2005年02月21日

From Corporate Governance to Government Governance

コーポレートガバナンス(=企業統治のしくみのこと。略してガバナンス)が昨今しきりに言われる。

ガバナンスが企業行動にとって重要なのは、それに反して経営不祥事といわれる非道徳的な違法行為をした会社がきちんと法廷で罰を受けたり、業績の悪い企業が市場淘汰されるという前提がある場合である。それがなければ銀行業界のような腐ったモラルハザードに陥る。

何しても潰れることがありえないのなら、そうなって当然だ。



自然な市場淘汰が政府によって妨害されない限り、企業はガバナンスを行うだろうし、また、それがうまくできない企業は潰れるだけのことだ。

つまり、コーポレートガバナンスは社会的な課題ではない。何も干渉せずに単にほっておけばよいのだ。



むしろ重要な”社会的課題”は<ガバメント ガバナンス>=政府を統治する仕組みである。政府のガバナンスは何からも一切なされていない。

監査すらも全くない。また多くの郵便局では複式簿記すら行われてないということが指摘されているが、政府各省庁なども推して測るべしということだ。



そもそも権力分立の三権分離は、政府ガバナンスの仕組みではない。ガバメントは国家最高権力であるから誰にもガバナンスはできないというのが暗黙の前提なのだ。国民が主権者だということになっていても、国民は政府の所有者ではない。

だが、(コーポレート)ガバナンスの仕組みには(株主の)所有権、財産権の絶対性が根本にあり、またそれが必要不可欠である。

だれにも所有権のない組織=政府のガバナンスは土台無理な話しだ。

ガバナンスの対象となりえないもの=絶対権力は絶対腐敗するのである。

PublicSectorを極小化し、なるべく全てをPrivatise(私有化)すべしというリバタリアニズムの主張は、こういう理由も一つにある。
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2005年02月17日

THE NIHILISM OF THE ECONOMIC ANALYSIS OF LAW

ポズナー学派の「法と経済学」批判。フランス女性の書いた分かりやすい英語である。

ポズネリアンの「法と経済学」は、topdownで、オーソライズされた権力を独占した絶対的権力者によるCentralized Lawmakingである。

Efficiencyは法のゴールではない。Efficiency is a purely relative concept.

Efficiency per se does not mean anything

一方、オーストリア学派の「法と経済学」では、法は「個人の行動の自由を最大化させる」ものであり、唯一の個人の責任とされる制約はDo not to harm othersである。





THE NIHILISM OF THE ECONOMIC ANALYSIS OF LAW

by Elisabeth Krecké



This paper further evoked the Austrian approach for its methodological qualities. The Austrian theory

not only provides tools to critically evaluate the foundations of the efficiency approach to law, but more

importantly, its methodology allows for a considerate economic understanding of legal phenomena. This

does not imply, however, that Austrian theory and neoclassical law and economics can easily be

considered as alternatives, as far as both theories refer to different aspects of what might be called

“law”. While posnerian law and economics has in mind the traditional topdown, centralized lawmaking

by a sovereign who monopolizes the authorized use of force, Austrians are concerned with customs,

practices, standards of behavior, any social rules and institutions which are not the result of positive

lawmaking, but rather the outcome of the complex interplay of a multitude of individual actors, seeking to

develop adapted answers to the problems posed by life in society.

Our analysis finally leads to the question whether looking for a criterion to evaluate the validity of legal

rules or institutions is an appropriate method for an economic analysis of law. While the reliance on the

value of social efficiency as a universal foundation of law (strict foundationalism) is undeniably open to

criticism, there is on the other side a risk to fall into the extreme opposite, a similarly radical and

unsatisfactory antifoundationalism57. A major challenge for contemporary economic analysis of law

might consist in finding a way between these two extreme visions.



[http://www.mises.org/journals/scholar/Krecke.PDF]
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2005年01月04日

個人情報保護法の一つの結果

個人情報保護法によって、次のような展開になるのは最初から予想できた。

しかし法を作った官僚はどうだっただろうか?今後、このような動きに官庁も

便乗するかもしれない。また日立の行動は、それを期待しての便乗商法かもしれない。



この法律は制定法の悪い面が顕著に現れた例だ。

プライバシー保護の掛け声の下に、従業員のプライバシーは完全に否定される。

1タイプレベルで、ログが監視される。これの一体どこがプライバシー保護なのだ?

#日立のシステムは知らないが、このような監視をする企業は増えてきている。

だが、これは皮肉な結末ということではなく、法の必然的な帰結だ。





[http://bizplus.nikkei.co.jp/news/index.cfm?i=2005010207391b1]

日立、社内業務でパソコン利用全廃――専用端末で情報漏えい防止



 日立製作所グループは社員が業務で利用するパソコン約30万台を全廃し、情報漏えい防止型のネットワーク端末に切り替える。新端末は内部に情報を一切保存できず、盗み出されても顧客情報や製品開発情報などが流出する危険がない。機密情報の流出防止が企業共通の課題に浮上するなか、パソコンメーカーでもある日立のパソコン全廃は、企業の情報システムのあり方を大きく変えそうだ。



 企業への罰則を含めた個人情報保護法の全面施行を4月に控え、国内企業は情報流出防止を強化している。従業員による情報の不正持ち出しやパソコンの紛失・盗難への懸念は強く、日立は新型端末の外販にも早期に踏み切る計画。



 日立は第一弾として社内の情報・通信部門の事業所に3月までに2000台の新型端末を配備する。2005年度にはさらに8000台を導入。その後もパソコンの更新ごとに切り替えを進め、早ければ4年後にも本社やグループ企業が持つ約30万台のパソコンすべての切り替えを終える。

