サービスは裁判サービスだ。

#リバタリアン的にはこれらも民間サービスにすべきであるのは言うまでもないが

それはとりあえずおいて置く。



この件については前に、すこし書いたが、要するに日本の裁判システム

その潜在的なニーズに対し、”裁判官”が少なすぎることで、ハングしてしまっている

状態にあるのが問題なのだ。

[http://kyuuri.blogtribe.org/entry0193e066c6d46cc5b524df6875d020f9.html]

実際の裁判ニーズはフランス並みとしたら、現在の6−7倍はあるだろう。



これから、法曹を増やすわけだが、もし法曹の数を2倍にして、裁判官と弁護士の数がそれぞれ2倍にしたとしたら、裁判所の処理能力は5倍程度にはなり、弁護士は

今まで以上にお客さんが沢山ついて繁盛することになるだろう。



実際は、裁判など別にたいしたものではないし、恐れるようなものでもない。

普通の民事裁判など単なる調停サービスと考えて利用すべきものだ。

法曹も今よりいっそ5倍以上に増やして、アメリカ並みに、裁判所が過剰処理能力

を持つくらいまで法曹を量産しないと、弁護士間の競争はあまり起こらないかもしれない。



もし2−3倍程度の増加なら、むしろこれから弁護士はますます儲かる花形職業になるだろう。



無意味なほどの難問試験を課すのは、日本の法曹が極めて官僚に近い存在だから

だろう。実際、裁判官は司法官僚だ。



法曹の数を5倍以上に増やすことで、はじめて法律家の競争が厳しくなり、より健全な

”法的社会”になるのではないだろうか。
posted by libertarian at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国家公務員法

国家公務員法をざっと読んでみた。

[http://www.houko.com/00/01/S22/120.HTM#s3]

国家公務員の身分保障を謡った75条とは次のとおりだ。

たぶん、行政の独立性を守るというタテマエからきている条文だろう。



(身分保障)

第75条 職員は、法律又は人事院規則に定める事由による場合でなければ、その意に反して、降任され、休職され、又は免職されることはない。

2 職員は、人事院規則の定める事由に該当するときは、降給されるものとする。




しかし、次の78条はどうだろうか?

ここには、4項で「4.官制若しくは定員の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じた場合」は免職できるとある。

やはり、税金を思いっきり下げ、予算を削れば公務員も辞めざるを得なくなるということだ。これなら法律を作らなくともなんとかできるかもしれない。

だが、税金を減らす法律は誰が作るのか?泥棒に泥棒を取り締まる法律が作れるだろうか?



(本人の意に反する降任及び免職の場合)

第78条 職員が、左の各号の一に該当する場合においては、人事院規則の定めるところにより、その意に反して、これを降任し、又は免職することができる。

1.勤務実績がよくない場合

2.心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えない場合

3.その他その官職に必要な適格性を欠く場合

4.官制若しくは定員の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じた場合




#民間の場合、従業員は経営者との雇用契約が基本となるが、公務員は経営者にあたる

主体がいないために、誰とも契約のない雇用者という立場なのかもしれない。

その代わりに試験の資格制度になっているということか。。
posted by libertarian at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月29日

健康増進法

第二節 受動喫煙の防止



第二十五条 学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他の多数の者が利用する施設を管理する者は、これらを利用する者について、受動喫煙(室内又はこれに準ずる環境において、他人のたばこの煙を吸わされることをいう。)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない。







この一年で急に喫煙できる環境が少なくなったが、これはH16年2月27日に施行されたこの法律によるらしい。

アメリカの真似かもしれないが、愚かな法律ばかり作るものだ。

日本の場合、右向け右とかやると、なにも考えずに追随する人間が

多いのが不気味だ。

戦中には、戦中の強行法規があり、皆さん右向け右とやられて素直に

従っていただけなんだろう。



しかし、こういう強行規程をトリビアルな規則だと思うのは間違いだ。

これは政府権力による重大な個人の自由への侵害である。



#健康増進法とは言葉の意味からしておかしい。健康は維持すべきもので増進など出来ない。

このようなイカサマ標語で民を欺こうとは、政府も幼稚な真似をするものだ。








posted by libertarian at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする