2015年02月10日

More limited government

日本のような制定法主義、大陸法の国は、立憲主義=constitutionalismの縛り、制約というのが弱いのが大きな問題だ。
アメリカの押し付け憲法はけしからんといって憲法を変えるのはよいが、それが単なる民族主義的な心情からの改変だとかえって悪くなる危険性が高い。実際、自民の改憲案は少し見ただけでも酷いものである。改憲が改悪となっては悲劇である。
憲法の改正は、自由を高めることが目的でなくてはならない。もちろん、これは自由権の拡大のことではなく、実質的な自由の拡大のことだ。法的には正義の拡大と自由の拡大は矛盾しない。

立憲主義の根本は制限憲法にあり、個人の自由を確保するために、政府をどのように縛るかという点こそが肝要である。
この点が日本ではほとんど理解されていない。村社会的な素朴な集団主義が全体主義的な方向へ向かう危険性は日本において非常に高い。
アメリカの憲法も、政府に対する制限という意味では弱すぎたというのが教訓である。
とくに政府権力の経済活動の介入に対する制限が弱すぎたというのが、フリードマンらの見解だ。この典型は自由貿易の問題だ。

日本においては、財務省を筆頭とする行政部門の権力があまりにも強いのが最大の問題点である。
なぜ、このようなことになったのであろうか。
立憲的な制約が弱すぎたのか、それとも制度設計上の失敗なのか?
もっともアメリカの場合、日本と違い行政部門が暴走している印象はあまりない。主に暴走するのは立法府、議会である。

立憲主義においては政府の役割を限定列挙的に制限することが必要だろう。
その点、憲法により、政府の役割をセキュリティに限定するのも一つの考えである。
幸福の追求といったアメリカ憲法の文学的、情緒的な表現が行政権力の肥大を招いた。こういった抽象的な表現が、政府活動をあらゆる部門に進出させることとなったといえる。

また欧米と比べた日本の弱点として、司法が弱すぎ、三権の独立した権力というよりは、行政部門の一つに堕している点がある。
これがなぜなのかも大きな問題だ。制度論と法律論の両方から究明すべき問題だ。

日本におけるコンプライアンスは、世間様感覚を法的な強制力とする点で極めて危険だと思っていたが、実際世の中の流れは世間様感覚、空気感覚というものを法的なものと勘違いしている。これは、恐ろしく危険なとんでもないことである。

政府の役割をセキュリティと限定した場合、残るのは軍事とか、それに関連する情報部門、外交部門、および国内の警察部門となるだろう。
もちろん、司法は別にあるし、行政と立法がこれらに限定されるということだ。
これは現代的なminimum governmentと考えられる。
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2014年10月07日

Army,Nation State and Law

ハイエクがLaw,Legislation,Libertyを書いた時の問題意識とは、Constitutionalism(立憲主義)によって自由を確保するという方法、アメリカの実験は失敗したという認識にあった。そして、その為に、別の制度的な発明が必要だとハイエクは考えた。
その際、根本的な問題は、いかにして法の支配を確保するかということにある。

メディア権力は3権分立の蚊帳の外であり、メディアの権力は司法によって間接的に制限されないといけないが、実際はメディアは増長し、腐敗する一方である。この最たるものが、世界にもまれなる巨大な国営放送局、NHKだ。
それに朝日、毎日といったマスゴミが連なっている。これらは全て早急に清算、解体されないといけない。

日本のマスゴミのどうしようもなさは、日本社会に法の支配のないことが淵源となっている。
だから、日本の愚劣なるマスゴミ問題は、単にマスゴミの問題として矮小化してとらえるのは間違いだ。
メディア権力は、3権分立の蚊帳の外にある第4の権力であるから、メディアはtorts rule のような民事賠償ルールによって、間接的に制限されないといけない。
その権力の乱用を、民事賠償ルールによって制限するべきなのだ。アメリカのメディアは実際にそうなっていて、数億円単位の民事賠償はしばしばされているようだ。それが間接的なメディアに対する制限となっている。
だが日本は司法が有名無実なので、メディア権力が野放しになり、無法化している。

法というイメージは、国家を超越したものであって、社会的、歴史的なものであり、国家を超越したものというのが自然法のイメージだろう。
国家があって、その行政部門の一つとして法があるわけではなく、その前に法がある。
Legal Positivismのヨーロッパ法ー日本の法律だと、このような自然法、コモンロー的な概念が根本的にない。
法は国家ー行政ー司法という制度にあって、司法は国家に従属するというか、国家の1機関にすぎない。
これは極めて危険な考えである。国家権力によって法の強制力が担保されるという程度の考えだろう。
そうではなく国家の前に自然発生的な社会というものがあり、社会が形成されればそこはアナーキーな世界ではなく、秩序をもつ。
社会が永続性を持つためには、法がそこにあるということだろう。その法に社会が自然と従うわけだ。そうすることに、ミクロな経済合理性もあるわけだ。

3権分立といった国家制度の仕組みは、権力を制度として人為的に作るが、絶対権力は絶対に腐敗するから、権力を三つ巴の関係にして絶対権力を作らせないというのが設計理念である。国会や行政の権力は人為的、制度的に与えられた権力だが、法の支配という意味での司法の権力はそれとは本来異質な権力といえる。もちろん、司法も人間が携わる以上完全であるわけがなく、司法に絶対権力があれば絶対に腐敗することになる。
constitutionalismにおいては、憲法が3権分立といった制度の上にあるという構造だが、その憲法とは、特別な法だ。司法、立法、行政といった3権力の上に立つ法権力としてあるわけだ。
権力の正当性は全て法に基づき、国家権力の正統性は憲法に基づく構造だ。その憲法の番人として連邦最高裁という特別な裁判所が置かれる。しかし、その仕組みが壊れてしまった。というのがハイエクの認識であった。

#ヨーロッパや日本は、憲法は持っていても仕組み的には、アメリカ型の立憲主義ではない。

しかし、そもがそもそも、国家制度とは、社会において、戦争をするために作られたのではなかったか。
近代、ナポレオン辺りから、国民軍という軍事組織を作ったことから、近代の国家イメージは作られてきた。政府とはまず軍隊としての機能が先にあった。軍隊の機能に付随して、行政権力、立法権力が肥大化していていったのだと思う。
富国強兵といわれたように、強固な軍事組織を作るために、近代、この200年ほどの間に国家の機能が肥大化してきたわけである。



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2010年01月09日

Various Search engines


新技術発展の足引っ張る 日本の著作権法これでいいのか
牧野二郎弁護士に聞く
http://www.j-cast.com/2008/10/12028441.html

Q:周辺諸国を見ると、「baidu」(中国)や「naver」(韓国)など、「国産検索エンジン」が幅広く利用されているようです。日本とは、著作権法の扱いが違うようですね。

牧野 韓国・中国の著作権法を見ると、内容は日本とそっくりで、日本の著作権法を参考にしたことがわかります。韓国に至っては、法律の構成までそっくりです。ただし、韓国は「引用」という概念を幅広く使って、判例を積み重ねて、06年の大審院判例で、実質(一定の条件で著作物の利用を認める)フェアー・ユースが認められる形になった。中国は、著作権法を変えずに「通達」という形で「コピーはOK」ということにした。こちらも、事実上フェアー・ユースが認められるようになった。米・中・韓ではフェアー・ユースが認められたのに、日本だけが孤立した形です。
==============

サーチエンジンも著作権法のせいで、日本では運営できないという話もリンクを見ると載っている。アメリカにサーバーを置くしかないし、会社も日本に本社を置くと危険かもしれない。
しかし、ヤフーなんかはどうなっているのだろうか?グーグルも日本法人は大丈夫なのか?
ここら辺の法的からくりがよくわからない。

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2009年12月26日

Air and Justice

ホリエモンがほぼ全財産を払ってLDHと民事訴訟の和解をしたそうだが、これも同時進行中の刑事裁判への対策であろうことは想像がつく。ホリエモンほどにもなれば、金は失えばまたビジネスで取り返せばいいが、失った時間は取り戻せないという判断だろう。たしかに理不尽な感じはあるが、これが日本の裁判の現実だ。これより、もっと問題なのは鳩山や小沢の犯罪が追求があまりされていないことだ。これこそ検察が動くべきだろうが、メディアが騒ぐのを待っているのかもしれない。ここで恩を売っておこうとでも思っているのか?
時の権力者には長いものに巻かれろで、成金の若者起業家は生意気だから、難癖浸けて破産させてしまえばいいというのが、日本の司法権力のバランス感覚というものなのだろう。
日本では何が真実で何が正しいのかという判断は軽んじられ、空気を読んで行動するのが大人だと思われているところがある。司法の行動はその典型だ。
以前に、サイバーなんちゃってリバタリアンのBlogで慰安婦問題報道の議論があった時、小倉弁護士の主張というが、真実はどうであれ空気を読んで行動するべきだみたいなものであった。弁護士が争う前から白旗降参するのも困ったものだが、実際、裁判ではそういった判断をするものではある。
もとより裁判は勝ち負け、損得のある世界であり、シビアなリスク計算が必要になるから、現実的な妥協をどのようにするかというリアルな交渉の場であることは事実であろう。だからその点、小倉氏の感覚は正しいともいえるが、それは法概念として一般化は出来ない。
アメリカは訴訟が多くて莫大な賠償金の話もよく聞くし、訴訟リスクが大きい印象がある。
事実大きいところもあるのだろうが、裁判の結果が予見できればそれをコントロールできるから、リスクを計算することができる。日本の場合は、空気なるもので司法判断が流れるとするとリスクが評価できない。そういう点では日本の方がリスクをコントロールしにくく、リスクを計算しにくい状況があると思う。例えば、Googleなんかも訴訟リスクを計算しているから、あえて冒険ができるのである。日本ではリスクの計算すらできないから、冒険もできないのだろう。

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2009年05月14日

Home Lawyers

サルでもできる弁護士業 西田研志著

この本はホームローヤーズの所長である西田氏のものだが、面白かった。
ホームローヤーズは、多重債務の問題解決の電車広告などで知っていたが、この本を読むとこれはかなり革新的なシステムのようだ。この西田氏のガッツはたいしたものだ。日本の弁護士業界の革命児であることは間違いない。
しかし日本の日弁連が共産党の強い影響下にあることは知っていたが、いまだに共産党がこれほどの支配力を持っていたとは驚きだ。
これに対して、西田氏は挑戦をしているわけだ。さすが学生時代にアマゾン探検隊の隊長だっただけのことはある。その思考は極めて合理的で、商社に勤めていた経験も生きているのであろう。
日本の弁護士は自由が奪われている。なぜなら日弁連に支配されているからだ。この支配の根拠になっているのが弁護士法72条であり、共産党が支配する日弁連はこの条文を背景に弁護士の仕事の手配からギルドの親玉として君臨し、生殺与奪権も持っている。もともとは弁護士の広告活動も禁止されていたが、西田氏はこれを日弁連による独占禁止法違反として訴え勝訴し、自ら広告の権利を勝ち取ったらしい。ホームローヤーズが広告しているのはこういう経緯があって実現されたらしい。
今の日本の弁護士業界は4000億円程度の規模しかなく、弁護士がほとんど活用されていないのは周知のことだ。しかし西田氏によると日本の潜在的な法務ビジネスの規模は推定20兆円であり、これによりおよそ800万人の雇用が創出できるとしている。そのために、ホームローヤーズでは弁護士業務の徹底的なパターン化、IT化を行いパラリーガルを用いた分業によって生産性を飛躍的に高めた。そしてこのシステムは近々公開する予定だという。なんて偉いんだ!

共産党の戦後戦略として、弁護士会の乗っ取りと、東大法学部の教授ポストの乗っ取り作戦は大成功したわけだが、日本の司法が全く近代化されずどうしようもないのにはこの司法の共産党支配が直接の原因であり、さらに共産党の利権と化した弁護士法の存在がある。
ちなみに、裁判官ポストの乗っ取りも共産党は画策していたが、これは佐藤栄作の時代に最高裁長官に任命された石田和外氏によって阻止された。青法協裁判官を排除していったのだ。

司法というのは、サービス業であり社会の重要な潤滑剤の役割もあり、これが活用されていないことが日本のどろどろとした社会システムの原因のひとつだ。司法システムが共産党支配によって機能不全を起こしているために今の日本の停滞もある。日本の制度改革の本道は、弁護士法72条をはじめとする利権と化した悪法を一つ一つしらみつぶしにしていくしかないのであろう。そしてそれは確実かつ劇的に税金も使うことなく日本の社会の姿を良い方向に変えることになる。
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2009年03月07日

Codes

アナルコ キャピタリズム研究(仮)より

私的財としての法(翻訳)
http://anacap.fc2web.com/LawAsAPrivateGood.html


1つの裁定会社は警察ごとに異なるコードを提供するかもしれない。それゆえコードの数は裁定会社の数より大きくなることがありうる。一方、もし市場が単一な法のもつ単純性や予測可能性を好むなら、多くの裁定会社は単一なあるいは似たようなコードを採用するだろう。


anacapさんの翻訳解説は非常にわかりやすいので、ありがたい。

ところで法律=Codeを考えた場合、今のITシステムのように、統合と分散の流れを繰り返していくだろうと思う。
ITシステムでは、この統合→分散→統合→・・といったサイクルが繰り返されて進化してきている。
統合化が煮詰まれば、さらに柔軟な分散システムが考え出され、それが再統合されという進化が起こっていると考えられる。
法も同様だろう。

アナルコ キャピタリズム研究(仮)の次のリンクから引用すると。

アナルコ・キャピタリズムはどう機能するか(翻訳)
http://anacap.fc2web.com/HowWouldItWork.html

アナルコ・キャピタリスト間での主な相違は、おそらくロスバードの自然法アナーキズムとDavid Friedmanのより経済学者らしいアプローチとの明らかな相違から生じている。ロスバードは一般に認知されたリバタリアン法の必要性を強調する。(彼は英米のコモンローを純粋化することでそれがかなり容易に生成されると考える。)一方フリードマンは、社会における多様な人間たちの需要に応じた、共存する多元的法システムの可能性を強く説く。しかしながら、これらの相違はおそらく言いすぎである。ロスバードは、消費者の需要が哲学的に中立な法律内容を合理的に決定すると信じる。(例えば訴訟手続きのように。)水に関する法律や鉱業法など、所有権の定義をともなうテクニカルな問題においても同様である。フリードマンは、広く行き渡った規範などの「フォーカルポイント」が各法典の内容を制限し、またある程度標準化するだろうということを認める。

やはり(民間の)法の間である程度の標準化が起こりつつ、かつ一元化されずに多様性を保つことが重要だ。
知的財産などの現代の難問も、このようなDecentralized legal order によって解決するしかなく、一元的な法による解決を探るのは、間違った問題の立て方、努力になるはずだ。
現代のITシステムのCodeの進歩のあり方は、法にも可能なはずだ。