[1月3日/日本経済新聞 朝刊
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2004年12月21日

Distinction between False propery rights and true propery rights

特許法35条の職務発明改正の問題について、前に少し書いたが、この結果がこれからどうなるかは明らかだ。おそらく来年以降、企業は徐々に特許出願を抑制していき、営業秘密で発明を守るようになるだろう。



こうなると、今の日本の特許法において、職務発明であっても発明者側へ財産権の原始的帰属をさせる点が問題となる。

そして、そのうち再改正が行われ、職務発明に対しては、アメリカ型の契約主義か、イギリス式の、<特許を受ける権利>の使用者側への設定にするという改革が行われることになるだろう。(どうこういって、後者の方式=イギリス方式がリーズナブルだろうが。)



現行の、職務発明であっても発明者へ絶対的な財産権を付与する方式は矛盾が大きすぎる。

その点、発明を営業秘密で守るのは、極めて合法的にして合理的な訴訟対策だ。

一旦発明者から権利を承継し、出願せずに営業秘密として実施すれば、訴訟リスクは実質的に回避できる。さらに無用な管理コスト、トランザクションコストをかけないで済む。



現在であってもほんとに有効な発明は営業秘密で守るのがセオリーなのであるから、これからはますますそうなるだけのことだ。

こういったことからも知的財産権という名の<特権>を、絶対的な財産権として付与することの不合理性を感じる。財産権の原始的帰属を発明者にするだけで、内部的なコンフリクトを発生させるが、これを使用者側にしたところでやはり社会にいらぬ摩擦を生んでいるだけである。



リバタリアニズム的には、PropertyRights=財産権が自然権である哲学的根拠は、SelfOwnership原理に依っている。つまり、自分の身体生命は自分のものであることを自明の原理とするわけである。

当然、重要な原理である自然権としての財産権と、政府から与えられる特権の区別は厳密にしなければならないし、また容易に可能だ。



結局、情報のような無体物を守るには、実体は特権でしかない偽の財産権によってではなく、TortsRule(不法行為責任)のようなものでフレキシブルにやるのがベストだということになるだろう。言い換えれば財産権ルールが適用できるのは、ホントの財産権までであって、偽の財産権に対しては適用できないということになるのではないか。
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2004年12月20日

相続税 : Death Tax / Inheritance Tax

相続税には、2種類の考え方がある。Death Tax と Inheritance Taxだ。

Death Taxとは、英米の考え方で、財産を持っている人間が遺言などで

自分の遺産を家族などに明文的に残す方式である。



この場合、相続税は遺産を残す当人に課せられる。(相続人ではなく)

一方、日本やヨーロッパのいくつかの国では、InheritanceTaxといい

相続人が払う税である。



アメリカでは2010年に向けて相続税が撤廃される。

現在でも1億くらいの相続額がなければ、相続税を払う対象にはならないので

実際に、相続税を払う人間は非常に限られている。

だが、さらにこの相続税対象になる相続額を飛躍的に上げていき、2010年に

一挙に相続税を撤廃する方針である。



このDeathTaxの考えに立てば、相続税が、税をたんまり取られた後の

所得に対する2重課税だというのがはっきりとする。だから撤廃しようという話にもなるわけだ。

日本のようなInheritanceTaxだと、贈与に対する課税と受け止めれられているが

それは遺産を残す側の所有権が一切考慮されていないことになる。

死人に口無しという考えに近い。



森村進さんが、リバタリアニズム入門という本で、リバタリアンであっても

相続税を認めるべきだとか、アホなことを得意になって書いているが、

氏の論理=詭弁は、DeathTaxの考えや論理には全く適用できないだろう。



#とはいえ、この本は、オーバービューとしては悪くない本ではある。

先に悪く書きすぎたが、ちと訂正する。

ハイエク批判=理解がダメなのは事実だが。

ここらの間違いポイントは、そのうち、私のハイエク研究のHPに書いてみたいと思っているが、書かないかもしれない。


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2004年12月18日

地方分権:Distinction between legislation and taxation

先に地方分権のような話をポストしたが、少し補足しておきたい。あくまで一つの例としてだが、地方分権推進について、あの中川八洋さんが反対している。その反対の論拠は以下のようなものだ。



1.イギリスの税制改革の例

サッチャー改革によって、地方税はコミュニティチャージとレイトの2種類になった。さらにこの2つも中央政府の監督下にある。サッチャーは地方財源を中央に移したのである。



2.一方、現在、日本での地方税は直接税だけでも何十とある

例:道府県民税、事業税、特別所得税、自動車税、鉱区税、狩猟者税、市町民税、固定資産税、家屋税、地租税、営業税、電柱税、犬税、使用人税、・・・・

かように日本の地方の課税自主権は既に無制限の野放し状態である。



3.行政サービスは、単にサービスであるから、国だろうか地方だろうが、その線引きは問題でない。むしろ、”地方の行政を独自なものに存在させる方が、行政のコストを巨大につりあげる。”



4.小泉総理は2004年に3兆円の地方財源委譲を決めたが、これは本来、国の借金に当てるのが当然だ。



5.今の地方分権の流れは、村山社会主義政権の時の負の遺産を引きずっている。さらにこれらの委員会のメンバーは、極左の人間で構成されている。



、、等々といったものである。(「国民の憲法改正」より)



