各論に立ち入って論じるつもりはないし、本の書評をするつもりもないが、基本的に私が問題としているのは、常にリバタリアン的な自由の問題である。つまりprivate propertyを原理とする選択の自由、契約の自由といった問題であり、その他は派生的な注釈に過ぎない。労働法もprivate property しいては自由の問題に帰着すると考えるのである。
hamachanが労働法の本質的問題と指摘している契約とメンバーシップの相違は、組織の成立条件として対照的だ。
この観点から会社組織については、過去にもBlogで少し書いてきた。随分前のポストだが例えば次のポスト。
http://libertarian.seesaa.net/article/37254905.html
そもそも歴史的にヨーロッパにおいて土地所有が基本となり財産権概念が定着していったようだが、日本は財産権という概念が確立していたのか疑わしい。村社会を基礎単位としたメンバーシップ社会で、ゆるい財産権概念がなんとなくあっただけなのかもしれない。
そして、ここでは最終製品を売るのも、技術を売るのも同じことで、どちらも自分のprivate propertyを売っている。
職務契約とは、技術のようなprivate propertyを持つ人間の商行為といえる。
日本は、江戸時代まで儒教をベースとした家父長主義的メンバーシップ社会を強固に築いてきたから、表面的には西洋の近代的な法制度を持ち込んだが、その後の社会も江戸の社会をベースとしたものになった。
いまだに組織の売買を可能にするsecuritize(証券化)の意味も理解できていないし、だからライブドア事件のような騒ぎが起こるわけだ。
日本語の自由という言葉は明治の1875年頃に福沢諭吉が西洋の本の翻訳のためにlibertyの翻訳語としてはじめて作った。それはありがたいお経のようなもので、その意味はほとんど誰にも分からなかったろう。実際、福沢諭吉は、仏教の経典から自由という言葉を持ってきたのだ。
労働法は、さまざまな特権を作っているが、それ以上に問題なのはこういった民法レベルの内容かもしれない。民法は一般法で特権や規制が書かれているわけではないが、契約の根本に関わる規定だから、全てに影響を与えている。
成熟した大人の近代国家になったつもりでいたが、実は小学生レベルの学力もあやしいまま大人になってしまったようなものだ。これはほとんど明治のはじめの時期に戻ってやり直すような作業だが、ほんの120年ほど前に戻るだけのことだ。臆せずやるしかない。
相手にするだけ無駄な人間ではあるが、一応、コレ以外にもhamachanが意図的に無視しているポストがあるので、リンクを張っておこう。
membership?
http://libertarian.seesaa.net/article/131018230.html
http://libertarian.seesaa.net/article/125715106.html
http://libertarian.seesaa.net/article/122612490.html
http://libertarian.seesaa.net/article/131018230.html