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2008年11月30日

裁判員制度

来年から裁判員制度が始まるが、こんなとんでもない制度がなし崩し的に実施されるとは恐るべきことだ。
この法律そのものが違憲性を明らかに含んでおり、一部の人間(それが仮に何百人、何千人だろうと)が密室で決めたことを暴走させるのは脅威としかいいようがない。

私も詳しくは調べていないが、以下のWIKIの解説は批判論点の解説を含めて、よくまとまっていると思われる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E8%A3%81%E5%88%A4%E5%93%A1%E5%88%B6%E5%BA%A6

この立法において、どのような政治勢力、法律学者、官僚が関与したのかを、もっとオープンにするべきだ。いかなる法律であってもそれを作った人間が必ずいて、その連中の思想、偏向がその制度の本質に折り込まれる。

明らかに違憲性を含んだ法律を作り、さらに、その法律で重大な刑事事件を裁こうというのだから、二重に倒錯している。
これは一種の司法によるテロのようなもので、日本がいわゆる法治国家ですらなくなる一歩なのではないか。

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2008年08月28日

Obligate Obligation

牧瀬義博氏の著作からさらに引用。
この「マネーと日本の進路」という本は、この債権本位主義を批判した部分(だけ)が非常に重要。

===
”第2章の契約に定められている13個の契約は、すべて債務本位になっている。
さらに民法自身も、金銭債権といったり金銭債務といったりして債権を債務を混同している。
しかも、第1章総則は債権本位であるにもかかわらず、第2章契約は債務本位であるから、総則の理論を契約に応用することができない。

多くの法律家は債権と債務は同じという考えになってしまった。
ドイツ語のSchuldの本来の意味は債務でるが、これが日本語に翻訳されると債権になった。

100万円のローンについえ考えて見よう。
貸主は借主に100万円の支払いを請求できる債権をもち、借主は100万円を支払わなければならない債務を負担している。

しかし、債権は価値があるが、債務は価値がない
債権は財産であるが、債務は負債である。
債権は権利を行使することも、しないことも、放棄することもできる。
また財産であるから他人に譲渡することもできる。
これに対し、債務は法律により履行を強制され必ず履行しなければならない。債務の放棄も認められないし他人に譲渡もできない。
債権が多くなっても破産しないが、債務がおおくなると破産する。
債権は債権者に喜びを与えるが、債務は債務者に苦痛を与える。

契約が成立すると、代金を払うという債務と、車を渡すという債務が発生する。
債権本位に考えるとそもそも契約は成立しないが、債務本位に考えると契約が成立し、買主には代金支払い債務が、売主には車の引き渡し債務が、それぞれ発生する。

売買では、債務が重要で、債権は、債務から流出するということになる。
ドイツ民法241条1項は、「債務関係の結果、債権者は債務者に給付を請求できる正当な権利を有する。」 と、明記し、債権は債務から流出することを示している。
日本では債権民法で、欧米では債務民法で、ここに法律の摩擦が生じているのである。
地上げのために土地ころがしが行われ、売買が続けて5回されたとき、登記名義の変更は、第1の売買の売主から直接に第5の売買の買主にしてよろしいというのである。

中間者の登記が省略されるためこの名称がある。
どうしてこのようなことが可能なのか?債務本位の民法ではこれは許されない。なぜならば登記名義の変更は法律上の義務で、義務を放棄することはできないからである。

しかし、債権本位の民法ではこれができる。第1から5までの買主はそれぞれ自分に登記名義を移して欲しいという登記請求権を持っているため、権利であるため、これを放棄できる。

第1から4の買主が、それぞれ登記請求権を放棄すると、第1の売主から第5の買主に直接、登記名義を移すことができる。
これこそ、まさに債権民法による中間省略の登記の承認である。

このように日本民法が口約束だけで土地の売買ができ、中間省略の登記を認め、登記申請に際し契約書の提出を必要としないため、土地をころがして地上げすることを容易にし、バブルの形成に奉仕したのである。(※)


債権本位の立場にたつと、債権のみが問題となり、債務と債務の履行は無視される。売買契約によって、売主は代金債権を、買主はダイヤの引渡しを求める債権を取得する。

欧米の民法は、すべて債務本位で、債務者が債務を履行すると債務が消滅し、その結果債権も消滅する。ここには債務者の履行行為という弁済がある。
代物弁済は、本来、債務者の弁済することであるが、民法のこの原則を曲げて、債権者が代物弁済をできるという解釈をするよになった。”


※平成17年3月7日より施行された改正不動産登記法により事実上、中間省略登記ができなくなった。しかし不動産業界をはじめ産業界の強い要望もあってか内閣府規制改革・民間開放推進会議は法務省との折衝を重ね06年12月25日の最終答申で「第三者のためにする契約」というスキームを導入することで中間省略登記と同様の結果を適法に実現することを可能とし、翌26日の閣議で、最終答申の内容を全省庁が最大限尊重することを決定。http://www.nsk-network.co.jp/070102.htm

===

つまるところ、お互いにobligationを負う約束をすることで契約が発生し、その後に請求権として債権が発生する。最初に約束がないと相手にobligate=強制できない。あくまで契約が先で、債権と債務が同時発生するわけでもない。
ここはなかなか深いポイントだ。
さらにいえば欧米の民法に、債権という権利概念があるかどうか疑わしい。

債務(=obligation)を、債権という権利概念として間違い翻訳をしてしまったために、日本人は契約という概念を理解しそこねたのかもしれない。契約には義務しかなく権利はないという考えもできる。契約=contractとは、お互い=conがtract=引っ張るという意味だが、引っ張りあう行為がお互いの義務に相当し、押す行為はない。
債務の不履行は、契約違反として犯罪に等しい(債務者監獄行き)と考えれば、やはり権利概念はでてこない。

日本語では債権と債務はきれいな対言葉のようになっているが、英語ではそもそも債権という言葉にぴたりと対応する単語がない。あるのは債務(debt,obligation)という言葉だけだ。
もし、債務と債権なるものが同時発生するのであれば、債権という権利の放棄はやはりできると考えられる。しかし、それは契約の解消であるから一方の意志だけでの契約解消行為はできないと考えるのが筋だ。だから権利は契約によって発生しないと考えた方がいいのではないか。契約によって発生するのは義務だけだと。

このように、どうも債権という言葉は単なる誤訳にとどまらない根本的な間違いがあるような気がする。
日本の民法は、もともと存在しない債権という名前の権利を契約概念に埋め込んでしまったのではないだろうか。

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2008年08月18日

Civil Law in Chaos

日本の法律が抱える問題はあまたあるが、債権本位主義の問題は根本的で根が深い病だ。
これを早急に抜本改正し、正常化する必要がある。

この問題については、牧瀬義博氏という法学者が昔から研究している。
次に牧瀬氏の著書「マネーと日本の進路」から抜粋しておく。

”最近の研究によると、民法に大きな誤りのあることが分かった。その誤りというのは、民法はもともと債務本位に決めなければならないのに、債権本位に決められているということである。債権と債務が逆である。
民法典は、1898年施行されて以来、今日まで一度もこの根本問題に疑問が投げかけられたことはなかった。

民法は人が生活に必要な衣食住を入手するための法律である。したがって、民法はその中に衣食住を入手するために必要な法律制度を定めていなければならない。そして、日本民法は債権によって衣食住を入手すると定め、米国民法は、債務によって衣食住を入手すると定めている。

それでは、米国以外の民法はどうなっているのであろうか。
まず、近代民法の起源であるローマ法は債務が中心である。イタリア民法、フランス民法、ベルギー民法も、英国も同じく債務法である。・・日本民法 の母法であるといわれているドイツ民法も不思議なことに債務関係法で、どこにも債権法はない。日本だけである。

日本民法は債権本位のため、口約束だけで土地の売買ができ、契約書を作ることも代金を支払うことも登記名義を変更することも必要ない。おそらく世界で一番簡単な民法の規定である。
債務本位の民法では、価格が正当であるか否かを研究することができるが、債権本位の日本民法の場合、価格の研究をする根拠が存在せず、価格の研究は不可能である。

民法は、故意か偶然か分からないが、債権本位の民法になっていた。そして、民法は企業と銀行のため、最大限に有利に解釈されてきた。
このようにして、十分な検討を経ず、誤解からできあがった民法には当然のことながら多くの矛盾が生じている。

民法は、債権と債務のカオス民法となってしまった。
そこには混乱と不統一があるだけで、正しい理論は存在しない。ケースバイケースで解決されているにすぎない。正義と衡平を目的とする民法がカオスに満ち、そこには正義も衡平もない。法律の世界で、しかも民法の中で、このようなことがあっていいのだろうか。

民法が生活するために必要な物資を入手するための法律と考えると、債務の理論が正しい。したがって民法を改正し債務本位としなければならない。
そうなると、正義と衡平が実現され、地上げも、天引きも、両建て預金も、債権と債権の相殺も、代物弁済の予約もできなくなる。”

この本の出版年度は1993年だから、すでに結構前だが、その後も民法は債権本位のままである。民法は早急に根本的な誤りを直し、抜本的な改正がなされなければならない。
民法のような最も基本的な法律の論理が矛盾に満ちたカオスとなっていて、日本の法律をまじめに勉強する人間は、頭の中をウニにしながら何とか理解しようと格闘することになるわけだが、そのうちほんとに気が狂ってしまうのである。
しかし法律家の頭の中がカオスになるだけならまだしも、世の中をカオスに陥れているのが当の民法だというのが許し難い。
実際に日本の大銀行をはじめとする金融機関は、この債権本位の民法によって、諸外国であればとうてい認められないような犯罪的な手口で融資を行い、庶民の財産を合法的に略奪してきたのだ。
こういった明治の頃の大誤訳が元で、100年以上も一切改正されることなく、異常な日本の民法体系ができあがってしまったわけだが、殆どの法律家はこういう問題の存在さえも知らないのがさらに問題だ。

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2008年08月17日

The merchant of Venice

”古代社会では債務不履行に対するペナルティーは過酷なものであった。
古代ローマでは、ごく少額を返済しそこねるだけで、債務者は全財産を没収され、競売にかけれられかねなかった。極端な場合、債務者は借金を払い終えるまで牢屋に入れられた。
西欧では一九世紀まで見られた債務者監獄の制度だ。
つまり債務不履行のペナルティーは単なる法的な解決策ではなく、まさしく懲罰と呼ぶにふさわしいものだった。

だが、債務不履行の罰が奴隷身分への転落だった古代ギリシャに比べれば、それでも大幅な改善だったのである。
イギリスで債務者監獄が廃止され有限責任会社の制度が発明されるのは、ローマが滅亡してから1500年ほど先のことだが、それによって資本市場のありようが改良され、世界経済の爆発的成長に点火する一助となったのである。”

==

以上は、「豊かさの誕生」からの抜粋だが、このように債務不履行を窃盗と同じと見なし、債権者側に圧倒的な権利を与えることを債権本位主義という。
これが近代になると非人道的なものとして否定され債務者監獄が廃止され、債務本位主義に転換していったわけだ。
これはきわめて大きな制度上、法律上の進歩だ。欧米先進国ではどこでもこの債務本位主義の法体系になっている。

だが、驚くべきことに日本は未だに古代ローマと同じ債権本位を民法上とっているのである。
日本の過酷な取り立てはなにもサラ金に限ったことではなく、この民法上の債権本位の原則からきているのだ。それによって債務奴隷を古代ローマと同様に生み出してきた。
今回のサブプライム問題でも家のローンを返せなくなった場合、あちらの人間は家をあけ渡すだけで済んでいるが、日本だとそれだけでは済まない。

だから、サラ金問題の本質は、金利そのものにあるのではなく、古代ローマ並みの野蛮な債権本位主義をとる日本の民法体系にあるといえる。
サラ金などの過酷な取り立てに対する対策としては、金利を規制するのではなく、民法を債務本位主義に抜本改正することが本筋なのだ。
また債務本位にすると同時に、連帯保証人制度などの無限責任を負わせる制度も廃止すべきだ。


”ベニスの商人”の話も日本では、本当はシャイロックが正しいなどと馬鹿な解説がされることがよくあるが、この話は時代遅れで野蛮な債権本位主義を批判しているものなのである。

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2008年08月02日

Much ado about J-Sox

J-Soxと呼ばれている日本の金融商品取引法24条の4の4は、上場企業の内部統制体制構築の義務を定めたものと考えられているが、実は違う。
この点に私も漠然と疑問を持っていたのだが、本法律は内部統制体制構築義務を謳っていないというのはほぼ決まった解釈と考えて良いだろう。実際、そのようなことは一切書かれていないからだ。

このことの意味するものは大きい。要するに内部統制報告書の提出義務はあるが、内部統制報告書に”内部統制体制の構築はお金がかかるので特にしませんでした”と書いておけば法律上は全く問題がないということだからだ。

アメリカの場合は、Sox法制定以前に監査法人側が訴訟対策としてCosoフレームワークのような詳細なものを作っていて、それを実際に使っていた。そしてSox法制定によってそれがデファクトスタンダードのようになった。
だが日本の場合は、内部統制報告書提出義務だけを定め、内部統制体制構築の義務を定義しなかった。このことは正解だったが、金融庁のプレゼンテーションが恐ろしくまずかったために、これを新たな強行規定が生まれたと誤認し、内部統制体制構築狂詩曲状態が生まれたわけだ。


監査というのは一般に民間の基準がベースで、法律で詳細を定めているわけではないらしい。その点に混乱原因の一因があるのだろう。
金融商品取引法24条の4の4では内部統制体制構築の義務を謳っていないにも関わらず、実施基準ではかなり具体的なことが書かれている。つまり法律上は強行規定ではないのだが、法令となる実施基準で、具体的な内部統制体制構築の方法をあれこれと書いたために、やはり強行規定だと誤認されたのであろう。
これは、法律屋と監査屋の法認識のずれがあることで生まれた混乱だ。
八田進二氏と木村剛氏の対談本をざっと読んだ限り、八田氏が法律に疎いことが伺われた。
もしかすると八田氏は強行規定の意味すらよくわかっていないのではないだろうか?
法律で強行規定ができれば、その要件を分析し、対応するのが筋だが、内部統制体制構築の義務が強行規定でない以上、なにもやらないというオプションをまじめに考える価値が生まれる。
だから、金融商品取引法24条の4の4が内部統制体制構築の強行規定だと誤認されたことによる、この混乱の原因は金融庁と監査法人=公認会計士の双方にある。


アメリカにおいても、Sox対応は株主との間で経営がリスクシェアするという対応も生まれている。つまりSoxの内部統制体制構築をしないことを株主総会で決めるのだ。これによって、株主とリスクシェアし、無駄なコストを省くわけだ。