これらは、おそらく正論に近いと思う。勿論、”ある意味では”という限定がつくが。

つまり税制の問題は、中川氏の崇拝するバークやバジョットのいうところの旧い制度や伝統の問題とは全く関係がない。

税制度とは近代の問題だ。そもそもバークの時代に現代のような税金問題があったわけではないし、当時の政府規模は、今とは比較にならず小さかった。

”リバイアサン”ですら、今の世田谷区ほどの規模もなかったのだ。



ここでの根本的な課題は、Taxation とLegislationの分離であって、Taxationを立法の概念から切り離す必要がある。

そもそも”法”の概念に、TAXATIONは元来含まれないのである。(産業政策も同様)



話はずれるが、産業政策的な規制を立法の中に盛り込むのでなく、コモンローシステムの根幹となるTortsルールで全てやってしまおうとするのが、アメリカの”法と経済学”派の注目すべきアプローチである。



今政府が行っている修正対応がかえって被害を拡大させる可能性は極めて高い。

結局、どんなに頑張っても、またどこがやろうとも行政サービスにはcost/benefit競争という市場メカニズムが働きようがないから、行政サービスの質を向上させる競争を作りだそうとすること自体、最初から間違った方法論なのだ。



税を鶏とすれば行政サービスは卵になるが、結局は、どちらから手をつけるのかという問題になる。そして、より現実的と考えられているのは、行政サービスの質向上ではなく、むしろ行政サービスの縮小限定による税の縮小なわけだ。



<税の問題>を改善させる上では、行政サービスそのものを可能な限り縮小し、最低限の”ナショナルサービス”に限定する道を模索する方法がよいと私は考える。

そのナショナルサービスとは、国防であったり、本当の意味で援助が必要な人達への何がしかの一時的な<保護>といったものかもしれない。



ただ、この前提が成り立つのなら、最初から地方への分権云々という方法論上の問題は発生しないのだが、その前提がほとんど現行法上、実現不可能だというのがやっかいな点なのである。



だから税改革を現状の法システムの制約の中で行うとしたら、次善の策ではあるが地方主体で行政サービスの競争を起こそうとするのは、一方法論としてありうる。これは行政サービスをインセンティブシステムとすることで、結果的に税を引き下げるアプローチだ。ただ、思考実験でやるようにドラスティックに制限を外す前提がないと却って事態を悪化させることになるだろうが。



#ちなみに行政サービスを福祉と呼ぶのは間違いだろう。福祉とはあまりにも広い意味で使われる詐欺的な言葉であり、この言葉は用いるべきでない。
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2004年12月16日

税システムの競争



税について、思考実験をすると分かりやすいが、AとBという地方で所得税を勝手に決めるとする。

おまけに中央政府は一切税金をとらないとする。(存在しないとしてもいい)

さらに条件をそろえるために、気候などの条件も変わらないとしたほうがいいかもしれない。



Aでは、所得税が0だが、そのかわり公共サービスも一切無い。学校も病院も、消防署や警察すらも全て受益者負担というのか、全て私立で運営されているとする。

一方、Bは今の日本と同じように、税率は高いが、Publicサービスは備わっているとする。

このような地域があるとしたら、人々はどちらの地域に住みたいと思うかという問題である。もちろん、人々はどちらに住んでもよいとする。

こういう選択なら、厳密な損得勘定で合理的になされるだろう。



もし貧乏であっても、Aにすんだほうがいい場合もあれば、Bにすんだほうがいい場合もある。例えば学校に通う年齢の子供がたくさんいて、A地区の私立学校に通わせるよりも、税金を払ってB地区の公立学校にただで行かせた方が、得な場合もあるだろう。



シミュレーションをしてみると面白い。1000万人くらいの仮想的な住民を作り、その所得や家庭状況を統計的に作る。そして、その一人一人で、どちらが得かを実際にはじき出してみるという方法だ。さらに、これを時系列的に行う。



だが、わざわざそんなことをしなくても結局、ほとんどの人間はA地区に住みたいと思うだろう。そして、B地区を選んだ人間がいたとしても、その数が少ないために、税収が減り、Publicサービスが成り立たなくなるか、もしくは無きが如しのサービスになってしまうだろう。さらに、これを税率を上げることでなんとかしようとすれば、今度は先の例のような子沢山の家庭でもA地区に住んだ方が得ということになってしまうだろう。

そして、ますます、B地区の人間は減少し・・、という負のフィードバックが働くことになる。逆にA地区はますます人間と富があつまる。例えば、私立の学校にも競争が生まれて、授業料も教師の質も改善されていく。と、なるに違いない。



日本でも、地方分権がよく言われるが、地方の徴税能力はどう変わろうとしているのだろうか?調べたことが無いので分からないが、10年程前に聞いた話では、地方の税率は中央政府によって統制がかかっているという話である。だから住民税のようなものは、横並びになっているということだった。これは今もおそらく変わらないだろう。



地方の過疎の問題などが言われているが、もし地方が税を勝手に決めることができれば、そんな問題はなくなると思う。といっても、もしそうなれば税率の競争が起こり、だんだん大差なくなり、0に向かって収束していくだろう。



リバタリアニズムの税金への反対とは、単純に言えばこのような話に近いともいえる。


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混合経済と混合法システム:Mixed Economy and Mixed Legal system

日本は、経済的には混合経済体制であり、社会主義(政府介入)と資本主義(自由主義)とのMixed Economyである。この混合経済体制は、アメリカにしてもイギリスにしても、ほぼ全ての先進国が採っている体制である。

国毎の違いは単に程度の問題であり、日本は英米に比べて、より社会主義の割合が高い。

そして英米は、先進国諸国の中でも資本主義(自由主義)の割合が多い。

では、なぜ英米が混合経済体制における社会主義的部分の割合が小さく抑えられているのかといえばそれは、英米の法システムがコモンロー主義であることが大きな要因だと考えられている。(少なくとも日本以外では)



だが英米の法システムも、コモンローだけでなっているのではなく、混合法システムとでも呼べるものでありコモンロー主義をベースに多くの制定法が乗っかっている形になっている。

その制定法は、いろんな形で存在する。たとえば、特許システムは典型的な制定法である。

だが、それすらもコモンローシステムの上に乗っかっているのだが。



大陸法の制定法システムしか知らない国の住民からみればアメリカのコモンローシステムは、不可解で気味の悪い、不条理なものと感じられるようだが、それは偏見である。

アメリカといういわゆる自由の国の自由は、そのコモンローシステムに多くを拠っている。

一つに、コモンローシステムの司法優位が、行政の裁量を阻止している部分が大きい。

現代の問題の根源は、むしろ大陸法主義(=Legal Positivism)そのものにある。



このPositive Law(大陸法)を戴く国には、共産主義、社会主義国が含まれる。また、おそらく元共産主義、元社会主義国の大部分が含まれる。

そして、日本も典型的なドイツ直輸入の大陸法=制定法主義の国である。

GHQの占領によっても、このドイツから輸入した明治の法の骨格は変更されずに残った。



今後、中国などの共産主義国が、日本のように資本主義的な混合経済体制にますますシフトして行くだろうが、そこで最大の問題となるのは、このPositive Law(大陸法)の存在である。

中国がこのまま共産主義を捨てずに、混合経済体制にシフトしていくことは、日本と同様に不可能ではないだろう。

そもそも共産主義、社会主義という言葉は単なるスローガンであり、その実体は法システムであるともいえる。(中華人民共和国という国名に共産主義という言葉は幸いにもなかった。)

制定法の中に平等のイデオロギーが具体的な制度として盛り込まれていることもあるし、

さらにLegalPositivismそのものに強固なイデオロギー性があるという2重性がある。

これを、どのように改革するか。

法システムの自己否定に近い内部変革は、通常不可能な仕組みが法の内部に埋め込まれている。(日本国憲法も同様)

だが、一つに国の単位そのものを変えていくことで、新しい法システムを作る契機を生むことが可能かもしれない。

こういった問題を考える上でも、現在の国といった単位(=Nation State)に縛られていては、変革には全て暴力革命が必要だという救いがたい暴論になってしまう。



イラクのようなイスラム諸国にしても、イスラム法という究極の”宗教的”制定法主義の国だが、これをUSが武力占領したところで、法システムを、これからどのように変えられるかが最大の難問だろう。政教分離がイスラムの社会システムで可能なのかどうかは、わからないが、アメリカに大義があるとしたらそれを実現させなければ失敗ということになる。



イスラムのクアルーン(コーラン)は、宗教であり、法システムである。それは、慣習にまでなっているという意味で慣習法的な色彩も持っており、さらに宗教的な”命令”が多く含まれるという点で、極端な制定法的色彩がある。この難問にアメリカの法思想家(リバタリアン思想家を含む)は、どのようにチャレンジし、またコミットできるだろうか。
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2004年12月08日

Corporate Social Responsibility :What is CSR?

"企業の社会的責任"なるものが、最近日本でもしばしばいわれるようになった。

今の日本は、アメリカの動向を10年遅れで追随しているようだ。(10年前といえばクリントン政権がPolitical Correctness=PCを唱えていたころでもある。)

個人情報保護の問題も、CSRの流れの一つとみなせる。(アメリカには個人情報保護法のようなものは存在しないが)

これらは、法律が飯の種である監査法人やらが、法を盾にとった喧しいキャンペーンをするわけだが、連中の商売目的のアジテーションに乗っかる前に、その意味をちゃんと考える必要がある。



CSRの論理は、Stakeholder理論の延長線上にあるとするのが,JohnHasnas氏の説明である。[http://www.libertyhaven.com/theoreticalorphilosophicalissues/ethics/socialcorpo.html]

いうまでもないがステイクホルダー理論は、ストックホルダー(株主)理論とは違う。

ストックホルダー理論とは、簡単に言えば、会社の目的はその会社の財産権をもつ株主に利益をもたらす事だとすることである。

一方、ステイクホルダーとは、株主にとどまらず、顧客からはじまって従業員、取引先と、その会社に関与する当事者の総体を指す。そしてステイクホルダー理論では、株主の利益だけでなくステイクホルダーの利益を考えることが結局、会社を長期的に発展させるという<マネジメント理論>である。



ストックホルダー理論が、財産権ルールという法的な必然性からくるものであるのに対して、ステイクホルダー理論は本来、そのような必然性がないマネジメント論でしかなく、さらにある点で矛盾を含んでいる。なぜなら株主以外のステイクホルダーには会社への財産権がないために、彼らは基本的に会社運営への発言権がないのだ。



CSRはマネジメント理論の一つでしかないステイクホルダー理論を、企業倫理(business ethics)という問題に拡張したものである。

アメリカでこのCSRが受け入れられたのは、いざ裁判となった際にCSRを採っている会社への賠償を低くするという連邦法の量刑に関するガイドラインができたためだ。

これによって、CSRはひとつの保険行動として企業にとって価値を持つようになった。



"This had a major impact on the Federal Sentencing Guidelines for Corporations which were designed to revise and regularize the fines that could be assessed to corporations convicted of violating federal law. The Guidelines, which took effect in 1991, drastically increased these fines above previous levels, but allow for significant reductions for corporations that have demonstrated "good citizenship" as determined by a "culpability score." To receive a favorable culpability score, a corporation has to have an "effective" program to discourage illegal behavior by the firm's employees; i.e., an ethics training program."