結局儲かったのはITゼネコンだけで、それ以外は皆損をしたのである。


 

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2008年07月01日

Problems for Social Problem

社会問題というのは一般に非問題だ。まずもって社会という概念が曖昧すぎる。
だが政治というのが存在する理由は、社会問題に対処するためということになっている。
公共問題、公共事業全てこれらは社会問題という非問題に対するものである。
近代において政治は、公共の領域を広げつつ、社会問題として扱う領域を同時に拡大してきた。
さらにメディアは社会問題を報道するのが仕事だと考えている。
これによって社会問題=公共問題がますます領域を拡大することになる。
このレトリックは政府に権力を集めるために用いられてきたわけだ。
この極めつけが、環境問題であり、これは社会問題どころか人類の課題となっているらしい。
しかし、実際、個々の問題というのは、個人的な問題であり、個人と個人の関係の問題だ。
それが社会問題として一般化?される境界は存在しない。
どこかの狂人による通り魔殺人は以前からあったが、今ではこういった事件をいかようにも社会問題とすることができる。

法律も私法=民法がほぼその全てであった時代は、よかった。

貧困の問題もしょせんは個人の問題だ。Aさんが貧乏なのはAさんの問題にすぎないが、社会政策として政府が税金を使って是正しなければならない社会的な課題となる。

これを世界的にみて、A国が貧乏なのは、世界の社会問題とされる。
社会問題=公共問題を解決すべきものとして、もろもろの公法が際限なく立法さ れるようになっていったのは20世紀の半ばあたりからだろう。
この流れを止めることができなければ、1984の世界は現実となるに違いない。
 
ハイエクは、"Private law persists,Public law passes."と言ったが、現代はむしろ逆である。
"Public law persists,Private law passes." が現実に近い。

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2007年08月19日

Incentive of crime

バーネットの本(自由の構造)について、蔵さんの掲示板で少し話をした。
私が言ったのは、バーネットのいうところの完全賠償が、一切の懲罰賠償を含めないものだとすれば、それは、犯罪者の遣り得に必ずなるだろうということだ。

そもそもなぜ、人が金やモノを盗むのかといえばそれは捕まる確率が100%ではないからだ。
もし、捕まる確率が100%で、かつ懲罰金があれば、泥棒というのは割りにあわない行為となるので、盗みに対するインセンティブがなくなる。
#さらに言えば、捕まるまでの時間も問題になるだろうが。

捕まる確率が犯罪行為のリスクだが、窃盗犯罪でのそれが仮りに10%だとして(もっと高いかもしれないが)、100万円の泥棒をする価値は1000万円になる。
#窃盗犯罪行為に対する賠償請求が実損害(+α)程度しかないのであればそうなる。

これはパチンコや宝くじを買うよりもはるかに割がよいリスク行為だ。
当然ながら、この捕まる確率というのは、犯罪者の主観的な期待確率だから、実際はもっと小さいだろう。
この犯罪価値と賠償額の比較において、犯罪価値が高ければ博打と同様のインセンティブが発生する。
#賭博を犯罪とする国もあるが、たしかに賭博と犯罪には近い心理構造、インセンティブ構造があるかもしれない。それは自分に好都合な期待確率と、スリルである。
もっといえば、これはリスク行為全般にある性格なのかもしれない。

それに窃盗行為そのものは、短時間の行為であろうから非常に割のいいスリルを味わえることになるわけだ。
実際は、民事請求となる損害賠償を犯罪者自身はほとんどすることもないし、禁固になったとしても冷暖房完備の刑務所で楽な労働をするだけで、かなりよい只飯も食えるとなれば、さらに犯罪へのインセンティブは高まる。
この犯罪行為への経済的なインセンティブの高さは日本の服役者の再犯率が4割以上という数字が証明している。
これを経済的にナンセンスな行為にすることが犯罪阻止の基本となる。

私は、犯罪に対しては、時間選好制などといったスノッブな経済学用語を使うことは全くトンチンカンなものだと思う。そうではなく、ほとんどの犯罪は単にインセンティブの問題として扱うべきだ。
検挙率が問題なのも、犯罪者の検挙率が下がれば、これは捕まるリスクを下げることで犯罪行為に対するインセンティブを高めることになるからである。
こういったインセンティブの構造は、殺人などの重大犯罪であっても全く同じことなのだ。
未成年者犯罪であってもこのインセンティブ構造は全く同じだ。

また日本の不法行為法は懲罰賠償を認めないために、ほとんど意味、効果のない法律となっている。そして、その分、刑罰の重罰化を進めているというのが事実だろう。だが、これが本末転倒なのは言うまでもない。

基本的に、窃盗などの犯罪は、金銭賠償で償わせるだけで良いが、多くの犯罪者は勤労能力にかけているだろうから、その場合に、民間刑務所に服役させ強制労働をさせることで、懲罰的賠償額分の労働をすることで償わせるという仕組が考えられる。当然、犯罪者に正当な所持金があれば懲罰賠償額だけを払って、服役しなければ良いということになる。

こういった損害賠償モデルを一般犯罪に適用するためには、刑務所自体がビジネスとして成立していなければならない。
日本の場合は、法務省の役人が刑務所を運営している限り、刑務所がビジネス上の採算性を獲得するということは今後もあり得ない。だが、採算化が仮りに民営化によって可能であれば犯罪者の償いの在り方というのは根底から変わることになる。続きを読む
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2007年07月24日

Selection of capital punishment

>もし、住居を移らなくても、住民が複数の法体系から自分が服する法をあらかじめ選ぶことが可能だとしたら、その人の信条によって死刑制度のある法とない法にばらけるだろうが、私は死刑制度のある法を選ぶだろう。

このとき、被害者の選択した法だけが適用される。被害者が運悪く?死刑制度のある法を支持している場合、犯罪者は自分の選択とは関係なく死刑になる可能性がある。
こうした場合、リスクマネジメントとしては、普通の善良な人なら死刑制度を支持しておいた方が合理的な選択になるだろう。

宗教的な理由など死刑制度を許さないという信条も尊重すべきであるから、そのような法律も選択できるとよいわけだが、そういう人はむしろ少数派ではないだろうか。

年間、刑事犯罪は300万件以上あり、そのうち殺人事件は1400件程度である。単純には0.05%弱だ。そのうちでも特に凶悪なマスコミを騒がす事件となるとぐっと減少するはずだ。
http://www.moj.go.jp/HOUSO/2006/table.html#07
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Crime and Compensation

私は刑事法ー刑事訴訟法は全く疎いのであるが、蔵研也さんの力作「無政府資本主義とはどのような社会か」を拝見して、いろいろと思うことがあった。
http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/anarchic%20society.htm

いつものことであるが、現行の著作権制度を恐れず(笑)、このテキストの4章「現代国家と裁判制度」から抜粋したい。

===
犯罪とは基本的に「社会秩序」に対する罪であって、個人に対するものという意味は薄れているといえるのである。

被害者の立場は国家によって行われる刑事裁判に対して後回しにされている。そしてこの事実は、多くの被害者のもつ刑事裁判制度への不満を生み出しているのである。

 では次に、やや原理的な問題に立ち返りたい。そもそもなぜ犯罪者を罰する必要があるのだろうか?

 第一の考えは、もっとも古くから存在したもので、「古典的応報刑論」と呼ばれる。それは「倫理的に悪いことをしたのだから、その報いとして苦痛としての罰を受けるべきなのだ」というもものである。西洋ではカントなどが主張したことで有名である。これは道徳的な直感を頼りにした議論だが、現在は野蛮である、原始的、感情的であるなどとして声高に主張されることは少なくなってきている。

さて、第二の考えは、「予防刑論」と呼ぶべきものである。これにはさらに細分化して、二種類の考えがある。

 まず、犯罪を犯した特定の個人が再び犯罪行為を引き起こさないように、社会から隔離する必要があるという、「個別予防論」である。あるいは、再び犯罪を犯さないような人格へと「再教育」を行うために「罰」が与えられるのだと考える要素もある。この場合、罰というよりは教育というべきであろう。このような教育刑論は20世紀に入って高まったものである。その考えによると、犯罪者とは何らかの理由で人格の形成上、適切な社会化がなされなかったために犯罪を起こした人たちであり、矯正教育によって、一般的な生活を送ることが可能になるのだという。

 フリードマンのように一般予防を重視する思考は、刑法の啓蒙思想家であったベッカリーアから始まる。18世紀、ミラノのベッカリーアは『犯罪と刑罰』において当時の恣意的な拷問や死刑の安易な適用に代えて、刑罰はその犯罪に見合った適切な量刑であるべきことを説いた。また教育刑や社会政策においてもベンサムなどに影響を与える主導的な思想家だったのである。

 つまり、応報刑論と予防刑論の二つの理念からみた望ましい量刑は異なってしまうが、それはやむをえないのである。また現代社会では、刑罰の執行主体が被害者ではなく、国家であるため、状況はさらに錯綜したものになっているといえるだろう。では、現在のように国家が刑罰を押し付ける状態が解消した場合には、無政府社会ではどのような刑罰が課されるようになっていくのだろうか。

 日本の刑法典では、まず内乱や外患誘致などの国家に対する罪が規定され、その後、社会不安を生じるような騒乱や放火、電車転覆などが規定されている。最後に、純粋に個人的な法益への犯罪としての、殺人や傷害、強盗やレイプなどが規定されている。いかにも、国家主義的な時代の遺物というべき状況にあるのである。国家への罪などそもそも存在せず、社会への罪は個別的な殺人や傷害の可能性に還元されるべきである。私的な刑事手続においては、社会的な罪はすべて、それに応じて潜在的な被害者が感じる恐怖を積分することによって量刑されることになるだろう。

 われわれの生きる現代社会では、犯罪とされる行為に関しては、国家が第一義的にその懲罰責任を負い、刑事裁判制度が活用される。そして、それ以外の私的な紛争の場合には、民事裁判制度を利用することになっている。あるいは利用することが、法規範上は一応、予定されているのである。
 しかし、このような二分法は、そもそも警察活動がもっぱら国家によってなされることとに起因している。現代人はこのような制度にあまりにも慣れきっていて、それ以外の制度がありえるとはほとんど想像することもできないのだ。しかし、無政府主義者が主張するように、たしかに代替案は存在する。

 それは、刑事法を民事法と一体化する、民刑一体の法制度である。簡単にいえば、刑事制度を民事制度に還元してしまう制度だといっていいだろう。そして、無政府の社会には警察活動を独占する国家は存在しないため、民刑一致の法制度はまた、無政府社会では必然とならざるを得ないのである。

 同じように、ベンソンはその著『法の企て(The Enterprise of Law)』の第2章において、ノルマン人の征服以前のアングロ・サクソンの刑事制度が、賠償を中心とする民事制度であったことを、イギリス法制史研究を引用しつつ報告している。その後、ノルマン王朝は「王の平和king's peace」を乱すという名目の下に、徐々に一般刑事事件にその干渉範囲を広げていった。王の主だった刑事事件への関心は、その資金調達にあったという。このように王権が伸張した結果、犯罪者は財産を没収されるが、その財産は被害者には渡らなくなる。歴史的な時間のなかで、人びとは王が犯罪者の財産の没収と罰金を独占する態度に反発し、刑事裁判にむしろ非協力的な態度へと変化していった。

 考えれば、それは無理もないことだろう。現行の英米法における刑事訴訟制度でも、被害者は単なる証人の地位を得ているに過ぎず、その証言活動の主要なモーティベーションは犯人の処罰であって、賠償を受けることではない。皮肉なことに、犯人が有罪判決を受けて刑務所に収監されると、犯罪被害の賠償はますます困難になるのである。

===

以上、長々と引用させてもらったが、蔵氏の博学さと、オツムがよく整理されていることは、毎度感心する。こういう学術的なテイストを前面に打ち出した本を出せば、売れるに違いない。

ところで、事故と犯罪ではその被害=結果が同じようなものでも、受け止め方が全く異なる。
そこにある最大の違いは、やはり相手に対する憎しみという点だろう。
熊や鮫に襲われて重傷を負うのと、異常犯罪者にやられるのとでは意味が違う。

現代国家では、被害者の相手に対する憎しみを補償せず、国家がいわば代理として、その”罪”のみを裁くという構成をとっている。(罪を憎んで人を憎まず。)
つまり、”憎しみの補償”を被害者自身には一切関与させない。言い替えれば被害者は刑事犯罪事件に対する債権者にはなれないわけだ。そこにたしかに違和感がある。
また犯罪といっても、一つ一つが事情の異なるものである。それによって、結果が同じようなものであったとしても、その憎しみの程度は大きく異なる。
通常、こういった議論をすると、マスコミで騒がれる残虐事件をイメージしてしまうが、刑事犯罪の幅は広く、一律には論じることができない。

民事訴訟で行う賠償請求では、凶悪犯罪者に対する被害者の憎しみの補償にはならないのが現実だろう。
犯罪者に対する憎しみと、被害からうける悲しみには相関があるはずだが、人間は通常、憎しみの感情を昂ぶらせることでよって、悲しみを打ち消そうとするのだろう。
しかし国家であれ、第三者であれ、被害者の代理として、被害者の憎しみの補償をある程度させることはできなくはないが、”憎しみの補償”をしても、”悲しみの補償”には完全にはならないという本質的なジレンマがある。

だが、マスコミで騒がれるような異常な犯罪者による自分や身内がうける重大犯罪というのは、いわゆる刑事犯罪のごくごく小さい割合しかないことに注意すべきだと思う。
これは、いつの時代でも、またどの国でもそうだったに違いない。
そういった社会を恐怖に陥れるような凶悪犯罪は、その他圧倒的多数の刑事犯罪と比較すれば、極めて稀なのである。私は、そういった稀なグロテスクな凶悪犯罪に対しては、容赦なく、また成人か否かを問わず、極刑をもって処すのが当然だと思う。
もし、住居を移らなくても、住民が複数の法体系から自分が服する法をあらかじめ選ぶことが可能だとしたら、その人の信条によって死刑制度のある法とない法にばらけるだろうが、私は死刑制度のある法を選ぶだろう。

つまり圧倒的多数の”普通の刑事犯罪”は、損害賠償問題に還元されうるだろうが、一律には扱えない一線がある。
適正な量刑を問題にすることは、職務発明問題の”相当の対価”と同じような、解けそうで解けない問題だと思う。つまり一般解は存在しない。
適正な量刑は、適正な抑止、適正な加害者の人権保証と対応した考えだが、リスクマネジメント的な考えでは、適正な抑止をするには、過大な防御をしなければならない。
適正な加害者の人権保証というのは、幾分誤解を招くミスリーディングな表現かもしれない。
問題は、加害者とされる者が冤罪をうけるリスクである。冤罪によって極刑にならない保護装置を設けることが、社会一般の人間に対する社会的保証として重要なわけだ。