========

このような制定法による解決はいいことづくめのようだが、実際は何もよいことは無い。

これに対する議論として、次を参照されたし。”Profits Vs. PC :A Silicon Valley CEO says no to boardroom quotason moral grounds. ”

[http://reason.com/9610/fe.rodgers.shtml]



むしろCSRのような制定法によって法の根本である財産権ルールを部分的ではあっても損ない、さらに企業しいては個人の自由を損なうことになる。



ある種の社会的理想状態(ユートピア)が制定法によって実現できると考える社会主義的幻想が最近とくに多くみられるようになってきたと思う。

私はいつも繰り返して言うことだが、社会主義、共産主義を極端な経済ポリシーのことに過ぎないと考えては大間違いである。それら政治思想のより根本にある問題はLegal Positivismという法思想であり、またこういった制定法を無制限に作っていく社会権力体制である。このような制定法を無制限に作るのは、政府に無制限の権力があることに等しい。

だが人間の自由は有限であるから、制定法によりすこしずつでも自由を蝕まれていけば、立法の積み重ねによって、いつかは自由を全て失うことになるだろう。


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2004年12月06日

"THE COMMON LAW"  by OLIVER WENDELL HOLMES, JR

THE COMMON LAW OLIVER WENDELL HOLMES, JR

[http://biotech.law.lsu.edu/Books/Holmes/claw_c.htm]



ホームズ(Oliver wendell holmes Jr)の名著「コモンロー」の全文
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2004年12月04日

英国議事院談 福沢諭吉訳 

英国議事院談 福沢諭吉訳 

ブランド,ブラッキスト−ン及びビ−ルの諸書より訳述

[http://kindai.ndl.go.jp/img/]

[http://kindai.ndl.go.jp/cgibin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40020314&VOL_NUM=00001&KOMA=1&ITYPE=0]



国会図書館が、著作権の切れた本のデジタルライブラリーを公開した。

これは古い文献をJavaを使ってそのまま画像で表示する方式だが、再利用性が低く不親切な感じもする。

元の画像を見られるのも面白いが、テキストに落としたものも公開して欲しい。


posted by libertarian at 22:20| Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月02日

Code Napoleon in USA

How the Code Napoleon makes Louisiana law different

[http://www.lalegal.com/history_louisiana_law.htm]

Louisiana state has code napoleon yet.



コモンローの国アメリカで、ただ1州ナポレオン法典を戴くところがある。

それは南部に位置するルイジアナ州である。



次の文章も面白い。

Louisiana and the Code Napoleon

[http://www.ucs.louisiana.edu/~pfd2009/bar_jrnl.html]
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2004年11月30日

Legal unjust and Illegal unjust

Illegal unjust is regarded as a mere crime,but what is Legal unjust called for? It would be a law or a statute all the same



不正には2種類ある。非合法の不正(illegal unjust)と合法の不正(Legal unjust)だ。

非合法の不正は、単に犯罪と呼ばれるが、合法的不正(Legal Unjust)は、単なる合法的な行為である。これを罰する法を我々は持っていない。憲法は合憲性と違憲性を問題にするだけでありLegal Unjustを阻止できない。

政府改革の本質的な困難さは、法が合法的に不正を守護する点にある。

おそらくであるが、コモンロー体制の方が、この点に関しては、マシなのだと思う。

#そもそも、コモンローだけの国は存在せず、イギリスもUSもコモンローと制定法の混合法システムである。



正義=Justもしくは不正=Unjustを法=Statuteのコードでしか語ることはできないとするのが、Legal Positivismに内在するニヒリズム?である。

だが自然法哲学は、法=Lawを我々は発見し、語ることができると考える。また少なくとも不正=Unjustに関しては、我々はそれを知っていると考える。
posted by libertarian at 13:26| Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Understanding Common Law

[http://www.friendsoffreedom.com/Writings/CommonLaw.html]



The Two Basic Common Laws



According to Richard J. Maybury (Whatever Happened to Justice? Bluestocking Press, PO Box 1014, Placerville, CA 95667; 1993 highly recommended), there are two fundamental common laws:



1.Do all you have agreed to do

2.Do not encroach on other persons or their property.



"Do all you have agreed to do" is the basis for contract law. "Do not encroach... " is the basis for criminal law and tort law. A "tort" is harm done to someone.



Black's Law Dictionary defines encroach as: "To enter by gradual steps or stealth into the possessions or rights of another; to trespass or intrude. To gain or intrude unlawfully upon the lands, property, or authority of another."