この過大な防御と保護装置というのが、相反する課題となるわけだが、99%の”通常犯罪”であれば、それほど深刻なジレンマにはならないだろう。
そして、問題は通常犯罪の一部である経済犯罪だ。これについては、また今度まとめてみたい。以上考えが全くまとまっていないが、思ったところを書いてみた。




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2007年06月19日

Additional Judicial Review

司法は腐り人権滅ぶ 井上薫 講談社現代新書

井上元判事の最新刊を買った。
この中で違憲立法審査制度についての記述があるのだが、まとめておこう。
違憲立法審査制度は、なかなかに私も良く分からない部分であったが、この本の解説を読んでよく理解できた。
まず、違憲立法審査権の憲法上の根拠条文は憲法の第6章(司法)の第81条である。

憲法 第八十一条  最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

この解釈だが、その前に、違憲立法審査制度には、ドイツのような憲法裁判所を置き、立法審査を当たる場合がある。ここにおける”抽象的裁判”で違憲とされた法律はすぐに失効する。
これは司法による消極的立法と呼べる。
しかし、日本には、このような憲法裁判所制度は当然ながらない。
日本の違憲立法審査81条が、憲法上、どのような位置づけにあるかが法解釈上の前提条件になるが、81条は日本の憲法6章(司法)におかれていることから、”司法についての規程”であり、法律にもとづいて裁判所が具体的事件を裁判する場合の規定である。

このため、違憲立法審査権とは、「具体的事件を裁判する上で必要な範囲で行使することができる」と理解しなければならないことになる。「81条の条文の位置が、違憲立法審査を抽象的裁判と理解させる可能性を奪っている」とする。
これにより、違憲に関する”一般論的判決”を裁判所が出すことをできないことを意味し、それをした場合、司法の越権行為であり違法行為となる。
そして「このように、違憲立法審査権を具体的事件を裁判する上で必要な範囲でのみ行使する制度を付随的違憲立法審査制度と呼ぶ。」
#なお、81条の解釈として付随的違憲立法審査権は最高裁にのみあるのではなく下級審にもあることを暗黙のうちに認めている。

そして、井上氏は、1968年の尊属殺人事件で、刑法200条の尊属殺人に対し一般的違憲判決を下した最高裁の大法廷判決は、明らかに違法行為だとする。

具体的には、ここで一般的違憲判断を下したことが間違いであった。親を殺したから即、尊属殺人を適用しようとしたことには無理があり、この事件で「被告人が父を殺した行為に尊属殺人罪を適用することは平等原則に違反するという判断こそ、裁判所の権限からしてあるべき憲法判断でした。」と結論する。こうすれば、尊属殺人そのものに対する一般的違憲判断をしないで済むことになる。

「この憲法裁判所のまねをした本件裁判所の所業を私は”憲法裁判所ごっこ”と呼んでいます。」

#ちなみに、この刑法200条(尊属殺人)は、平成7年の刑法の口語体化にともない、”ついで”に削除された。
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2007年05月17日

Totaltarianism by CSR

株主,経営者,従業員と、この3つの法的立場の異なる存在が企業内にはある。
株主はその会社の所有者であり、経営者は株主から委任された存在である。
従業員は、経営者との間で雇用契約を結んでいるだけの労働者である。

従来、日本の会社では株主ー経営者の委任関係が曖昧にされつつ、従業員が出世して取締役や社長になるという出世コースがどの会社でも当然のようにあったから、経営者と従業員の距離は連続的な近いものと感じられてきたが、法的な立場で言えば、大きな隔たりがある。

株主から委託された会社の執行権限者としての経営者は、株主利益のために代理人として動いているという点で従業員よりも経営者に近い存在といえる。
アメリカ型と日本型の経営がしばしば対比されるが、この点は会社法上でアメリカ型も日本型も変わりがない。

意外と解釈が難しいのは、従業者間の関係だ。従業者間では当然に多くの仕事を頼んだり頼まれたりして業務を行っていくわけだが、この間にはどのような契約があるのかというと、明示的な契約は何もない。当然、頼まれた仕事をちゃんとやらなければ評価に響くわけだが、ここに債権ー債務関係があるようには見えない。
いわばこの間の契約はimplicitな契約であり、雇用契約から派生した自明のものと考えられているわけだ。

経営者と従業員の間で労働契約という血の契りを結ぶと、あたかもファミリーの一員のようにして動くわけだが、そこで必要なのが、経営者と従業員との間の連続的な関係性である。
現実は、経営者と従業員は異質な法的存在だが、それを隠蔽するのが、従来の日本の出世(昇進)システムだったといえる。社員といえば法的には株主を指すが、従業員のことを社員と呼ぶ慣習も法的事実関係を隠蔽する言葉のマジックといえる。

だが、株式会社の所有権が株主にあるという法的な明白な事実すらも隠蔽しようとする今の風潮は尋常ではない。
現在、コンプライアンスだCSRだと世の風潮の尻馬にのって騒いでいる連中こそが法的に最も危険な存在といえる。

なぜなら、これらの問題は本来、裁判所で解決すべき問題だからだ。コンプライアンスだなんだという話を聞くと、なんでこんな事件が裁判にならないのかという泣き寝入りの実態が多いことがわかるが、普通の日本人は弁護士も含めてそれを奇異なこととも思わない。
日本の裁判システムがほぼ全く機能していないことを前提として、コンプライアンスやCSRという名目の全体管理強化により問題の事前予防を計ろうとしているわけだが、このことが逆に法の大原則である、契約自由の原則も、個人の自由の保証をも破壊することになり、日本的社会民主主義つまり全体主義の強化を推し進める最悪の結果に帰着するわけだ。

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2007年04月24日

Gray zone interest on money

井上元判事が、利息制限法一部空文化判決に対して批判をしている。これを読むと井上判事はバランスのとれた、ものの見えた人物だとあらためて分かる。

まずグレーゾーン金利について簡単にまとめておこう。
意外と知られていないのは、出資法と利息制限法といった似たような法律がなぜ二つあるのかだ。本質的な違いは出資法は貸金業者を対象とした産業政策法に属する公法であり、利息制限法は私法に分類され一般人にも適用されるという点だ。

出資法の上限金利が29.2%と固定で、利息制限法は、貸出額に応じて3段階あり、10万円未満が年20%、10〜100万円が18%、100万円以上が15%となっている。
この間の金利がグレーゾーン金利と言われている。
公法である出資法は、違反すると刑事罰が課される。そのため、闇金でない通常の貸し金業者は、出資法の枠内つまり29,2%以下で合法的に営業する。一方の利息制限法は私法であり、刑事罰はない。

実のところ問題は、この利息制限法の方だ。利息制限法がある以上、グレーゾーン金利であっても、違法ではないかと考えるのが普通だろうが、利息制限法1条の全文をちゃんと読まないといけない。
この1条の解釈で、井上元判事が指摘する利息制限法の最高裁による一部空文化判決の問題が登場するのである。

まず利息制限法の条文だが、第1条が次の通り。

(利息の最高限)
第一条  金銭を目的とする消費貸借上の利息の契約は、その利息が左の利率により計算した金額をこえるときは、その超過部分につき無効とする。
   元本が十万円未満の場合          年二割
元本が十万円以上百万円未満の場合     年一割八分
元本が百万円以上の場合          年一割五分

2  債務者は、前項の超過部分を任意に支払つたときは、同項の規定にかかわらず、その返還を請求することができない。


1条1項で上限金利の制限を行い、その超過部分につき無効とする規定をおきながら、2項では、「債務者は、前項の超過部分を任意に支払つたときは、同項の規定にかかわらず、その返還を請求することができない。」としている。この”任意”で支払った場合はというのが、極めて重要な要件になる。
この2項で契約自由の原則を担保しており、任意の支払いであれば、1項の上限金利を上回っていても違法ではないとしているのである。この2項の存在が重大なのだ。

しかし昭和43年の最高裁判決で、この利息制限法の2項を空文化する判決を出した。つまり、2項で規定する任意で支払済みの超過分も、貸した方が返還せよとする判決を出したのだ。
これによって司法府は立法府が作った法律を勝手に空文化したことになる。これは、明らかに3権分立をおかした越権であり司法府が違法を行っているのだと井上元判事は分析する。

その後、この1条2項の空文化判決によってグレーゾーン金利というより利息制限法を上回る金利領域(つまり上限なし)はますます法律解釈的にもグレーなゾーンとなった。利息制限法1条2項によって違法性を否定されてる行為が場合によると違法かもしれないという状況になった。
いわゆる大手銀行であれば、この利息制限法の枠でしか営業をしないし、つまるところは個人のリテール相手にはあまり貸さない。

一方の貸金業であるサラ金業界では、通常このグレーゾーン金利の出資法の上限金利内で商売をし、ほとんど担保もない個人相手に営業をおこなってきた。
だが、貸金業界は、この最高裁の1条2項の空文化判決により法的には極めて危ない橋をわたってきた。
こういった状況から、昨年からのサラ金規制法に至ったわけだ。
この法の効果は劇的であった。だが、サラ金が消えたことよりももっと恐ろしい結末がそのうち明らかになることだろう。
金融社会主義とは、そのまま露骨な社会主義統制経済以外のなにものでもない。
つまり、これによる結末として社会から自由そのものが消える可能性が高い。
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2007年04月21日

Judge's overspeaking

司法のしゃべりすぎ 井上薫 著

この本の著者である井上判事は、こういった司法批判の本を書きすぎて、最近、裁判官を首になった。つまり裁判官のしゃべりすぎというか、ほんとのことを公に正直に書きすぎて、官僚体制から当然のごとくに排斥された人だ。
なんとも裁判官とは思えないほどに正直な人物なのである。やはりというべきか、井上判事は、もともと理系の人で東大の理学部を出ている。
#東大の法学部を出たような人間では、まずこういったことはしないだろう。

理系の訓練を積んだ人間からすれば、日本の司法官僚制度のナンセンスさが耐えがたいものだったに違いない。
官僚による正直な内部批判としては、「お役所の掟」シリーズを書いた宮本さんというのもいたが、それと少し似ている。
彼らは、官僚の立場で、正直かつ軽妙な内部批判をしたわけだが、それによって自分が当然に排斥されるということに思い至らなかったのだろうか。井上(元)判事は、法理論を述べているから自分の批判は中立だと思っていたのだろうか?
それとも、首になることを覚悟した告発だったのだろうか。おそらく前者だろう。だが、こういうまぬけ?な正直さは非常に貴重だ。

判事のしゃべりすぎは、プライベートの範囲では本来歓迎すべきものだ。あのポズナーも、自分のBlogで自由闊達に自らの意見を開陳している。そこに政治的な判断で発言を控えたりといった配慮はほとんどしていないと思われる。
だが、日本の司法官僚制度ではそういうわけにはいかないということだ。井上判事の批判は権威を重んじる司法権力への挑戦とでも受け止められたのであろう。

しかし司法の権威ということでは、アメリカの判事の方が日本の判事=司法官僚よりも圧倒的に高い。
それは、アメリカの司法制度の方が、日本の司法制度よりもはるかに社会的な有用性の高いことが社会的に認知されているという証拠でもある。

井上判事の主張はとどのつまり、実定法の解釈者でしかない判事は、実定法どおりの規則に則った行動しかしてはならないということだ。判決の理由欄に判決と関係のない見解を開陳することは温情的なようでいて実は弊害のほうが大きいということを言っているだけだ。

井上判事は、このような軽妙な本を書くくらいだから、自分も書こうと思えばいくらでも判決理由に蛇足を書くことはできたろう。だが、理系的な実直さから、それが偽善であり間違いだと確信していたわけだ。司法権力が不用意にまたは政治的に書きくわえる判決理由の中の蛇足は拡大解釈され、司法に対して過剰な政治権力までも与える危険性があるのは井上判事が指摘する通り事実だろう。

これがコモンロー的な世界であれば違う。コモンロー判事であれば、自分の法理となる正義を開陳することは自由であり、また推奨もされるだろう。アメリカの判決文ではそれゆえに格調高い名文の判決文が多くある。
だが、大陸法のPositivismは、そのようなルールはもとよりないのであって、判事といえでも司法官僚の行動には制限が規定され大きな限界がある。それはPositivismの限界であり、そこに判事自身が大きな窮屈さを感じているから、慣行的に日本の判事は蛇足を書きつづけてきたのに違いない。

”良心的”な判事は、パターナルな”配慮”から、被告を諭すようなこともいうわけだが、これも圧倒的に非力な個人と、巨大な権力とを同じ立場にたたせ、正義の秤にかけるという裁判の趣旨からすれば間違っている。例えば、ホリエモンの事件でも子供を諭すようなことを判事が言っていたようだが(判決理由の中ではないかもしれないが)、有罪が確定したわけでもない被告に対して国家権力を象徴する判事が言うべきことではない。

日本の司法は、司法官僚の裁量によって時に温情的なようでいて、実は、正義とは別な論理にすぎない実定法という冷酷なルールのみに従っているという事実を蛇足を加えることで誤魔化し、隠蔽しているわけだ。
井上元判事の主張はいわば極端な実定法主義であるが、実定法に極端と中庸の違いはなく、実定法主義をとる限り条文の解釈に終始する”極端”なものとなるだろう。つまり実定法主義=Legal Positivismに従うかぎり、井上元判事の主張が正しい。この司法に対する制約は憲法の命じるところであるから、それを無視し否定した司法の行動は日本の司法システムそのものの自己否定に等しい。

そもそも司法官僚と行政官僚はともに公務員官僚であり、その彼らの身分が彼らの思考と行動様式を規定、限定しているのだ。

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2007年04月08日

Japanese Court system

司法改革として法科大学院を作り司法試験の合格者を5倍くらいに増やそうとしているが、肝心の裁判官の人数はほとんど増やさないようだ。
これでは、司法はスタックするのは確実だろう。

もし、弁護士を5倍に増やすのであれば、同様に裁判官も5倍に増やすべきである。いや、裁判官の方は2-3倍も増やせば今よりも4-5倍以上の事件処理能力をもつはずだ。
日本の過小な裁判利用率をせめてヨーロッパ並に引き上げるためには法曹を全体的に増員する必要がある。

しかし、日本の司法制度は民事でもほとんど利用されずにきており、刑事裁判では起訴されたら100%有罪という現状では、そもそも司法制度なんていらないということなのだ。
機能してなくても社会はなんとかやってきたのであるから、司法制度自体が大して必要のないものだということの証明だ。