Now consider the people who masquerade as "government." They agreed to follow their Constitution. To what extent do they do this? And to what extent do they respect other persons or their property? Could it be that socalled "government" is simply common law turned upsidedown?
posted by libertarian at 07:09| Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月22日

Common Law : コモンロー

Legal History and Philosophy

[http://www.commonlaw.com/index.html]



コモンローのサイト(ずばり、commonlaw.com)

Edward Cokeなどの文章もある。



さらに、以下はCokeの”His Speech and Charge with a Discovery of the Abuses and Corruption of Officiers”のPDFである。

[http://socserv.mcmaster.ca/econ/ugcm/3ll3/cokeEd/SpeechandCharge.pdf]
posted by libertarian at 22:46| Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月13日

The problem of Private Information Protection Law:Privacy as A Positive Right

個人情報保護法が来年の4月に施行される。これまた非常に問題のある立法だが、この問題について私の考えるところ整理しておきたい。

世間でもこの法律に対する疑義、不満の類は多い。例えば、所轄官庁が、業界毎にいろんな基準を作っており、ばらつきがあったりとかいった問題もあるが、その手の話は枝葉末節な問題に過ぎない。



私が本質的問題と考えるのは、そもそも、この法がいったい何を保護するのかという点だ。

この問題を考える上で、立法上のプライバシー権をPositiveな権利として認識する必要がある。制定法上(Legal Positivism)の権利とは、全てPositive Rightsであることを以前から私は書いてきた。



国連やらアムネスティといった機関が喧しく主張している<人権>=Human Rightsというのは全て、このPositive Rightsである。アメリカのようなCommon Law主義の国(さらにその憲法は自然権主義である国)が国連と折り合いが悪いのは、こういう根本的な法思想の違いも淵源となっているだろう。アメリカの国連に対する距離の置き方に日本では批判的な向きもかなりあるが、むしろアメリカの国連の法思想に対する対抗は、現代の法思想の力学上重要な役割があると考えられる。

つまり、国連=Legal Positivismに対するコモンロー優位のスタンスである。



話がずれたが、Positiveな権利としてのプライバシー権とは、<プライバシーへの権利>(Right to Privacy)と言い換えられる。

これは、プライバシーなるものを取得する行動をとることのできる権利というわけではない。

そうではなく、<自分以外の誰かが、私のプライバシー権なるものを保護する義務、もしくは相当のお金を提供する義務を負う>という意味なのである。

同時に、これらを提供する義務を拒否すれば、<権利の侵害>とされるわけだ。これは、Positive Rightsの持つ一般的な意味、特徴である。



このプライバシーの部分をいろんな人権カタログのアイテムに置き換えれば、そのまま意味が通じる。

アムネスティが主張する人権カタログにはいろんなものがある。例えば<医療を受けることへの権利>であるとか、<拷問されないことへの権利>とさまざまなもっともらしい<権利>が謳われている。だが、これらは<権利>ではない。全ての人間にこのような特権=Priviligeを与えることは、じつは論理的な矛盾なのだ。誤解のないように言えば、それらは単に当然のことであったり、経済発展の目標の一つであったりするが、法が権利として言及することではない。

#途上国でまず第一に確立されなければならない権利とは財産権(Propery rights)という自然権である。



自然権=Natural Rightsは、Positive Rightsとは本質的に異なる。

もし、権利と呼べるものがあるとすれば、それは自然権しかない。

そして、それは、<何々からの自由>というNegativeな権利である。

Positive Rights とNegative Rightsは、相反し、またお互いに矛盾する。

Positive Rightsとは、<権利>ではない。いらぬ摩擦を生み出す<特権>以外の何物でもない。



同様にポジティブな権利としてのプライバシー権という特権は、社会に巨大な摩擦を引き起こす。なぜなら、<自分以外の誰かが、私のプライバシー権なるものを保護する義務、もしくは相当のお金を提供する義務を負う>ことによって、利害相反を生み出すからだ。これは現在、社会問題となっている事態そのものだ。

個人情報保護は何か重要な価値の保護ではなく、社会全体に対して、見知らぬ誰かにお金を与える義務(税)の強制に等しくなっている。



権利がNegativeなもの(消極的な価値)として捉えられる限り、このような事態にはならない。

Common Lawイコール自然権、自然法ではないが、権利へのNegativeなあり方は、それらに通じるものだと考えられているわけだ。

そして、法がPositiveな特権を作りだすことで、法が本来、守らなければならない権利=自然権=Negative rightsが、相反するものとして否定され、侵食されることになる。

それは、具体的に社会への財産権の侵害という形で現れる。

これこそが、Positive Rightsという名の特権=Privilegeを量産することを制度原理とするLegal Positivismが作り出す特権システムの根本的な悪である。



纏めだが、プライバシー権というPositiveな権利=特権を設定するべきではない。個人情報保護法は廃案にすべきである。プライバシーをネガティブな価値(消極的価値)として保持する努力こそが、今、社会的に極めて重要なことなのである。

だが、これがAlmost Nearly Impossibleな提案であることはわかっている。

大陸法諸国が、政府の権限を無制限に拡張していくのは、LegalPositivismのメカニカルな宿命といえる。

唯一の可能性は、大陸法の国であっても、コモンローの運用部分を強化することが成文法上、不可能な構成にはなっていないということだろうか。ハイエクの言うとおり、立法をしないこと、あるいは制定法権力を設定しないことこそが自由にとって重要なことなのだ。
posted by libertarian at 12:04| Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月17日

Law and Economics

[http://lawandeconomics.blogspot.com/]

Law and Economics

a portal and weblog on the economic analysis of law



かなり内容豊富なBlog
posted by libertarian at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月09日

Derrida Comes to ABC



Over the last two and a half centuries, for example, the antiEnlightenment ideas of JeanJacques Rousseau have been taking on an ever more powerful role in Western society. The recent presidential election produced numerous instances of this, as when the Florida Supreme Court grounded a decision on the following Rousseaulike dictum: \"The will of the people, not a hypertechnical reliance upon statutory provisions, should be our guiding principle in election cases.\"



But Rousseau and his brand of antiEnlightenment thought are by now familiar foes. A newer and far more troubling enemy is the antiEnlightenment thought of postmodernists such as Jacques Derrida. During the last forty years, we have seen such postmodernism come to dominate the humanities in higher education and replace traditional scholarship with puerile analyses cast in terms of race, sex, and economic status. Very recently, this corrupting postmodern technique has been transmitted downward to the mass media.