これは中国のような共産主義の独裁国家で裁判制度が大した意味のない制度であるのと全く同じことだろう。

アメリカで陪審員制度という古式ゆかしい制度がかたくなに守られているが、これは陪審員制度が自分達を守る上で大きな価値のあるものだという認識が強いからだろう。
アメリカの裁判官でさえ、(自分が当事者となる)裁判になれば陪審制度でやってもらいたい人がほとんどだというアンケート結果がある。
つまり少なくともアメリカでは裁判制度は個人の財産を守るために重大な意味があると認識されているということだ。
司法とは単なる利害の調整装置ではないのだ。

だが、日本の司法は何を守っている制度なのかすら、明確ではない。
司法官僚制度のなかで、司法官僚は行政官僚と同じ論理で行動する。
特にライブドア事件などをみるにつけ、司法制度はないよりはマシなものだとすら思えない。個人の権利ではなく国家利益なるものを優先する司法などあってはならない。
そこにあるのは、60年以上前の戦中の体制と同じ国家主義、国家社会主義だ。

司法においても、Justice=正義の原理は、集団の論理の中にではなく、個人の中に見出さなければならない。
こういったキリスト教的ともいえる正義観がなければ、司法そのものが単なる国家権力の行使装置となり、自由を守るどころか個人への抑圧装置にすぎなくなる。
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2007年03月21日

Criminal Code

昨今、知的財産法や不正競争防止法などで、大幅な刑罰の強化が進んでいるが、これは、全く効果がないだけでなく極めて危険なことだ。
この刑罰強化に意味がないという点は池田さんの指摘する通りだ。
ポパーは、次のようなことを書いているが、今は、経済法の分野を端緒として、刑罰理論の逆行が進んでいる。ほとんどの法律屋は分かっていないが、経済法を限定的に捉えるのは間違いであり、これは結局個人への脅威に帰着する。法人税率アップが個人への増税に帰着するのと同じである。


われわれの手で改善された二つの事柄について手短に触れてみよう。
最も重要な点は、私の子供時分や青年の頃にはまだみられた大衆の恐ろしいまでの貧困が今は消滅したことである。

第2は刑法の改革である。
最初、刑罰の軽減は犯罪の減少につながるだろうと期待した。しかし、事態がそうはならなかったとき、われわれはそれにもかかわらず、むしろ悪事を被ろうとする道を選んだ。批判者たちは、われわれの社会が腐敗していると非難する。おそらく彼らは、他方の選択肢が意味するところを理解していないのである。われわれが選んだ法秩序は凶悪な犯罪者にも、疑わしいだけでは罰せられない完全な法的保護を保障する。そして、われわれはこの法秩序を無実の者に対しての法の保護が与えられず、無実であることに何ら疑いのない場合でさえ処罰されてしまうような法秩序に対して選び取ったのである。
しかし、われわれは、おそらくこの法秩序を選ぶ際に、さらに他の価値も選んでしまったらしい。
われわれは全く無意識のうちに、ソクラテスのかの素晴らしい格言を適用したのであろう。すなわち、「不正をなすより、不正を被るほうがよい。」

カール ポパー よりよき世界をもとめて から抜粋


2007年03月21日
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2007年02月11日

憲法で読むアメリカ史

阿川尚之「憲法で読むアメリカ史」PHP新書を読んだ。
この本は非常に素晴らしい。吉野作造賞を受賞したらしいが名著と呼べる本だ。
私がここ数年で読んだ日本人の書いた本の中ではベスト1だ。
(日本人の書いた本はあまり多くは読まないのだが。)

特に、アメリカの法に興味関心がある人には必読の本だろう。
アメリカの歴史を単に出来事から表面的に眺めても退屈だが、その深層にある
法、憲法をめぐる歴史と捉えると、極めて知的なドラマとなる。

日本では、アメリカ法に関する一般的な良書がいままでなかった。
そのため、ごく一部の専門家を除いて、アメリカ法に対する理解は全くなかったのが実情だろう。
この本はアメリカ法を学ぶときに最初に読むべき最良の入門書だろう。
これを読んでから、ポールジョンソンの「アメリカ人の歴史」を読めば、また違った面白さが味わえる。

訴訟大国うんぬんといった程度のイメージでアメリカを理解するのは無理であって、
連邦憲法の意味を理解することから入らないとアメリカという"法の大国"の素性は全くわからない。

そして連邦憲法を問題にすると、必然的に合衆国最高裁の歴史ドラマとなる。
まさにConstitution of liberty というべきアメリカの連邦憲法は、制限憲法であり、
連邦議会の立法権力を限定列挙で制限(enumerate)し、連邦と州の関係を定めている。

レーンキスト コートのNew Federalismによって現在のPost-NewDeal-constitutionは、元の憲法と連邦最高裁に
ある程度は回帰したが、一旦、巨大化してしまった連邦政府はどうにもならないのが現実だ。
しかし今後もアメリカの政治状況はその憲法解釈と表裏一体で進むのである。



2007年02月11日
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2006年12月22日

Marbury v.Madison case

マーシャル判事(Chief Justice Marshall)が、このマーベリv.マディスン事件(1803)で、司法再審理の原則を確立した。以下に有名な部分を抜粋し訳も載せておく。



[http://www.lectlaw.com/files/case14.htm]

The powers of the legislature are defined and limited; and that those limits may not be mistaken or forgotten, the constitution is written.



立法者の権力は定義され制限されている。そしてこれらの制限は誤解されたり忘れ去られてはならない。

そのために憲法は書かれているのである。





To what purpose are powers limited, and to what purpose is that limitation committed to writing; if these limits may, at any time, be passed by those intended to be restrained?



もし、これらの制限が、当の制限が課せられるように意図された者達により、いつでも回避されるとするのなら、 なんのために権力は制限されるのか、また何の目的があってその制限は成文化されているのであろうか?



The distinction between a government with limited and unlimited powers is abolished, if those limits do not confine the persons on whom they are imposed, and if acts prohibited and acts allowed are of equal obligation.



制限された政府と無制限の権力をもつ政府の違いは失われることになる。もし、その制限が課せられる者たちを制限しないのであれば。そして禁止された立法と許可されている立法が同じ義務なのであれば。





”It is emphatically the province and duty of the judicial department to say what the law is. Those who apply the rule to particular cases, must of necessity expound and interpret that rule. If two laws conflict with each other, the courts must decide on the operation of each. ”



法とは何かを述べることが司法府のまさに専門とするところであり義務である。

法律を特定の事例に適用する人々は、その規則を説明し解釈する必要がある。もし、2つの法律が互いに矛盾するとすれば、裁判所はおのおのの運用について判断を下さなければならない。



==================================



アメリカの最高裁による司法再審理制は、連邦憲法に書かれているわけではないが、このマーシャル判決から法理として固まってきた。しかし、これは当時の流れの中では、当然のことだったようだ。



ハイエクは、次のように書いている。

「いずれにしても重要なことは、司法再審理が憲法の必然かつ自明の部分であったこと、またその採択後の初期の討論において、彼らの考え方を弁護する必要が生じたときは、かれらが充分に明らかな陳述をしたこと、それからまた最高裁判所の決定により、それがまもなく国の法律となったことであった。」

「司法再審理はアメリカの発明であるというより、憲法それ自体と同じく旧く、またそれなしでは立憲主義は決して達成されなかったであろう。」






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2006年12月11日

Common law and Civil law

コモンローと大陸法の違いとは、Law finding systemとman made ruleの違いと言いかえられるだろう。コモンローとは単なるルール体系ではなくLaw finding systemなのである。



アメリカの場合、州裁判所はコモンロー裁判所であるが、連邦法は憲法で立法できる範囲がかなり制限されてはいるものの日本と同じく制定法である。

特許法、著作権法、独禁法といった日本の経済法、産業政策法に相当する法律は連邦法に属する。連邦法で制定できるものは、特許、著作権法、独禁法、税法、外国政策・・などと非常に限定されていることが特徴だ。

そしてリバタリアニズム的には、この連邦法にあたる制定法の多くに対し批判的なスタンスをとる。

連邦法の制定法は極めて強力であるがゆえに違憲審査などによって厳しくチェックされてきたが、それでも余計な法律がどんどん出来てしまう

→アメリカのconstitution of libertyとは、この政府の立法権限をも大きく制限することが本質的なところだ。これがハイエクのいう憲法によって”制限された政府”(limited government)という意味である。

それに対し大陸法システムだと、立法が制限されることはない。むしろ何から何まで法律としてルールを作ることになる。

コモンローは、単なるルールではなくLaw finding systemであるから、逆にコモンローが照らさない部分はないと言われるのである。先進国アメリカのコモンローというのは、世界的に見ても最も古式ゆかしいコモンローシステムだ。

危惧すべきことは、アメリカがハーモナイゼーションやら条約やらを口実に、コモンロー優位のスタンスを崩すことである。実際、アメリカは今この方向にあるような印象がある。そうしようとする勢力はやはりリベラル左派勢力だろう。次期の民主党政権では、この方向にかなり大きく舵を取るような予感がする。



逆に大陸法のルールでは現実の変化に法律は追いつかない。全てをルール化しようとすることで、さらに雁字搦めの体系になっていく。

リバタリアン〜アナルコキャピタリズム的には、コモンローを超えて、decentralized law finding systemのようなものをイメージする。

ここらは、ハイエクの朋友であったイタリアの偉大な法学者Bruno Leoniの論文を読む必要がある。



"Freedom and Law" by Bruno Leoni

[http://oll.libertyfund.org/ToC/0124.php]



#特許法及び著作権法は連邦憲法1条8節8項において連邦議会がこれを制定する権限があることを認めている。

これはジェファーソンが悩んだ結果そうなったのであろう。

それに対し商標法は、憲法上の明文根拠がないが、一般規定の州際通商条項(1条8節3項)=commerse clauseを拡大的に適用している。そして1946年ランハム法によって連邦で登録が可能になった。
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2006年06月25日

Punitive damages

懲罰的賠償(punitive damages)というのは、日本の不法行為法(民法709条)にはない。さらに差止請求権も不法行為法とは別になっているが、アメリカの不法行為法(Torts law)ではこれらは一体となっているようだ。



日本の不法行為法が”弱い”ために、別枠で差止請求権を加えた不正競争防止法を作ったり、重い刑罰を加えた産業政策法などを作って、制度の実行性を担保しようとするわけだ。



例えば、走行中のトラックの車輪が外れ、そのタイヤが歩行者に直撃して死亡させたという事件があったが、この裁判判断では日本の不法行為法のルール通り、要求された懲罰的賠償は拒絶された。



アメリカでの懲罰的賠償の制度もアブノーマルな天文学的賠償額(2002年にタバコ裁判で280億ドルの判決)を陪審制度のもとで被告企業に対し平気で出すようになり企業活動に対する死刑制度のようなものとなったが、2003年の連邦最高裁のまっとうな判断(State farm 事件で米国憲法14条違反と判示)以来、フィーバーは落ち着きつつあるようだ。



TORTS RULEのようなコモンロー的な法理は、殆どの人間活動を民事的に解決していくというパワーを持っており、そのことが行政の介入を制限することにもなる。

逆に日本の不法行為法のように弱すぎると、それを穴埋めする形で政府が介入しもろもろの規制を作り出していく。



アメリカの昨今の懲罰的賠償の行き過ぎはむしろ一時的なものだろう。

判断の根底に企業=悪で、お金を沢山搾取して持っている悪い奴らというイメージがあるのだろうが、それは事実ではない。



また裁判制度そのものが超越的な絶対的立場にあるという前提に立っているため、裁判システム間の競争がありえない。

裁判システムを複数共存させ、それを競争させるというビジョンを非現実的なものとして捨て去るべきではない。

そういった仮定の話はまさに学問的かつ理論的なテーマだ。
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2006年06月23日

Criminal Code

日本は現在、多くの法律で刑罰強化の方向へ驀進しているのだが、このような重大な問題に対しマスコミは完璧に沈黙している。



特に経済法、産業政策法に対する刑罰強化が推し進められている。

これが極めて危険なことであるのは言うまでもない。このような国策=産業政策自体が個人の自由に対する脅威であるのだが、それに対する忠実義務?を犯すだけで、とてつもない刑罰が科されるようになっている。



例えば知財法分野で今推し進められているのは、権利侵害に対する刑罰が最大で10年、それも罰金との併科とすることである。

この懲役10年というのは、飲酒運転で人を殺した場合の刑罰と同じ重さである。



知財法なぞ一般人の生活には関係ないことだから、まあいいやなどと思ってはいけない。ほぼ全ての人間はなんらかの組織に属しており、その組織においてはこういった経済法に服することになる。

こういった刑罰が行政側のレントを強化し、さらには組織が個人を無用に管理強化しようとするインセンティブになり、さらに企業間においても、管理強化に結びついていく。下請けいじめどころか弱小企業は取引先から締め出されていくのである。これは個人情報保護法における一つの帰結でもある。



さらに知的財産権というのは、非常に不安定な権利だ。つまり無効審判などで権利が無効となり遡及的に消滅する可能性が常にある。これは権利満了後でもありうるのである。そのような不安定で不確定な権利に対する侵害でこのような重罰を科すのは間違っている。

懲役10年服役したあと、当の権利が無効になりましたというのでは笑えない。一体、誰が責任をとるのか?



これも中島特許庁長官あたりが推し進めている知的財産推進の一環である。ファナティックな知的財産至上主義者による”我が国”の競争力増大のための浅薄でお粗末過ぎる危険な考えである。
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2006年06月18日

Insider Trading

Insider Trading: An Overview

by Stephen Bainbridge



[http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=132529]



池田さんのBlogでも薦めておいたがこのOverviewは非常によくできたものだ。



どこかの”ほか弁”(=ほかほかの成り立て弁護士で渉外弁護士になるべく留学中の人間をさす。)がフリードマンの見解をプリミティブだとか偉そうな

分かった口を叩いているようだが、フリードマンの見解は、Henry Mannneの古典的かつ画期的な研究と呼応するものである。



ちなみにBainbridge氏は、リバタリアンである。本人がそういっているから間違いない。当BlogでもBainbridge氏のサイトは紹介したことがある。
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2006年06月09日

Principle of Roman law





「ローマ法の原理」 フリッツ シュルツ 著 中央大学出版部





普通、大陸法=ローマ法=制定法主義と思われているが、もともとのローマ法はそういうものではななかったことが、この本を読むと良く分かる。ローマ法解釈に対しては、ハイエクも同様の指摘をしていたと思う。



この本は1934年に書かれた。

ナチス政権下において迫害をうけながらシュルツはこの本を残した。

おそらくこの対蹠にいるのが当時のケルゼンだったのではないかと思われる。





”この「法の民族」は、制定法の民族ではないのである。”



”すなわち、ローマ人の基本的考えは原則として法典編纂を嫌悪し、個別立法に対し厳しい抑圧を行った。”



そして”国家による法定立によって創設されたローマ法”は、”その量たるや驚くほど少ない。”



”国家による法定立一般に対する根本的な抑制”があった。



”十二表法は、ローマ法史にあって全く孤立した立場であり、それはギリシアの影響の産物だった。”



”古典法律学は主として私法学であった。”

”ある種の自然法のような印象があり”、それは”ローマの自然法”ともいえる。


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2006年05月29日

Legal rule

日本の法律は全て官僚が作成している。

こんなものを作れるのは官僚しかいないからである。

司法は、官僚が作った法律(→法=Legal 律=Rule つまりLegal rule)を、法=Lawと呼んで

”てにをは”のレベル、さらには句読点レベルで、あーでもないこーでもないと”厳密”に条文を”解釈”するのが仕事だ。



法律の本をたまに読むと、しばしば「法は○×とすることとした。」のような表現を見る。

しかし、法律の条文を作っているのは、どこかにいる生身の官僚である。

法が作ったのでもなければ、Lawの化身が作ったもんでもない。

この役割分担は実にはっきりとしている。所詮はLegal ruleに過ぎないのであるから、もっと分かりやすく

誤解の余地がないように作ればよいと思うのだが、あえて解釈の余地があるように作っているとしか思えない。



アメリカでは議員立法がさかんだとよく言われるが、あちらは基本的にはコモンローの世界だ。

シャーマン法(日本の独禁法に相当)であるとか、議員の名前がつく法律は、大体において連邦法の実定法の部分であり

アメリカにおける自由を制限する強行法規の部分である。

当然ながら、コモンローを議員立法するなんてことは有り得ない。



おそらくUSAだと、議員立法といっても連邦法の部分だけであるから、議員と数人の優秀な法律家スタッフだけで、法案(Legal rule)を作ることができるのだろう。

コモンローと、連邦法の実定法の部分が分離され住み分けされているのかもしれない。



大陸法圏においても民法(=私法)の部分はかなり固まっているのだろうが、それにプラスアルファして余計な消費者保護だ

個人情報保護だなんだといった産業政策絡みの有害な人権立法がどんどん作られているわけである。

また私法と公法の境もあまりはっきりとはないから、一つのLegal ruleを作るのでも、いろいろ他の法律との相互の絡みを

考えながら作るという難しさがあるだろう。



そしてそれを作れるのは日本のトップエリートである官僚達を置いてはないという構造である。

つまり、日本の評判の悪い試験エリートシステムにはそれなりに意味があって、政府が求めているのは、法律を作れる人材という意味でのエリートということだ。



法律を起案して作るのが国会議員の仕事だとかいうことになっているそうだが、実際は起案までが仕事である。

その先の実際の条文作成は当然、官僚にバトンタッチをするのだが、そもそも法律=Legal ruleを議員が起案などしてはならないのである。

また、なぜか官僚が起案する法律までもある。



ハイエクは国会に与えられた法律を作り出す”無制限の権力”(=制限されていない権力のこと)を批判した。

そして、イギリスにおける古い自由の”原因”を、イギリス人のidleness(=怠惰)という美徳の中に見出した。

つまりイギリスにおける旧い自由の原因を、旧い英国人が法律を作ったことにではなく、積極的に法律を作ろうとはしなかった事実に求めたのである。


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2006年05月03日

Personal information Slave law

個人情報保護法という恐るべき悪法の施行から早1年が過ぎたが、この法律の本質的邪悪さが現実の運用で明らかになりつつある。

これは情報を悪用した民間企業の奴隷化である。



民間部門対象の個人情報保護法はいくつかの義務規程があるが、これらに反したところで何も罰則はない。その点、一見ゆるそうな法律にも思える。

しかし、ここにはとんでもないトリックがある。仮に漏洩事件がほんの数件起こったとして、それをまじめな企業がこの法律上の報告義務に則って正直に監督官庁に報告したとしよう。



すると、監督官庁はいきなりきわめて高圧的な態度にでてくる。仮に数件の漏洩事件であっても、新聞の謝罪告知を含めたありとあらゆることをしろと要求してくる。その費用が何千万円かかろうとお構いなしだ。さらにセキュリティ対策の強化だ委託先の管理だとありとあらゆる情報強化の手段をとれと迫られる。



なぜ、役人が行政指導の段階でこのような高圧的な態度に出れるのかといえば、個人情報保護法上、監督官庁に企業の生殺与奪の権限が織り込まれているからなのである。



つまり、最初にでてくる木っ端役人の指導は最初は指導ということになっているが、これに全て従順に従わなければ、次はいきなり行政庁である大臣から法的強制力のある勧告という行政命令が出てくる仕組みだ。最初にでてくる木っ端役人の報告次第でいかようにも大臣命令を出させることができるのだ。実際に出しているのは大臣でなく木っ端役人なのである。



さらに命令に従わない場合の罰則は六月以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処するとなっているが、懲役をくらうのは会社の代表者つまり社長ということになるから、そんなことになれば会社は簡単にお陀仏となる。行政はたった数件の個人情報の漏洩事件であっても企業を殺すことが法的に可能になっている。もちろん行政に対し、たった数件だなどといった言い訳は聞かない。もしそんなことを言ったら相手の思う壺である。

法権力をかさにきた下衆役人とは、ナチスのゲシュタポのようなものだ。



この法律は行政に対する強力な民間コントロールのレントを与える結果になるのは最初から見えていたが、周りの様子を見ていると、ここまで悪辣な運用を実際に行政がしてくるとはさすがに思っていなかった。

この法の影響は当分沈静化することはなく、さらなる悪法へのトリガーとなるだろう。

J−Sox法などもその一つだ。




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2006年01月16日

電波利権

本日、池田信夫先生の新著「電波利権」を一気に読んだ。

これは非常に面白かった。良い本とは何かをとてもよく分かった気にさせてくれるものだが、この本もそういった数少ない本の一つといえよう。

今まで池田先生の論文を読んでも良く分からなかったところが分かってきた。



池田先生はやはり本来がジャーナリズムの人なのだろう。戦後の電波行政から現代のIP通信まで変遷の詳しい裏事情までを興味深く明晰に説明している。

この本を読むと電波による言論の支配構造=電波社会主義が見えてくる。



電波というのは目にも見えないし電気屋の専門分野というイメージでなかなか一般人の関心の対象になりにくいが、その本質は行政問題であり、既得権益の問題だということだ。

総務省が特定の事業者に対し一体何の権利があってか、勝手に独占排他使用権を設定しているわけだが、

知的財産権とも違って、使用者側が払う代償が何もない。つまり知的財産権以上の、政府によって与えられた純粋な特権=Privilegeに過ぎない。



総務省による電波の割り当て行政とは、いわば、政府が数兆円相当の価値がある都心の超一等地を、ただで、ほぼ無期限に特定の事業者に独占排他的に使用させているのと同じだ。

#おまけに電波は、土地と違って固定資産税すらかからない。



だが、実際はタダより高いものはないという格言通り、利権という不正な形での相互利益供与体制になっているのだろう。

これはまがりなりにも言論機関である以上、自殺行為である。



電波帯域の割り当て行政の根拠は、従来のアナログ通信技術には干渉=interferenceの問題があるからである。

つまり既存の帯域の”所有者”の財産権を侵さないように調整するという理屈である。

各人がでたらめに帯域を使用すると電波干渉が起こる以上、やむを得ないと思われているのだろう。



池田先生の唱えるIP Over EverythingもしくはEverything Over IPというビジョンは、通信機器、通信方式をIP化することにより帯域は事実上無尽蔵とできるから、電波のScarcityの問題を解決することができるということではないかと思う。

そうなったとき帯域そのものに経済価値は殆どなくなる。コンテンツだけの競争になるし、それは望ましい姿だ。

民放が、どこも似たようなくだらなさ過ぎる番組を垂れ流しているのは、電波利権つまりは帯域インフラの経済価値の上にあぐらをかいていて、肝心のコンテンツの競争がないからだ。

受信料を受益者負担にするべしというのも今後のメディアが目指すべき方向性であることは間違いない。



この本は、ネット時代の問題の本質を考える上で非常にためになる。

一読を是非お勧めする。
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2005年11月27日

Module

 昨今の日本の法改定の動きは、前にも少し書いたが、ある種のデジュールスタンダード戦略であるといえる。

会社法の大改正も、個人情報保護法も、不正競争防止法も全て内部統制を企業に義務づける強行規定と化している。

健康増進法なんていう超危険な法律も既に施行され、街の風景も急激に変わってしまった。



法律が全てこういう内部統制強化の方向に向かっており、実効性を担保するためにもどれもご丁寧にもかなり重い刑罰つきの改正となっているのである。

これが国家主義の強化の方向であるのは言うまでもない。

これを断じて右傾化とか保守化とはいわない。

そうではなく国家社会主義体制の強化と正確に呼ぶ必要がある。

ナチスも旧ソ連も国家社会主義は法律が形作っていたのである。

人々の意識の問題など関係ない。これらの全体主義体制では法律が人を合法的に虐殺していたのだ。



法律の改正に先立って、行政が有識者なる民間のでしゃばりな俗物のバカ連中を集めて行う研究会、審議会がある。

これらの議事録は公開されているからそれを読むと何を考えているのか大体わかる。不正競争防止法の改正過程そのものにおいても、企業のレントシーキング、利権追求の場と成り下がってしまっているのが議事録から分かる。

[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/index.html]



不正競争防止法の改正内容も酷いものだ。田村善之なる北大の教師で中山信弘東大教授の後釜と目されている若造の書いた「知的財産法」によると、不正競争防止法はインセンティブ支援型立法だそうだが、インセンティブなどという言葉を安易に用いるべきではない。

不正競争防止法は元々が不法行為法に差止請求権を加えただけの民法特別法であるが、ここ数年で産業政策的な強行規定となってしまった。

不法行為法を正常に使えば、LiablityRuleによることになるが、これを産業政策的な強行規定にすることで換骨堕胎された感じである。



こういう審議会の議事録などを見ると、日本の立法過程がいかに無責任で考えの足りないものであるかがよくわかる。国会議員の多くは六法がどの法律で構成されているかも知らないようなバカ代表であるため、行政が音頭をとって、民間有識者なるバカ連中を組織し、それらと爺さんの大臣と、東大法学部あたりの法学者を交えて法律の土台を作るわけだが行政側の事務局が人選権を握ることで、行政の思惑通りに立法をしていくわけだ。

要するに小中学生的にみんなの意見を持ち寄って作りましたよという体裁を作っているだけである。



これらを見ると、経済産業省のストラテジーなるものが見えてくる気がする。

誰も話題にもしないが、経済産業省は新産業戦略なるものを1年前に発表している。

これらには安藤晴彦さんとかが旗振りをしているモデュール化戦略なるものも書かれている。

予想するに、これらの法改正が全て産業政策的な強行規定の色彩を強めている背景には、この誰も読まない経済産業省の新産業戦略が反映されているだろう。

恐らくISOのようなデジュールスタンダードに基づく内部統制によって、日本の生産性の低いホワイトカラーの業務をモデュール化し、それによって生産性を高めるという意図が一つにあるだろう。



これらの法改正がなぜ致命的にダメなのかといえば、先にあげたドラッカーの言葉を借りれば、「つまるところ企業や病院はもとより軍を含むあらゆる組織が、まさに自主性を奪われて機能不全に陥る」だろうことにある。

インセンティブを設計することが同時に民間の主体性=initiativeを殺すことになるのである。

法とは自由を保障することだけにその存在価値があり、自由を露骨に制限する法律など法ではないのである。




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2005年11月12日

Judicial corruption

青色LEDの中村修二さんの話によると、日本の司法は腐りきっているということである。

それは間違いのない事実であろう。

中村修二さんは、アメリカと日本で訴訟をしてきて、日本の司法判断は真実や正義を

追求するという精神が全くないことを痛感したという。

アメリカでは、偽証罪によって毎月4000人くらいが牢屋に入れられているのに

対して、日本では戦後3人しかないと言う。



いかに優秀な医者がいても医者の数が少なすぎれば医療サービスは最悪となるのと

同じで、法曹の数が少なすぎることが司法サービスが腐る原因の第一である。



#法曹人口の国際比較をすると、日本が一万人あたり1.7人に対して

アメリカが35.3人、イギリスが15.8人である。

大陸法圏のドイツでも13.6人、フランスで6.1人。

→日本:アメリカ:イギリス:ドイツ:フランス=1:21:9:8:4



これから見ても、日本の法曹の数は今の5〜10倍に増やすべきである。

裁判制度がハングアップしてしまっていて、司法手段での解決が実質的に非現実的な位に非効率であるから

司法システムが利用されなくなっているだけである。

日本人が特別に司法解決を好まないなんてことはありえない。

民事訴訟なんてのは、単なる紛争解決のためのサービス産業と考えるべきものなのだ。



さらに、日本の司法は司法官僚システムであるというのもある。

アメリカのように司法システムの真の独立性がない。アメリカの最高裁はアメリカ憲法の

番人であり、州裁判所はコモンロー主義による正義の実現を目指しているといわれるが

日本の司法は何者でもない。結局、裁判所が機能しなければ法律は死に体となる。



その反面、行政コントロールが異常なまでに強くなっている。

現在の行政の経済産業省辺りの目論見というのは、ISOのようなデジュールスタンダードを

法的に最大限活用していこうとするものだ。これらを法ライクな実質的な規範として

社会コントロールの手段にしようとしているのである。



今、日本で陪審員制度を導入しようとしているが、これはうまくいかないだろう。

日本では偽証罪も形式的にあるだけで中村さんの話のように全く運用されていない。

そして、いざ裁判となると勝つために双方嘘の付き合いになるといった

日本の司法の悲惨な現実がある以上、陪審員は単に嘘にだまされるドシロウト集団にしか

ならないのは見えている。



更に言えば日本の司法システムの抱える本質的な問題とはまさに司法の場が正義や真実の

発見の場であろうとする態度が根本的にないことだ。

司法という他の行政権力の武力を借りないかぎり強制力をもたないシステムが社会の

要となりうるのは司法というものへの尊敬と信頼が社会にある時だけである。

正義や真実を追究していない司法が、そのような尊敬や信頼に値しないのは自明なことである。

これが日本の司法制度の本質的な問題であり、日本社会が永遠の第三世界である所以だ。




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2005年10月31日

Micromanagement is the road to tyranny

Lawless Law

Here is the always entertaining and informative James Lileks talking about Viktor Klemperer's memoir of Naziera Germany:



Some of the details are offhand and precise (“In a pharmacy toothpaste with the swastika”) and others are murky and random, such as the ways in which academic life is poisoned by an incessant stream of laws and decrees. (So many laws: the hallmark of a lawless state.)

What a great insight. As regulations proliferate, it's impossible to enforce them all fairly. Enforcement becomes selective and capricious. Micromanagement is the road to tyranny.
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2005年10月30日

Does Antitrust Policy Improve Consumer Welfare?