[http://www.theobjectivistcenter.org/text/rdonway_derridaabc.asp?navigator]
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2004年04月05日

Natural Law and Natural Rights

[http://jim.com/rights.html]

\"Natural Law and Natural Rights\"

By James A. Donald


posted by libertarian at 16:09| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

基本的人権と公共の福祉に関する基礎的資料

[http://www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi031.pdf/$File/shukenshi031.pdf]



衆議院憲法調査会事務局なるところが、まとめたらしい資料。

ぱっとみだが、おばかさんが書いたもののようだ。分かってない奴が書いたアホレポートである。

だが、これでも国会資料らしい。こんなもん読んで分かる奴が議員にいるのだろうか?
posted by libertarian at 15:25| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年03月28日

Historian Paul Johnson on American Liberty

[http://www.libertyhaven.com/thinkers/pauljohnson/historipaul.html]

Historian Paul Johnson on

American Liberty



For friends of freedom, Paul Johnson is perhaps today\'s most beloved historian. He tells a dramatic story with moral passion. He gives readers tremendous pleasure as he celebrates liberty and denounces tyranny. \"Paul Johnson,\" declared Wall Street Journal editor Robert Bartley, \"is one of the premier wordsmiths of the English language.\" The New Yorker called him \"a good writer and clear thinker.\" Even Foreign Affairs, pillar of the establishment, acknowledged his achievements: \"A latterday Mencken, Johnson is witty, gritty and compulsively readable.\"
posted by libertarian at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年02月16日

John M. Olin Program in Law & Economics Working Papers

[http://www.law.uchicago.edu/Lawecon/workingpapers.html]

University of Chicago Law School

John M. Olin Program in Law & Economics Working Papers

(2nd Series)



Chicago大学の「法と経済学」のPDF論文集
posted by libertarian at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年02月10日

社会法

六法というと、次の6つである。



・憲法=a constitution

・民法=the civil law

・商法=the commercial code [law].

・刑法 =the criminal law

・民事訴訟法=Code of Civil Procedure.

・刑事訴訟法 the Criminal Procedure Act.



しかし、”社会法” は、基本六法の範疇を超えている。

社会法の例とは、およそ以下のようなものである。



・労働法(労働基準法、労働組合法、労働関係調整法、最低賃金法)

・経済法(消費者保護基本法、独禁法、不正競争防止法)

・社会保障法(生活保護法、雇用保険法、老人保険法) etc



リバタリアニズムにおいて、具体的な批判の対象となるのは、主にこの社会法の領域であり、

これら”社会主義的”立法に対し、反対の論陣を張ると言って、間違いではない。
posted by libertarian at 12:02| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年02月09日

法の力 正義への権利について/法(=権利)から正義へ By ジャック デリダ

構築されているからという理由で(そしてこれが法/権利の歴史というものである。すなわちそ

れは、可能性と必然性をもって法/権利を変革する作用であり、またときには法/権利を改修す

る作用である)。さもなければ、法/権利の最後の基礎が定義によって基礎づけされていないと

いう理由で。



法/権利が脱構築可能であるということは、不幸なことではない。

そもそも政治が歴史的進歩をもたらすことのできるチャンスはそこにあるとみることさえできる。

しかし、議論していただきたいと私の思うパラドクスは次のとおりである。

すなわち、法/権利の、またはこう言ってよければ法/権利としての正義の、この脱構築可能な構造こそが、脱構築の可能性の保証者にもなっている。正義それ自体はというと、もしそのようなものが現実に存在するならば、法/権利の外または法/権利のかなたにあり、そのために脱構築しえない。

脱構築そのものについても、もしそのようなものが現実に存在するならば、これと同じく脱構築しえない。



脱構築は正義である。法/権利(当然私は、それを一貫した仕方で正義から区別しようとする)

が、協約と自然との対立をはみ出したある意味において構築可能であるというたぷんこの理由で、また法/権利がこの対立をはみ出すというたぷんこの限りで、法/権利は構築可能であるし

たがって脱構築可能である。

そればかりか、この理由でまたこの限りにおいて、法/権利が脱構築を可能にするのだ。あるいは少なくとも、法/権利上のさまざまな問いや法/権利に関するさまざまな問いに根本のところではいつも取り組んでいる、ある種の脱構築の行使を可能にするのだ。



ここから次の三つの命題がでてくる。



(a)法/権利(例えぱ)の脱構築可能性は脱構築を可能にする。



(b)正義の脱構築不可能性もまた脱構築を可能にし、さらには脱構築と混じり合う。



(c)結論。脱構築が起こるのは、正義の脱構築不可能性と法/権利の脱構築可能性とを分かつ

両者の間隙においてである。脱構築は、不可能なものの経験として可能である。すなかち、正義は現実存在していないけれども、また現前している/現にそこにある(present)わけでもない