Does Antitrust Policy Improve Consumer Welfare?

[http://www.brookings.edu/views/articles/2003crandallwinston.htm]



Should the United States pursue a vigorous antitrust policy? Soon after the passage of the Sherman Antitrust Act of 1890, economists led by John Bates Clark (1901) argued that the enforcement of such laws should be informed by the prevailing economic theory on the merits of competition and the extent to which firms' conduct can enhance or weaken competition. However, economic theory since then has proven remarkably fertile in pointing out how various actions by firms may be interpreted as either procompetitive or anticompetitive. For example, when prices decline sufficiently so that no firm in an industry is earning economic profits and some firms exit, this outcome may reflect a highly competitive market adjusting to a condition of temporary oversupply, or it could indicate that a large competitor is employing a strategy of predatory pricing to drive out its rivals. Similarly, when a firm builds a large factory, it may be engaged in vigorous competition and new entry, or it may be creating excess capacity as an implicit threat to potential competitors that it may raise output and cut price quickly if circumstances warrant. Although economic theory can help organize analysis of the economic variables affected by antitrust policy, it often offers little policy guidance because almost any action by a firm short of outright price fixing can turn out to have procompetitive or anticompetitive consequences.



Given this range of theoretical possibilities, the case for a tough and broad antitrust policy must rest on empirical evidence that shows that such policies have worked in the broad social interest. In this paper, we argue that the current empirical record of antitrust enforcement is weak. We start with an overview of the budgets and actions of the federal government's antitrust authorities. We then synthesize the available research regarding the economic effects of three major areas of antitrust policy and enforcement: changing the structure or behavior of monopolies; prosecuting firms that engage in anticompetitive practices, namely, price fixing and other forms of collusion; and reviewing proposed mergers. We find little empirical evidence that past interventions have provided much direct benefit to consumers or significantly deterred anticompetitive behavior.1 We acknowledge that the literature has not been able to utilize all potentially fruitful sources of data and has rarely implemented recent empirical advances in industrial organization to analyze the effects of specific antitrust cases. Thus, the state of knowledge is not at a point where we are ready to make sweeping policy recommendations. Nonetheless, the economics profession should conclude that until it can provide some hard evidence that identifies where the antitrust authorities are significantly improving consumer welfare and can explain why some enforcement actions and remedies are helpful and others are not, those authorities would be well advised to prosecute only the most egregious anticompetitive violations.



要するにこの結論は、 独禁法ではthe most egregious anticompetitive violationsだけを取り締まれというものだが、かなり中途半端な結論である。

とはいっても、独禁法を自由市場を守る上で必要不可欠な立法だと信じて疑わない

日本の政府権力に追従することしかできない、思考能力の去勢された大学法律教師よりは

はるかにレベルが高い。



日本の法学者の”法的権利概念”は基本的に狂っているという印象を私は持っているが、

それは受験法学による洗脳の結果なんだろうと思う。

これは連中が意識することもない”イデオロギー”の部分だろう。それは法曹受験の参考書の中に書かれているわけだ。


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2005年10月07日

裁判所

日本で、今最も必要な政府サービスは裁判サービスだ。

#リバタリアン的にはこれらも民間サービスにすべきであるのは言うまでもないが

それはとりあえずおいて置く。



この件については前に、すこし書いたが、要するに日本の裁判システムは

その潜在的なニーズに対し、”裁判官”が少なすぎることで、ハングしてしまっている

状態にあるのが問題なのだ。

[http://kyuuri.blogtribe.org/entry0193e066c6d46cc5b524df6875d020f9.html]

実際の裁判ニーズはフランス並みとしたら、現在の6−7倍はあるだろう。



これから、法曹を増やすわけだが、もし法曹の数を2倍にして、裁判官と弁護士の数がそれぞれ2倍にしたとしたら、裁判所の処理能力は5倍程度にはなり、弁護士は

今まで以上にお客さんが沢山ついて繁盛することになるだろう。



実際は、裁判など別にたいしたものではないし、恐れるようなものでもない。

普通の民事裁判など単なる調停サービスと考えて利用すべきものだ。

法曹も今よりいっそ5倍以上に増やして、アメリカ並みに、裁判所が過剰処理能力

を持つくらいまで法曹を量産しないと、弁護士間の競争はあまり起こらないかもしれない。



もし2−3倍程度の増加なら、むしろこれから弁護士はますます儲かる花形職業になるだろう。



無意味なほどの難問試験を課すのは、日本の法曹が極めて官僚に近い存在だから

だろう。実際、裁判官は司法官僚だ。



法曹の数を5倍以上に増やすことで、はじめて法律家の競争が厳しくなり、より健全な

”法的社会”になるのではないだろうか。
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国家公務員法

国家公務員法をざっと読んでみた。

[http://www.houko.com/00/01/S22/120.HTM#s3]

国家公務員の身分保障を謡った75条とは次のとおりだ。

たぶん、行政の独立性を守るというタテマエからきている条文だろう。



(身分保障)

第75条 職員は、法律又は人事院規則に定める事由による場合でなければ、その意に反して、降任され、休職され、又は免職されることはない。

2 職員は、人事院規則の定める事由に該当するときは、降給されるものとする。




しかし、次の78条はどうだろうか?

ここには、4項で「4.官制若しくは定員の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じた場合」は免職できるとある。

やはり、税金を思いっきり下げ、予算を削れば公務員も辞めざるを得なくなるということだ。これなら法律を作らなくともなんとかできるかもしれない。

だが、税金を減らす法律は誰が作るのか?泥棒に泥棒を取り締まる法律が作れるだろうか?



(本人の意に反する降任及び免職の場合)

第78条 職員が、左の各号の一に該当する場合においては、人事院規則の定めるところにより、その意に反して、これを降任し、又は免職することができる。

1.勤務実績がよくない場合

2.心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えない場合

3.その他その官職に必要な適格性を欠く場合

4.官制若しくは定員の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じた場合




#民間の場合、従業員は経営者との雇用契約が基本となるが、公務員は経営者にあたる

主体がいないために、誰とも契約のない雇用者という立場なのかもしれない。

その代わりに試験の資格制度になっているということか。。
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2005年09月29日

健康増進法

第二節 受動喫煙の防止



第二十五条 学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他の多数の者が利用する施設を管理する者は、これらを利用する者について、受動喫煙(室内又はこれに準ずる環境において、他人のたばこの煙を吸わされることをいう。)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない。







この一年で急に喫煙できる環境が少なくなったが、これはH16年2月27日に施行されたこの法律によるらしい。

アメリカの真似かもしれないが、愚かな法律ばかり作るものだ。

日本の場合、右向け右とかやると、なにも考えずに追随する人間が

多いのが不気味だ。

戦中には、戦中の強行法規があり、皆さん右向け右とやられて素直に

従っていただけなんだろう。



しかし、こういう強行規程をトリビアルな規則だと思うのは間違いだ。

これは政府権力による重大な個人の自由への侵害である。



#健康増進法とは言葉の意味からしておかしい。健康は維持すべきもので増進など出来ない。

このようなイカサマ標語で民を欺こうとは、政府も幼稚な真似をするものだ。








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2005年09月19日

Recht und Verfassung im Mittelalter

フリッツケルンの「中世の法と国制」を読んだ。(創文社歴史学叢書)

この本は140ページ程度の薄い本だが隠れた名著である。

この翻訳は世良晃志郎氏。

手にはいるうちに購入しておいた方がよい本の一つである。



この本は、ハイエクのLLLの中で大きく引用されており、それで知ったのであるが

非常に重要な本だ。

出版は1919年でかなり旧いが、翻訳もよく、これっぽちも旧さを感じない。

繰り返し読むに足る本である。



この本における中世とは主にドイツ中世のことである。イギリスではコモンローを、旧き法=良き法を

Positive Lawからの侵食に耐えつつ、保持したわけだが、大陸では、中世の法=旧き法=良き法から、Positive Law=大陸法へと変質していくわけだ。





ケルンは、法学者ではなく歴史学者である。



「われわれは、われわれの現代の諸概念を無批判的かつ時代錯誤的な仕方で

中世に持ち込むことは避けるとともに、他方ではやはり、われわれの現代の言葉

を用いて中世のものの見方を書き直すことをこころみなければならないことになる。」



といった、方法論意識の下にこの本を書いている。

現代の偏見を過去に当てはめるというとんでも歴史学とは全く異なるものである。



以下にこの本からさらに少しばかり引用しておく。



「中世の国家は単に法保存的な国家なのであり、公共の利益のために私権に干渉する

権限をもっていなかった。」



「けだし、近代の君主はなんといっても、その他の憲法諸機関と協力して新しい法を

制定することもできるのであるが、中世の君主は、良き旧き法を、語のわれわれが

知っている完全な厳しい意味において適用し擁護するためにだけ、存在していたのである。

彼は、良き古き法に奉仕するために任命されたのである。良き古き法が正義=Justiceなのであり

各人の主観的権利ー各人に属する彼のものーを守ることから、Pax(平和)が生まれ、

この平和が国内支配の最も尊い、いな、殆ど唯一の目標なのであった。」



「中世におけるアナーキーの歴史は、実定法概念の再発掘と国家法と私権の分離とが

いかに祝福すべき発見であったかを示してくれる。この発見は数軍団の兵士にも匹敵するもので

あった。中世においては、何が法であるかを知るためには、各個人が自分の法感情に問うことが

許されたし、またそうせざるを得なかったのである。」



「近代国家の厳格な法執行権力は不正な政府も政府たることをやめるわけではなく、

悪しき実定法としてありつづけるということを、国民の頭に叩き込んでいる。

中世的な法概念は学者的な成文の法と、国家権力の強化によって衰弱した。

中世の多義的な法概念は、その定かならぬ深みにおいて不明瞭で豊かであり、・・

この単純なしかも底知れず湧き出る法概念は、強力な国家秩序を構成するための主な障害の

一つであった。」






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2005年07月21日

Sarbanes-Oxley Went Too Far

[http://blog.mises.org/mt/comments?entry_id=3808]

SarbanesOxley Went Too Far, and Will Stay That Way

by J. Henderson



Michael Oxley, Republican coauthor of the SarbanesOxley Act, admitted during a London conference that the law "was not a perfect document" and that some of it was "excessive." He complained that after WorldCom collapsed, “it was difficult to legislate responsibly in that type of hothouse atmosphere.”



He added: “But I am proud of the bill.” Oxley said: "If I had another crack at it, I would have provided a bit more flexibility for small and mediumsized companies." Too bad that didn’t happen.



The House Financial Services Committee chairman declared that "Congress will not revisit this issue.

The SEC reform is not going to happen either."



Meanwhile, Judge Leo Strine, a vice chancellor of the Delaware Court of Chancery, has spoken out against SOX for usurping the traditional role of state governments in setting corporation law.



Under SOX the federal government undercut the "innovation and flexibility that Delaware's approach to corporation law creates."



About 60% of Fortune 500 corporations have chosen to incorporate in Delaware due to its market and investorfriendly legal climate.



Most states tend to follow the highly influential Delaware chancery court’s legal precedents for fear of scaring off businesses.



Strine concluded: "Congress needs to avoid stifling the wealthcreating potential of companies through costly mandates that not only do little to protect investors, but also distract boards from their fundamental duties to develop and oversee the implementation of an effective corporate strategy, to select excellent managers and to monitor the corporation's compliance with its legal and ethical responsibilities."



Here is Oxley’s response to Judge Strine’s defense of federalism: "The idea that we could leave corporate governance reform to 50 individual states is rather quaint. Investors were looking for a national response to a national problem."



SOX法は、アメリカでも、そのあまりの過大な規制(onerous duties)に対してかなりの文句が出ているようだ。

これで儲かるのは、監査法人とIT関係業者とアウトソース先だけである。

ようするに、これは社会に対して税金と同じ効果をもつ規制である。



SOX法は、302条、404条、906条がコアになっているが、906条の経営者責任として、きわめて重い刑事罰規定を設けている。(最長20年の禁固刑または500万ドル以下の罰金を<経営者>に課す。さらに経営者は報告書の公正性を宣誓する義務を負う。)



つまり、経営者個人にドスを突きつけることで、制度の実効性を確保しようとしているわけだ。そして、日本でも同じような状況になりそうである。

企業側の対策としては、個人情報保護対策と同じように内部管理体制を時間とコストをかけて作り徹底しないと政府に半殺しにあうことになる。



だが、企業の自由を制限することが個人の自由を制限することに直結することはあきらかである。<規制>は課税と同等であり、課税効果は無差別に企業と個人の双方が負担する結果になる。また、企業経営の間接コストの敷居を上げることは起業の自由を制限することにもつながる。



そもそも、どんな規制を設けても破られるときは破られる。犯罪の完全な予防も抑止も不可能であるし、それを求めるのは経済的にナンセンスな行為である。

人間は道を歩くときでも、車に乗ったり電車に乗ったりするときでも、命にかかわるリスクを大なり小なり負っている。しかし、そのリスクに対して過大なコストをかけていたら肝心な生活もできなくなるだろう。



だが、一度、このような制定法(→これも産業政策だろう)ができると法律の撤回や廃止は極めて困難になるのは、日本でもアメリカでもどの国でも同様だ。

おまけに、SOX法は、企業を規制する法律だから、マスコミも個人も基本的に無関心だ。誰も声をあげて反対などしない。



日本でも似たような法律が、政府によって勝手に作られ、政府によって勝手に運営されるだろう。これは産業界への規制に止まらず、ミルトンフリードマンが言うように、まさに”個人の自由”への脅威となるに違いない。



政府の立法権力そのものを根本的に制限することが必要である。

特に現代のように産業政策立法が容易に制定され、それに対する時限立法的な制限も何もないことは、日本でもアメリカでもかなり危険でマズイ状況だろう。アメリカでも産業政策立法は特許法のように連邦法となり強制力が強い。



ここでストライン判事が述べている批判は実に的を射たものだ。

つまり、「このような法律は、企業が富を生み出すポテンシャルを窒息させるものであるし、投資家を保護する効果もほとんどない。むしろ経営者に課せられた企業を発展させ、効果のある企業戦略を生み出すといった根本的な義務から、経営者の力をそらすことになる。」といった批判をしている。

実にまっとうな見解である。

日本政府もこのストライン判事の話を傾聴しなければならない。



法律を制定することは、世の中の問題に対するPanacea(万能薬)には決してならないのである。

それどころか問題を悪化させるだけであり、胃がんの人間に治療と称して太田胃散を飲ませるのと同じで問題の真の原因に対する対処を不可能とさせる結果になる。




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2005年06月08日

Repeal of Antitrust

[http://www.mises.org/store/AntitrustTheCaseforRepealP10C0.aspx]



This 100page tour de force rips the intellectual cover off antitrust regulation to reveal it for what it is: a bludgeon used by businesses against their competitors. Unlike some critics, Professor Armentano carries the logic of his analysis to fullest possible length:

"My position on antitrust has never been ambiguous," he writes. "All of the antitrust laws and all of the enforcement agency authority should be summarily repealed. The antitrust apparatus cannot be reformed; it must be abolished."



Professor Armentano begins with the most rigorous and revealing account of the Microsoft antitrust battle to appear in print. He further discusses other recent cases, including Toys `R' Us, Staples, and Intel, as well as many historical cases. He covers nearly every conceivable rationale for antitrust, including price fixing, tie ins, vertical and horizontal mergers, and many more.



This is a crucially important work in our new era of antitrust enforcement. This 2nd edition is newly revised (1999) and includes a new treatment of Murray Rothbard's contributions to the theory of monopoly and competition.



Finally, this is the only book in print on antitrust and the Microsoft case that calls for the repeal of all antitrust.




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2005年05月13日

「独占禁止法」 : Anti trust

久しぶりに岩波新書を読んだ。

「独占禁止法」岩波新書 村上政博 著

”シカゴ学派のハーバード学派への勝利”うんぬんといった、岩波らしからぬ文言が目に入ったので買ってみた。



独禁法のオーバービューとしては、わりとよくまとまった本ではあるが、やはりダメ本であった。

そもそもこの作者はシカゴ学派にフリードマンなどは入れていないようだ。

リバタリアン系シカゴ学派は、独占禁止法のような政府の強力な市場介入にこそ反対するのである。それは市場擁護の名を借りた、政府の市場介入である。



作者はフリードマンたちが独占の地位を乱用する<略奪的価格設定>など独禁法の神話にすぎないと批判していることを知らないのだろうか?それは経済的に不可能であり、またメジャーズの石油カルテルによるダンピングなども現実には存在していなかった事実を主張しているが、こんなことは今や常識だろう。カルテルにせよ、水平的な共同取り決めにしても、まず自由市場にあっては意味をなさない。



日本特有の規定を全て廃止し、アメリカ型の訴訟蓄積型の競争法体系に日本の独禁法も変わっていくべきだというが、独禁法そのものの存在意義については露ほども疑いをもたず、それが政府による自由市場の促進、擁護行為たりえるものだと無批判に考えている時点で知的議論としては終わっている本である。



結局、この本も岩波特有のリベラル左派による偽善本であった。
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2005年04月14日

裁判所

国家権力を信頼するのはそもそもの大間違いだが、日本の司法や裁判所に期待するのも大間違いである。立法ー行政ー司法という三権で司法だけは、少しはまともだと思うのは甘いのだ。

日本の裁判所システムは大陸法諸国の中でも、とりわけ酷いのではないだろうか。

正義と法の女神ユスティティアの像がどの国でも裁判所にはあるそうだが、この女神は右手に剣を左手に天秤を持っている。そして目は目隠しをされている。しかし日本の最高裁のユスティティア像には目隠しがないそうである。目隠しのメタファーとは、予断を廃して心眼で判断せよという意味らしいが、日本の裁判所は予断を廃さないことを意味しているそうだ。



もちろん、法曹にもまともな人も多いし、人格者といえる人もいるのは知っている。

私の親の知り合いで東京高裁判事にまでなった人がいたがユーモアのある大変よくできた人物であった。彼らが日本社会の知的エリートだということは事実だ。

だが、システムそのものに外部との競争がない以上、組織は腐敗する宿命にあり、実際、その腐敗は行政に劣らず酷い。

コモンローシステムが優れているのは、マルチコートシステムによる競争の結果生まれてきたものだというのが一つの理由とされる。

その点、日本の司法システムは行政のつけたしのような存在に過ぎず、独立性すら現実的にはない。


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Sox: Sarbanes-Oxley Act

SarbanesOxley Exposes Missteps as Audit Costs Spur Gripes

[http://quote.bloomberg.com/apps/news?pid=nifea&&sid=aFkr_c.2lgi0#]



このブルームバーグの記事は役立つ。

さらに、以下のMisesBlogの記事「サルバン オクスレー法の泥沼」



The SarbanesOxley Morass

By JS Henderson



"SOX has caused auditors to interpret audit control rules in a draconian fashion, for which their fees have ballooned. For example, auditors typically require noncore bookkeeping activities of a company to be documented, no matter how irrelevant. The auditors claim they must require an unreasonable level of accounting documentation in order to avoid lawsuits and scrutiny from federal inspectors."



このような民間規制がアメリカでできると、何年か遅れで必ず日本でも同じ動きになる。SOXに関しては、既に金融庁が動いている。

官公庁部門は略奪した税金を複式簿記すらつけず違法に使いまくる無法状態であり、さらに、その税の使い道さえまともに公開も説明もしていないのにもかかわらずだ。政府が複式簿記をつけないのは、決算報告そのものがないからだ。

マスコミにぽつぽつでる役人の不法請求事件など、ガス抜き程度のものにすぎない。会計検査院の行政監査など実質的に0であることは周知のことだ。

民にではなく、官公庁に決算報告とその厳密な監査を課す法を作るのが当面何よりも先決である。


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2005年04月13日

The Next Pope

What more can one say about his likely views? The next pope will be a socialist; no doubt a democratic socialist, but a socialist all the same. Almost every cardinal and bishop in the Roman Catholic Church, and probably every bishop in the Anglican Church, is a socialist. They are socialists in the same sense as Tony Blair, or Gerhard Schröder, or Jacques Chirac, or Bill Clinton. They are all socialists because they have never studied the liberal argument. That is a pity; liberalism may not be enough, but it is the basis of our culture.

[http://www.timesonline.co.uk/article/0,,10521563871,00.html]



カトリックは、社会主義=社会民主主義推進の超巨大勢力と化している。

次の法皇は、間違いなく社会主義者になるだろうという記事。


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2005年04月12日

SOX法

Novel Definitions of "Internal Control" Under SarbanesOxley

JS Henderson



The definition of internal control has proven to be highly subjective. The Private Company Accounting Oversight Board has determined that “such things as the technology used to derive accounting numbers must be audited every year by the accountants…One public company's chief financial officer says this could mean that an auditor could label a computer with Windows 97, rather than an updated version, a bad internal control.”



SOX法の導入準備が日本でも金融庁によって進められている。

個人情報保護法といい、ここ数年で情報管理規制がかなり急速に進んでいる。

これらは、いわゆる政府による情報の<中央統制>と違い、間接的な政府介入だが、市場に対する破壊的な効果を同様に持っているのである。


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2005年03月21日

人権擁護法案

本日は、人権擁護法案なるものを読んでいた。

既に、いろいろとNetで話題になっているようだが、備忘録として以下のURLを記録しておく。



人権擁護法案

[http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g15405056.htm]



国連

Model National Legislation for the Guidance of Governments in the Enactment

of Further Legislation Against Racial Discrimination

Third Decade to Combat Racism and Racial Discrimination

(19932003)

[http://www.unhchr.ch/html/menu6/2/pub962.htm]



上記国連の訳

[http://www.jca.apc.org/jhrf21/nl/NL13B.html]



人権擁護(言論弾圧)法案反対!

[http://blog.livedoor.jp/no_gestapo/]



この法案は、上の国連のを下敷きに作られているようだ。

<差別利権>を法的に下支えしながら強化する目的で出された法案であるのは間違いない。

人権侵害は、当然、犯罪行為であり、通常の司法プロセスで処理すべき問題だが、あえてこのような法律を作る意図は、意見や、言論、イデオロギーに対して、司法プロセスの外で政府に裁量的に判断する根拠を与えることにある。



言いだしっぺが野中という悪党であり、それを古賀が引き継いでいるが、この事実だけで創価学会と北朝鮮の影が露骨に見えるし意図はみえみえだ。

個人情報保護法は、通常の日常的な行為に対する規制法であり、また、それによって行政裁量を極端に強化するものだが、この法律もそれと同じ類といえる。またPolitical Correctness運動(=PC)に追従する動きでもあるだろう。



日本では学校教育の影響からか国連に幻想を持っている人が多いようだが、国連主義なるものを唱えている小沢一郎以下の連中は百害あって一利なしの存在である。

しかし議員はいなくなっても、悪法は長く残ってしまうから、断固、阻止しなければならない。
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2005年03月04日

CSR:MiltonFriedman vs Carly Fiorina

>ミルトンフリードマン:厳格な経済コントロールが、社会統制へと置き代わりつつあるのだ。



ミルトンフリードマンがここで指摘している社会統制とは、まさにPC(Political Correctness),CSR(Corporate Social Responsibility)といった動きが含まれる。西側におけるクラシカルリベラリズムは、経済よりも法の面で劣勢になりつつあるのかもしれない。



WEBで検索したところ、以下のMetiの資料を発見。

「CSRを巡る海外の動向について」と題した日本総研の研究員らしき人が作ったPP資料である。



[http://www.meti.go.jp/policy/economic_industrial/ gather/downloadfiles/g40526a04j.pdf]



この資料の内容だが、ミルトンフリードマンの意見が次のように引用されている。



”企業にとっての社会的責任とは、利潤を拡大させることである。

"the social responsibility of business is to increase its profits."



..自由企業体制と私有財産制度のもとにあって、企業経営者は、企業の所有者のための雇われ人に過ぎない。企業経営者は雇用主としての企業の所有者に直接的な責任を負っている。その責任とは、企業の所有者たちの望むように企業を指導することだが、通常、企業の所有者たちの望みとは、法や倫理的慣習といった社会のルールに適合する限りにおいて、できるだけ沢山の金儲けをすることである。

“In a freeenterprise, privateproperty system, a corporate executive is an employee of the owners of the business. He has direct responsibility to his employers. That responsibility is to conduct the business in accordance with their desires, which generally will be to make as much money as possible while conforming to the basic rules of the society, both those embodied in law and those embodied in ethical custom. ”

(出所)Milton Friedman, The New York Times Magazine, September 13, 1970.”



これに対して、次にHPの元CEOフィオリーナの意見が紹介されている。彼女、曰く



”私は個人的には、フリードマン氏が示した見方が変わり始めている、そうした時代に私たちが立っていることを嬉しく思う。何百という企業人や経営トップが忙しいスケジュールを割いてここに集まり、「企業の社会的責任」に関して議論をしようという、この機会に立ち会っていることを嬉しく思う。

“I for one am glad that we live in an age where those attitudes have begun to change; in an age when hundreds of employees and top executives will take timeout of their busy schedules to meet here, for example, to discuss the idea of corporate social responsibility.”

(出所)Carly Fiorina, Speech in Business for Social Responsibility Annual Conference 2003



以前、CSRについてこのBlogに少し書いたが、正しいのは間違いなくミルトンフリードマンである。フィオリーナの時流に乗ったCSR論は無責任であるだけでなく、危険ですらある。

すでにフィオリーナはHPを追い出されたが、このような人間が国連の専門機関の一つである世界銀行の総裁になる可能性があるというニュースは、フィオリーナがアメリカの左派リベラル勢力に利用される人間である事を暗示している。
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2005年02月21日

From Corporate Governance to Government Governance

コーポレートガバナンス(=企業統治のしくみのこと。略してガバナンス)が昨今しきりに言われる。

ガバナンスが企業行動にとって重要なのは、それに反して経営不祥事といわれる非道徳的な違法行為をした会社がきちんと法廷で罰を受けたり、業績の悪い企業が市場淘汰されるという前提がある場合である。それがなければ銀行業界のような腐ったモラルハザードに陥る。

何しても潰れることがありえないのなら、そうなって当然だ。



自然な市場淘汰が政府によって妨害されない限り、企業はガバナンスを行うだろうし、また、それがうまくできない企業は潰れるだけのことだ。

つまり、コーポレートガバナンスは社会的な課題ではない。何も干渉せずに単にほっておけばよいのだ。



むしろ重要な”社会的課題”は<ガバメント ガバナンス>=政府を統治する仕組みである。政府のガバナンスは何からも一切なされていない。

監査すらも全くない。また多くの郵便局では複式簿記すら行われてないということが指摘されているが、政府各省庁なども推して測るべしということだ。



そもそも権力分立の三権分離は、政府ガバナンスの仕組みではない。ガバメントは国家最高権力であるから誰にもガバナンスはできないというのが暗黙の前提なのだ。国民が主権者だということになっていても、国民は政府の所有者ではない。

だが、(コーポレート)ガバナンスの仕組みには(株主の)所有権、財産権の絶対性が根本にあり、またそれが必要不可欠である。

だれにも所有権のない組織=政府のガバナンスは土台無理な話しだ。

ガバナンスの対象となりえないもの=絶対権力は絶対腐敗するのである。

PublicSectorを極小化し、なるべく全てをPrivatise(私有化)すべしというリバタリアニズムの主張は、こういう理由も一つにある。
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2005年02月17日

THE NIHILISM OF THE ECONOMIC ANALYSIS OF LAW

ポズナー学派の「法と経済学」批判。フランス女性の書いた分かりやすい英語である。

ポズネリアンの「法と経済学」は、topdownで、オーソライズされた権力を独占した絶対的権力者によるCentralized Lawmakingである。

Efficiencyは法のゴールではない。Efficiency is a purely relative concept.

Efficiency per se does not mean anything

一方、オーストリア学派の「法と経済学」では、法は「個人の行動の自由を最大化させる」ものであり、唯一の個人の責任とされる制約はDo not to harm othersである。





THE NIHILISM OF THE ECONOMIC ANALYSIS OF LAW

by Elisabeth Krecké



This paper further evoked the Austrian approach for its methodological qualities. The Austrian theory

not only provides tools to critically evaluate the foundations of the efficiency approach to law, but more

importantly, its methodology allows for a considerate economic understanding of legal phenomena. This

does not imply, however, that Austrian theory and neoclassical law and economics can easily be

considered as alternatives, as far as both theories refer to different aspects of what might be called

“law”. While posnerian law and economics has in mind the traditional topdown, centralized lawmaking

by a sovereign who monopolizes the authorized use of force, Austrians are concerned with customs,

practices, standards of behavior, any social rules and institutions which are not the result of positive

lawmaking, but rather the outcome of the complex interplay of a multitude of individual actors, seeking to

develop adapted answers to the problems posed by life in society.

Our analysis finally leads to the question whether looking for a criterion to evaluate the validity of legal

rules or institutions is an appropriate method for an economic analysis of law. While the reliance on the

value of social efficiency as a universal foundation of law (strict foundationalism) is undeniably open to

criticism, there is on the other side a risk to fall into the extreme opposite, a similarly radical and

unsatisfactory antifoundationalism57. A major challenge for contemporary economic analysis of law

might consist in finding a way between these two extreme visions.



[http://www.mises.org/journals/scholar/Krecke.PDF]
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