いまだに現前していない、またはこれまで一度も現前したことがないけれども、それで

もやはり正義は存在する(il y a)という場合において、脱構築は可能である。

正義という未知数一Xを置き換えたり、翻訳したり、規定することのできる場合にはすべて、次のように言うことができるはずである。

すなわち、脱構築が、不可能なものとして可能であるのは、(脱構築不可能

な)Xが存在する(il y a X)限りにおいて(その場合において)であり、したがって(脱構築不

可能なもの)が存在する(il y a)限りにおいて(その場合において)である、と。



言い換えれば、私がここで手探りしながら見つけ出そうとしている仮説や数々の命題を見ると、むしろ次のものをサブタイトルにしたくなるであろう。

すなわち、脱構築の可能性としての正義。

脱構築の行使の可能性としての、法/権利または掟の構造。

脱構築の行使の可能性としての、法/権利を基礎づける作用の構造。または、脱構築の行使の可能性としての、法/権利の自己=権威づけの構造。



こう言ってもまだわかりにくいだろうと私は思う。

やがて、もう少しはっきりすればいいと思うが、その確信はない。



p3436 をOCRスキャンした。



「正義への権利について/法(=権利)から正義へ」

Jacques Derrida

Force de loi 「法の力」より
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2004年02月03日

アメリカ司法制度

[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00101/mokuji.htm]

「アメリカ司法制度」

日本財団のワーキングペーパー

わりとよく纏まっている。



上記、日本財団図書館サイトに、「イギリス司法制度」というのもある。
posted by libertarian at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年01月09日

2003年11月29日

法哲学

法哲学 有斐閣アルマ

平野 仁彦 (著)



この本はお勧めである。

おそらく日本で出版されたリバタリアニズムについての解説の中では

この本はピカ一の正確さと質の高さを持っている。

森村進さんの書いた講談社新書のやつとは、比較にならない出来のよさと言える。
posted by libertarian at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年10月28日

Leo Strauss − Natural right and history 序論

およそ1世代前のアメリカの外交官はまだ、「人間の諸権利の自然的および神的根拠はすべてのアメリカ人にとって自明である」と言うことができた。

ほぼ同じころ、一人のドイツ人学者はなお、ドイツ思想と西ヨーロッパならびに合衆国の思想の違いを、次のような言い方で述べることができた。

すなわち、西ヨーロッパ が今なお自然法に決定的な重要性を置いているのに対して、ドイツにおいては「自然法」や「ヒューマニティー」という言葉そのものが「今やほとんど理解不可能なものとなり、それらの言葉本来の生命と生彩をまったく失ってしまった」というのである。

この学者はさらに続けて、ドイツ思想は自然法(natural right)と いう観念を放棄しながら、またそれを放棄することを通して「歴史感覚を創出し」、かくして遂には無 制限の相対主義にまで行き着いた、と言った。二十七年前のドイツ思想のかなり正確な記述であったもの が、今や西洋思想一般についても当てはまるように見える。



戦場で打ち負かされ、いわば政治的存在と しては抹殺された国民が、自分自身の思想の腕を相手方に押しつけることによって、勝者から勝利のもっとも崇高な果実を奪い取ってしまったという例は、なにもこれが初めてではないだろう。

アメリカ国民の思想については実際どのようなことが言えるにせよ、たしかに今日のアメリカの社会科学は、一世代前にはなおドイツ思想を特徴づけるものとある種の尤もらしさをもって述べることのできた自然法反対の態度を受け入れるにいたっている。

今なお独立宣言の諸原理を固持している学者でも、その大多数はこれらの諸原理を自然法の表現として解するのでなく、イデオロ

ギーや神話としてではないにしても、一つの理想として解している。

現代のアメリカの社会科学は、それがロマ・カトリック系の社会科学でもない限り、すべての人聞は進化の過程あるいは神秘的

な運命によって種々の衝動や熱望を付与されているが、自然法だけは確実に付与されていない、という命題に自らを献げているのである。



それにも拘らず自然法が必要なことは、今日でも、過去何百年、いやそれどころか何千年にわたって そうだったのと同じく、明白である。

自然法を否定することは、あらゆる権利が人定的な権利(positive right)であると いうに等しく、そしてこのことは、何が正しいかはもっぱら様々な国の立法者や法廷によって決定され ることを意味している。

ところが、「不正な」法や「不正な」決定について語ることは明らかに意味のあ ることであり、ときには必要でさえある。

このような判断を下す際の我々の合意は、人定的な権利から 独立し、人定的な権利より高次の正・不正の基準、つまり我々がそれを参照して人定的な権利を判定しうる基準が実在するということである。



Leo Strauss 「Natural right and history 」 序論
posted by libertarian at 17:58| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年09月10日

Legal Positivism

Legal positivism is a concept in jurisprudence and the philosophy of law that affirms that laws and legal systems are made by people be they kings, legislators, judges or other lawmakers or law givers. Laws are for human beings to make and to change.



[http://www.wikipedia.org/wiki/Legal_positivism]
posted by libertarian at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Natural Law

For complete theories of law based on natural law, see libertarianism and particularly anarchocapitalism. For theories of law which reject the concept of natural law, see legal positivism.

[http://www.wikipedia.org/wiki/Natural_law]
posted by libertarian at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Philosophy of law



[http://www.wikipedia.org/wiki/Philosophy_of_law]

Natural law theory asserts that there is an essential connection between law and morality. This view is frequently summarized by the maxim: an unjust law is not a true law.



Legal positivism is the view that the law is defined by the social rules or practices that identify certain norms as laws. Historically, the most important legal positivist theory was developed by Jeremy Bentham, whose views were popularized by his student, John Austin. Austin\'s version of legal positivism was based on the notion that the law is the command of the sovereign backed by the threat of punishment.



Legal realism is the view that that the law should be understood as it is practiced in the courts, law offices, and police stations, rather than as it is set forth in statutes or learned treatises
posted by libertarian at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | Law | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする